俺たちの尊い日々


 郊外にある駅前の広場。集合場所に行くと、「週末ハイカーズ」と書いたクリップボードを持つスタッフの姿があった。
 俺は近づいてスマホの予約画面を見せると、スタッフはニコニコと人の良さそうな笑顔を向けた。

「『週末ハイカーズ』の参加者ですか?」
「はい」
「名簿確認しますので、あの列に並んでお待ちください」
 
 俺は、ソロ登山が趣味だ。
 ネットで募集している山登りのサークルに、こうして時折参加している。
 初めは母親に「危ない」と反対されたが、山から帰ると俺の機嫌がいいので、最近は何も言われなくなった。未成年だから標高の高い登山には参加できないけれど。
 
 山に登っている間は、日頃のイライラもストレスも発散できる。
 ここではイヤホンなんて必要ない。人の鬱陶しい声じゃなく、風や葉が揺れる自然の音を聞いていられるからだ。

「あっれ? 佐久間じゃん」
 
 受付の列に並んでいると、不意に後ろから声がした。
 聞き覚えのある声。
 恐る恐る振り返れば――そこに、本格的だが少し着崩した登山スタイルの鈴村春日(はるか)が立っていた。

(……なんで、ここにいんの? なんで――)

 学校での制服姿とは違い、邪魔な黒髪はヘアバンドで上げられている。そのせいで、右目の下のホクロがいつもよりはっきりと見えた。
 
「へぇ〜、佐久間も山とか登るんだ」

 いつもの嘘の笑顔は一切ない。
 鈴村は無防備で、少し面倒くさそうな『素』の顔で俺を見下ろしていた。

「嘘だろ……お前、どうしてここに」
「俺? 息抜き。家にいると息が詰まるんだよ」

 まさかの偶然に俺が絶句していると、前の列が進み、受付スタッフが声をかけてきた。

「次の方、お名前をお願いします」

 俺が『佐久間です』と答えようとした瞬間。鈴村がスッと横から身を乗り出し、俺の肩を抱き寄せるようにして言った。

「あ、俺たち二人組です。俺が『スズ』で、こっちが『サク』で登録お願いします」
「はぁっ!?」
「はい、スズ君とサク君ですねー。よろしくお願いします」

 スタッフは疑う様子もなく、名簿にカタカナでチェックを入れた。

「……っ、お前! なに勝手なこと言ってんだよ」
 
 列を離れた後、俺は小声で鈴村を睨みつけた。

「えー? だって、こういう大人が多いところでフルネーム呼ばれるの、なんか嫌じゃん。学校の奴らにバレるかもしれないしさ。どっちも『ハル』だからサクとスズな」

「は? だとしても、なんでお前とセットなんだよ。お前もソロで登りに来たんだろ」
 
「いいじゃん、どうせ今日一日だけだし。あ、俺ソロは今日初めてだったからちょうどよかった。……よろしくね、『サク』?」

 鈴村が、意地悪く目を細めて笑う。
 大自然に癒されるはずだったのに。
 こいつからのストレスを発散するはずだったのに。
 俺の休日は、山に登る前に最悪なものへと変わっていた。

 *

 一行は木漏れ日が差し込む登山道へと入った。
 土と落ち葉の匂い、鳥のさえずり。
 大きく息を吸い込み、山の空気を味わおうとした時、すぐ後ろから気怠げな足音と声がついてきた。

「ねぇ、サク。お前、ここ登ったことあんの?」

 せっかくの癒しの時間を邪魔され、深呼吸がため息に変わる。
 それからもこいつは「サクって意外に体力あるよねー」だのなんだのと軽口を叩いてきて、とにかくずっとうるさい。
 限界に達した俺は、苛立って振り返った。

「お前な、鈴村――」
「んっ!」

 文句を言おうと名前を呼んだ瞬間。鈴村が慌てて身を乗り出し、俺の口を大きな手でバシッと塞いだ。
 突然のことに驚き、抵抗できないでいると。

「『スズ』だろーが! 今は! 前歩いてるおっちゃんたちに聞こえんだろ、バカか!」

 少し怒ったような、焦ったような声。しかも、学校では絶対に見せないようなガキっぽい素の口調だ。

(なにそれ、……お前そんな風に喋んのかよ)

 完璧な優等生でも、気怠い裏の顔でもないその顔に、不意を突かれた俺は、すっかり毒気が抜けてしまった。

 
 スタートしてからしばらく登った頃。
 中腹の開けた場所で一行は休憩することになった。俺たちは丸太のベンチに並んで腰をかけ、俺はスポーツドリンクを一口飲んだ。
 隣を見ると、鈴村――スズは適当にチョコを口へ放り込んでいた。

「お前……スズ、さっきソロ初めてって言ってたけど、なんで山登り始めたんだよ」
「んー? いつもは兄貴と登ってんだよ。あいつに山登り教えてもらったから」
 
「……兄貴いんの? お前、どう見ても長男ヅラじゃん」
「ははっ、どんなツラだよ。……うちの兄貴もさ、俺と同類で色々面倒な立ち位置でさ。息抜きのために山に連れ出してくれるんだよね。今日は大学の用事が入って来られなかったから、急遽ソロになった」

 俺と同類……。
 こいつと同じように別の顔をして生きている、ということなのかもしれない。
 
「……兄弟、仲良いんだな」
「あー、まあな。お前は兄弟いねーの?」
「俺は……一人っ子だから、『兄貴』とかちょっとうらやましい」
「プッ、お前、見るからに一人っ子ヅラだもんな。わかりやす」
「……」

 スズは非常階段の時と同じ距離感で笑う。
 ――そういえば、あの『作られた顔』を、今日は一度も見ていない。

 *

 俺たちは、無事に山頂へとたどり着いた。
 標高はそこまで高くないが、目の前には絶景が広がっている。

「すげーいい景色だ! 記念に写真撮っとこ。ほら、サクも入って」

 その言葉が終わるより早く、スズがスマホを取り出したかと思えば、俺の首に彼の長い腕が回された。

「え、は? ちょ、待てって――」

 グイッと引き寄せられ、肩と肩がぶつかる。抵抗する間もなく、シャッター音が鳴った。

「よし、バッチリ」

 画面を覗き込むスズは、ただの高校生らしい無邪気な顔で笑っている。
 スズは俺から腕を離すと、目の前に広がる景色を見下ろしながらポツリと呟いた。
 
「ここの景色もいいけどさ。俺、この前の秋に兄貴と行った『霞山(かすみやま)』は結構好きだな」
「……は? お前、あそこ行ったの? あのルート、結構キツかっただろ」
「そうそう! 最後の岩場とかマジで地獄でさ。足場悪いし」
「あそこな! でもあの岩場を登りきった後の景色が最高なんだよな……!」

 スズの語る山の話は、知識をひけらかすようなものじゃなかった。
 本当にその場所が好きで、岩の手触りや、頂上で飲む水の味を知っている奴の言葉だ。
 ――こいつ、本気で山が好きなんだ。
 
 お互いに「山が好き」という共通の趣味があったことに驚いた。
 気づけば、俺はいつもの突き放すような態度を忘れ、身を乗り出すようにして語ってしまっていた。
 
 スタッフの「そろそろ下山しますよ〜!」という掛け声が聞こえるまで。
 俺たちは時間を忘れて、ただの山好きの高校生として話し込んでいた。

 *

 下山しながらも、俺たちはどこの山が推しだとか、おすすめの山登りグッズがどうだとか、そんな他愛のない話をしながら歩いていた。
 
 ふと、俺はあることに気がついた。

(あれ……? こいつとずっと喋ってるのに、全然疲れないな)

 俺にとって、いつでも他人の声はすべて「鬱陶しいもの」のはずなのに。
 イヤホンをしていない耳に届くスズの声は、木々を揺らす風の音と同じように、スッと入ってきていることに気づいた。

(いや、……さすがにそこまで心地いいわけではないけどな)

 俺は心の中で訂正し、前を歩くスズの背中を見つめながら、小さく息を吐いた。


 無事に下山し、駅前で「週末ハイカーズ」は解散した。
 時間はまだ十五時過ぎ。体には、ちょうどいい疲労感がある。
 改札の前で、俺はスズの方へ振り返った。

「じゃあな」
「なぁ、サク」
「……なに」

 スズは素の爽やかな笑顔を浮かべていた。

「今日のこと。っていうか、俺らが山登りしてること、内緒にしよ」
「……そうだな。俺も内緒にしておきたい」
「オッケー。俺ら二人の秘密な」

 スズが念を押すように笑う。
 
「わかったよ」

 短く答えて、俺は改札を通った。
 大自然に癒されるはずが、一番会いたくないやつと一日中一緒にいるハメになった。
 ――それでも、足取りは思ったほど重くなかった。