四月。校門に並ぶ桜はもう半分以上散っていて、足元に薄く薄桃色が積もっている。
春らしい日差しが射しているくせに、朝の風はまだちょっと冷たかった。
三年生になり、クラス替えがあった。
新しい教室はやたらと騒がしくて、あちこちで「同じクラスじゃん」というような声が飛んでいる。
俺は自分の席を確認した後、なんとなく落ち着かないまま、黒板に張り出された名簿の文字を目で追った。
そこに『鈴村春日』の名前はなかった。
それから、あっという間に数週間が過ぎた。
クラスが離れても、俺たちの関係が変わることはない。俺は倉庫バイト、スズは予備校と相変わらずすれ違いばかりだが、非常階段での昼休みは続いていた。
「……全然、山、登れてねーな」
「マジでな。……サク、新しいクラスで上手くやってんの?」
「別に。誰も俺に構わないし、何も変わらない。スズは?」
「俺も、いつも通り変わらず上手くやってる。……山にはなかなか行けないけど、どっかで絶対、一日時間取るから。……行こうな」
「……おう。お前の予定に合わせるから」
以前より会える時間が減った。だからこそ、離れていても俺たちは変わらないと信じたくて。
お互いが守れるかどうかもわからない『約束』を、俺たちは毎日のように繰り返し確かめ合った。
けれど、季節が夏に近づく頃。
スズの予備校は本格的にフル稼働するようになり、俺もまだ倉庫バイトは辞めてはいないものの、一応、受験勉強というものをするようになった。
自然と、毎日だった非常階段での時間が減っていき、ただメッセージのやり取りだけになる日も増えた。
今日も俺は一人で非常階段に座り、昼飯のパンをかじっている。
両耳にイヤホンをつけ、流しているのは雨の音。
(高校を卒業したら……俺たち、どうなるんだろ……)
そんな言葉を、心の中で何度呟いただろうか。
答えが出ないのはもちろんだが……俺自身が答えを出したくない、と逃げているのも分かっていた。
*
そのまま、夏休みに入った。
ある日の夕食。向かいの席で食べていた母さんが、静かな声で話し出した。
「晴、……勉強はどうなの? まだ受ける大学も決めていないんでしょう?」
「……まぁ」
「お母さんは、晴が高校を卒業したらアメリカに戻るつもりだから。だから晴も、お父さんが言うようにアメリカの大学を受けなさい」
「……」
俺は視線を落とし、持っている箸の先をじっと見つめた。
去年の夏の夜、コテージの星空の下で、スズが俺に言った言葉が脳裏に蘇る。
『俺が近くにいてやるから、こっちにいろよ』
胸の奥がきゅうっと痛んで、俺は箸を置いた。
「まだ、……決められない」
「……分かった。でも夏休みが明けたら、あっちの大学に提出する書類は揃えておきなさい。締め切りに間に合わないわよ」
ただバイトをして、勉強をして。一度もスズと会わないまま、気がつけば夏休みが明けてしまった。
二学期が始まっても、スズは相変わらず忙しそうだ。
今日もまた、非常階段で一人寂しくパンを――。
ガチャ、と扉が開く音がした。
顔を上げると、弁当箱を片手に持ったスズが入ってきた。
スズは俺の顔を見るなり、階段を駆け上がり、俺の隣で腰を下ろす。そして弁当箱を横に置くと、そのまま体を向き直り、俺の背中に腕を回して抱き寄せてきた。
「うわっ……ちょ」
ぎゅうっと強い力を込められる。
「サク〜。ほんと久しぶりだよぉ……。俺、ほんとにほんとに死ぬと思った」
「痛いって……。でも、ほんとに、久しぶりだな」
俺が短く息を吐くと、スズは俺の肩に顔を埋め、恨めしそうにこもった声を出した。
「そうだよ! 夏休み、一日も予定合わないとかある!?」
「お互い、見事にすれ違ったからな」
「おい、それより……沖縄の時の『覚えとけよ』の件、まだ残ってるんだけど? まさか忘れてねーだろうな」
「っ! わ、わかってるよ」
もう半年も前の修学旅行の脅し文句。強制的に思い出され、俺の顔は一気に熱を帯びた。
スズが少しだけ顔を上げ、至近距離で俺の唇を見つめながら、低い声で囁いた。
「今、……いい?」
「はぁ? ここ学校! だめに決まってる!」
「じゃあ、いつならいいわけ? お前さ、俺にどんだけオアズケさせるわけ? お前は俺と……こう、恋人みたいなことしたいとか、ないわけ?」
呆れたような、同時に拗ねたようなスズの顔。直球でぶつけられたその言葉に、俺の顔は熱くなる。
「……え、まぁ。したいとか、そういうのは……あるけど」
「けど?」
「……悪い。その前に俺、お前に相談したいことがあるんだよ……」
俺が表情を引き締めて言うと、スズは腕を少し緩め、真剣な目つきに変わった。
「なに。……今じゃだめ?」
「時間足りない。……落ち着いて話したい」
スズが少し考えてから自分のスマホを取り出し、スケジュールを確認し始めた。
「今日の放課後なら、予備校の授業遅めだから、ちょっとだけ時間作れる……どう?」
「……じゃあ、放課後。屋上で」
*
放課後、屋上の扉を開けると、温い風が優しく頬を撫でた。
スズは先に来ていて、フェンスに寄りかかり、遠くの街並みを無言で見つめている。
「お待たせ」
俺が近づいて声をかけると、スズはゆっくり振り返り、何も言わずじっと俺の目を見つめてきた。
いつもなら「おっそ!」と冗談めかして笑うはずのその口は、きゅっと結ばれている。
「……スズ、相談って言ってたの、進路のこと。メッセージで時々、話してたけど――」
「受ける大学、決まったってこと?」
「……いや、まだ。……夏休みに入った時さ。母さんが、俺が卒業したら自分はアメリカに戻るって言ったんだ。それで、父さんが言うように俺も向こうの大学受けろって、言われて」
その言葉を聞いた瞬間、スズは大きく目を見開いて、そこにある瞳が揺れた。
「……で、お前はどうしたいの」
スズの口から、震えた声が絞り出される。
そして、俺の目の前まで近づくと、両手で俺の肩を強く掴んできた。
「……あっちの大学に行くつもりって、こと?」
「まだ、わかんねーよ……。でも」
いつもは気怠げなその目が、今は静かに俺を詰めるような視線だ。
けれど、力は乱暴なくらいなのに、スズは今にも崩れそうな顔で眉を下げていた。
「でも……?」
「……ずっと、ちゃんと、考えた。スズは俺と一緒にって言ってくれるけど。でも、それだけで大学のこと、決めたくない」
俺は静かに気持ちを伝えた。
スズは力が抜けたように、そのまま俺の肩に額を押し付けて言った。
「俺……わがままばっかで、ごめんな」
鼻にかかった、掠れた声。
俺は、何も言わなかった。
スズの顔が埋もれた俺の肩口。制服のシャツにじんわり温かさが滲んだ。
それが、スズの涙だとわかった瞬間、俺は息ができなくなった。
「スズ……」
「サクっ、いつもみたいに――『仕方ないな』って言って、俺のわがまま、聞いてくれよ。頼むから……」
喉の奥で何かが震えているような声だった。
「スズ。一緒にいたいからって理由だけで決めたらさ。……たぶん、あとで自分に納得できない」
スズの肩をそっと押して、ちゃんと目を合わせる。目を赤くして、涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「俺は、お前と一緒にいるために、ちゃんと選びたい」
スズは、その目からまた涙を溢れさせる。
泣くなよ、スズ――。
「大変だけど、大学は日本もアメリカも、両方受ける。……どっちに決まっても、後悔しない選び方をするから」
スズが腕で涙を拭い、鼻を啜った。
「じゃあさ。一回だけキス……。俺のために」
俺は何も言わずに、少し俯いた。
スズが一歩近づいて俺の顔を上げさせ、下唇を親指でそっと撫でる。俺の返事も待たずに、唇が重ねてきた。
涙のしょっぱい味がした。
唇が離れると、ようやくスズが少し微笑んだ。
「俺、いい思い出なさすぎて屋上嫌いになりそうだったけど……今のキスでチャラだな」
そう言いながら、俺の手を引いて扉へ向かう。
見上げた空は夕暮れで、ここで喧嘩をしたあの日と同じ、橙色の夕暮れだった。
*
――三月。
校門を出ると、思ったより暖かい春の風が吹いた。
スズと二人で並んで歩く。こうして一緒に帰るのは何ヶ月ぶりだろうか。
スズが、少し眩しそうに目を細めて笑いながら言う。
「なんか、長かったな〜」
「……そうだな」
この時間も、この制服も。全部、今日で終わる。
「あ、サク! 卒業、おめでとう」
スズは、俺が一番好きな、裏のない心からの笑顔で、言ってきた。
「Congrats. Right back at you.(おめでとう。お前もな)」
スズは子供みたいに笑って、嬉しそうに肩を組んできた。
もう周りを気にせず話もできることが、楽しくて仕方ないのが伝わってくる。……もちろん俺もだ。
「スズ、今日の約束……覚えてるだろうな?」
「当たり前!」
*
「サク、これ透けない?」
「透けないだろ。あ、でも遮光にして」
「んじゃ、これだな。一級遮光」
ホームセンターで、遮光カーテンをカートに入れる。カートの中は、すでに生活用品でいっぱいになりつつある。
大きい家具は、昨日配送の手配を済ませた。
結果として、俺はスズの大学からさほど遠くない、日本の大学に入学することになった。
スズのおねだりに根負けしたわけではない。両親とも話し合い、日本もアメリカも受験をして、そして苦しいほどに悩んで。
俺は自分の意思で、日本の大学へ進学することを決めた。両親は少し残念がっていたけれど、最後は笑顔で認めてくれた。
そして、俺たちはルームシェアをすることにした。
母さんは「あの鈴村くんと一緒なら安心!」と二つ返事だった。スズの厳しい親のところへは、俺が挨拶に行きなんとか許可を勝ち取った。
「サク、ついでにあそこのアウトドアショップ寄らない?」
「は? ダメ。今月は家具でお金使ったから」
「見るだけに決まってるって」
「……いや、お前は無理だろ、絶対買いたくなって駄々こねる」
「俺をなんだと思ってんの」
「Baby!(甘ったれた赤ちゃん!)」
「おいサク! そこはダーリンとかだろ!」
最近は、こいつ本当に優等生やれてたのかと疑いたくなるほど、くだらない会話ばかりしている。
でも、そのくだらなさが全部、たまらなく愛おしくて尊い。
――これからが、俺たちの尊い日々の始まりだ。
【俺たちの尊い日々】――fin,



