重なる景色に、花束を。



 朝という単語を聞くと、しかめっ面をする人間は多い。

 現代に生きる多くの人は目覚めに対して好意的ではない、と思う。それは目覚めた先の行動を思い浮かべるからだと考えている。例えば社会人ならばカーテンが太陽の光で透けだした頃、まったりと響きだす音を止めて人ごみの中をかき分けて出勤した挙句、午後六時まで拘束されるだとか、学生ならば最も苦手な古文の小テストがあるだとか、嫌な予定の想像が止まらなくなることは多々経験している。休日よりも平日が多い今の社会では、とにかくネガティブな想像が先行してしまうのだ。

 最近少しずつその拘束的な傾向も、オンライン授業やフレックス制度、在宅ワークやらで多様化して緩和されつつあるが、それでもなお、根付いた感情は消えないものである。もう朝が来た、と。 日々同じことを繰り返すことが、如何に異常で、その異常が著名なスポーツ選手や学者といった超人を作るのだと、錯覚しそうになる。

 だが俺は朝という単語を聞くと、不安な気持ちになる。
 怒りではなく不安である。特殊な責任感から来る、極々小さな不安だ。
 一世一代のプロジェクトを任されるだとか、突然親に留守番を頼まれたあの頃だとか、そんな感情と似ている。自意識過剰と思われても仕方ない。でも、俺は何度もそこに遭遇したことで、いつしかそんな感情を時々持つようになってしまったのである。

 今日は何月何日だ。