◆
side:夏目 千早
――暑い。
暑い。脳みそが溶けそうだ。
1年前の8月。その日の暑さは尋常では無く、歩いているだけで体中から汗が噴き出る。新品同様の高校指定の夏服に汗が染みて、水色のシャツがその色を濃くする。
高校1年生の夏目 千早は、青嵐高校へ向かう坂道を進んでいた。
坂ですれ違う部活帰りの生徒が、千早を見てヒソヒソと会話をする。
「ねー、あんな奴いたっけ」
「ばっか。同じクラスじゃん。夏目だよ、夏目 千早」
「え?……あの不登校の?」
長い前髪の隙間から顔もおぼろげなクラスメイトをちらりと見た。
千早は新品同然のスクールバッグの中に入った退学届けを確かめ、両腕でバックを抱え込んで俯いた。
千早は4月からずっと、学校に行けていなかった。
人と接するのが苦手で、不特定多数と接する学校という空間にどうしても馴染む事が無かった。
友人も居なくて、授業に追いつけない焦燥感を感じながら光の無い自室で自分を責めながら1日中過ごしていた。
もう1回やり直そうと思って通信制の高校に転校する手続きをする為に、夏休みの今日、4ヶ月ぶりに青嵐高校に足を運んだ。
昇降口から校舎に入り、隅に薄く埃の積もった階段を上った。
3階にある1年生の教室は昇降口から最も遠い場所だが、少ししかない荷物を取る為だけに教室へ繋がる横開きの扉を開いた。
そこで、彼に会う事になる。
「あ?誰だお前。クラス間違ってんじゃねえ?」
制服を着崩した茶髪の男子生徒が、教室の机の上に座り込んでいた。
千早はその声にビクリと肩を竦め、反射で一歩後ずさる。千早のそんな態度に、茶髪の男子生徒が不快感そのままに眉間に皺を刻んだ。
「……あー、お前ずっと来なかった奴じゃん。俺、同クラ。覚えてる?」
「……悪い。覚えて……ない」
男子生徒が目を三日月型に細めてニヤリと口角を吊り上げる。乗っていた机からひらりと降りて、ずいっと千早との距離を詰めた。
染められた明るい茶髪が、窓からの太陽光を受けて金色に光る。
「なになにい?ずーっと心配してたんだぜ、4月から学校に来ねえんだからさあ」
「……ごめ、ん」
「丁度良いや、掃除変われよ」
「え」
「俺、今日この教室の掃除当番なんだよ。部活終わりにこんなんさあ、だりぃじゃん」
「い、いや、俺……」
「あ?口答えすんの?」
「ッ……」
背を屈めて、ギロリと鋭い視線で見下ろされる。
グッとシャツの胸倉を掴まれると、声が喉に張り付いて出てこない。荷物を取りに来ただけだって、言わなければいけないのに。
黙り込んだ千早に興味を無くしたのか、茶髪の男子生徒が乱暴に千早を教室内に突き飛ばした。
音を立てて机とスクールチェアを数台倒しながら、千早がフローリングの床に手を付く。
「い……っ」
「つーか他の掃除当番誰も来ねえじゃん。マジ殺す」
男子高校生がベランダの引き戸を開いて錆交じりのバルコニーフェンスに両肘を押し当てる。
「ほら、テキトーに掃除しとけよ。俺休んでっから」
男子生徒は千早を一瞥すると、胸のポケットから煙草の箱とライターを取り出した。
見てはいけない物だ。そう直感した千早は体勢を立て直して後退した。早く、この場を離れた方が良い。
倒れた机達を見ると、自分の机も紛れ込んでいた。手を伸ばして中身を手早くスクールバックに詰めて机を戻すと、千早はおそるおそる立ち上がった。
暑さと緊張で乾ききった喉に唾液を流し込んで、何とか口を開く。
「悪い。俺……職員室に用がある、から……」
その言葉を発した瞬間、男子生徒がガンッとバルコニーフェンスを殴りつけて千早の元に大股で迫った。
「あ?なんだそれ?てめえチクる気か?」
「そうじゃな……っ!?」
「調子乗ってんじゃねーよ不登校の分際で!!」
教室内に男子高校生の怒号が響く。
ガァン!と音がして背中に衝撃を受ける。それがバルコニーフェンスに突き飛ばされたのだと、千早は背中に広がる痛みで理解した。ドサリ、と千早のスクールバックがバルコニーの端に落下した。
「そんな事、は……言わない」
「あ?聴こえねえんだよクズが」
射抜くような鋭い視線、体に感じる痛み。自分の体に流れ落ちる汗が暑さによるものなのが恐怖から出る冷や汗なのか、千早には分からなかった。
男子高校生は千早の胸倉を掴んで視線を外し、フェンスの外側に向けて乱暴に突き飛ばした。
「マジどん臭え。死んどけカスが」
バランスを崩した千早の身体が重力を失う。
目元を覆っていた黒髪が跳ね、容赦無く照り付ける太陽を映した。
「あ、やべ」
声を上げることも叶わず、身体が宙に投げ出される。
風で開けた視界で最後に見たのは、冷や汗を一筋流した男子高校生の顔だった。
グシャ、という鈍い音が鼓膜を劈く。その音は、自分の命が潰れる音だった。
side:×××
”彼”は目を開けた。
炎天下の青嵐高校の校舎裏。
日差しが容赦無く振り注ぐ砂利混じりの土の上に、血溜まりが広がっている。
青嵐高校の制服を纏った小柄な体躯。黒髪に青みがかった瞳は、虚ろな半開き状態になっている。
血に染まった制服の胸部が、微かに上下している。
教室から突き落とされた夏目 千早の身体はかろうじて息をしているが、助かる見込みは無いだろう。
――ああ、だから。
――”俺”が生まれたのか。
ざり、と砂利混じりの土を踏んで、仰向けに倒れる千早の元に歩み寄る。
千早の瞳がコロンと横に流れ、彼の姿を視界に入れた。
重たくなる瞼をわずかに持ち上げ、千早がひゅっと息を呑んだ。
「ドッペル、ゲンガー……?」
「ああ」
初めて自分で発したその声は少しハスキーでぶっきらぼうな、千早そのものだ。
目の前の千早がふっと微笑む。
「本当に居るんだ。都市伝説って、捨てたもんじゃない……な」
血を含んだ土を白い校内履きで踏み、片膝を立てて千早との距離を詰める。
青みがかった黒い瞳同士がかち合う。
自分のドッペルゲンガーに向かって、千早がふっと微笑んだ。
「お前が来たって事は、俺は死ぬんだろ?」
「……そうだ」
「そうか。……別に、良いや」
「……」
「なあ、お前さ。……俺の人生、変わってくれる?」
「……え?」
千早が力が入らなくなってカタカタと震える手を伸ばす。千早のドッペルゲンガーは、その血で赤く染まる手を掴んだ。
「……本当はさ、もっと学校行きたかった。クラスメイトと交流とか、してみたかった。……でも、出来なかったんだ」
血がこびりついた目元を歪めて、千早がぎこちなく微笑む。
「なんか俺……生きるの、下手みたいだ」
浮かべる笑みは痛々しくて、落とされた言葉は儚げに地面に吸い込まれて行った。
「……だから、だからさ」
掴まれた指の関節にクッと力が籠る。
強い意志を宿した瞳が、太陽光を反射して青く艶めいた。
「俺の代わりに青春を謳歌してくれよ……”千早”」
「……分かった」
それが、夏目 千早の望みなら。
千早はぎこちなく頷いて、ふっと顔を横に倒した。光を失った瞳が太陽光だけを虚ろに反射する。
ドッペルゲンガーの手を掴んでいた血の付いた手が力を失くした。
ドッペルゲンガーは千早の顔に手を伸ばし、その目を伏せさせて額に手をかざす。
蛍火の様な白い光が走る。千早の身体の輪郭がぶれ、ラジオのノイズのような音と共に千早の体がその場から掻き消えた。
新品同様の制服を身に纏った華奢な身体も、地面に広がる血溜まりも、オリジナルの夏目 千早という存在全てが、瞬きの間に世界から消失した。
「……っ。暑……」
白い光が体に完全に吸い込まれた瞬間、急に暑さを感じる。
じっとりと汗が滲み始める体が気持ち悪い。唇に滴る汗をぺろりと舐めとると、塩味が舌先から口内に広がる。前を向くと、茹だる様な暑さに立ち並ぶ木々が歪んでいるような錯覚を覚える。
語感が鮮明になるこの感覚は、ドッペルゲンガーが本体の情報を取り込んで成り代わった証だ。
脳髄に千早の記憶が流れ込んでくる。
学校に通えなかった寂寥感と、自分自身に対する不甲斐無さで溢れ返った心情に眉を顰めた。
「ひ、ヒイッ……っ!!」
真上の3階の教室から怯えを含んだ叫び声が降ってくる。
青みがかった瞳を眇めて長い前髪の隙間から見上げると、茶髪の男子生徒が血の気の失せた顔でこちらを見下ろしていた。
「ば、化け物……っ!!」
喉にへばり付く渇きをやり過ごす様に唾を飲み込んで、ゆっくりと口を開く。
「化け物?失礼な言い方をするな」
ややハスキーな声色がその存在を示す様に、はっきりと空気を震わせた。
「今から俺が、夏目 千早だ」
To Be Continued……



