放課後の校舎
傾きかけた西日が埃の舞う廊下を琥珀色に染め上げている
漆黒院零音――もとい神宮寺皇(じんぐうじ こう)は重厚な扉の前に立っていた
扉のプレートには『保健室』というこの世の安息と微睡みを司る聖域の名が刻まれている
「……くっ、左腕の紋章(スティグマ)が共鳴している この先に強大な光の特異点が現れたというのか」
もちろん左腕に紋章などない
ただ心臓がうるさいほどに脈打っているだけだ
この扉の向こうには体育の授業で足を挫き、治療を受けたまま眠りに落ちたというクラス委員長、瀬戸内悠真が眠っている
俺は深呼吸を一つ…いや三つ
邪気眼を閉じる(ふりをする)ポーズで精神を統一し、音を立てないよう静かにドアを開けた
室内には消毒液の匂いと微かに窓から入る花の香りが混ざり合っている
一番奥のベッド 仕切りのカーテンは半分ほど開いており、そこに「彼」はいた
「…………っ」
俺は息を呑んだ
そこにあったのはあまりにも無防備な『神域の静寂』だった
普段は理知的な光を宿している悠真の瞳は今は薄い瞼の裏に隠されている
少しだけ乱れた前髪が滑らかな額に影を落としていた
規則正しく、静かな寝息
白いシーツに沈み込む華奢な肩
(……待て、待て待て 落ち着け零音… これは敵の罠だ 魅了(チャーム)の魔法だ そうでなければこれほどまでに視界が揺らぐはずがないだろう!?)
皇の脳内にある「闇の魔導書」がバラバラと音を立てて崩壊していく
悠真、瀬戸内悠真
いつも自分に「皇くんまたそんな格好して…風邪引くよ?」と呆れたように、でも優しく微笑みかけてくる少年
皇は磁石に引き寄せられる鉄屑のように一歩、また一歩とベッドへ近づいた
西日が悠真の頬を撫で、肌の質感をありありと浮かび上がらせる
(……白すぎる こいつ本当に人間か? 実は高位の天使か何かの転生体なんじゃないのか? だから俺の闇の波動に干渉してくるのか……?)
必死に厨二病的な設定を上書きして正気を保とうとするが限界だった
近くで見れば見るほど悠真の唇が柔らかな桃色をしているのが分かる
少しだけ開いた口元から熱を含んだ吐息が漏れる
(……耐られない。このままじゃ、俺の何かが決壊する)
皇は膝を突き、ベッドの脇に跪いた
自分は今、深淵の王としてここにいるのではない
ただの一人の恋する高校生として眼前の光景に圧倒されていた
伸ばした指先が微かに震える
触れたい。その髪に その頬に
その柔らかそうな唇に。
「…………ゆうま」
呼ぶつもりはなかった
設定上の『真名』ではなく本当の意味での彼という存在を指す名前
その瞬間、皇
俺の理性がプツリと音を立てて千切れた
俺はゆっくりと、影が重なるように顔を近づけた
悠真の甘い体温が伝わってくる
鼻先が触れそうな距離
ここで唇を重ねてしまえば…もう「友達」には戻れないかもしれない
漆黒院零音という仮面を被り続けることもできなくなるかもしれない
けれど、溢れ出した熱量はもはや魔王の力(という名の欲望)をもってしても抑えきれなかった
あと数ミリ――
「…………んんっ……」
悠真が小さく寝返りを打った
その拍子に悠真の手がシーツの上を彷徨い、俺の制服の袖をぎゅっと掴んだ
「……っ!?!?!?」
皇の全身に電流が走った 悠真は眠ったままだ、無意識の行動に過ぎない
…だが掴まれた袖から伝わる僅かな重みが俺に決定的な一撃を与えた
(あ、あ、あああああああ……! つ、掴まれた! 運命の鎖(エンゲージ・チェーン)に囚われた! 違う、悠真の手が! 暖かくて、柔らかくて……!)
その瞬間、理性が奇跡的なカムバックを果たした
いや、正確には「あまりの尊さに脳がオーバーヒートして爆発した」というべきか
「ぐ、ふっ……! くっ、なんて強大な封印術だ……! 貴様、眠りながらにしてこの私を無力化するとは……!」
俺は顔を真っ赤に染め、鼻血が出そうな勢いで仰け反った
もしあと一秒悠真が動かなければ間違いなく一線を越えていただろう
皇は震える手で自分の袖を掴んでいる悠真の指を一本ずつ、宝石を扱うような手つきで優しく解いた
「……今日のところはこのくらいで勘弁してやる 礼を言え、瀬戸内悠真 貴様の魂は危うく私に喰らわれる(奪われる)ところだったのだからな……!」
そう捨て台詞(震え声)を吐き捨てると皇は逃げるように保健室を飛び出した
全速力で廊下を駆け抜け、昇降口まで辿り着いたところで彼は膝から崩れ落ちた
顔はまだ沸騰したように熱い
「……なんだよ、あれ… 反則だろ、あんなの……」
皇は顔を覆った
指の間から見える夕焼けがまるで自分の恋心を表すように赤々と燃えている
漆黒院零音の伝説にまた新たなしおりが挟まれた
それは『魔王、聖者の寝顔に敗北す』というあまりにも初々しく、そして甘酸っぱい敗北の記録だった
一方、保健室のベッド
皇が去ったあと、悠真はゆっくりと目を開けた
赤くなった顔をシーツに埋めながら彼はぽつりと呟いた
「……『喰らわれる』なんて皇くん、心臓に悪いこと言わないでよ……」
実は皇が跪いた瞬間に彼はとっくに目を覚ましていたのである
傾きかけた西日が埃の舞う廊下を琥珀色に染め上げている
漆黒院零音――もとい神宮寺皇(じんぐうじ こう)は重厚な扉の前に立っていた
扉のプレートには『保健室』というこの世の安息と微睡みを司る聖域の名が刻まれている
「……くっ、左腕の紋章(スティグマ)が共鳴している この先に強大な光の特異点が現れたというのか」
もちろん左腕に紋章などない
ただ心臓がうるさいほどに脈打っているだけだ
この扉の向こうには体育の授業で足を挫き、治療を受けたまま眠りに落ちたというクラス委員長、瀬戸内悠真が眠っている
俺は深呼吸を一つ…いや三つ
邪気眼を閉じる(ふりをする)ポーズで精神を統一し、音を立てないよう静かにドアを開けた
室内には消毒液の匂いと微かに窓から入る花の香りが混ざり合っている
一番奥のベッド 仕切りのカーテンは半分ほど開いており、そこに「彼」はいた
「…………っ」
俺は息を呑んだ
そこにあったのはあまりにも無防備な『神域の静寂』だった
普段は理知的な光を宿している悠真の瞳は今は薄い瞼の裏に隠されている
少しだけ乱れた前髪が滑らかな額に影を落としていた
規則正しく、静かな寝息
白いシーツに沈み込む華奢な肩
(……待て、待て待て 落ち着け零音… これは敵の罠だ 魅了(チャーム)の魔法だ そうでなければこれほどまでに視界が揺らぐはずがないだろう!?)
皇の脳内にある「闇の魔導書」がバラバラと音を立てて崩壊していく
悠真、瀬戸内悠真
いつも自分に「皇くんまたそんな格好して…風邪引くよ?」と呆れたように、でも優しく微笑みかけてくる少年
皇は磁石に引き寄せられる鉄屑のように一歩、また一歩とベッドへ近づいた
西日が悠真の頬を撫で、肌の質感をありありと浮かび上がらせる
(……白すぎる こいつ本当に人間か? 実は高位の天使か何かの転生体なんじゃないのか? だから俺の闇の波動に干渉してくるのか……?)
必死に厨二病的な設定を上書きして正気を保とうとするが限界だった
近くで見れば見るほど悠真の唇が柔らかな桃色をしているのが分かる
少しだけ開いた口元から熱を含んだ吐息が漏れる
(……耐られない。このままじゃ、俺の何かが決壊する)
皇は膝を突き、ベッドの脇に跪いた
自分は今、深淵の王としてここにいるのではない
ただの一人の恋する高校生として眼前の光景に圧倒されていた
伸ばした指先が微かに震える
触れたい。その髪に その頬に
その柔らかそうな唇に。
「…………ゆうま」
呼ぶつもりはなかった
設定上の『真名』ではなく本当の意味での彼という存在を指す名前
その瞬間、皇
俺の理性がプツリと音を立てて千切れた
俺はゆっくりと、影が重なるように顔を近づけた
悠真の甘い体温が伝わってくる
鼻先が触れそうな距離
ここで唇を重ねてしまえば…もう「友達」には戻れないかもしれない
漆黒院零音という仮面を被り続けることもできなくなるかもしれない
けれど、溢れ出した熱量はもはや魔王の力(という名の欲望)をもってしても抑えきれなかった
あと数ミリ――
「…………んんっ……」
悠真が小さく寝返りを打った
その拍子に悠真の手がシーツの上を彷徨い、俺の制服の袖をぎゅっと掴んだ
「……っ!?!?!?」
皇の全身に電流が走った 悠真は眠ったままだ、無意識の行動に過ぎない
…だが掴まれた袖から伝わる僅かな重みが俺に決定的な一撃を与えた
(あ、あ、あああああああ……! つ、掴まれた! 運命の鎖(エンゲージ・チェーン)に囚われた! 違う、悠真の手が! 暖かくて、柔らかくて……!)
その瞬間、理性が奇跡的なカムバックを果たした
いや、正確には「あまりの尊さに脳がオーバーヒートして爆発した」というべきか
「ぐ、ふっ……! くっ、なんて強大な封印術だ……! 貴様、眠りながらにしてこの私を無力化するとは……!」
俺は顔を真っ赤に染め、鼻血が出そうな勢いで仰け反った
もしあと一秒悠真が動かなければ間違いなく一線を越えていただろう
皇は震える手で自分の袖を掴んでいる悠真の指を一本ずつ、宝石を扱うような手つきで優しく解いた
「……今日のところはこのくらいで勘弁してやる 礼を言え、瀬戸内悠真 貴様の魂は危うく私に喰らわれる(奪われる)ところだったのだからな……!」
そう捨て台詞(震え声)を吐き捨てると皇は逃げるように保健室を飛び出した
全速力で廊下を駆け抜け、昇降口まで辿り着いたところで彼は膝から崩れ落ちた
顔はまだ沸騰したように熱い
「……なんだよ、あれ… 反則だろ、あんなの……」
皇は顔を覆った
指の間から見える夕焼けがまるで自分の恋心を表すように赤々と燃えている
漆黒院零音の伝説にまた新たなしおりが挟まれた
それは『魔王、聖者の寝顔に敗北す』というあまりにも初々しく、そして甘酸っぱい敗北の記録だった
一方、保健室のベッド
皇が去ったあと、悠真はゆっくりと目を開けた
赤くなった顔をシーツに埋めながら彼はぽつりと呟いた
「……『喰らわれる』なんて皇くん、心臓に悪いこと言わないでよ……」
実は皇が跪いた瞬間に彼はとっくに目を覚ましていたのである

