重なる景色に、花束を。



 八月十八日土曜日、午前八時三十分。
 そろそろ試験が始まる、と途端に浮足立つ出す生徒たち。俺も昨日は勉強どころじゃなかったので、流石にちょっと緊張する。テスト範囲の勉強はしてきてはいたが、このぴりつく空気に影響されるとやっぱり胃が痛い。秒針の音がいつもより大きく聞こえて、意味もなくシャーペンを叩いてしまう。
 緊張感のあるこの空気をガラッと変えたのは、担任の倉橋だった。
「おーす、今日も元気かー。あと十分したら試験用紙配るからトイレ行きたいやつ行ってこいよー」
「俺行ってくる!」
「長居するなよー」
 トイレに行く生徒、教科書を眺める生徒、雑談する生徒……猶予時間もすぐ終わり、長い長い試験が始まった。


 午前の試験が終わり、残すところは午後の英語だけとなった。英語はそこまで得意ではないが、文法の暗記だけは得意なので、ここ数日で詰め込んだところが出れば特に問題はない。頼むから自由作文だけはやめてくれ。

「じゃあ試験開始ー」
 緩い号令と共に解答用紙と向き合う。お、作文がなさそうだ。

 ……解き始めて一時間程経っただろうか。無事に全ての設問に答えられ、俺は満足して用紙を裏返した。ふと右を見ると既に解き終えた悠李が一生懸命寝癖をとかしていた。ぴょこ、と重力に抗う髪が元気だ。朝見た時、珍しく寝坊でもしたのかと聞くとなんか眠れなくて、と返されたことを思い出す。……悠李から変な空気にしたくせに、昨日のことを引きずっているのか。ずるいだろ。寝ようと目を瞑るたびに、悠李の近付く顔と柔らかい感触が何度も頭の中に浮かんできていた。憂いを帯びた瞳が閉じられ……ゆっくりと近づいてくる。押し付けられた唇から嫌でも意味を感じてしまう。艶めく髪に似合う香気。今日も同じ匂いなのだろうか……。
 無自覚に眺め続けていると、不意に悠李と目が合った。う、と喋りたくて仕方ない顔をしている。俺だって言いたいこと沢山あるわ。試験中なので何も出来ないが、握られた拳を机に叩こうという仕草にどうしても、という気持ちが伝わってくる。仕方ない。一肌脱ぐか。
 俺は不本意ながら手を挙げた。

「先生。悠李が体調悪いみたいなので保健室連れて行きますね」
「お、そうなのか? 試験は大丈夫か?」
「俺は終わりました。悠李は?」
 珍しく目を丸くした悠李がポカンとした顔でこちらを見てくる。そっちがそうして欲しい顔をしたんだろ。
「お、終わってる…」
「二人分回収してもらって大丈夫です。あ、保健室行ってそのまま早退していいすか」
「おう、夏風邪には気をつけろよな」
「はーい。じゃあ、悠李。行こ」

 俺はペンケースをしまい、自分のと悠李の分のカバンを持ち、教室を後にした。女子たちの不安そうな様子を見ると後ろめたい気持ちにもなるが、今回ぐらいは許してくれ。

 まだ日差しが廊下に差し込む時間。クラスメイトが机に向かっている中、堂々と廊下に出て、悠李に話しかける。
「一応保健室行っとく?」
「うーん……行っておこうかな」
 俺も悠李も変に真面目なので、体裁を整えるためにも体調が悪い生徒とそれを助ける生徒を演じた。背中も擦ってみる。ありがとうと、謎の感謝。
 階段を降り、保健室の扉をノックすると反応はなかった。よく見るとドアには『会議中。急用の際は職員室まで』との文字があり、今は対応していないようだ。ツイてる。さっさと帰ってしまおう。

「このまま帰ろーぜ」
「そうだね」
 無人の保健室を後にし、昇降口でローファーに履き替える。明るいうちに帰るのはなんだか本当に体調が悪い時みたいで、少しだけ寂しい気持ちになった。が、普段は真面目に過ごしてるからたまにはいいだろう。
 ゆっくりと話しながら帰ったおかげで時刻は午後三時十二分。商店街の駅に着くと小雨が降り出した。もうそろそろ予定時刻だが、彼は無事に生きてくれるだろうか。

 雨の中、近くまで行くのも大変なので貰った割引券を使うため、俺たちはドーナツ屋で小休憩することにした。図らずも試験終わりのご褒美だ。
 おやつの時間だということもあり、ドーナツ屋には想像よりもお客さんが居た。子供連れで賑わっているが、他校の生徒であろう同年代の学生も多かった。窓際のカウンター席を二席確保する。悠李を荷物番に任命し、俺はショーケース前に向かった。
 期間限定のチョコクリームドーナツ。この夏にたっぷりのチョコは中々攻めたチョイスだ。チョコ派の俺は、年中そうしてほしいと思っている。
 自分の欲望のまま攻めたチョイスをしようと思ったが、ショーケース前で並んでいるうちに自分の中では未知のの抹茶ドーナツをトレーに乗せていた。端に微妙にかかったホワイトチョコが魅力的で、そんなの抗えない。レジでお皿に乗せ換える店員さんもにっこりしていたから、流石に当たりドーナツなんだろう。
 席に戻り、荷物番を交代して悠李を待つ。ドーナツは食べるとすぐなくなるから、二人同時に食べたほうがいい。ほどなくして悠李が戻ってくる。
「悠李のそれ、チョコ?」
「そう。生地にチョコが練り込まれてて、中にクリーム入ってるやつ」
 期間限定のやつかい。やっぱりめちゃくちおいしそう。わーおいしい、と言いながら頬張る悠李を見ると、どんどん食べたくなってくる。
「なー。俺のと一口交換しよ」
「いいの? それ、初めて食べるやつでしょ」
「味変したい」
 いいよと言う悠李が、口の前にドーナツを差し出す。反射で口を開ける。そのまま口の中に甘い塊が入ってくる。でか。入らないって。
 ぐい、と口に押され、生地にまぶされた白い砂糖が口の周りに付く。チョコクリーム美味しい。交換して正解だったな。
「おいしい?」
「うん。チョコもクリーム最高」
 口いっぱいに広がる甘い味。全部交換して、と強請ると言うと思ったと快諾してくれた。わかってくれる優しさが身に染みる。
「ちか、付いてる」
「う」
 中指で俺の口周りを拭う悠李。あたかも日常のごとく振舞われると、どうしていいか迷う。拭った指を舐め、甘いと漏らす悠李。だから、それも恥ずかしくなるんだって。手元の紙で拭って、くれ。
 ギクシャクとした空気が流れる中、一息つきながら今日の試験の話をしていると、予定の時刻が過ぎた。しばらく待っても救急車や警察が来る気配はない。つまり、成功したというわけだ。

「……はぁー、良かった」
「今回も大丈夫だったってこと?」
「そそ……あー、生きてる……いつも確認するまで怖くてさ。俺が死ぬってわかってて、助けられなかったら俺が殺したみたいじゃん」
 責任重くてキツい、と正直な気持ちを吐露する。誰かに頼まれたわけではない。けど、俺が、俺だけしかできないなら、逆に誰かに頼むなんてできなくて。

「でも、今は悠李に話せて心が楽になったわ」
 ホッとした顔を向けると、悠李は唇を噛んだ。

「……ちか、やっぱりちかだよ。俺、ちかのお母さんと話したい。お母さんは知らないかもしれないけど、こんな大変なことになったの、きっと俺のせい」
 悠李の握るナプキンに皺が寄っていく。
「夢が悠李のせいだってこと?」
「夢……っていうか、ちかの怪我のこと。今の顔で俺、確信した。……女の子のことも……言いたいことたくさんある」
 女の子。俺は、悠李に女の子のことを伝えていない。言ったのは、誰かが死ぬことだけ。
「女の子って、なんで……」
「行こ、今日土曜日だしお母さん居るでしょ。ドーナツ、何が好きかな」
 覚悟を決めた悠李は、食べ終わった皿を返却口に戻し、ショーケースの前に並びなおす。母さんに会う? そうすれば何かがわかる? 混乱する脳を置いて、反射で答える。
「母さんはドーナツよりアップルパイが好きかも……」
「わかった。入り口でちょっと待ってて」
 悠李はそう俺の耳元で囁き、レジへ向かう。自分自身でも顔が熱くなるのが分かった。マジで……もうなんか、変になった。女だったらすぐに好きになった。どうするんだよ、こんなん。俺が男でよかったわ。
 普段通りに振る舞い衝撃を更新していく彼に、俺は昨日のことがより一層記憶に刻み込まれていたのだった。

――

 最寄り駅で忘れそうになった自転車をカラカラと押し、自宅に到着した。リビングの窓は開いており、テレビの音も小さく聴こえてくる。母さんは家にいるようだ。

「……入るけど」
「う、うん」
「なんか分かんないけど……覚悟? とか、出来たの?」
「出来た」
 そう聞いた俺は、普段よりも汗ばんだ手で玄関を開け、ただいまと家に入る。俺たちの緊張は知らん顔な母さんが、リビングからすかさず顔を覗かせた。

「も〜、千景! もっと大きい声で言いなさいって言ったでしょ…………悠李くん!?」
「こんにちは、少しお邪魔します」
 悠李の顔を見るや否や、表情が明るくなる母。
「あらも〜いらっしゃい! いくらでも居てくれて良いのよ! ちょっと千景、悠李くんが来るなら事前に言いなさいよ」
「急にこういう話になったからさ……」
「これ、良かったら食べてください。アップルパイです」
「えー! 私大好きなの! もう本当いい子ね〜」
 ほらこっち座って、と、あからさまにテンションの上がる母に、息子である俺は普通に引いた。老若男女問わずいい空気に変えられるって本当に凄いな。俺も生まれ変わったらこうなりたいよ、本当。……この願い何度目だろ。
 呆れてリビングのソファに座ると、悠李はおもてなしの準備に向かう母に向かって真剣な顔で切り出した。

「実は今日、千景くんのお母さんに話があって来たんです」
「話? 何のこと?」
 キッチンからコップとお茶を持ってくる母が俺たちの斜めに置かれたソファに着いた。記憶にない、場違いなほどお洒落なコップ。 
「……三年前、階段から落ちたって聞きました」
「あら、その話? ええ……そうよ。千景は階段から落ちてけがをしたの」
「本当は交通事故に遭いましたよね。違いますか?」
 母の顔が凍りついた。その一瞬で、これまで疑いもしなかった、階段から落ちたという事実が嘘であると確信させられた。母は嘘をついている。母だけではない。父親、祖父母。全員が嘘をついている。でも、一体何のために?

「……」
「肯定と受け取ります」
「……母さん?」
「……千景ももう高校も半ばよね……大きくなったものね。もう、いいかしら……」

 母は袋に包まれた一部の新聞を上の戸棚のまた上から取り出し、少しずつ、そして間違いのないように当時の話をし始めた。悠李はそれに補足するように、彼の見た事実を話した。