俺たちの尊い日々


 倉庫の薄暗いトタン屋根に、途切れなく雨粒が打ちつける音が響いている。
 俺は重いダンボール箱をカートに乗せ、長いため息をついた。

「ていうか、スズ。お前、家遠いのになんで俺と一緒にここで働いてんの?」

 梅雨入りし、雨が多くて山に行けないため、俺たちは今月から休日のバイトを始めた。
 この倉庫での荷物の仕分け作業は、高校生でも雇ってもらえるし、何より裏方だから面倒な人間関係がない。場所も俺の家と学校のちょうど中間あたりにある配送会社だ。

 けれど、スズの家からここまで来るには、電車を乗り継ぐ必要があって、かなり遠いはず。
 俺の隣で同じようにダンボールを抱えながら、スズは不満げに口を尖らせた。

「えー。一緒じゃなきゃ、やだ。俺、サクと山登るためにバイトすんだから、一緒の場所でいいじゃん」
「はぁ……。だから、お前と一緒に登るなんて言ってないだろ」
「あ、それ俺が運ぶわ。サクはそっちの軽いリストやってて」
「おい、話聞けよ」

 *

 バイトの帰り道。駅前のハンバーガーショップの前で、スズが突然足を止めた。

「……スズ?」
「腹へった。……あれ、食べたい」
「はぁ? なに、ハンバーガー食いたいの?」
「……うん。俺、こういうの食べたことない。サク、ここ寄ってこ」
「……嘘だろ?」

 思わず聞き返したが、スズの目は真剣そのものだった。


 窓の外に降り注ぐ雨を眺めながら、俺はコーラを一口飲む。
 目の前の席では、スズがダブルチーズバーガーの包みを慎重に開け、目を見開いていた。

「……え、これ。中身全部肉? ソースの色濃すぎない?」
「いいから食えって。お前が食いたかったんだろ?」

 スズはおそるおそる一口かぶりつくと、さらに驚いたように顔を上げた。

「……うまっ! 何これ、想像の百倍くらいうまいんだけど!」
「ははっ、大げさすぎ。ただのチーズバーガーだし」

 夢中で頬張るスズの口元に、ケチャップのソースがついている。
 紙ナプキンを差し出してやると、スズは「サンキュ」と雑に口を拭った。
 
 学校の女子が見たら目を疑うほど、今のこいつは『優等生の王子様の鈴村くん』からかけ離れている。
 すげぇガキっぽくて、すげぇ無防備だ。

「お前、ほんと……どんだけ箱入りなんだよ」
「うるせー。いいじゃん、今まで『添加物は敵』みたいな食卓だったんだから」

 ポテトにも手を伸ばし、本当に幸せそうに笑う。
 その顔を見て、俺は思わず口走っていた。
 
「……お前さ、その顔。教室で一回やってみろよ。全女子が落ちるわ」
「はぁ? やだ」

 スズは即答し、コーラをストローで啜りながら意地悪そうに目を細めた。
 
「これは『バイト帰りの俺』の顔。他の奴らには絶対見せてあげない。コスパ悪すぎ」

 スズのその子供っぽいドヤ顔を見て、俺もたまらず吹き出した。
 学校では、女子が振り返るような王子様のくせに。今は口元にソースをつけて、ポテトをかじっている。
 俺は残っていたコーラを飲み干し、ふと気になっていたことを口にした。

「……スズさ、休みの日はバイトしたり、山登るのとか俺ばっかり誘うけど。彼女とかいねーの? 作んねーの?」
「は?」

 スズはポテトをくわえたまま、心底嫌そうな顔で俺を睨んだ。

「いるわけないじゃん。彼女とか作ったら、休みの日まであの『作った俺』やんなきゃいけないんだよ? 休みの日だけじゃなくて電話だって、メールだって。そんなの絶対無理。疲れて死ぬだけじゃん」
「あー……、なるほどな。そりゃ大変だな」
「でしょ? 気使わなくていいの、サクの前だけだもん。だから、誘うのはお前しかいねぇの」

 スズは咀嚼しながらそう言うと、最後の一口のハンバーガーを飲み込んだ。

 *

 週末のバイトもだいぶ慣れてきて、学校も平和な日々を過ごしている。
 今は、午前の英語の授業中――。

「――じゃあ、次。佐久間、十六ページの三行目から読んでみろ」

 先生から指名され、俺はゆっくり立ち上がった。
 そしていつものように、教科書の英字を「日本語」として不器用に声を出す。

「めにおーるそー、ぷれい、あ、めじゃー……びとうぃーん、ぱぶりっく、あんど、ぷらいべーと」

 わざと抑揚をなくして、コテコテのカタカナ英語を読み終える。
 着席しようと前を向いた時、一番前の席に座るスズと目が合った。
 こちらを振り返ったスズは、「嘘だろ……」と言わんばかりに口をあんぐりと開け、信じられないものを見たような驚愕の表情を浮かべていた。

「……よし、そこまで。まぁ、佐久間はもう少し発音頑張れよ。はい次――」

 俺が静かに座ると、前の方でスズの背中が小刻みに震えているのが見えた。
 あいつ……絶対、笑い堪えてんな。

 *

 昼休みの非常階段。スズは少し怒ったような顔で階段を登ってきた。

「おい、サク! 今日のコミュ英の授業、マジでひどかったぞ! わざとらしすぎんだろ。笑い堪えるのきつかったんだけど」
「うるせーな。俺は目立ちたくないんだよ」
「いや、逆に目立ってるって」

 スズは俺の隣に腰を下ろし、弁当箱を開けながら尋ねてきた。

「お前、英語なんて完璧なんだろ? なんで隠すの?」
「……」

 俺が口をつぐむと、スズは俺の顔をチラリと見て、すぐに視線を弁当に戻した。
 
「ま、言いたくなけりゃ、言わなくていいけどさ」

 無理に踏み込んでこない、その軽い言い方。
 あの日、家が遠い理由を「内緒」にした時と同じだ。
 スズのこういうところが、どうしようもなく楽だ。
 
「……俺、中学までアメリカに住んでたんだよ」

 気づいたら、隠していたはずの過去が、口からこぼれていた。
 スズは目を丸くして、俺の顔を見る。
 
「え、マジで? すげーじゃん! だからあんなに英語の発音綺麗なんだ」
「誰にも言うなよ。いろいろあるから」
「はいはい、わかってるって」

 スズは俺を特別視するでもなく、それ以上詮索しなかった。

 *

 放課後。教室には誰もいなかった。
 急なゲリラ豪雨のせいで、窓ガラスを激しく叩く雨音が響いている。
 傘は持っているが、一人で急いで帰る理由もない。俺は雨が少しおさまるまで、教室に残って待つことにした。
 
 イヤホンをして、机に突っ伏していると、教室の扉が開いた音がした。
 腕の隙間からそっと覗き込むと、そこにスズが立っている。

「あれ? サクどしたの? 俺は今、委員会終わったとこなんだけど」

 俺を見つけたスズは、そのままスタスタと近づいてきて、俺の前の席の椅子を引いた。
 背もたれに腕を乗せるようにして座る。

「……雨弱まるの、待ってる」
「急に降ってきたもんな。あーあ、俺、文化祭の実行委員になっちゃったんだよ、マジめんどくせぇ」

 目の前で愚痴るスズは、非常階段の時と同じ『素』の顔だ。
 教室という空間で、こうしてスズと堂々と話すのは初めてだ。……なんかすごく変な感じがする。

「お前、一応『優等生』だもんな。断れなかったんだろ」
「おい、一応じゃなくて俺は完璧な優等生だけど? ……あーあ。家、帰りたくねぇな」
「なんで?」
「……あー、俺さ。家でもあの『嘘くさい顔』やってんだよ、笑えるだろ?」
「え……、家でも?」
「そ。親の期待がヤバくてさ。ずっと良い子演じてたら、こんなんなったんだ。……最悪だろ」

 スズは、開き直りと自嘲が混ざったような笑顔でそう言った。

「……別に。俺は今の最悪なお前しか知らないし」

 俺は机に突っ伏したままボソッと答えると、スズは一瞬目を丸くして、それから堪えきれないように「ふはっ」と吹き出した。

「あはは、なにそれ。最高の褒め言葉じゃん。あー、マジでサクといると元気でるわ。……俺も雨おさまるまでここにいていい?」
「別に……いいけど。静かにしてて」

 俺たちは雨音が弱まるまでの小一時間、ただ他愛のない話をして過ごした。


 雨が小降りになったところで、二人で昇降口を出た。
 濡れたアスファルトの匂いと、少しだけ夏の気配が混ざったような風が吹いている。
 俺が鞄から折り畳み傘を取り出すと、スズが目を瞬かせた。

「え、サク、傘持ってんじゃん。入れてあげようかと思ったのに」
「……持ってないとか誰も言ってねぇし」
「ははっ、確かに。じゃあ、俺を待ってたの?」

 スズも自分の傘を開いて並んで歩き出す。ニヤニヤと揶揄うような顔をするから、俺は無視して前を向いた。
 
「あ、そういえばさ、もうすぐ夏休みじゃん! サク、何すんの?」
「……別に。バイトもその頃には目標額貯まって辞めるし。せっかく高いジャケット買うんだから、山登ったりするかな。スズは?」
「俺、夏期講習強制。……でも、まだ二年だから半分くらいは休みだと思う。なぁ、夏休み俺らなんかしよ!」

 スズは傘の中から、キラキラした笑顔で俺を見た。
 そんなに親が厳しいのに、夏期講習の合間を縫って俺と山に登ろうとするとは。めちゃくちゃタフな奴だ。
 そんなことを考えていると、スズが俺の腕を掴んで足を止めた。

「七月になったら、バイト代も貯まる。あのジャケット買って、ついに山に行けるじゃん。……一泊二日くらいで、遠くの山とか行かない?」
「えっ!? い、一泊? いや、親がなんて言うか……」
「大丈夫! 俺が『完璧な優等生』の顔で、サクの家まで挨拶行って丸め込んでやるから!」
「えぇ……」

 あの、嘘くさい愛想笑いで俺の親を取り込むスズの姿が容易に想像できて、俺は苦笑いになった。
 それでも。
 
「……まぁ、親がいいって言えば」

 強引なスズの誘いに、俺は呆れながらも渋々頷いていた。