帰国した翌日から冬休みが明け、三学期が始まった。空気が冷たく、制服の中まで冷え切っている。
教室の雰囲気は普段と変わらない。けれど、来月にある修学旅行の話になると、どこか教室の空気が軽くなる気がした。
昼休み。どうするか迷ったけれど、俺は非常階段へ行くことにした。
鉄の扉を開けるとそこには誰もいなくて、半分ホッとした気持ちになりながら、いつもの定位置に腰を下ろす。
でも、半分は……来てほしかった――。
そう思った瞬間、音を立てて扉が開いた。
スズが俺と目を合わさないまま階段を登り、無言で俺の隣に座る。
弁当を開け、食べ終わるまで一言も話さなかった。重く気まずい雰囲気に、何度か口を開きかけては、結局何も言えずに閉じた。スズから何かを言い始めるのを、待つしかなかった。
食べ終わり、スズが弁当箱を閉じると、ようやく静かに口を開いた。
「……サク、この前はごめん」
「あ、いや。俺も……悪かった」
「思うことはまだあるけど、今はまぁ、いいや。修学旅行もあるし」
「……」
(思うこと、あるんじゃん。……でも、これ以上また拗れるも、俺も面倒くせぇ)
「まぁ、それはとりあえず置いといて、修学旅行楽しもうぜ。せっかくの沖縄だしな」
「……修学旅行なんて、めんどくさいだけだろ」
「おい。俺、お前のために班長立候補したんだけど?」
「は?」
「班行動とか部屋は分かれちゃったけど、夕食とか帰りの飛行機とか一緒になったんだからいいだろ?」
「……まぁ、それは助かるけど」
*
それからの一ヶ月、休日は俺がバイト、スズは予備校と、外で会うことはなくなったが、学校では以前と変わらない毎日を過ごしていた。
そしてあっという間に、修学旅行の当日がやってきた。
空は晴天だが、空気は冷たい。早朝の空港のロビーに、俺の高校の生徒たちが列を作り並ばされていた。
並んでいる間、時折スズを盗み見るが、あいつは『胡散臭い笑顔』で班長として仕切っていた。
(行きの飛行機、俺の隣、誰だっけ)
スズ以外のクラスメイトをほとんど認識していない俺は、まるで迷子のようだった。
結局、バスも夜の部屋もスズとは離れてしまったし。
(まぁ、仕方ないか。元々一人だったんだし適当に過ごそう)
沖縄へ到着し、途中の観光地に寄っている間も、スズはずっとあの『完璧な笑顔』を顔に貼り付けていた。
(あいつ、また疲れてんだろうな)
*
「「かんぱ〜い!!」」
俺以外の四つのグラスが軽くぶつかって、賑やかな笑い声が弾ける。
「うっわ、うまそう。これ沖縄の料理?」
「え、待ってこれ何?」
ホテルの大広間。夕食のテーブルは、俺とスズを入れて五人班だ。
テーブルに並ぶ見慣れない料理に、箸を伸ばすたびに笑い声が響く。スズは会話の中心に入り、例の笑顔で場を盛り上げている。
対して俺は、一言も喋らずに黙々と箸を動かしていた。
夕食も終盤に差し掛かった頃、ジャージのポケットの中でスマホが震えた。
テーブルの下でこっそり確認すると、スズからのメッセージだった。
『今日、夜の点呼終わったら、フロアの端のトイレに集合』
チラッと隣のスズを見る。スズは何でもないように、班の連中と楽しそうに笑い合っていた。
その夜、点呼と消灯が終わった後。
部屋にトイレは付いているのに、俺はわざわざ『トイレへ行くフリ』をして部屋を抜け出し、薄暗い廊下の端の共用男子トイレまで足音を立てずに歩く。
見回りの教師や他の生徒には誰にも会わず、ホッとして入り口付近に立った。その瞬間、奥から伸びてきた手に強く手首を引かれた。
「――うわっ!?」
「おい。静かにしろ」
振り向くと、そこにはTシャツとスウェット姿の、無表情のスズが立っていた。
「っ、びっくりしたぁ。……で? どうすんの」
「なぁ、俺たちここに二泊もするだろ?」
「……?」
「だから、見つけておいた。沖縄の『非常階段』」
「……」
スズはニヤッと素の顔で笑い、「こっち」と俺の手首を引いた。
非常口のサインが光る重い扉を開けると、ひんやりとした静かな階段が現れた。俺たちはコンクリートの段差に、隣同士に座る。
「……優等生がこんなとこに、夜中抜け出してるの見つかったら、大騒ぎになるぞ」
「はぁぁ……。マジで疲れたんだよ。俺、この時間がないともたねーよ。キツい」
スズは大きく息を吐き出すと、いつもみたいに、俺の肩に重い背中をもたれさせた。
俺の前だけ見せる我儘なスズに戻っているのを見ると、言葉が出なかった。
今日一日、俺以外の奴らの前で、優等生を演じていたのを知っているから。
俺は何も言わず肩の重みを受け入れたまま、隣にいた。
ただそれだけ。
「……明日もここに来ようぜ。サク、俺の休憩に付き合え」
少しだけ甘えたような声に、俺はフッと笑って、静かに答えた。
「……分かったよ」
この誰も来ない静かな非常階段が、三日間だけの俺たちの『仮の聖域』になった。
*
翌日。今日は一日、班行動で沖縄の観光地を回る日だった。
「ちゃんと楽しんでんの〜? 佐久間」
「……」
後ろから急に肩を組んできたのは、青田だった。俺は舌打ちをして睨みつけるが、青田はこの態度に本当に慣れてしまったらしい。
「ははっ」と笑いを漏らし、「相変わらずブレねーな」とだけぼやいて肩から腕を離した。
青田は同じ班だった。この裏表もない爽やかイケメンは、朝からずっと喋っている。
(こいつ、なんでこんなに喋ることあるんだ?)
いくつか観光地を回り終えて、俺たちは国際通りに出た。
通りの両側に土産物屋が並んでいて、どこを見ても同じようでいて、少しずつ違う賑やかな空気が漂っている。
「おい、これ絶対買うだろ」
「……いらねーだろ、それは」
青田が「沖縄限定」とデカい文字で書かれた派手なTシャツを広げたから、俺は堪らず止めておいた。
気づけば他の班の奴らはそれぞれ店に吸い込まれていき、俺は青田と二人で通りをブラブラすることになった。
俺には土産を買う相手もいないし、母さんには、昨日ホテルの売店でちんすこうを適当に買っておいた。
店の棚に並んだキーホルダーや派手な土産を一通り見た後、少し離れた静かな売り場に目をやると、木製の箸が並んでいるのが目に入った。
細工はシンプルで、色味も地味だ。いかにも『修学旅行の土産』という浮かれた感じがしない。
(……あいつんち、浮かれたような土産物とか買ってったら、親に叱られそうだよな)
俺は目に入った黒い箸を一つ手に取ると、後ろから青田が手元を覗き込んできた。
「お、それ買うの?」
「……地味すぎるかな」
自分でも無意識に、そんなことを口にしてしまったことに気づき、一気に耳が熱くなる。
「……なんでもない」
俺が咄嗟に誤魔化そうとすると、青田は一瞬動きを止め俺をじっと見た。それから「へぇ」と含みのある声を出した。
「もしかして、鈴村?」
「……」
「高校生にしてはちょっと地味だけどさ。でも鈴村には合いそうかも? この色とか」
青田がニヤつきながら指差したのは、深緑の箸だった。
俺はその箸をしばらく見つめてから、掴んでレジへと向かった。
その夜。消灯後に抜け出した非常階段で、俺たちは並んで座っていた。
スズが今日行った美ら海水族館の話をしたり、俺が青田たちと回った時の話をした。ほとんどただの行動報告のようになったが、そんなことでも心地よかった。
しばらくすると、スズが何かを思い出したかのように話し出す。
「あ、そうだ。ここ屋上に展望テラスがあるらしい。ちょっと行ってみない?」
「え? こんな時間から……まずいんじゃないか?」
「えー行きたい。せっかくだし一回行ってみよ!」
急に何を言い出すんだと呆れた顔を向けたが、スズはまた子供のような我儘を言い始めた。案の定、俺は渋々それに付き合うことになった。
階段で最上階まで行き、扉を開け屋上に出ると、夜のゆっくりとした風が吹き抜けた。
そこには俺たち以外は誰もいなかったけれど、夜間でも来る人がいるのか、低い照明がぽつぽつと足元を照らしている。
整えられた植え込みの木々の隙間から、澄んだ夜空が覗いている。
そのまま奥に進み、手すりに寄りかかって、俺とスズは同じタイミングで空を見上げた。
星が、驚くほど近くにあった。
「おー。満天って感じではないけど、綺麗に見えるな」
「星の数はそんな多くないけど、空気が澄んでてめっちゃくっきり見える」
「サク、夏のコテージ思い出しただろ、今」
「……まぁ」
自然に星が見える位置にあるベンチに、二人で腰を下ろした。
俺はジャージのポケットから小さな袋を取り出し、スズの膝の上に乗せた。
「なにこれ」
「……土産。……渋いやつ」
「土産?」
俺が星空を見上げたまま答えると、スズは袋を開けて中身を取り出した。
「えー、なに。箸? ……確かにめっちゃ渋いわ」
スズは笑いながら、袋からもう一膳の箸を取り出し、こちらに顔を上げた。
俺は、ベンチの上で膝を立て、そこに頬を預けるようにしてスズを見やる。
「二本あるけど」
「……ペア」
俺がぽつりと呟くと、スズは一瞬目を丸くして――次の瞬間に堪えきれないように破顔した。
「おいっ! お前、それ……デレが渋すぎだろ」
嬉しそうに声を出すスズの顔は、暗がりでも少し赤くなっているのがわかった。
スズは突然立ち上がり、俺の手首を引っ張って立たせた。
向き合う形になると、両手を広げて「ほら」と短く言った。
「……ん?」
「ハグしてやるから」
「え」
いきなりのことに戸惑っていると、スズが一歩距離を詰め、長い腕で俺をすっぽりと包み込んだ。
至近距離で、うるさくなった俺の心臓が聞こえてしまいそうだと思ったが――同じ背丈で密着している胸の奥から、スズの心臓の音も同じくらい響いているのが伝わった。
自分の顔がみるみる赤くなっていくのが分かった。けれど、それ以上に、スズの鼓動と体温が心地よくて。俺は自然と目を閉じ、その背中にそっと腕を回した。
「サク」
耳元で名前を呼ばれ、俺はゆっくり目を開けた。
スズは腕の力を解き、少しだけ密着していた体を離した。
そのまま、スズの整った顔がゆっくり近付いてきて、視線が俺の唇に落ちる。
触れる、と思った瞬間――。
俺は咄嗟に両手を出して、手のひらでスズの口を押し返した。
「W-wait—are you gonna kiss me? I’m not ready—!(ま、待って、キスする気!? 心の準備してねーよ!)」
スズは俺の手のひらに唇を押し付けられたまま一瞬固まり、それから手のひら越しにくぐもった笑い声を漏らした。
「英語ずりぃわー! でも今のは聞き取れた」
スズが身体を引いた瞬間、俺はその場にしゃがみ込み、両手で熱くなっている顔を隠した。
すると、スズもすぐに俺の隣にしゃがみ込んで、耳元に顔を寄せて――思わず息を呑むほど低い声で囁いてきた。
「お前、帰ったら覚えとけよ」
(――っ!)
背中に走った感覚に肩が小さく跳ねると、スズはサッと立ち上がった。
「ほら、部屋帰るぞー。見つからないうちに」
いつもの軽い調子に戻り、スズが先に歩き出す。
俺は赤くなった顔のまま、少しだけ距離を空けてその後ろ姿を追いかけた。
*
翌朝、チェックアウトを済ませた俺たちは、帰りの便を待つため、空港のロビーで列を作り並ばされていた。
遠目に見えるスズは、列の先頭でいつもの優等生の顔をして、点呼をとっている。
「はい、二列に並んでねー! チケットちゃんと手に持ってね!」
(……昨日のあいつと、同一人物とは思えない)
爽やかな笑顔を振りまくスズを遠巻きに眺めていると、後ろから声をかけられた。
「佐久間くん」
振り返ると、そこに見覚えのある他クラスの女子が立っていた。
――思い出した、倉庫でパートをしている櫻井さんの娘だ。
俺が無言で目を合わせると、彼女はふわりと眉を下げて笑った。
「こんな時にごめんね。なかなか話しかける機会がなくて」
「……櫻井、……さん」
櫻井さんは少し驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに微笑んだ。
そのまま見ていると、気のせいか、彼女の頬がほんの少し赤く染まったように見えた。
彼女は周りの目を気にするように手で口元を隠し、俺の耳元で小声で囁いてくる。
「あのお母さんがね、三年生になったらアルバイトどうするのか聞いてほしいって。人手が足りないみたいで」
「……まだ、わからない、から」
俺が素直に答えると、櫻井さんはニコリと笑う。
「そうだよね。急にごめんね。伝えとくね――」
「――どうしたの? 櫻井さん」
突然、俺のすぐ後ろから声が落ちてきた。
驚いて肩を揺らし顔だけ振り向くと、そこにはいつの間にか点呼を終えたスズが立っていた。
「あ、鈴村くん。ごめんね、佐久間くんにちょっと伝言があって」
櫻井さんが柔らかく答える。
スズが背後から俺の肩に顎を乗せてきた。
(――えっ!?)
生徒達が大勢いるこの場所で、スズの顔が至近距離にある。
あまりの堂々とした接触に、俺は前を向いたまま目を見開き、石のように全身が固まった。
「へぇ……。二人で、ナイショの話?」
耳元の落とされたその声は、背筋が冷えるほど低くて冷たかった。
俺は思わず息を止める。
ゆっくりと顔を動かし、すぐ横にあるスズの顔を見ると、口元には笑みを浮かべていた。けれど、俺にはすぐに分かった。
――こいつの目、全く笑ってない。
「え、ううん。違うよ。お母さんから、バイトの伝言頼まれてただけで……」
櫻井さんは一瞬、目を瞬かせた。そして、苦笑いのような困った顔になり、俺たちにしか聞こえないような小声で慌てて言った。
櫻井さんの言葉を聞いた瞬間、スズはすぐに俺の肩から離れ、背筋を伸ばしていつもの人の良さそうな笑顔になった。
「なんだ、そっか。でも、もう点呼終わるから、櫻井さんも列に戻ろう?」
「そだね。ごめんね、じゃあまた!」
櫻井さんは小さく手を振って、小走りで自分の列へと戻っていった。
その後ろ姿を見送った直後。スズは俺にだけ聞こえるように「チッ」と低く舌打ちをして、笑顔で先頭へと戻っていった。
*
「……スズ、お前さ。階段以外で声かけてくんなって」
飛行機が離陸し、機内が少し落ち着いた頃。俺は隣の席に座るスズに、周囲に聞こえないように身を寄せて耳打ちした。
スズはむくれたような顔で、同じように小声で言い返してくる。
「……お前のせいだろ。で? バイトの伝言って?」
「人手足りないから、三年になっても来てくれないか、って」
俺が答えると、スズはリクライニングを倒し、不満そうに顔だけをこちらに向けた。
「三年か……。はぁ〜、ていうか。サクのせいで寝たかったのに眠れなくなった」
「おい。なんで俺のせいなんだよ」
「……お前のせいだろ。昨日だってさ――」
(……こいつ、嫉妬してんの?)
ぶつぶつ文句を言いながら、スズは拗ねたように窓の外へ顔を向けてしまった。
俺はため息を飲み込む。
そして、二人の間の肘掛けに置かれたスズの手の甲を、人差し指でトントンと軽く叩いた。スズがピクリと反応した隙に、指をそのまま滑らせ――スズの小指を、そっと自分の小指で絡めるようにして掴んだ。
スズがきゅっと指で握り返す。俺は前を向いたまま、その小指を離さなかった。
スズが窓の方へ顔を向けたまま、小さく呟いた。
「……そういうこと。俺が欲しいの」
少し掠れた、甘く満足げな声。
スズは小指を握ったまま、目を閉じて静かな寝息を立て始めた。
(……『帰ったら覚えとけよ』って言ってたな)
俺は隣で眠っているスズの横顔をしばらく見つめ、それから窓の外の雲をぼんやりと眺めた。
……帰ったら、何が待っているんだろう。
(……頼むから、このまま眠っててくれ)
俺は誰にも聞こえない悲鳴を飲み込んだ。



