夏休みを目前控えた頃、俺たちは目標額に届き、休日の倉庫バイトを辞めた。
汗水垂らして手に入れた五万七千円のゴアテックスのジャケット。スズも同じものを色違いで買っていた。
先週末、テストが終わった解放感もあって、俺たちはその新しいジャケットを着て、日帰りの登山へ行った。
「この前、途中ですごいゲリラ豪雨降ってきたけど、あのジャケット、マジで水弾きやばかったよな!」
「あー、あれは本当に買って正解だったな」
昼休みの非常階段。俺たちは並んで昼メシを食べながら、先週の山の話で笑い合っていた。
けれど、俺は今日スズに言わなければならないことがある。
「……あのさ、スズ。こないだの一泊二日の話。……親にダメだって言われた」
「え、マジで? ……じゃあ、俺の完璧なプレゼンが必要だな」
「いや、いいよ。そんなことしても、うちの親が外泊なんて許すわけないし」
「だーかーら、俺が直接挨拶に行ってやるって!」
スズは全く諦めようとしない。「仕方がない」で終わると思っていたのに、食い気味に身を乗り出して顔を覗いてきた。
「だから……俺の家遠いし、教えたくないって言っただろ……」
「じゃあ、行けないじゃん! 俺、絶対サクと行きたいのに!」
めちゃくちゃ駄々こねるじゃん……。
俺は、子供のようにむくれるスズを見て、大きなため息をついた。
こいつのこういう我儘に、最近の俺はとことん弱いらしい。
「……〇〇線の△△駅……。ほんとは、誰にも教えたくなかったんだからな。絶対他に漏らすなよ」
「やった! もちろん俺とサク、二人の内緒だろ。……っていうか、遠っ!」
「いつ来るんだよ」
*
次の休日。
最寄駅のロータリーのベンチで座って待っていると、改札を抜けてきたスズが俺の前まで歩いてきた。
その顔は、あからさまに引き攣っている。
「……お前さ、マジでここから通ってんの!? 俺んちから二時間くらいかかったんだけど……」
「……朝なら、本数多いから一時間半くらいで着く」
「なんでわざわざ、あんな遠い高校にしたんだよ。毎朝キツイじゃん」
「……」
「……まぁ、別になんでもいいけど」
俺が口を噤むと、スズはそれ以上深くは追求してこなかった。
駅からアパートへ向かう、少し長めの帰り道。蝉の鳴き声が響く中、俺はぽつりと口を開いた。
「父さんはまだ、アメリカに住んでるんだ。だから今は、母さんと俺の二人だけでこっちに住んでる」
「へぇ。お父さん、日本人?」
「ははっ。純日本人だよ。……母さんは早く父さんのところに帰りたいみたいだから。俺が高校卒業したら、母さんは向こうに戻るつもりみたい」
「……へぇ」
スズは相槌打つだけで、黙って俺の隣を歩いてくれた。
アパートに着き、俺はスズをリビングへ通した。
テーブルを挟んで俺とスズが座り、向かいには母さんが座っている。
「晴が友達を家に呼ぶなんて、信じられなかったけど……ほんとだったのね」
母さんはどこかホッとしたようにクスッと笑い、上等なティーカップで紅茶とケーキを出してきた。
その瞬間――。
(――うわっ、出た!!)
隣に座るスズを横目で見て、俺は紅茶を吹き出しそうになった。
背筋をピンと伸ばし、学校で見るような、あの『胡散臭いスマイル』を顔に貼り付けていたからだ。
「初めまして! 晴くんといつも仲良くさせてもらっています、鈴村です!」
(That fake-ass smile……〈嘘くせぇ笑顔だ〉)
「まあっ……! ご丁寧にありがとう。高校で、晴にこんないい友達ができるだなんて……!」
完璧な礼儀正しさと爽やかな笑顔を前に、母さんは感動したように両手で口元を覆った。
完全に騙されている母さんに向け、今回の山登りが今の俺たちにとってどれほど必要な経験かを、うまいこと説明していくスズ。
俺は一人、出された紅茶を啜りながら、盛大に呆れ返っていた。
結局、「鈴村くんと一緒なら安心ね。だけど、キャンプはダメ。コテージかペンションに泊まるなら」という条件付きで、無事に許可が下りた。
「うちの親にも、なんとか言っといたから。……俺の完璧なプレゼン、二回も使ったわ」
*
そして、ついにその泊まりがけの山登りの日。
俺たちは大きなザックを背負い、電車で街を離れていく。窓の外を流れていく景色が、ビル群から緑の多い知らないものへと変わっていく。
家族以外とこんなに遠くへ行くのは初めてで、俺はずっと胸の奥がそわそわしていた。
登山口から山に入ると、空気が不思議なくらいひんやりと変わった。
スズは俺の後ろを歩きながら、ずっと喋っている。
「めちゃくちゃワクワクするー! 俺、この日のために夏期講習の前半に予定詰め込んだんだから」
「俺も……楽しみだった。外泊なんて初めてだし」
「無理して正解だったわ。来年の今頃は、受験で山に登れねぇかもしれねーし」
「……俺ら、来年は受験生だもんな」
登りながらも話は尽きず、気づけば夕方、俺たちは山中にあるコテージについた。
「うわ、見ろよ、サク。結構綺麗な部屋だ! 焚き火はできないけど、部屋ん中まで木の匂いがする!」
「焚き火とか、やってみたかったな。……あ、でもデッキが広いな。景色もいいし、ここにしてよかった」
「とりあえず飯食おうぜ、腹減った!」
スズは自分のザックから手際よくカップ麺を二つ出し、やかんに火をかけた。
夕食を終え、備え付けの風呂に入ってさっぱりした頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。
「サク、こっち来いよ!」
外のデッキでスズが手招きする。
誘われるままに外に出てみると、そこには言葉を失うほどの壮大な星空が広がっていた。
「星、すごくない? こんなに星出てんの、肉眼で初めて見たかも」
「……すご。なんか星近いな。それにさすが山だなー。夜は結構涼しい」
スズは広い木製のデッキの上で、おもむろに大の字になって寝転んだ。
「最高〜! お前もやってみろよ」
「え、背中汚れるじゃん」
「いいから。ほら」
俺は渋々、スズの隣でそろそろと寝転んだ。視界いっぱいに、零れ落ちそうな星が広がる。
「なにこれ……最高の景色じゃん」
「な? うわー、疲れ飛ぶわ」
俺もスズも星空に夢中になっていると、隣でスズがポツリと、静かに話し始めた。
「……なんか、夢みたいだ」
「夢……?」
「……俺さ、家でも親からすごい圧かかってんの。小学生の頃から、家にも学校にも、本当の俺の居場所なんてないって思ってたんだ。……けど、サクと出会ってから変わった」
「……」
「お前は俺の、初めての『本当の友達』だよ」
「……そっか」
「だから、こうやって一緒にいるのが夢みたい」
静かな声で、普段言わないようなことを口にするスズ。この壮大な星空がそうさせているのかもしれない。
(……俺も、言ってもいいかな)
俺も星を見たまま、ゆっくりと口を開く。
「俺も……。俺、アメリカに住んでたって言っただろ? あっちの小学校入ってからずっと、向こうでイジメを受けてたんだ」
スズは黙ったまま、隣でこちらを横目で見つめていた。
「言葉もうまく伝えられなくて、抵抗もできなくてさ。親切そうな笑顔の裏で、俺はずっとバカにされてて……そこから、人を信じられなくなっちゃって。俺のために、母さんが日本に連れてきてくれた」
「そっか。……俺よりずっと、苦労したんだな。遠いけど、逃げる場所があってよかった」
スズの優しい相槌に背中を押され、俺は続ける。
「中学でやり直せるかと思ったけど、人を疑うことしかしなかったから……もう、自分でもどうしたらいいのか分からなかったんだ。馴染むどころか浮いてしまって、誰も近寄らなくなった。だから、誰も俺の過去を知らない、遠い高校を選んで通ってる」
「そゆことね……。俺、お前の大事な秘密知っちゃったじゃん」
「スズになら……言ってもいいかなって、思ったから」
「は? なにそれ〜」
スズが照れたように笑う。
「ってか、今の話、俺しか知らないってことでいいの?」
「……うん。誰にも言うなよ」
「わかってる。……なんかさ、そういうの聞くと、これから雑に扱えなくなるな。ははっ」
スズはあえて冗談めかして言ってくれているのがわかった。
「スズ……だからさ」
「ん?」
「俺も高校で誰かが隣にいるなんて思わなかった。だから、毎日楽しい。……ありがと」
「は!? は!? お前なに、急に!」
俺の言葉に、スズがあからさまに動揺する。
「いや、伝えた方がいいと思って……」
「……いや、まぁ、俺も楽しいからいいけど」
「けどさ、高校卒業したらバラバラに離れるだろ? だから、こうやってお前と楽しいことしてると……楽しいのになんか、寂しくなる」
その言葉を零した瞬間。
隣でガバッと、スズが勢いよく起き上がり、目を見開いてこちらを見下ろした。
視線がぶつかった瞬間、俺は自分の顔面がぶわっと熱くなるのを感じ、慌てて寝返りを打って背中を向けた。
「……っ、やっぱ今のナシ! 急に恥ずかしくなってきた」
「はあ? ナシにはできないでしょ。……サクって、とことん正直者だよな」
「うるせー。忘れろ……」
「俺はそういうとこ気に入ってるから。……急にデレたりされると、さすがに戸惑うんだけどね」
背後から聞こえるスズの声は、今まで聞いたことのないくらい優しい。
俺が背中を向けたまま縮こまっていると、不意に肩を強く掴まれ、強引に仰向けにされた。
「――っ!?」
視界が回って、真上からスズが真剣な顔で俺を見下ろしている。
「なぁ、お前、卒業したらお母さんとアメリカ帰んの?」
「え……? いや、わかんねーけど」
「大学とか、こっちの行かねーの? お前、その孤立癖のままだと向こうでも絶対苦労するよ。……俺が近くにいてやるから、こっちにいろよ」
スズの声には、冗談ではないような切実な響きが混ざっていた。
けれど俺は、恥ずかしさのあまりその熱から目を逸らし、強がった。
「は? 卒業した後のことなんて、まだなんも考えてねーよ。それに、お前がいなくなっても、もう大学生の歳になればなんとでもなるだろ」
「はぁ……」
俺の返答に、スズは不満そうに、わざとらしい大きなため息をついた。
「まぁ、せっかく山に来てるんだから、学校とか進路の話はやめよ。勿体無い」
「……そうだな」
スズは俺から手を離し、再び隣に寝転がった。
「それよりさ」
星空を見上げたまま、スズが口を開く。
「夏休み終わったら、秋は文化祭の準備が始まるなー。俺、実行委員だしマジで忙しくなるわ」
「ご愁傷様〜。俺は絶対何もしないで、隅っこで寝てるけど」
「お前、薄情だなぁ。……けどさ、秋になっても山は行こうな」
「……秋?」
「そ。三年になったら受験で今よりもっと行けなくなるしさ。だから、それまでは俺に付き合えよ」
スズから強引さが消え、どこか穏やかで、優しい響きになっていた。
涼しい夜風が、二人の間を通り抜けていく。
「……だな」
俺が短く同意をすると、スズは満足そうに「ん」とだけ答えた。
俺たちはそれ以上何も言わず、ただ静かに星空を見上げていた。
この心地よい関係が、この先も続く。
俺もスズも、この時はまだ、そう思っていた――。



