俺たちの尊い日々

(スズside)


「んぁ……」

 誰もいない廊下を歩きながら、固まった背筋を伸ばすように大きく伸びをする。
 
(早く文化祭、終わんねーかな。毎日駆り出されて、マジで飽きたわ)

 長引いた委員会がようやく終わり、俺は心の中でぶつぶつ文句を吐き捨てながら教室へ向かっていた。
 教室の扉に手をかけようとした時――中から勢いよく、誰かが飛び出てきた。
 ぶつかりそうになり、咄嗟に身を反らす。すれ違いざまに目が合ったその人は、サクだった。

(え……?)
 
 一瞬のことだったが、サクの目が驚くほどに冷え切っていたのがはっきりと分かった。
 泣き出しそうなほど瞳が揺れているのに、口元だけが強張って、きつく閉じられている。
 その表情に、『拒絶』と『諦め』が同時に浮かんでいた。

(サク――)

 俺が声をかけるより早く、サクは顔を背け、走って廊下の奥へ消えていった。
 何が起きたのかわからないまま教室の中に入ると、そこに微妙な空気が流れている。

「え……なに。佐久間くん、急にどうしたの」
「それがさ……俺、なんか悪いことしちゃったのかも」

 黒板の前で、青田が気まずそうに後頭部を掻きながら答えた。
 その言葉を聞いた瞬間、いつもの嘘の笑みがほとんど消えた。

「なに。何した?」
「いや、あいつが帰国子女だからすげーなって言ったら、みんなで騒いじゃってさ。そしたら急に……。もしかして、内緒だったんかな」
「……」

 俺は青田の言葉を最後まで聞かなかった。サクの荷物がまだ残っているのを横目で確認し、そのまま走り出した。
 非常階段、体育館裏、空き教室。思い当たる場所を走って探す。

 いない。
 どこにもいない。
 
 息を切らしながら、最後に屋上につながる重い扉を開けた。

「……サク!」
 
 フェンスを握り締め、しゃがみ込んでいる後ろ姿を見つけた。

「サク! はぁ……はぁっ。お前、何が、あったんだよ」

 俺の声に、サクはゆっくり立ち上がり振り返った。
 その顔を見た瞬間、俺は思わず息を呑んで目を見張った。振り返ったサクは、俺を見ていなかった。いや、見ていたのに、見ていないようだった。強張っていて、見たこともない表情と視線の温度。

「なに。……なんで来たんだよ」

 冷たい声。初めて俺にスラングを吐き捨てた時よりもずっと尖った声だ。
 心臓が嫌な脈を打つ。それでも、俺は必死に口を開いた。
 俺の声が、微かに震えていた。

「青田に、お前の言ってほしくないことを、勝手に言われたのか?」
「……お前」

 感情が全部凍ってしまっているような表情と声。傷ついているくせに、これ以上近づくなと、その目が告げている。

「俺、なんだってするから。お前を守るから――」
「別に、いい」
「いい、って……」
「どうせ、お前に俺の気持ちなんてわかんねーよ」

 突き放すような言葉に、俺もさすがに腹が立った。
 
「……は? なんだよそれ。俺はただ、お前を――」
「お前なんてっ……俺は、お前なんて、――大っ嫌いなんだよ!」

 俺の言葉を遮るように放たれた、突きつけるような拒絶。
 
「……今なんて……。は、はぁ? お前何言ってんだよ!」
「そのままの、……意味だろ。もう俺に関わるな。昼も来るな」
「おい! 俺だってな、お前のことを守ろ――」
「うるさ。もう俺に構うなよ」

 俺の言葉など一切届いていないように、サクは扉に向かって歩き出した。
 サクの肩が、小さく震えている。
 その背中を見たら、もうこのままサクを見失ってしまいそうな気がした。

(サク、サク……待てよ。行くな。話をしよう――)

 声が出せないのに、焦燥感で足は勝手に動いた。
 俺はサクの肩を掴もうと腕を伸ばした瞬間、サクが背中を向けたまま呟いた。

「……Back off.」

 聞こえた言葉に俺の体が固まった。伸ばしかけた手も、足も。

 ――「近づくな」。

 そんな簡単なスラングの意味くらい、すぐに分かってしまった。
 
 次の瞬間、バタンと、扉が閉まる大きな音が響く。
 一人残された屋上で、俺は伸ばした手を力無く下ろした。

『――大っ嫌いなんだよ』

 サクの叫びが、耳に残って離れない。
 
 サクは嘘がつけない。俺と違って、とことん正直な奴。
 それなのに、俺の目を見て「大嫌い」と言った。

 目の前の扉を苛立ちまぎれに思い切り蹴った。鈍い音だけが返ってきて、深く息を吐いた。

 ……違う。俺には分かる。
 こんな時に……サクは俺に初めて嘘をついた。
 俺を完全に切り捨てるために。

「……ふざけんなよっ!」

 奥歯を噛み締め、扉を睨む。

 
 俺の世界から、たった一つの息ができる場所が消えた――。