#8
朝の光が、遮光カーテンの隙間から部屋に差し込んでいた。
まぶたの裏に感じる明るさに、ゆっくりと目を覚ます。
俺の目の前には、朝から見るには眩しすぎるくらいのイケメンがいる。
その瞬間、昨夜のことが、激流のように頭の中に流れ込んでくる。
ばあちゃんが倒れたこと。救急車。そして、俺を一人にしないと言って、朝まで隣にいてくれた北沢のこと。
俺が身じろぎすると、北沢がゆっくりと目を開けた。
「……おはよ、倉橋」
寝起きの少し低い声が、静かな部屋に響く。
北沢は俺の顔をじっと覗き込み、心配そうに眉を寄せた。
「ちゃんと寝れた?」
「……うん。びっくりするくらい、よく眠れた」
本当だった。あんなに怖くて仕方がなかったのに、北沢の体温のそばで、俺は泥のように深く眠っていたらしい。
北沢は「よかった」と小さく吐息をつき、その身体を起こした。
「あのさ……昨日は迷惑かけてごめん」
自分の情けない姿を思い出し、耳の裏が熱くなる。
俺はのそりと起き上がり、北沢に真っ直ぐ向き直った。
「あと、本当にありがと。一緒にいてくれて助かった」
真っ直ぐにそう伝えると、北沢は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから少し照れくさそうに目を細めた。
「……ううん。俺がいたかっただけだから。学校、無理しなくていいけど、どうする?」
「ちゃんと行く。ばあちゃんが目覚めた時、心配かけないように」
「そっか」
北沢はどこか安心したように呟いた。
そんな北沢を見て、朝の冴えた頭に疑問が浮かぶ。
なんで北沢はそんなに俺のこと心配してくれるんだろう。
友達は、ここまでしてくれるものなのだろうか。
俺はその疑問を抱えたまま、北沢と二人でベッドから出た。
ーーーー
学校ではいつも通り過ごし、昼休みになる。
「ちょっと購買行ってくる」
「俺も行く」
いつもお弁当を作ってくれていたばあちゃんが、今日はいなかったので購買で済まそうと席を立つと、一緒に北沢も立つ。
北沢も俺の家に泊まってそのまま学校に来たので、昼食は購買だ。
二人で教室を出て、廊下を歩いていると。
「北沢くんだ〜」
「今日もかっこいい〜お菓子いる〜?」
「いらないです」
北沢が先輩らしい人たちから声をかけられる。
北沢は先輩たちの言葉を一刀両断して、どんどん進んでいく。
先輩たちからも人気があるんだな、北沢は。
まあ、こんなにイケメンだったら当たり前か。
そう納得する一方で、疑問がまた浮かび上がる。
こんなにモテるのに、なんで北沢は俺といるんだろう、って。
俺が誘ったら来てくれるし、俺がお願いしたらすぐに頷いてくれる。一緒にいたいって思ってる時に、ずっと隣にいてくれる。
俺が求めてるときに、求めてるものをくれる。
北沢と一緒にいると、居心地がどうしようもなくよくて、なにも考えずにそのまま身を預けたくなるような感覚すら感じる。
『倉橋は一人じゃない。俺が、一人にしない』
『俺は、倉橋がいてくれて、一緒にいれて嬉しいから』
『行かないよ。ずっと、隣にいる』
北沢の言葉はいつも俺の胸の奥にストンと落ちる。
それが怖くなるくらい心地いい。
俺たちは友達だ、って思ってたけど。
北沢がくれる安心感とか、胸の高鳴りがそれすらもわからなくさせるのだ。
「倉橋は何食べる?」
北沢がニコリと笑って俺を見る。
わからない。
北沢が何を考えているのか。
俺たちはただの友達なのか。
北沢は俺のこと、どう思ってるのか。
「俺は……焼きそばパンとかかな」
「いいね」
上の空になりながら返して、購買に足を運んだ。
ーーーー
教室に戻ると、昼休みの喧騒はピークを迎えていた。
自分の席に座り、ビニール袋をカサカサと開ける。
北沢がいつものように椅子を俺の方へ向け、窮屈そうに長い足を組んで座った。
「倉橋、おにぎりも食べるの? 結構食べるね」
「うん。昨日あんま食べられなかったから」
「……そっか。しっかり食べなよ」
北沢は安心したように目を細めて、自分が買ってきたサンドイッチの袋を開けた。
いつも通りのはずなのに、視界の端に映る北沢の指先や、時折ふわりと届く匂いのせいで、どうにも落ち着かない。
「あ、倉橋。ソース付いてる」
不意に、北沢の手が伸びてきた。
驚いて体が固まる。
北沢の長い指先が、俺の口角を親指でそっとなぞった。
「え……あ、ごめん。自分で拭くから」
「取れたよ」
北沢は指先を引っ込めると、そのまま自分の口元に運んだ。
その一連の動作が、やけに色っぽく見えてしまって、俺は慌ててお茶を流し込む。
その時だった。
机の上に置いていたスマホが、ブブッ、と短く震えた。
「……あ」
画面を見ると、登録していない番号からの着信。
でも、市外局番に見覚えがあった。
昨日、何度も頭の中で繰り返した、あの病院の番号だ。
慌てて通話ボタンを押す。
「……はい、倉橋です」
『病院の者です。おばあさま、今、意識が戻られました。予断は許しませんが、安定はしています。お顔を見に来られますか?』
心臓が跳ね上がる。
驚きと安堵で、声が震えた。
「はい……! すぐに行きます。ありがとうございます、すぐに行きます!」
電話を切るなり、俺は椅子を引いて立ち上がった。
隣で見ていた北沢が、鋭い表情で俺の腕を掴む。
「倉橋、どうしたの?なんかあった?」
「ばあちゃん……っ。ばあちゃん、目が覚めたって」
一気に視界が滲む。
北沢は目を見開いた後、すぐに力強く頷いた。
「よかった。じゃあ、今すぐ行かないと」
「あ、でも……午後の授業」
「先生には俺から伝えとく。いいから、早く」
北沢の冷静な声に背中を押される。
俺は「ごめん、ありがと!」とだけ言い残し、教室を飛び出した。
ーーーー
病院までの道のりは、記憶にないくらい夢中で走った。
駅のホームで電車を待つ時間さえもどかしく、消毒液の匂いが漂う廊下を駆け抜ける。
病室の前に立ち、肩で息をしながらドアを開けた。
「ばあちゃん……!」
そこには、酸素マスクをつけたまま、弱々しく目を開けているばあちゃんの姿があった。
「あ……ナオちゃん……?」
掠れた声。でも、確かに俺の名前を呼ぶ声。
「ばあちゃん……よかった、本当によかった……っ」
俺はベッドに駆け寄り、その細くなった手をぎゅっと握りしめた。
まだ温かい。生きてる。
そう感じた瞬間、安堵の涙が出てきて止まらない。
ばあちゃんは、俺の頭を撫でようとするように、指先を少しだけ動かした。
「……怖かったねぇ。ごめんね、ナオちゃん。ケイちゃんは……?」
「北沢なら、学校……昨日、ずっと一緒にいてくれたんだよ。今日も、俺を病院に送り出してくれて……」
泣きながら報告すると、ばあちゃんは安心したように小さく微笑んだ。
「そう……いい子だねぇ。ナオちゃんのこと、大事にしてくれてるんだねぇ」
「……うん。そうだね」
ばあちゃんの言葉を聞きながら、俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
ばあちゃんから「大変だったら駄菓子屋はお休みしてもいいからね」という言葉を預かった後、病室の外に出る。
お医者さんからは、「しばらく検査して、問題なければ退院できますよ」と言われてひとまずホッとする。
問題なければ、2週間から1ヶ月ぐらいで退院できるらしい。
病院を出ると、夕方の少し冷えた風が火照った頬を撫でた。
空は深いオレンジ色に染まり始め、街灯が一つ、また一つと灯っていく。
ふと、ポケットの中でスマホが震えた。
『おばあさん、どうだった?』
北沢からのメッセージ。
たった一行の短い言葉なのに、それを見ただけでまた鼻の奥がツンとした。
俺は急いで、でも一文字ずつ確かめるように返信を打つ。
『意識はっきりしてた。退院まで時間はかかるけど、大丈夫だって』
送信してすぐに、既読がついた。
『そっか。よかった』
その文字の並びを見ているだけで、北沢が安堵して、あの少しだけ眉を下げるような笑い方をしている姿が目に浮かぶ。
俺はスマホを胸元に抱きしめ、深く息を吐いた。
ーーーー
病院から戻り、一人で駄菓子屋のシャッターを開ける。
ばあちゃんは休んでいいって言ったけど、何もしないでいると余計なことばかり考えてしまいそうだったから。
店の明かりを点けると、いつものラムネや色とりどりの菓子が、静かに俺を迎えてくれた。
カウンターに座り、ぼんやりとくじの箱を眺める。
昨日の夜、ここであんなに絶望していたなんて嘘みたいだ。
ガラガラ、と引き戸が開く。
「いらっしゃ……って、北沢」
「手伝いに来たよ」
北沢は俺の姿を確認すると、ゆっくりと近づいてきた。
カウンターにカバンを置くと、彼は何も言わずに、ただ俺をまっすぐに見つめる。
「倉橋」
「ん?」
「また、泣いたの?」
そう言って北沢はふっと笑い、手を伸ばして俺の目尻を指先でなぞった。
泣き腫らした瞼に、彼の指のひんやりとした温度が心地いい。
「……ばあちゃんが、言ってたよ。北沢のこと、いい子だねって。俺のこと、大事にしてくれてるんだねって」
俺がそう呟くと、北沢の指が一瞬止まった。
彼は視線を少しだけ彷徨わせた後、観念したように俺の頭に手を置いた。
「……おばあさんは、よく分かってるね」
その言葉に、心臓が跳ねた。
今までの友達という枠組みが、音を立てて崩れていって。
ずっと胸に溜まっていた「疑問」が、ふいにつるりと口から滑り落ちた。
「……ねぇ、北沢」
「ん?」
「俺たちって……友達、だよね」
確認するように、自分に言い聞かせるように聞いた。
手を繋いだのも、抱きしめられたのも、ずっと一緒にいてくれたのも。
全部「友達」だからだと思いたかった。
そうじゃないと、今の俺にはこの胸の鼓動の説明がつかないから。
北沢は一瞬、何かを飲み込むように喉を動かした。
「…………うん。そうだよ」
数秒の沈黙の後、北沢は短くそう答えた。
その声はいつもよりずっと低くて、どこか突き放すような冷たさを含んでいるように聞こえたけれど、俺はそれに気づかないフリをして「そっか」と笑った。
「そうだよね……良かった。北沢が友達でいてくれて、俺、本当に心強いよ」
納得しようとした。
友達という安全な場所に逃げ込めば、この壊れそうなほど揺れ動く心を守れると思ったから。
けれど、俺のその言葉を聞いた瞬間、北沢の瞳に、これまで見たことがないような鋭い光が宿った。
「……ごめん、倉橋。今の、取り消させて」
「え……?」
北沢はその言葉に顔を上げた俺を正面から見据えた。
「俺、やっぱり……倉橋のこと、友達とは思えない」
頭を強く殴られたような衝撃だった。
今、なんて言った?
友達とは、思えない……?
「……え、どういう、こと?」
「そのままだよ。俺にとって倉橋は、もう友達じゃない」
それって、どういう意味だ。
俺が戸惑って、何かを問い返そうとしたその時だった。
「ナオーー! グミのやつ、当たり出た!!」
勢いよく引き戸が開いて、近所の小学生が三人、騒がしく店に飛び込んできた。
「見て見て!」「俺も当たったかも!」と、嵐のような賑やかさが静かだった店内に充満する。
「え、あ、……ちょっと待って」
北沢の言葉が耳に残ったまま、俺は慌てて立ち上がる。
子供たちは俺を取り囲み、べたべたと当たりくじを差し出してくる。
「ナオ、これもう一個もらえるの?」
「うん、そうだよ。ほら、好きなの持っていきな」
「やったー!」
対応しながらも、意識の半分は後ろにいる北沢に向いていた。
友達とは思えない、なんて。
じゃあ、あの夜のことは?
俺が泣きついた時、あんなに優しく抱きしめてくれたのは。朝まで隣にいてくれたのは。
友達ですらない相手に、あんなことするのか……?
嫌な疑念が頭を占める。
もし「友達」ですらないなら、あの優しさはただの「同情」か、それとも。
ようやく子供たちが新しい菓子を握りしめて去っていった頃には、俺の胸の中はぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
「……北沢」
振り返ると、北沢はカウンターでじっと俺を見ていた。
その瞳に宿っているのは、さっきよりもずっと切羽詰まったような熱量だったけれど、今の俺にはそれが酷く冷たいものに感じられた。
「……友達とは思えないなら、なんであんなに優しくしたの」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
「昨日だって、今日だって……あんなに優しくして、抱きしめて……友達ですらないなら、そんなこと、しないでよ」
北沢の表情がハッとしたように強張る。
彼は何かを言いかけ、俺の方へ一歩踏み出そうとした。
「違う、倉橋。俺が言いたいのは──」
「いいよ……俺、もうこれ以上、北沢に甘えるの怖い」
もし、あの温もりが全部「友達」という情ですらなかったとしたら。
ただの気まぐれや、その場の空気に流されただけだったとしたら。
そう思うと、胸の奥が張り裂けそうに痛かった。
「……帰って。今日はもう、一人で大丈夫だから」
頑なに視線を逸らす俺の様子に、北沢は伸ばしかけた手を力なく下ろす。
唇を強く噛み締め、絞り出すような声で呟いた。
「……わかった」
そう言い残して、北沢は店を出て行った。
ガラガラ、と閉まる引き戸の音。
静まり返った店内で、俺は膝から崩れ落ちた。
ばあちゃんの意識が戻った喜びさえ、塗りつぶされてしまうほどの虚脱感。
「……なんなんだよ、本当に」
友達じゃないなら、一体なんなんだ。
北沢のあの時の体温だけが、いつまでも手のひらに残っているような気がした。
朝の光が、遮光カーテンの隙間から部屋に差し込んでいた。
まぶたの裏に感じる明るさに、ゆっくりと目を覚ます。
俺の目の前には、朝から見るには眩しすぎるくらいのイケメンがいる。
その瞬間、昨夜のことが、激流のように頭の中に流れ込んでくる。
ばあちゃんが倒れたこと。救急車。そして、俺を一人にしないと言って、朝まで隣にいてくれた北沢のこと。
俺が身じろぎすると、北沢がゆっくりと目を開けた。
「……おはよ、倉橋」
寝起きの少し低い声が、静かな部屋に響く。
北沢は俺の顔をじっと覗き込み、心配そうに眉を寄せた。
「ちゃんと寝れた?」
「……うん。びっくりするくらい、よく眠れた」
本当だった。あんなに怖くて仕方がなかったのに、北沢の体温のそばで、俺は泥のように深く眠っていたらしい。
北沢は「よかった」と小さく吐息をつき、その身体を起こした。
「あのさ……昨日は迷惑かけてごめん」
自分の情けない姿を思い出し、耳の裏が熱くなる。
俺はのそりと起き上がり、北沢に真っ直ぐ向き直った。
「あと、本当にありがと。一緒にいてくれて助かった」
真っ直ぐにそう伝えると、北沢は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから少し照れくさそうに目を細めた。
「……ううん。俺がいたかっただけだから。学校、無理しなくていいけど、どうする?」
「ちゃんと行く。ばあちゃんが目覚めた時、心配かけないように」
「そっか」
北沢はどこか安心したように呟いた。
そんな北沢を見て、朝の冴えた頭に疑問が浮かぶ。
なんで北沢はそんなに俺のこと心配してくれるんだろう。
友達は、ここまでしてくれるものなのだろうか。
俺はその疑問を抱えたまま、北沢と二人でベッドから出た。
ーーーー
学校ではいつも通り過ごし、昼休みになる。
「ちょっと購買行ってくる」
「俺も行く」
いつもお弁当を作ってくれていたばあちゃんが、今日はいなかったので購買で済まそうと席を立つと、一緒に北沢も立つ。
北沢も俺の家に泊まってそのまま学校に来たので、昼食は購買だ。
二人で教室を出て、廊下を歩いていると。
「北沢くんだ〜」
「今日もかっこいい〜お菓子いる〜?」
「いらないです」
北沢が先輩らしい人たちから声をかけられる。
北沢は先輩たちの言葉を一刀両断して、どんどん進んでいく。
先輩たちからも人気があるんだな、北沢は。
まあ、こんなにイケメンだったら当たり前か。
そう納得する一方で、疑問がまた浮かび上がる。
こんなにモテるのに、なんで北沢は俺といるんだろう、って。
俺が誘ったら来てくれるし、俺がお願いしたらすぐに頷いてくれる。一緒にいたいって思ってる時に、ずっと隣にいてくれる。
俺が求めてるときに、求めてるものをくれる。
北沢と一緒にいると、居心地がどうしようもなくよくて、なにも考えずにそのまま身を預けたくなるような感覚すら感じる。
『倉橋は一人じゃない。俺が、一人にしない』
『俺は、倉橋がいてくれて、一緒にいれて嬉しいから』
『行かないよ。ずっと、隣にいる』
北沢の言葉はいつも俺の胸の奥にストンと落ちる。
それが怖くなるくらい心地いい。
俺たちは友達だ、って思ってたけど。
北沢がくれる安心感とか、胸の高鳴りがそれすらもわからなくさせるのだ。
「倉橋は何食べる?」
北沢がニコリと笑って俺を見る。
わからない。
北沢が何を考えているのか。
俺たちはただの友達なのか。
北沢は俺のこと、どう思ってるのか。
「俺は……焼きそばパンとかかな」
「いいね」
上の空になりながら返して、購買に足を運んだ。
ーーーー
教室に戻ると、昼休みの喧騒はピークを迎えていた。
自分の席に座り、ビニール袋をカサカサと開ける。
北沢がいつものように椅子を俺の方へ向け、窮屈そうに長い足を組んで座った。
「倉橋、おにぎりも食べるの? 結構食べるね」
「うん。昨日あんま食べられなかったから」
「……そっか。しっかり食べなよ」
北沢は安心したように目を細めて、自分が買ってきたサンドイッチの袋を開けた。
いつも通りのはずなのに、視界の端に映る北沢の指先や、時折ふわりと届く匂いのせいで、どうにも落ち着かない。
「あ、倉橋。ソース付いてる」
不意に、北沢の手が伸びてきた。
驚いて体が固まる。
北沢の長い指先が、俺の口角を親指でそっとなぞった。
「え……あ、ごめん。自分で拭くから」
「取れたよ」
北沢は指先を引っ込めると、そのまま自分の口元に運んだ。
その一連の動作が、やけに色っぽく見えてしまって、俺は慌ててお茶を流し込む。
その時だった。
机の上に置いていたスマホが、ブブッ、と短く震えた。
「……あ」
画面を見ると、登録していない番号からの着信。
でも、市外局番に見覚えがあった。
昨日、何度も頭の中で繰り返した、あの病院の番号だ。
慌てて通話ボタンを押す。
「……はい、倉橋です」
『病院の者です。おばあさま、今、意識が戻られました。予断は許しませんが、安定はしています。お顔を見に来られますか?』
心臓が跳ね上がる。
驚きと安堵で、声が震えた。
「はい……! すぐに行きます。ありがとうございます、すぐに行きます!」
電話を切るなり、俺は椅子を引いて立ち上がった。
隣で見ていた北沢が、鋭い表情で俺の腕を掴む。
「倉橋、どうしたの?なんかあった?」
「ばあちゃん……っ。ばあちゃん、目が覚めたって」
一気に視界が滲む。
北沢は目を見開いた後、すぐに力強く頷いた。
「よかった。じゃあ、今すぐ行かないと」
「あ、でも……午後の授業」
「先生には俺から伝えとく。いいから、早く」
北沢の冷静な声に背中を押される。
俺は「ごめん、ありがと!」とだけ言い残し、教室を飛び出した。
ーーーー
病院までの道のりは、記憶にないくらい夢中で走った。
駅のホームで電車を待つ時間さえもどかしく、消毒液の匂いが漂う廊下を駆け抜ける。
病室の前に立ち、肩で息をしながらドアを開けた。
「ばあちゃん……!」
そこには、酸素マスクをつけたまま、弱々しく目を開けているばあちゃんの姿があった。
「あ……ナオちゃん……?」
掠れた声。でも、確かに俺の名前を呼ぶ声。
「ばあちゃん……よかった、本当によかった……っ」
俺はベッドに駆け寄り、その細くなった手をぎゅっと握りしめた。
まだ温かい。生きてる。
そう感じた瞬間、安堵の涙が出てきて止まらない。
ばあちゃんは、俺の頭を撫でようとするように、指先を少しだけ動かした。
「……怖かったねぇ。ごめんね、ナオちゃん。ケイちゃんは……?」
「北沢なら、学校……昨日、ずっと一緒にいてくれたんだよ。今日も、俺を病院に送り出してくれて……」
泣きながら報告すると、ばあちゃんは安心したように小さく微笑んだ。
「そう……いい子だねぇ。ナオちゃんのこと、大事にしてくれてるんだねぇ」
「……うん。そうだね」
ばあちゃんの言葉を聞きながら、俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
ばあちゃんから「大変だったら駄菓子屋はお休みしてもいいからね」という言葉を預かった後、病室の外に出る。
お医者さんからは、「しばらく検査して、問題なければ退院できますよ」と言われてひとまずホッとする。
問題なければ、2週間から1ヶ月ぐらいで退院できるらしい。
病院を出ると、夕方の少し冷えた風が火照った頬を撫でた。
空は深いオレンジ色に染まり始め、街灯が一つ、また一つと灯っていく。
ふと、ポケットの中でスマホが震えた。
『おばあさん、どうだった?』
北沢からのメッセージ。
たった一行の短い言葉なのに、それを見ただけでまた鼻の奥がツンとした。
俺は急いで、でも一文字ずつ確かめるように返信を打つ。
『意識はっきりしてた。退院まで時間はかかるけど、大丈夫だって』
送信してすぐに、既読がついた。
『そっか。よかった』
その文字の並びを見ているだけで、北沢が安堵して、あの少しだけ眉を下げるような笑い方をしている姿が目に浮かぶ。
俺はスマホを胸元に抱きしめ、深く息を吐いた。
ーーーー
病院から戻り、一人で駄菓子屋のシャッターを開ける。
ばあちゃんは休んでいいって言ったけど、何もしないでいると余計なことばかり考えてしまいそうだったから。
店の明かりを点けると、いつものラムネや色とりどりの菓子が、静かに俺を迎えてくれた。
カウンターに座り、ぼんやりとくじの箱を眺める。
昨日の夜、ここであんなに絶望していたなんて嘘みたいだ。
ガラガラ、と引き戸が開く。
「いらっしゃ……って、北沢」
「手伝いに来たよ」
北沢は俺の姿を確認すると、ゆっくりと近づいてきた。
カウンターにカバンを置くと、彼は何も言わずに、ただ俺をまっすぐに見つめる。
「倉橋」
「ん?」
「また、泣いたの?」
そう言って北沢はふっと笑い、手を伸ばして俺の目尻を指先でなぞった。
泣き腫らした瞼に、彼の指のひんやりとした温度が心地いい。
「……ばあちゃんが、言ってたよ。北沢のこと、いい子だねって。俺のこと、大事にしてくれてるんだねって」
俺がそう呟くと、北沢の指が一瞬止まった。
彼は視線を少しだけ彷徨わせた後、観念したように俺の頭に手を置いた。
「……おばあさんは、よく分かってるね」
その言葉に、心臓が跳ねた。
今までの友達という枠組みが、音を立てて崩れていって。
ずっと胸に溜まっていた「疑問」が、ふいにつるりと口から滑り落ちた。
「……ねぇ、北沢」
「ん?」
「俺たちって……友達、だよね」
確認するように、自分に言い聞かせるように聞いた。
手を繋いだのも、抱きしめられたのも、ずっと一緒にいてくれたのも。
全部「友達」だからだと思いたかった。
そうじゃないと、今の俺にはこの胸の鼓動の説明がつかないから。
北沢は一瞬、何かを飲み込むように喉を動かした。
「…………うん。そうだよ」
数秒の沈黙の後、北沢は短くそう答えた。
その声はいつもよりずっと低くて、どこか突き放すような冷たさを含んでいるように聞こえたけれど、俺はそれに気づかないフリをして「そっか」と笑った。
「そうだよね……良かった。北沢が友達でいてくれて、俺、本当に心強いよ」
納得しようとした。
友達という安全な場所に逃げ込めば、この壊れそうなほど揺れ動く心を守れると思ったから。
けれど、俺のその言葉を聞いた瞬間、北沢の瞳に、これまで見たことがないような鋭い光が宿った。
「……ごめん、倉橋。今の、取り消させて」
「え……?」
北沢はその言葉に顔を上げた俺を正面から見据えた。
「俺、やっぱり……倉橋のこと、友達とは思えない」
頭を強く殴られたような衝撃だった。
今、なんて言った?
友達とは、思えない……?
「……え、どういう、こと?」
「そのままだよ。俺にとって倉橋は、もう友達じゃない」
それって、どういう意味だ。
俺が戸惑って、何かを問い返そうとしたその時だった。
「ナオーー! グミのやつ、当たり出た!!」
勢いよく引き戸が開いて、近所の小学生が三人、騒がしく店に飛び込んできた。
「見て見て!」「俺も当たったかも!」と、嵐のような賑やかさが静かだった店内に充満する。
「え、あ、……ちょっと待って」
北沢の言葉が耳に残ったまま、俺は慌てて立ち上がる。
子供たちは俺を取り囲み、べたべたと当たりくじを差し出してくる。
「ナオ、これもう一個もらえるの?」
「うん、そうだよ。ほら、好きなの持っていきな」
「やったー!」
対応しながらも、意識の半分は後ろにいる北沢に向いていた。
友達とは思えない、なんて。
じゃあ、あの夜のことは?
俺が泣きついた時、あんなに優しく抱きしめてくれたのは。朝まで隣にいてくれたのは。
友達ですらない相手に、あんなことするのか……?
嫌な疑念が頭を占める。
もし「友達」ですらないなら、あの優しさはただの「同情」か、それとも。
ようやく子供たちが新しい菓子を握りしめて去っていった頃には、俺の胸の中はぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
「……北沢」
振り返ると、北沢はカウンターでじっと俺を見ていた。
その瞳に宿っているのは、さっきよりもずっと切羽詰まったような熱量だったけれど、今の俺にはそれが酷く冷たいものに感じられた。
「……友達とは思えないなら、なんであんなに優しくしたの」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
「昨日だって、今日だって……あんなに優しくして、抱きしめて……友達ですらないなら、そんなこと、しないでよ」
北沢の表情がハッとしたように強張る。
彼は何かを言いかけ、俺の方へ一歩踏み出そうとした。
「違う、倉橋。俺が言いたいのは──」
「いいよ……俺、もうこれ以上、北沢に甘えるの怖い」
もし、あの温もりが全部「友達」という情ですらなかったとしたら。
ただの気まぐれや、その場の空気に流されただけだったとしたら。
そう思うと、胸の奥が張り裂けそうに痛かった。
「……帰って。今日はもう、一人で大丈夫だから」
頑なに視線を逸らす俺の様子に、北沢は伸ばしかけた手を力なく下ろす。
唇を強く噛み締め、絞り出すような声で呟いた。
「……わかった」
そう言い残して、北沢は店を出て行った。
ガラガラ、と閉まる引き戸の音。
静まり返った店内で、俺は膝から崩れ落ちた。
ばあちゃんの意識が戻った喜びさえ、塗りつぶされてしまうほどの虚脱感。
「……なんなんだよ、本当に」
友達じゃないなら、一体なんなんだ。
北沢のあの時の体温だけが、いつまでも手のひらに残っているような気がした。



