スタスタスタ――。廊下の方から足音が聞こえ、俺は顔を上げた。
扉が開き、見慣れた顔が覗く。
「スズ? あれ、今日はこっち?」
「うん。今日は委員会ない日」
楽しかった夏休みが終わり、二学期が始まった。まだ暑さは居座ったままだ。
そして息つく間もなく、学校ではすぐに文化祭の準備が始まっていた。
文化祭の実行委員であるスズは、放課後だけでなく週の半分は昼休みにも打ち合わせが詰め込まれている。
そのため、いつもの非常階段で、最近は俺一人で昼飯を食べることが増えていた。
俺の隣にドシっと腰を下ろしたスズは、大きなため息とともに弁当箱を開ける。
「あー……。ここで食べるときだけが楽になれるのに。マジでストレス溜まるわ」
「かわいそうに。俺はここから応援しておくから」
俺が軽く言うと、スズはじっとりとした視線を寄越した。
「お前……絶対、他人事だと思ってバカにしてるでしょ」
「まぁ、そう」
笑いを堪える俺に、スズは「お前、そこは嘘つけよ。せめて濁せ」と文句を言いながら弁当箱をしまった。
そして当たり前のように俺の背中にもたれかかり、スマホでゲームを始める。親が厳しいスズは家でゲームができないらしく、時々、非常階段でこっそりやっているのだ。
俺の背中をクッションにして器用に指を動かしながら、スズが不意に聞いてきた。
「そういえばさ。最近、イヤホンしなくなったね。教室でも」
「……電車の中ではしてるけど?」
「ふーん」
スズはそれ以上は突っ込まず、「あ、明日は俺、昼も委員会だ」とだけ言い残した。
*
言っていた通り、翌日スズは非常階段に来なかった。そして、その翌日も。
同じクラスにいても学校では一切話さないルールだから、結果的にスズとは一言も交わさない日々が数日続いた。
俺は非常階段で一人、昼飯のパンをかじりながら、素はとことん面倒くさがり屋のスズを思い浮かべる。
(あいつ、今頃またあの『嘘つき笑顔』でいい子演じて疲れてんだろうな……)
そう思うと、クスッと笑いが漏れた。
スズが本当に息抜きできる場所なんて、ここか山しかないんだから。
「文化祭終わったら……山、誘ってやろうかな」
自分でも驚くような独り言を呟きながら、食べ終わったパンの包みを袋に入れて立ち上がった。
扉を開け、教室へ戻るため廊下の角を曲がったとき、使われていない空き教室の方から、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
前を通りすぎる時、扉の小さな窓から、俺はチラっと横目で中を覗き込んだ。
(――あれ?)
ぴたりと足が止まった。
一瞬見えた空き教室の中。机に向かい合わせにして、お弁当を食べている男女の姿があった。
女子と楽しそうに笑い合っているその男は、間違いなくスズだった。
(――え?)
二人だけで打ち合わせ?
なんで、あんなに楽しそうに笑ってんの。
あの顔は……、俺にしか見せない、『素のスズ』――。
心臓が嫌な音を立てた気がした。
見つからないように、俺はそっとその場から離れ、教室へ逃げ戻った。
午後の授業中。
俺は机で頬杖をつきながら、一番前に座るスズの背中を、気づけばずっと目で追ってしまっていた。
(お前……素の自分を見せられるのは、俺だけじゃなかったの? 俺には、お前しかいないのに)
自分でも、ガキのようなことを考えている自覚はある。
でも、でもさ――。
(……もう、考えるのはやめよう。友達取られて拗ねている構図、まんまじゃん)
無理やり思考を散らすため、俺は授業中だったにも関わらず、ポケットからイヤホンを取り出し、深く耳に突っ込んだ。
ノイズキャンセリングのスイッチを入れ、窓の外に視線を向ける。
でも、頭の中に残るあの楽しそうな笑い声は、どうしても消し去ることができなかった。
*
夜。自室のベッドに寝転がると、昼間に蹴散らしたはずの光景が、またぐるぐると頭の中を回り始めた。
鮮明に思い出せてしまう、空き教室でのスズの笑顔。
何度記憶の中で確認しても、あれは間違いなく、嘘のないスズの顔だった。
一緒にいたあの女子は誰だろう。同じクラスではないから、全く見覚えがない。
俺には、友達といえる奴は、スズしかいない。
だから俺は今、あいつに他の居場所ができたことに、嫉妬してしまっているんだ……。
俺が胸の奥のモヤモヤを持て余していると、ふと、夏の夜を思い出した。
コテージのデッキで、星空を見上げていた時のスズの顔。
『俺が近くにいてやるから、こっちにいろよ』と見下ろした時のあんなに真剣な目。
その光景が浮かんだ途端、胸の中を漂っていた小さなモヤモヤが一気に塊になって、心臓がきゅうっと、息ができないくらい痛んだ。
どれだけ時間が経っただろう。
俺は仰向けのまま、暗い天井に目を細めた。
静かな部屋で、独り言が漏れる。
「あー。……もう、これってさ、ただの友達相手に思う気持ちじゃ……ないじゃん」
友達も、恋愛も、今まで一度も経験なんてなかったけど。
――わかるよ。
この痛みの正体くらい、いくら俺でもわかる。
「最悪……。気づきたくなかった」
腕で両目を乱暴に覆い隠す。
ずっと一人でいたかったはずなのに。やっとできた居心地のいい友達だったのに。
俺はそんな相手に、どうしようもなく惹かれてしまっていた。
(――こんなの、こんなの絶対に誰にも言わない)
これ以上、何かを失うのは嫌だ。
知られてしまったら、あの心地いい時間は、二度と戻ってこない。
きっとスズは、俺から離れていく。
俺は深く息を吐き出し、天井に向かって震えた声を出す。
「……この気持ちは、墓まで持っていこう。……絶対に」
*
衝撃の自分の気持ちに気づいてから数日。
少し寂しく感じていた一人の昼休みだったけれど、今は逆にスズが来ないことにホッとしていた。
あの女子のことも気になるが、それよりも――。
(俺、あいつの目を見てちゃんと喋れんの? できるだけ何でもないようにしないと、余計に怪しいよな……)
両耳にイヤホンをして、パンをかじりながら必死にシミュレーションをしていたとき。
ガチャ、と扉が開いた。
(え……?)
スズが弁当箱を持って、「ちょっと久しぶり〜」と階段を登ってきた。
胸がどくりと鳴り、俺は慌てて視線を逸らす。
スズは当たり前のように俺のすぐ隣に腰を下ろし、弁当を広げ始めた。
「今日……委員会、なかったんだ」
「ん? 今日やっとなしの日。あーマジで死ぬ。ここ数日地獄だったわ」
横目でスズを盗み見ると、今まで気にしたこともなかった長いまつ毛や、制服ごしの広い肩幅が目に入った。
慌ててパンに視線を落とし、心の中で大きくため息をつく。
スズはいつものように、俺の肩に重い頭を乗せ、スマホのゲームをし始めた。
「……スズ。ちょっと前、空き教室で女子と二人で弁当食ってたよな」
触れないでおこうと決めていたのに。スズを近くで感じた途端、口が勝手に動いていた。
スズはガバッと起き上がり、「うわ、見られてた?」とあからさまに顔をしかめた。
「あの日、委員が俺とあの子しか集まんなくて。結局、打ち合わせも何もできなかったんだよね。しかもさ、俺らの行ってたバイト先、あの子にバレてたわ」
「は!?」
「あの子のお母さん、あの倉庫のパートさんなんだって。でも絶対誰にも言わないって約束してくれたから、たぶん大丈夫」
(そうだったんだ……)
俺が見たあの楽しそうな素の笑顔。他の理由もある気がするけれど。
スズの口から出たその事実に、胸の奥のモヤモヤが少し軽くなった気がした。
そして、少し安堵した瞬間――。
「なに、お前。バレたの気になる? 大丈夫、俺たちが仲良いことも口止めしといたから、学校には広まんないよ」
スズが後ろから抱きつくようにして、俺の肩にずしっと顎を乗せてきた。
「ふーん……」
(っ! いや、違ぇよ! 近っ……)
首筋にかかるスズの息遣いと、触れる髪の毛の感触。
固まった俺の頭の中で、これはまずい、と焦りが一気に広がった。
(あれ、こいつ……いつもこんな近かったっけ? ……いや違う。よく考えたら初めから距離感おかしい奴だった。なんで今まで普通にいられたんだ!?)
意識してしまった今、スズの体温は今までと全く違う「熱」を持って俺の脳を完全にパニックにさせる。
俺は思わず両手で顔を覆った。
(やばい。意識するな。普通にしろ、俺……!)
顔中に熱が集まり、耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかった。
それを必死に隠し、うるさい心臓の音を誤魔化すように、わざと乱暴にパンをかじる。
俺の拒絶のオーラを察したのか、スズは黙って肩から離れ、今度は背中合わせにもたれてゲームを再開した。
助かった、と息をついたとき。背中越しに、不意にスズが言う。
「あー……。やっぱ、ここがマジで落ち着くわ〜。ずっとこうしてたい」
スズがぐりぐりと、俺の背中にさらに体重をかけてくる。
「おっもっ! 暑苦しいから離れろって」
「えー、やだ。ってかサク、今日なんか体温高くね? 耳赤いし」
スズが背中越しに振り返り、俺の顔を覗き込もうとしてくる。
これ以上見られたら、絶対隠しきれない。
限界だった。俺は頭を真っ白にさせたまま、スズの顔を両手で力任せに押し退ける。
そして、無意識のうちに言葉を吐き捨てていた。
「Shut up! You’re so damn clingy……!(うるせぇ! お前、マジでベタベタしすぎだろ……!)」
突然飛び出した流暢な英語に、スズが目を丸くして固まる。
俺はハッとして口を押さえたが、もう遅かった。
「……うわ、何今の。何言ってんのかわっかんないけど、発音えぐっ」
驚きながらも、スズが面白そうにニヤッと笑う。
俺は真っ赤な顔のまま立ち上がり、「うるせぇ! もう先戻る!」と逃げるように非常階段を後にした。
バタン、と鉄の扉を閉め廊下の角を曲がり、俺は壁に背中を預けてズルズルとしゃがみ込んだ。
うるさい心音を抑え込むように、胸ぐらを強く掴む。
(……ダメだ、俺)
絶対隠し通すって決めたばっかだろ……!
このまま友達のままでいたいという願いとは裏腹に。
あいつの顔を見るだけで、声を聞くだけで、惹かれていく気持ちがどんどん強くなっていく。
自分でもどうしようもないこの感情を、俺はいつまで隠せるのだろう――。



