あの日、非常階段から逃げ出して以来。俺は、あの場所に行かなくなった。
いや、気まずさで行けなくなった、という方が正しい。
俺はずっと眠いふりをして、教室や体育館裏で昼休みを過ごしていた。
いつまでも避けていてもダメだとわかってる……けど……。
スズと顔を合わせないまま、一週間ほど経った今日。
午前の授業中にスマホが震えた。机の下でこっそり確認すると、メッセージが来ていた。
『今日の昼、非常階段集合。お前いないとヤダ。絶対来いよ』
「……はぁ」
思わず片手で目を覆う。
こういう、スズの子供みたいなわがままに、俺は本当に弱い。
……なんとかならないか。チョロすぎ、俺。
*
「うわ、やっといた! せっかく委員会ない日なのに、お前ずっといないから」
昼休みの非常階段の扉が開いたかと思ったら、スズは俺を睨みつけながら階段を登ってきた。
怒っているのかと思ったけれど、スズは「俺、今日はパンなんだ」と隣に座った。すぐにいつもの声に戻り、袋をガサガサと開け始めた。
無言のまま、パンを食べ終わる。スズが隣から体重をかけてきた。
横目で俺を見て、じっと目を細める。
目が合った瞬間、俺の体は固まった。怪しまれないように、ゆっくり自然を装って視線を逸らす。
「お前さ、なんで今日一言も喋んねーの? 俺、もしかして避けられてる?」
「っ! ちがっ、……悪かった」
思わず謝ってしまうと、スズは不思議そうに首を傾げた。
「なんで謝んの」
「この前……逃げた、から」
俺は気まずさで目線を下げると、スズは面白そうに笑った。
「ふぅん、あれ逃げたんだ。まぁ、びっくりしたけどさ。……っていうかさ、あんとき言ってたスラング、どういう意味で言ったんだよ」
「あ、あれは――」
「まぁ、俺も調べたんだけど」
スズが食い気味に言葉を遮る。そして、なぜか口元はニヤニヤと笑みを浮かべて、俺の顔を覗き込んできた。
「まさか、俺と縁切りたいくらい嫌ってた、とかじゃねーよな?」
「っ! 違う……あれは、お前が近すぎるから、つい……」
「ははっ、ならいいや。……なぁ、文化祭終わったら、絶対また山行こうぜ」
「……わかった」
*
その後、何回か非常階段で一緒に過ごすうちに、俺も少しずつ慣れてきて、以前のように目を合わせて話せるようになっていた。
けれど、相変わらずこいつの距離はバカみたいに近い。
気づけば、……かわいい、なんて思う横顔に見惚れてしまったり、触れた肩に心臓が速くなったりして、俺の心の中だけが大騒ぎしていた。
俺が時々顔を赤くして黙り込むのを、スズが面白がって揶揄ってくる。
そんなギリギリの状態が続いていた、数日後の昼休み。
「ねぇ、サク」
「ん?」
「この前の『damn clingy.』ってやつさ――」
その声と同時に、背後に気配がしたかと思うと、スズの腕が俺の脇から回って抱き寄せられた。
「うわっ!? なになに、なにしてんだよ」
「イチャイチャするって、こういうことだよ?」
背中にスズの胸が密着して、耳元で低くて甘い声が囁かれた。
「はぁっ!? や、やめろ」
「えー? お前がこうするって言ったんだろ?」
「言ってねぇ!」
スズの腕から逃れようとジタバタ抵抗するけれど、全くびくともしない。顔が火を噴きそうなほど真っ赤になっているのが、自分でもわかった。
「お前何やってんの!? 離れろって……!」
俺が必死に腕を振り解こうとすると、スズは俺の背中に一度だけ深く顔を埋めて――ゆっくりと腕を離した。
「はいはい、冗談だって。……でもさ、俺のこと避けんのは絶対やめろよ。許さねーから」
「許さねーって……」
「当たり前だろ。サクには俺しかいないし、俺にはお前しかいないんだから」
「……」
(お前さ、そういうこと言うのやめろよ)
スズにとっては親友としての言葉でも、今の俺には違う意味で聞こえてしまう。……寂しいんだよ、そういうの。
俺はつい俯いてしまった。
高校生の間だけは、このまま友達でいたいんだ。
勝手に期待して、勝手に落ち込む。こんな自分に呆れながら、俺は上履きの先を無言で見つめた。
「……じゃあスズ、もうすぐチャイムなるから。先に教室戻る」
「おー。……ちゃんと後から行くわ」
俺はスズに背を向け、ため息を飲み込みながら、非常階段の扉をくぐった。
*
「あー……、もう!」
あっという間に、また数日が過ぎ、文化祭が来週に迫ったある日。
一人の非常階段で、思わず声が漏れた。
あれからスズは実行委員の仕事が本格的に忙しいようで、昼休みにここへは来ていない。
夜にはメッセージのやりとりをしているが、なんでもないようなくだらない会話を少しするだけだ。
いつも二人でいたこの非常階段。一人の時間が増えると、静かすぎる空間のせいで、ついスズのことばかり考えてしまう。
もし、あいつがこのことに気づいて、確信を持って聞くことがあれば。
うまく嘘をついて、最後までこの気持ちを隠し切れる自信がない。
好きにならない。
この気持ちは忘れる。
この気持ちを消す――。
そんなこと、嫌というほど分かっているはずなのに……。
そう思えば思うほど、余計に気持ちが大きくなっていることに気がついた。
授業中も無意識に目で追ってしまうし、いつもスズの周りにいる奴らを見て『羨ましい』なんてことを思うようになってしまった。
スズには悪いけれど、一人でいられることが今の唯一の救いだった。
それなのに、一人でいると余計にスズのことを考えてしまうのだから、この時間もキツくなってきた。
我ながら、どうしようもない。
(もう少し、せめて三年になるまでは。ただの友達でいたいんだけどな)
どうしたらいいかわからず、結局今日も答えは出ない。
俺は重い腰を上げ、非常階段のドアを開けて教室に戻った。
昼休みの終わる五分前。午後の授業は、すべて文化祭の準備に当てられている。
自分の席に着こうと椅子を引いたとき、ふと前の方から声が飛んできた。
「なぁなぁ、佐久間――」
顔を上げると、普段スズとよく一緒にいる男子、青田が勝手に俺の前の席の椅子に座り込んできた。
青田は、スズのような『計算された王子』とは違う、少し日に焼けた肌と人懐っこい笑顔が特徴の、いわゆる爽やかな陽キャのイケメンってやつ。
もちろん、今まで喋ったこともない。
いつもの癖で、無言のまま少し睨むようにして距離をとった。
「あのさ。佐久間、文化祭の係は何も当たってないよな?」
「……」
「道具係が人手足りてないから、ちょっと手伝ってよ! ダンボール切ったり色塗ったりするやつ」
突然そう言われて、思わず瞬きをした。
普段の俺なら、無視を貫く。けれど、裏方で黙々と作業するだけならできるだろう。
……それに、今は一人の時間の方がきつかった。
自分らしくない。そう思いながらも俺は無言で頷いた。
「お、まじ? よかった〜! すげー助かる」
青田は明るい笑顔を見せて、気安く俺の肩を叩いてきた。
他人に触られることに慣れていなくて、叩かれた瞬間、少し顔が強張ってしまう。
「おっと、わりぃ。そう睨むなって。な?」
別に睨んだつもりはなかったが、青田にはそう見えたのだろう。
青田は特に気にした様子もなく「こっちこっち」と俺の腕を引き、作業スペースになっている教室の一角まで、俺を引っ張っていった。
言われた通り、俺は黙々とダンボールを切り、筆で色を塗っていく。
集中して作業をしていると、青田がすぐ隣に座り、俺の手元を覗き込んできた。
「佐久間、意外と作業丁寧じゃん。まじ助かるわ」
一瞬、目が合ったけれど、俺は何も答えずにまたダンボールへと視線を落とした。
(……別に、話しかけてこなくていいって)
心の中でそうぼやきながら、また無言で手を動かし始める。
けれど、青田が俺に話しかけたのをきっかけに、他の道具係の女子や男子の数人が、なぜか俺の周りに集まってきてしまった。
「え、佐久間くんって、こういうの参加する人だったんだ」
「しかも、結構色塗り綺麗じゃん。得意?」
次々と上から飛んでくる声に、俺の思考が追いつかなくなる。
頭が真っ白になり、背中に冷や汗が滲んだ。
どう反応していいかわからず、ただ筆を握りしめたまま俯いていると、青田が声を上げた。
「おいおい、お前ら。佐久間は今、集中してて喋りたくねーの! ほら、作業に戻れって!」
「えー? 佐久間くんと喋ってみたかったのにー」
「さすが、ガチぼっちイケメン。ブレないとこがまたいいっ!」
みんなは嫌な顔ひとつせず、笑いながらそれぞれの作業に戻っていった。
筆を止めて、横目で青田を見やり、聞こえるか聞こえないかのような小さな声で呟く。
「……ありがと。助かった」
青田は目を見開いて一瞬固まった後、すぐに人懐こそうな明るい笑顔に変わった。
「――全然いいよっ! 助かってんのは、こっち! ……いや、でも、佐久間と喋れたのすげぇうれしいぜ」
そう言いながら、気安い感じで肩を叩いてきた。
(……こいつ、思ってたより、いいやつかもしれないな)
その時、ガラガラと教室の扉が開く音がした。
振り向くと、そこにスズが立っていた。
スズは一瞬、こちらを見て驚いたように目を丸くしたが、すぐに例の笑顔を貼り付けた。
「お疲れ、みんな! 委員会の仕事終わらなくて、なかなか手伝えなくてごめんねー!」
明るく優しそうな声でそう言いながら、こちらに近づいてくる。
少し見上げるようにしてスズの方を見ると、笑顔なのに目が笑っていない。
視線がぶつかり、俺は慌てて視線をダンボールに落とすと、ちょうどそこで、終業のチャイムがなった。
俺はすぐに立ち上がると、何も言わずカバンを肩にかけ、早足で教室を出た。
*
その夜。ベッドの上で寝転がっていると、スマホが震えた。画面を見ると、スズからのメッセージが来ている。
『お前、なんで青田たちと作業してんの』
『俺が誘ったわけでもないのに』
俺は少し考えてから返信した。
『青田に声かけられた。裏方だから、別に俺にもできるだろ』
すぐに既読がついて、しばらく間があった。
そして、数分経った後、たった一言だけ返信が来る。
『ふーん』
その言葉には何も返さなかった。
ごろんと仰向けになり、天井を見つめる。
(今日みたいに、クラスメイトとして誰かと作業するのも、案外できるのかもしれねぇな)
アメリカの時のように傷つけられることもなく、中学の時のように珍しい動物扱いもされていない。
高校生にもなれば、みんな少しは違うのかもしれない。
そんなことを考えながら、眠りに入っていった。
*
文化祭前日、ぎこちないながらも俺は少しずつ道具係として仕事に慣れていき、会話はしないが、荷物持ちとして買い出しについていくことまでできていた。
スズとは非常階段でも合わず、準備もメインの実行委員会の方が忙しいらしく、教室でも合わないことが多かった。
最後の仕上げとして、ダンボールの色を塗っていると、一緒に筆を動かしていた青田が突然声を上げた。
「やっば。俺、川センに呼ばれてたんだった。佐久間、ちょい抜ける、わりぃ」
俺は頷き、青田はパタパタと教室を出て走っていった。
しばらくすると、青田が「悪いな、抜けちゃって」と帰ってきて俺の隣で作業を再開する。
「あ! そうだ。佐久間ってさ、お前帰国子女なんだ? かっけーじゃん!」
俺の筆先が、動きを止めた。
青田のその声に、周りにいたクラスメイトたちも一斉にこちらを向く。
「えっ!? 佐久間くん、そうなの?」
「うわ、似合う〜! どこの国? アメリカとか?」
一気に集まる視線。中学の時に経験したのと同じだ。
頭の中がすっと冷えていくのがわかった。
「……なんで、それ、知って……んの」
「あ、ごめん! さっき、川センの机の上にあった名簿、チラッと見えちゃって!」
「見えちゃって、って――」
「それに、さっきそこであった鈴村に聞いても否定しなかったしさ。あ、お前らって非常階段でよく昼食ってるんだろ?」
その言葉に、頭を殴られたような衝撃が走った。
「え……スズ……?」
目を見開き、息の仕方が一瞬わからなくなった。
一気に血の気が引いたように、言葉が一言も出てこない。
スズが――。
俺の過去を。俺たちの秘密を。誰にも言わないって約束したことを――。
「佐久間?」
青田が不思議そうに顔を覗き込んでくる。
その顔が、アメリカで俺を傷つけた奴らの『親切そうな顔』と重なった。
目の奥が熱くなり、吐き気が込み上げる。これ以上、一秒だってこの場にはいられなかった。
俺は勢いよく立ち上がり、扉の方へ駆け出した。
教室のドアを飛び出そうとした時、入ってこようとした誰かとぶつかりかけた。
一瞬、横目で視線が交差した。
そこにいたのは『嘘くさい笑顔』を貼り付けたスズだった。
俺は目を見開いたけれど、足は止めなかった。
スズと目が合ったまますれ違う。
スローモーションのようにお互いの瞳が揺れ、スズの笑顔が微かに崩れるのが見えた。
「――おっと」
聞き慣れたスズの声が背後で聞こえた。それでも俺は、ただ夢中で廊下を走った。



