「#8」

それはミルクと出逢ったあの日の夜のこと…

誠一郎が帰路につく前の話しである…

あのビルの支配人がいる部屋まで当たり前みたいに真顔で出向くと誠一郎は…

「これから先、ミルクさんを誰にも抱かせるな…彼女の予約は全て私がとる…良いな…ミルクさんは私のものだということだ!」

財布の中の分厚い札束をテーブルにドンと叩きつけると、そう言って精悍な顔つきで支配人を見つめた。

「あぁ…えぇ…全てって…全てですか?」

突然の申し出に困惑するしかない支配人…

「足りない分は明日にでも用意する…あらためて言おう!私はこれから毎晩、ここへ通う…もし来られなくても彼女の入浴料も含めた代金や経費は全て私が払う…だから絶対に誰にも抱かせるな、近付けさせるな…彼女の予約は私が全て買い取った…理解出来たか…返事はどうだ…」

語気を強く言葉を投げかけた誠一郎…

鋭い視線は支配人を貫いていた。

「…か、かしこまりました…」

誠一郎に圧倒されて頭を下げるのがようやくといった支配人であった。

背中に決意があらわれていた。

その言葉通りに誠一郎は毎晩毎晩、飽きることなくミルクの元へ通いつめた…

至極他愛もない話もありきたりな仕事の悩みも子供染みたトランプみたいなカードゲームをしたり…流行りのオシャレなスイーツを一緒に食べたり…

ただただ見つめ合ったり…

そんな恋人みたいな時間を毎日毎日…

そうして1ヶ月あまりが過ぎた、ある晩のことであった。

「毎晩…毎晩、私に会いに来てくださるのは嬉しいのですけれど…」

ミルクはベッドに腰掛けて隣に座る誠一郎を悩まし気に見つめて話しかける。

「むぅ〜本当に何もしてくれないのですね…」

ミルクは頬を風船のようにふくらませて甘えん坊のように見つめた。

ミルクが腕組みをして胸をグイグイ押し付けてみても胸もとを指先でクルクルなぞってみたり、耳に息を吹きかけたりしても、ただただ赤く染まる顔のまま、何事も無いように雑談だけを続けている誠一郎。

大きく深呼吸の後に…

真剣な眼差しで…

「ちゃんと愛したいと話しました…あなたを本気で愛していますから…その…そういうことは…あなたを妻にむかえてからと決めています…」

それは重力のように無意識にひかれあうものなのか…

「どうして…そこまで…」
トクンと鼓動が大きくなる…

ミルクはそこはかとしれない不安を感じて瞳を閉じる…

「私の何が…」

「私にもわかりません、ただあなたを愛しています…自惚れかも知れないけれどあなたでなければならないのだと私の何が…そうさせています…」

誠一郎の誠意は本物なのではないかとミルクは思い始めていた。

「少し聞いてもらっても良いですか…」

ミルクはワントーン低い声で、そう言った…

誠一郎の手を握りしめたミルクの手が小刻みに震えていた。

ミルクはミルクではない本当の自分を初めて垣間見せた。

「はい!」

紳士的に見つめ返す精悍な瞳の誠一郎…

「誠一郎さんとこうした時間を過ごすなかで…もうミルクという源氏名を捨てようかと本気で思い始めています…」

ミルクは不安でいっぱいな様子にみえた。

「私も誠一郎さんのことを好きになってしまったみたいです…だから、もうミルクと呼ばないで下さい…」

ミルクは続けて吐露する。

「誠一郎さん…私はミルクではなく…希美と申し上げます、望月希美…これが私の本名です…」

「もちづきのぞみ…さん…ですか」

誠一郎はおうむ返しに彼女の名前を噛みしめた。

「希美さん…私は…あなたをこんなところに駆り立てたモノについてお聞きしたいのです…」

誠一郎もいつ切り出すべきかとタイミングを伺っていた質問をぶつけた。

「そう…そうね…嘘みたいな話なの…信じてもらえないかもしれないけれど…」
唾を飲み込んで続けて話す。

「弟を助けたいの…心臓の病気で海外で移植しないと次の年は越せないだろうって…担当する医師に告げられたわ…」

涙ぐむ希美の言葉に誠一郎は…

「どうしたら良いんだ…その弟さんを助けるには…どうしたら良いんだ!!」

希美は誠一郎の両手を覆うように握りしめると…

「移植するには最低でも1億…もしかしたら2億近くかかるだろうって…そんなお金を私みたいな貧乏人が稼ごうとしたら…いやでもこんな仕事するしかないじゃないの…死なせたくないの、たったひとりの家族なの…私…私は…」

誠一郎の膝の上に崩れ落ちる希美…

彼女もまた緊張感からの解放なのか嗚咽を漏らし泣き叫ぶだけだった。

「ああ助けるよ…必ず助ける!!ありがとう…本当に辛かったんだね、次は私が頑張る番だ…」

彼女の言葉に少しも疑念を感じなかったのは何故だろう…

理解できる…嘘はないと確信できる…

本音で語りかけてくれているのだと…

あの涙は紛い物ではないと…

希美の頭を優しく撫で上げ背中をさする。

誠一郎は静かに目を瞑る…

ふたりはゆっくりと抱きしめあった…


お互いに初めて心を抱きしめられた気がした…



その翌日、誠一郎の決断は早かった。

まず支配人の元に出向き、ミルクの陸揚げについて交渉した。

「彼女を私の妻にむかえたいと考えています、いくら必要ですか…」

誠一郎の言葉に困惑させられるのは何度目だろうか…

「はぃ!?ミルクちゃんと結婚されるのですか?」

頭を抱える支配人…

「冗談じゃないみたいだけど…う〜む…5000万は欲しいところです…」

支配人は思いきってふっかけた。

そもそも遊廓でもなく、ただの風俗に勤める女性の結婚など自由なはずだ…

ミルクについている固定客はもちろんのこと誠一郎ひとりだけだ。

店としての儲けはあれど損はしていないのである。

そんな金など払う必要などない。

棚からぼた餅とばかりに支配人はほくそ笑んだ。

「なるほど…わかりました…すぐに用意しましょう!」

静かに頷く誠一郎を見てあわてて支配人は値を吊り上げた。

「いぃ…うそ、嘘、ウソです…いち…1おく、1億円でした!」

誠一郎は怪訝そうに支配人を見つめた。

「ん!?先程…5000万と言ってましたが1億円ですか…現金で…すると今日中は無理かもしれないですが何とかしましょう…」

それだけ言って誠一郎は駆け出した。

ミルクの部屋へと駆け出した。

「希美さん…今日からあなたは私の妻です…守ります…ついてきて下さい…約束します!もうあなたを泣かせるような目には会わせませんから…」

驚いた様子で小さく頷く希美を抱えるように駆け出した誠一郎…

プロポーズではなく、すでに妻だと宣言されて驚かないわけはない。

しかし…それは欲望の名の城に幽閉された姫君を助け出した王子様のようであった。

「ちゃんと愛したいと話しました…だからこそ、ちゃんと愛します…良いですよね…」

誠一郎は淫靡なドレスを隠すように自分のスーツの上着を希美の肩にかけてあげる。

白馬みたいな外車の助手席に希美を座らせると…ふたりで暮らす為に用意した部屋へと誠一郎は駆け出した。

…………………。

半日と経たずに用意されたジュラルミンケースに入れられた札束のそれに支配人は腰を抜かして驚いた。


しかし、誠一郎の希美を守るという言葉とは裏腹によからぬ噂を立てるものは、どこにでもいるものだった。