「花咲、おはよう」
わたしが目を覚ますと、目の前には美しい旦那様の顔があった。
「おっ、おはようございます……」
わたしは美しいのも心臓に悪いと思いながら、寝不足な目をこすった。
「うむ」
「あっ、いた……」
わたしは頭を起こそうとすると、昨日殴られたところが腫れていることに気づいた。
「頭が痛そうだな。花咲、だれにやられたんだ。俺が始末してやろうか?」
旦那様の目の奥には確かな殺気があった。わたしは、自分に向けられているものではないと分かっていたが、少しゾッとした。
「そ、そんな物騒なことしなくても大丈夫ですわ」
旦那様に会ったばかりのわたしなら復讐をお願いしたかもしれない。でも、穏やかな夜を過ごした今、わたしが望むのは別のものだった。
「冷たい水に布を当てて冷やすことができれば十分です」
「そうか……そうだ、俺にいい案がある。おいで」
そう言って旦那様は、布を何枚か持って、わたしを連れて山の奥に歩いていった。そこにあったのは、腰まで深さのある泉だった。
「さてと……」
準備するような声を出して、旦那様はいきなり服を脱ぎだしたのだ。
「キャ……」
わたしは見ないようにしたが、一瞬見えてしまった。体つきは人間の男性とほとんど一緒だ。逆に、鬼なのになぜ服を着ていたのか、と思っていたが、羞恥心が湧いてもしょうがないのかもしれない。
「花咲は水浴びしないのか?ちょうどいい冷たさだよ」
旦那様の声はどこか無邪気だった。
「わたしは頭を冷やせればけっこうですから……!」
旦那様はわたしがうろたえている理由が分からないらしい。やっぱり羞恥心といったものはないのだろうか?
「そういえば、あの書状には、巫女を差し出します。どうか天の怒りをお治めください、とあった」
旦那様は泉の中心でわたしに淡々と語りかけてくる。
「巫女……」
わたしは一体どの口がそんなことを言うのか、と黒いものが湧いてきた。
「俺には何もできないよ。俺はただ、笛が気持ちよくふける場所を探しているだけだ。この山はとても居心地がいい。ただそれだけだ」
気持ちよさそうに水浴びをしながら旦那様は話し続ける。
「旦那様には、本当に天候を左右するような力はないのですか?」
わたしは、思わず聞き返した。
「ないよ、人間と等しく天が作ったものだ」
旦那様の言葉が本当だとするならば、生贄自体は意味のない行為だったんだろう。わたしはただ、厄介払いされたのだ。
(……鬼を信じていいのだろうか?)
「旦那様は……どうして、笛を吹くのですか?」
ずっと気にかかっていたことだった。みなは気味が悪いという最上級の鬼の吹く笛の音。わたしはそうとは思えなかった。
(確信が欲しい)
旦那様を……この鬼を信じる確信がわたしがほしかった。
「美しい音がするからだ」
「美しい音が……するから……」
本当にそんなに純真無垢な理由で恐怖を振りまいているのか。
「人間はおもしろい。俺には恐怖しか示さないが、そうやって美しいものを生み出している。だから、花咲を花嫁に選んだ」
わたしの命はまだ天秤に乗っているようだ。おもしろいか、おもしろくないか。頭に布を当てる手は怖くて震えていた。
(でも、殺されたりするわけにはいかない。お父様とお母様の喜ぶ生を全うしたい)
「これからも、お役に立てるようそばにいます」
わたしは精一杯のつよがりを言ってみせた。
「うん、期待しているよ、花咲」
旦那様は笑ってみせたが、わたしはまだ怖かった。
(でも、本当にわたしがつまらなかったら無慈悲に食べるようにも見えない)
わたしは、旦那様をどう思えばいいのか分からなかった。
