俺たちの尊い日々


 あの山に登った、次の週。
 学校では、秋の締めくくりとなる体育祭が行われていた。

 基本的に一人でいる俺は、誰かと応援し合うようなこともない。ただ、やらなければいけない割り当てられた競技を、言われるがままに淡々とこなしていく。
 さっきは二百メートル走を走らされ、冬も間近だというのに、じんわりと汗をかいた。
 
 歓声が響く騒がしいグラウンドから離れ、首にかけたタオルで汗を拭きながら、俺は人気のない渡り廊下へと向かう。
 遠くに聞こえる実況アナウンスを聞き流しながら、自販機で冷たい水を買った。
 横のベンチに腰を下ろして喉を潤していると、誰かが飲み物を買いに来たのか、軽い足音が近づいてきた。

「あれ〜、佐久間じゃん。休憩?」

 顔を上げると、そこにいたのは青田だった。
 俺は相手を確認しただけで、すぐに視線を自分のペットボトルに戻す。
 俺の対応にも慣れたのか、青田は全く気にした様子もなく、自販機に小銭を入れながら話し続けた。

「お疲れ。さっき、二百メートル走ってたもんな」

 そう言って、スポーツドリンクのキャップを開けながら、青田は俺の隣に腰を下ろした。

「佐久間は、あとは昼からのクラスリレーだけ? 俺、まだリレーの前に部活対抗あるんだよなー」
「……全員参加とか、めんどくせ」

 俺が嫌そうに一言返すと、青田は笑って、気安く俺の肩を叩いた。

「佐久間はチームプレーは苦手そうだもんな――あ! 鈴村も休憩?」

 青田の声に顔を上げると、少し離れたところにスズが立っていた。俺を見て微かに眉間を寄せていたが、すぐにいつもの『嘘の笑顔』へ切り替わる。

「お疲れ〜、青田。佐久間くんも」

(相変わらず、変わり身早っ……。大変だな、こいつも)

「なに、青田、いま競技ないの?」

 スズは爽やかな声で青田に話しかけながらベンチまで近づいてくると、自然に俺のすぐ隣に腰を下ろした。肩と肩が触れ合う距離。

「おー。飲み物買いにきたら、ちょうど佐久間も休憩してて――」

 青田が朗らかに答えている途中だった。
 スズがスッと俺の方へ体ごと向き直ると、青田との会話を遮り、俺に向かって口を開いた。

「なぁ、サク。お前、いつから青田と普通に話すようになったんだよ」
「……は?」

 思わず顔を上げると、そこにはさっきまでの笑顔はなくなっていた。
 まるで子供がわがままを言っているような、ふてくされた素の顔で、スズは俺を睨んでいた。

「俺以外の奴と、いつの間にそんな社交性身につけたんだよ」

 その顔を見た瞬間、なんだか無性に腹が立った。

(は? こいつ、なんで青田の前で普通に『素の顔』出してんだよ)

 俺にしか見せないはずの顔。
 こんなにあっさりと他に奴の前に晒していることが、ものすごく気に入らねぇ。
 気づいたら、スズの体操服の襟元を掴んで引き寄せていた。

「お前っ、その『素の顔』、俺以外の前でしてもいいのかよっ!!」
 
 スズを至近距離で睨みつけて叫んだ。
 その直後、背後から青田の呆れたような声が聞こえた。

「……おい、お前ら、情報量多すぎだろ」

(――しまったっ……!)

 青田の声で、俺は一気に我に返った。
 自分が今、どれだけ恥ずかしい言葉を叫んでしまったのかを思い出し、一瞬で全身が熱くなる。
 
 俺は掴んでいたスズの胸ぐらを、そっと離した。
 スズは青田の方を向き、肩をすくめて見せた。けれど……横から見えたその顔は、どう見てもニヤけていた。

「サクが、俺の素の顔を、独り占めしたいんだってさ」
「え……へぇ〜」

 スズの短い説明に、青田が何かを察したような、生温かい笑みを浮かべて答える。
 俺はベンチに座ったまま俯き、右手で乱暴に髪を掻きむしって、そのまま額を覆って顔を隠した。
 顔中が燃えているように熱い。
 
「そういう意味じゃねぇよ……たぶん! スズ、お前何言ってんだよっ……」
「サクがさっき自分でそう言ったんだぞ」

 そのやりとりを見ていた青田が、腹を抱えて面白そうに声を上げた。

「くっ、お前らマジで見てらんねーな。完全に俺だけ置いていかれてっけど……なんかおもしれーわ」

 青田の楽しそうな声で、さらに顔の熱が上がる。
 もうこれ以上、ここに居たくねぇ。
 俺はベンチからフラフラと立ち上がると、赤い顔を隠すようにして、吐き捨てるように叫んだ。

「戻る!!」

 背後で「おい、待てサク!」「鈴村、早く追っかけてやれよ」という声を聞きながら、俺は走ってその場を後にした。

 
 結局、その日の体育祭が終わるまで、俺はスズとまともに目を合わせることができなかった。
 
 *

 体育祭が終わり、あっという間に十二月になった。
 学校生活は相変わらず変わらない日々を過ごしていたが、スズは親に言われて予備校のシフトを増やされ、休日の登山も一緒に行けなくなってしまった。
 
 一人で持て余した時間を潰すように、俺はあの倉庫バイトへ行くことにした。

「久しぶりねぇ。一人? 前は二人で来てたのに」
「……あいつは、予備校で」

 胸元の名札を見ると『櫻井』と書いてある。あの空き教室にいた女子のお母さんだ。
 明るい笑顔で声をかけてきた櫻井さんに、俺は少し慎重に答えた。
 
「まだ二年生なのに、えらいねぇ。うちの美羽も同じ高校だけど、そろそろ行かせた方がいいのかしら」
「……」
「佐久間くんは、いつまでここのバイト続けられそうなの?」
「冬休みの、前まで、です……」
「そうなのね。年末は仕分けも忙しいから、時間あったら来てくれると助かるわ」

 ニコニコと話す櫻井さんに、俺は無言で小さく頭を下げた。
 二人で文句を言い合いながらやっていた荷物の仕分けも、一人だと単純作業だ。俺は黙々と、時間になるまでダンボールを運び続けた。

 
 週明け。吐く息が白くなるほど寒い非常階段で、パンを食べていると、隣で弁当を食べていたスズが不意に尋ねてきた。

「サク、そういえば冬休みもあの倉庫でバイトすんの?」
「いや……」
「ん?」
「冬休みは、父さんに言われてて。アメリカに帰る」

 スズは一瞬動きを止めた。

「は? ……アメリカ? 冬休み中ずっと!?」
「まぁ、そう。三年になる前に一回帰ってこいって言われてて」
「……なんで?」
「なんでって。知らねーよ。ただの顔見せだろ」

 スズの顔はだるそうなままなのに、目だけが細くなった。俺をじっと見たあと、少し声を落として聞いてきた。
 
「へぇ。……俺は、冬季講習がびっちり入ってるけど。一日くらいはどっかで予定合わせらんないの?」
「いや、三週間くらい向こうにいるから。無理だな」
「そうか」

 スズはそれだけを言って、弁当に視線を戻した。

 いつもと変わらない声のはずなのに。「そうか」という響きが、なんとなく引っかかった。

 *

 冬休みに入る前日。俺は終業式を休んで、飛行機に乗りアメリカへ向かった。
 向こうの家で出迎えてくれた父さんは、以前と変わらず元気そうだった。けれど、普段穏やかな父さんが、今回俺を呼び寄せたのには、『顔見せ』以外の理由があったらしい。

「晴も来年は受験生になるタイミングだからな。こっちの大学のキャンパス見学、いくつか予約しておいたから」
 
 そう言われ、渡されたスケジュール表を見て、言葉を失った。
 滞在中の三週間に、現地の大学の見学ツアーがみっちりと入れられていて、着いた早々、俺は思わずため息をついた。
 卒業後のことなんて何も考えていなかったが、久々に会った父さんの熱意を無下にもできず、渋々付き合うことにした。
 
 クリスマスも家族で過ごし、見学ツアーや母さんの買い物に付き合ううちに、あっという間に日々が過ぎていった。
 ようやく一人になれた夜、ベッドに寝転びながら、ふとスズのことを思い出した。

(そういえば……こっちに来てから、一回も連絡してないな)
 
 俺から連絡していなかったのもあるが、スズからも、メッセージは一通も来ていない。
 日本は今、昼間だな。
 俺はスマホを開き、久しぶりにメッセージを送信してみた。

『元気か? こっちは毎日なんだかんだ忙しい』

 時差もあるし、冬季講習でどうせすぐには帰ってこないだろう。
 そう思って、スマホを置こうとした瞬間、すぐに震えた。

『まぁ、元気』

 それよりも、画面に表示された文字を見て俺は首を傾げた。
 いつもならスタンプや絵文字とくだらない言葉が一緒に送られてくるのに。

(なんか、変だな)

 そう思いながらも、忙しい日々の疲れからか強い眠気に襲われ、深く考える間もなく、俺はそのまま目を閉じた。

 *

 冬休み最終日。俺は三週間ぶりに、日本の空港に降り立った。
 母さんは「もう少しアメリカに残る」と言い、俺は先に一人で帰国した。
 
 長時間のフライトでぼんやりとした頭のまま、キャリーケースを引いて到着ロビーに出る。
 出迎えの人だかりができていた。日本語のアナウンスが当たり前のように流れていて、それが耳に入った瞬間、なんだか少しだけホッとして肩の力を抜いた。

「――サク!」

 人混みの向こうから呼ばれた声に、振り返る。
 けれど、行き交う人々のせいでその姿は見えなかった。

(どこだ。俺をサク、なんて呼ぶのはあいつだけ――)

 探すうちに、自分でもわかるほど口元が緩む。
 焦るように視線を巡らした先で、見慣れた顔がこちらを見つけて手を上げた。

「見つけた」

 口から自然と声が漏れた。
 目が合った瞬間、スズが笑いながらこちらへ向かって歩いてくる。俺もつられるように、自然と足が動いていた。

「サク、おかえり!」
「……もしかして、迎え?」
「予備校、今日だけ親に嘘ついて休んだ」

 サラッと言ってのけたスズに、俺は目を瞬かせ、そのあと自分の顔が緩むのをどうしても止められなかった。

「疲れただろ。今日は、サクんちまで送ってくよ」

 *

 バスと電車を乗り継ぎ、俺の家に着いた頃にはすっかり夕方になっていた。

「ありがとな、遠いのにわざわざ」
「いいよ。今日、冬休み最終日だからな。俺も息抜きしたかったし」

 スズはリビングのソファに座り、背もたれにゆっくりともたれかかった。
 俺はキャリーケースを開けて一つの紙袋を取り出すと、スズの隣に腰を下ろし、その膝の上に紙袋を乗せた。

「……土産」
「うわ、マジ? サンキュ」

 スズが嬉しそうに袋を覗き込み、ゴソゴソと中身を取り出した。
 中から出したのは、アメリカのスーパーで買い集めた、いろんな種類のプロテインバーだ。

「なにこれ! すげー種類あるじゃん。三十本くらいあんじゃね? パッケージも見たことないやつばっかだし」
「山で食べてもいいし、……格付けに使ってもいいかと思って」
「山……そっか、ありがとな」

 スズははしゃいだような声だったのに、急に静かな声になり眉を下げて礼を口にした。
 手に持ったプロテインバーを見つめる様子に、違和感を感じた。

「なに。……なんかお前、変じゃないか?」

 俺がスズの目をじっと見つめると、スズは顔を上げ、真剣なトーンで話し始めた。
 
「……まぁ。話したいことっていうか、サクに聞きたいことがある」
 
 空気が急に重くなり、俺の顔も自然とこわばった。

「サクさ。アメリカで三週間何やってたの? 連絡もほとんどなかったじゃん」
「え……あぁ、まぁ、忙しかった。連絡できなかったのは、悪かった」
「忙しかったって。何をそんなにすることあるんだよ」
「あー……なんか父さんに大学のキャンパス見学を勝手に予約されててさ。それが毎日入ってて――」

 俺が最後まで言い終わる前に、スズが突然立ち上がり、膝の上の紙袋がソファの上に滑り落ちた。そして、スズはイライラした表情で俺を見下ろした。

「お前っ! やっぱり高校卒業したらアメリカに戻るつもりなんだろ!」
「え、なに……?」
「この前も言ってただろ! 卒業したら離れるって……!」
「それは……! まだ何も考えてないから、……わからない」

 スズは俺を冷たい目で睨みつけながら、自分のリュックを背負った。

「俺、帰るわ」

 スズはそのまま玄関を出て、ドアが閉まった。
 静かになったリビングで、俺はソファの上のプロテインバーの袋を、ぼんやりと見つめた。

 
「なんだよ……迎えにきてくれたのに」