山に登った翌日の学校。
今は体育の時間だ。筋金入りの帰宅部で、クラスでも孤立している俺にとって、体育の時間はただの苦痛でしかない。
しかも、久しぶりの登山だったからか、少し筋肉痛を引きずっている。
体育館にシューズの擦れる高い音と歓声が響いている。
今日の種目はバスケットボール。
俺は自分のチームの順番待ちで、壁際に座ってぼんやりコートを眺めていた。
「ナイス、鈴村」
「サンキュ!」
コートの中心では、鈴村がシュートを決め、チームメイトたちとハイタッチを交わしていた。
汗に濡れた黒髪が揺れ、相変わらず「爽やかな王子」のような完璧な笑顔。
――あんな嘘くさい顔の、どこがいいんだか。
俺は心の中で毒づきながら、筋肉痛の太ももをさすった。
ドン、ターン!
その時、リングに弾かれたボールがコートを飛び出し、壁際に座る俺の足元へと転がってきた。
それを拾い上げようとした瞬間、「わりぃ、佐久間くん!」と鈴村が小走りで近づいてきた。
俺がボールを差し出すと、鈴村はそれを受け取りながら、周りには聞こえないような微かな声で呟いた。
「……筋肉痛、マジでヤバい。ふくらはぎ死んでる」
「……」
それは、さっきまでの爽やかな声とは全く違う、だるそうで低い『スズ』の声だった。
俺は表情を変えないまま、前を向いて小声で返す。
「……俺も。太もも上がんない」
鈴村はボールを受け取ると、一瞬だけ「だよね」と小さく笑い、すぐに「ありがとねー!」と嘘くさい大声を出してコートへ戻っていった。
(……そういえば、学校で非常階段以外で喋ったの、初めてだな)
ボールの感触が残る手を見つめながら、俺はそんなことを思う。
教室とか、人がいる場所では一切声をかけてこない。
それは正直、めちゃくちゃ助かっている。
いつも取り巻きに囲まれているあいつが、もし教室で俺に話しかけでもしたら――。
わざわざイヤホンして、存在を消していたい俺にとって終わりだ。
誰にもバレていない、ほんの数秒の会話。
鈴村と学校で言葉を交わすことに、俺は少しだけ、奇妙なむず痒さを感じていた。
その日の昼、非常階段でいつものようにパンの袋を開けた時、スタスタと足音が聞こえてきた。
すぐに鉄扉の向こうから、スズが顔を出す。
「もー……今日はあいつら巻くのに時間かかった」
「そんな無理して、毎日ここに来なくてもいいだろ」
「はあ!? 昼のここだけが俺の楽しみなんだから」
スズは俺の隣にドカッと腰を下ろし、弁当を広げながら「ってか、筋肉痛意外に引きずってるわ」とぼやいた。
俺はパンをかじりながら、前から少し気になっていたことを口にする。
「お前さ。教室とか、ここ以外では絶対に俺に声かけないよな」
「ん?」
「普段、偽物の顔してるからなんだろうけど。俺としては、正直めちゃくちゃ助かる」
「は? ……あー、まぁ、半分以上は自分のためだけど?」
「……」
「素の俺のままでいられるの、お前の前だけだもん。それができなくなっちゃうの、めちゃくちゃやだ」
箸を止めて、スズが本音をこぼす。
学校では見せない、少し幼くて我儘な顔。
「……そゆこと?」
「そゆこと。だから、教室では声かけない」
「……ま、俺もだけど」
俺がそっぽ向いて呟くと、スズは少しだけ驚いたように目を丸くして、「フッ」と嬉しそうに笑った。
「あ、そうだ! 今日さ、俺すごいもん持ってきてたんだった」
スズがカバンの中から海外製の派手なパッケージのプロテインバーを大量に取り出す。
「は? なにそれ」
「登山の時の行動食! 俺もほとんど食べたことないものだから『プロテインバーの格付けチェック』しようぜ」
「え、格付け?」
「うん、エントリーNo.1。この黄色いやつ。タイタン・フュエル?」
スズはパッケージを開け、中身を半分に折り、俺に渡してきた。
突然始まった『格付けチェック』に戸惑いながらも受け取った。
お互いの顔を見ながら、一口、頬張る。
「うわ、モッサモサする!」
「口の中の水分無くなったんだけど!」
パッケージに書いてあるキャッチコピーをボソッと呟く。
「『Fuel of the Gods』……神々の燃料? これが?」
「これは登山には向かねーな。じゃ、次、エントリーNo.2。この青いの」
「さすがに、これで終わりだ! 摂取しすぎだぞ」
また、プロテインバーを半分こにしてかじった。
「「まずっ!」」
お互い顔を見合わせて、ハモった。
それが面白くて「プッ」とスズが吹き出し、それを見ていた俺も口から笑いが漏れた。
スズが「羊羹の方がマシだな」と呟き、俺も「だな」と答えた。
それから、一日二本、が暗黙のルールになった。
「……サクが、笑ってるとこ初めて見たわ」
「……笑ってない」
……あ。
「……笑ってた、かもしれない」
「かもしれない、じゃねーよ。笑ってたって。……あ、ってかさ、前から聞きたかったけど、なんでそんな英語喋れんの? 俺に言ったのだって、スラングだったし」
「……別に、いろいろあるんだよ。詮索すんなよ」
「ふーん」
俺は気まずくなって、手元のプロテインバーのパッケージに視線を落とした。自分のことは語りたくない。
それよりも、ずっと気になっていたことを投げ返す。
「ていうか、お前こそ。あのスラングよくわかったな。いくら成績優秀の優等生でもわかんないだろ?」
あの日、俺が衝動的に吐き捨てた「That fake-ass smile.」という言葉。
スズは全部理解したような顔をして、俺に付き纏った。
「あー、あれ?」
スズは一瞬、気まずそうに目を逸らし、照れ隠しをするように鼻の頭をこすった。
「……あれは、あとで調べたんだよ! 言われた時、なんかわかんないのに、めちゃくちゃムカついたからさ。俺、耳はいいから」
「……調べたんだ」
「ネットで調べまくってさ。……おかげで、二度と忘れねーわ、あの言葉」
そう言って、スズはまたガキっぽく、少し嬉しそうに笑った。
「それにしても。『嘘くさい笑顔』ねぇ。サクは、逆に嘘つけないタイプだよな」
「……」
……こいつ、やっぱ思ってたよりずっと、めんどくさくて、変な奴。
それでも、言いたくない話を無理に聞いてこないのは……まぁ、悪くなかった。
*
そんな非常階段での時間は案外平和に続き、次の週。
一日二本までのプロテインバー格付けチェックもすっかり日課になった。
非常階段で、昼食後スズが俺の背中にもたれ、スマホをいじる。
「重いって。暑いし、離れろ」
「なぁ、サク。……兄貴が忙しくて、全然山に行けなくて辛いんだけど。サクなら山行けない辛さわかるでしょ? ……次、一緒に登ろうぜ」
背中越しで話すスズの声は、甘えるような声だった。
「……お前、この前ソロで来てたじゃん」
「あれは仕方なかったんだって。俺、ソロはさみしーからやだ」
「……次、予定合えばな」
俺が渋々承諾した瞬間。スズが勢いよく振り返り、目を輝かせ嬉しそうな顔で言った。
「じゃあ、今日! 駅前のアウトドアショップに行かね?」
「え……今日? まぁ、十八時くらいまでなら、なんとか。俺もあそこは気になってた」
「は? 十八時? なに、門限でもあんの? 小学生かよ」
「ちげーよ。家が遠いんだよ」
「ふーん。家遠いって、どこら辺? 何線?」
「……内緒」
俺がそっぽを向くと、スズが「えー、ケチ」と言いながらも、それ以上は踏み込んでこなかった。
(……本当は、家が遠いことだって人に言いたくなかった)
俺は心の中で、小さなため息をついた。
誰も俺のことを知らない場所。誰も俺の過去を知らない場所。
わざわざ二時間近くかけて、遠方のこの高校を選んだ意味がなくなってしまうから。
それでも。
「じゃあ放課後、駅前の店の前で集合な! 逃げんなよ!」
「……分かったよ」
念を押してくる笑顔のスズ。そんな顔をされたら、嫌だとは言えなかった。
それは、久しぶりに会話する同年代だからか。
それとも、趣味が同じ気の合う仲間だからなのか。
自分のことなのに、俺にはよく分からなかった。
*
放課後。制服のまま二人で駅前のアウトドアショップにやってきた。
「このザックめっちゃ軽くね?」
「あーそれ軽量特化のやつだ。でも腰ベルトの安定感がイマイチそう」
スズは目を輝かせながら、物色していく。
俺も、自然とテンションが上がった。
一番目立つ場所にディスプレイされた、最新の防水ジャケットの前。スズはジャケットの袖を握り、肌触りを確かめた。
「うわ。これ着てたら無敵じゃん。デザインもいいし」
「……確かに。性能も文句ねーし。……欲しいな」
そっと値札をめくった瞬間に、二人でぴたりと動きが止まった。
「……おい、スズ! これ、見ろよ!」
「え……ごま……五万七千円……!?」
「買える値段じゃないわ」
思わず二人で天を仰ぐ。俺はため息をつきながら、ジャケットから手を離した。
「はぁ〜……俺、バイトでもしようかな。これから梅雨入るし、ちゃんとした雨具がないと山登れねぇし」
「えっ!? サク、お前バイトなんてできんの? 接客とか絶対無理じゃん。そんな無愛想でさ」
スズに呆れたような顔で言われて、俺はそれにむっとして、ぼそっと言い返した。
「うるせー。裏方の品出しとか、人と喋らねー仕事とかあるだろ」
「はは、確かに。……え、じゃあさ、俺もやってみようかな」
スズが目を輝かせて、ぐっと身を乗り出してきた。
「は? 優等生がバイトなんて似合わねーな。だいたいお前、金に困ってなさそうじゃん」
「金っていうか……俺も新しいギア欲しいし。それにどうせならさ」
スズはニマッと、今日一番の『素』の笑顔を見せた。
「サク、バイト一緒にやらない?」



