この夏を越えて、君に。

 錫也の目覚めは好調だった。
 身体の気怠さは一つもなく、めまいや頭痛もない。
 そしてなにより、目の前には大地の寝顔があった。二つの瞼は閉じられているが、顔は錫也のほうへ向いている。
 昨晩二人は別々の布団に入って、手だけ繋いで眠りについた。その手はまだ繋がっている。
 その手を愛おしそうに眺めながら、錫也は昨晩までのことが全て夢ではなかったことに安堵した。
 大地と気持ちが通じ合っている。それがこんなにも嬉しく、幸福を感じさせている。

「ん……、すずや?」

 寝ぼけ眼で錫也を捉えて、舌足らずに名前を呼ばれると胸の奥がきゅんと高鳴った。
 錫也は照れを誤魔化すように咳払いして、大地におはようと告げる。
 大地は数秒固まった後、ガバリと起き上がった。
 そして顔を真っ赤に染め上げて「おはよう!?」と大きく声を上げる。

「あっ、え、すず……!? あそっか泊まって……!」
「そこまで慌てられるとこっちも照れる……」
「いやだって夢のようで!」
「昨日、あんなキスまでしてきたくせに」
「やめろ! 俺の理性を揺さぶるな!」

 大地は頭をガシガシと掻いて、しかしもう一方の手はどこかと視線を巡らせ、錫也と繋がったままであることを認めるとまた叫んだ。

「どっ!?」
「繋いだまま寝たいって言ったらオーケーしてくれたじゃん」
「どうしよう! 夢か幻か区別がつかなくなってきた!」
「それだとどっちも現実じゃねーんだけど……」
「だって長年積もった願いがここで一気に消化されるとは思わないじゃんか!」

 なんだろう。胸がとてもギューッとなるのに、それが全然嫌ではなくて。むしろこの慌てっぷりをいつまでも見ていたいような気がする。
 大地から向けられている想いが、こんなにも分かりやすく伝わってきているからだろうか。
 錫也は大地の手を引いて立ち上がると、照れ臭い気持ちをそのままに笑顔を向けた。

「ほら。お祖母ちゃんがご飯用意してくれてるから」
「あ、ああ……」

 朝食だというのに、食卓には錫也の大好きな祖母の料理がたくさん並んでいた。
 祖母特製の煮物に、ほうれん草のおひたし、肉汁たっぷりの唐揚げ、具沢山のお味噌汁など、朝から振る舞うには準備が大変そうな料理たちだ。デザートに寒天ゼリーまで用意されている。
 あまりの豪華さに錫也は目をぱちくりと瞬かせる。隣で大地も「おお……!」と圧倒されていた。

「こんなに……」
「ここ数日間、いっぱいお料理できて楽しかったのよ。それにこれくらいでしか、錫也のことを元気づけてあげられないから」
「そんなことないよ! 俺……俺の話聞いて、否定しないでくれたのすごく嬉しかった。男の人が好き、っていうのも……」

 祖母が手招いて、錫也を座らせる。
 その手が優しく頭を撫でて、幼き日のことを懐かしく感じた。

「誰が好きでも、錫也が幸せならそれでいいの。きっとお母さんもそう思ってる。だから一人で抱え込まないで、何でも話してちょうだいね。私やお母さんにどうしても話しにくいなら……今は大地君だっているでしょう? 絶対に一人きりってことはないの。ね?」
「うん……っ」

 大地は黙って傍にいてくれた。また零れそうになる涙をグッと堪えて、箸を口に運ぶ。
 昨日からずっと泣いてばかりだ。でも胸の内にあったモヤモヤとした嫌な感じは全て消え去っている。
 それはきっと錫也自身も心を閉ざしたままじゃなくなって、もっと周りと関わろうと成長できた証なのだと思う。
 朝食を終えた錫也と大地は二人並んで食器を洗った。
 洗い物を終えた後また部屋に戻って、錫也の荷物の詰めこみと部屋の掃除をする。
 ふと顔を上げて庭の畑に視線を向けた。
 当然ながら誰も立っていない。真はもう、錫也の前に姿を現さないだろう。
 時計を確認して、そろそろバス停に向かう時間だった。これを逃せば次の時刻までかなり待つことになる。
 祖母には居間で挨拶をした。外は相変わらず暑いし、特別な見送りはなくていい。この家も錫也が帰る場所の一つで、何も理由がなくたって尋ねてもいいのだから。
 玄関を開けると、雲一つない空が錫也と大地を出迎える。
 そこで大地が「あっ!」と声を上げた。

「やべ、日傘!」

 そこで錫也も「あ」と思い出した。
 大地と言い合いになった時にはその手に日傘を握りしめていたのを見ている。
 しかしその後、錫也が真に滝壺へ突き落されてからはどうだろう。助けてもらった時には何も持っていなかったように思う。

「持ったままだと邪魔だったから飛び込む前にどっかに放った……」
「あー……。ごめん、俺のせいだな」
「何でだよ。そういうとこだぞ、錫也」

 鼻先を指で弾かれる。
 大地は少しむすりとした表情を見せた。

「何でもかんでも自分のせいにするな。悪い癖だぞ。少しずつ他人のせいにしていくことに慣れような」
「……言いたいことは分かるんだけど、その言い方だとちょっと受け取りにくい」

 大地は錫也から荷物を奪って先に歩き出してしまう。
 錫也は慌てて追いかけて荷物を奪い返そうとするが、大地はがっちり掴んでいて離そうとしない。

「おい! 自分で持てるってば!」
「いいからいいから。バス停までだし、少しくらい彼氏っぽいことさせろ」
「かれっ……!」
「お、照れ顔。錫也はやっぱり昔から可愛いなぁ」
「言ってろ馬鹿!」

 すると大地が突然立ち止まる。
 錫也は怪訝そうに大地の名を呼ぶが、大地は視線を道の先に置いたまま「あれ」と呟いた。

「あれ?」

 錫也もその視線の先へ目を向けると、道の端に黒い塊が見えた。
 二人で近寄ってみるとそれは――日傘だった。
 大地が錫也に渡した物で、昨日大地が紛失した日傘に間違いなかった。
 周囲には誰もいない。遠く歩いている様子もない。いつからそこに置いてあったのかも分からない。
 しかし錫也には、これを置いた人が誰かすぐに分かった。それはきっと大地も同じだ。

「……どうせなら、直接渡しに来いよな」

 大地の言葉はぶっきらぼうだったが、そこに昨日真へ向けていた怒気は含まれていなかった。
 祖母の話を聞いて、真の過去を少しでも垣間見たからだろうか。錫也も、真への恐怖心はあれど抱えている感情はそればかりではないような気がしている。
 もっと複雑でこんがらがっている。真のしたことを許せるわけではないけれど。
 錫也は日傘を拾って、開いた。穴が空いていたり傷がついていたりなんていうことは一つも無い。
 息を肺いっぱいに吸い込んで、言葉と共に吐き出した。

「真さん! ありがとうございました!」

 錫也の死を望んでいたのだとしても、錫也の心の傷に寄り添って癒そうとしてくれたのは間違いないから。
 それで最初に心が軽くなったのは、確かだから。
 錫也ではかつて真が味わった苦しみも悲しみも、寂しささえも埋めてあげることはできない。共に逝くことはできない。だって、生きることは苦しいことばかりではないのだと知っているから。
 それでも、真へ向けるこの言葉が、彼の心の中で積み重なってその穴を埋める一助になればいいなと思った。
 いつか真にも前を向いて進んでいくようなきっかけを得られる出会いがあってほしい。そう願う。
 傲慢かもしれない。真はそんなこと望んでいないかもしれない。
 でも、祖母から聞いた生前の真を思うと、彼の中の優しさを信じずにはいられない。
 錫也は他人の目に怯えて疑うよりも、まずは信じて共に居たいと思えるようになった。他でもない、錫也に死ではなく生きることを望んでくれている大地の存在によって。

「……たまになら、俺だって話くらい聞いてやるよ。それで成仏できそうならな」

 大地にも、やはり思うところがあったようだ。
 当然ながら真からの返事はない。もう既に近くに居ないのかもしれないし、聞こえていたとしてももう二度と錫也と話したくなんてないのかもしれない。でも絶対に届かないわけじゃないのなら、この言葉は届け続けようと思った。
 また次にこの土地を訪れた際には、今とは違う気持ちで真に会える気がした。
 錫也は涼しい傘の下、くるりと大地を振り返る。

「俺、今すっごい大地のこと大好きだ」
「……はー」

 大地が顔を手で覆って空を仰ぐ。
 その耳が真っ赤なのは日差しのせいだけではないはずだ。

「なんで、こう……錫也がめっちゃ可愛くて嬉しい……」
「可愛い可愛い言うけど、そうでもないだろ」
「錫也はずっと可愛いよ……」

 バス停まで着くと、到着までまだ時間があった。
 大地がポケットから「これ」と一枚のメモ用紙を取り出して錫也に手渡す。
 そこには住所と電話番号が書かれていた。

「俺んちの住所と電話番号。スマホは近いうちに買ってもらえることになってるから、それまで何かあったら連絡ちょーだい」
「あ……俺のスマホの番号」
「イトばあちゃんから紙に書いて貰った。……ごめん事後報告で」
「いやいいよ。教えるつもりだったのにすっかり忘れちゃってたし」
「……あ、のさ。住所も教えてもらったんだけど……書いていい?」
「なにを?」
「て、手紙……」
「……」
「あ、やっぱきもいか!? さすがに文通って時代でもねえもんな!? いや、スマホ買ってはもらえるんだけどそれまで全く交流がないのも俺的にちょっと寂しいっていうかどうかなーって思ったりして! それに家に電話って母さんとか父さんとかが出るかもしれないから錫也に変なこと言わないか心配だし! つーか錫也には何も言わないだろうしむしろめちゃくちゃ嬉しがるだろうけど絶対俺があとで揶揄われ――いやそれくらいなら我慢する! でも嫌ならいいんだ! 切手とか便箋用意するの面倒だろうし! それに高校生にもなって野郎相手に文通ってかなりやばい構図――」
「野郎相手、じゃない」

 やばい。どうしよう。
 今きっと顔が真っ赤だ。傘で隠したい。でもそれだと、大地の顔まで見られなくなってしまう。
 だから錫也はとても恥ずかしくて仕方なかったが、大地の目をしっかりと捉えて想いを伝えた。

「恋人同士なんだから、やばくない、と……思う……」
「す――」
「だって文房具屋で全然普通に便箋とか売ってるわけだし! 廃れた文化ならそれこそもう売ってないだろうし! それに、それに別に誰かに見られたりしたって俺は全然! ってか他人がそこまで気にして見てくることないと思うし! お、俺はそんなの気にして疎遠になるくらいだったら……その、大地と、したいよ。手紙、書きたい。思ってること、素直に全部伝えられるような気がするし……。もちろん手紙じゃなくたって伝えられるように、ちょっと恥ずかしいけど、頑張る。でも……」
「じゃあ一通目は俺から出すから」
「あ……」
「帰ったらすぐ書く。そんでソッコーでポストに入れる。そしたら、錫也が向こうに帰ってもそう経たないで届くから。いっぱい書くよ。使い切るつもりで」
「……もう、用意してるんだ」
「あ」

 大地は失言したと頭を抱えるが、錫也は胸の辺りがぽかぽかと温まっていくのを感じる。

「うわーごめん! これはさすがに俺はきもい!」
「いつから……?」
「もう白状するけど錫也がこっち帰ってくるってイトばあちゃんに聞いた時には! だってさあ、これが最後のチャンスだと思って! なんとか繋がりを途切れさせたくなくてだな!」

 そこで錫也は、真から言われていたことを思い出した。
 聞くかどうか迷って、しかし好奇心のほうに天秤が傾く。大地から自分は大切にされているという自信もあった。

「そもそもなんだけど……。お祖母ちゃんを通じて俺と連絡取るってことはできたと思うんだけど、それこそ俺が来なくなった時から」
「……ぐっ」
「お祖母ちゃん断ったりしなかったと思うし。でもそうしなかったのって何でなのか、聞いてもいい?」
「……うぐぐ」

 何かを堪えるように大地は呻いて「この際、恥は一度に!」と叫ぶ。

「――怖かったんだよ!」

 怖かった。
 錫也はその言葉と大地との組み合わせがあまりしっくりこなくて、小首を傾げる。
 錫也に連絡を取るのが怖かった? 自分の中でうまく噛み砕けない情報がぐるぐる回る。

「何だその顔……」
「いや、なんていうか……。怖いって俺に連絡取るのがってことで合ってる、よな?」
「そうだよ。錫也以外に誰がいるって言うんだ」
「んと……、本当に?」
「本当に!」

 やはりあまりしっくりこない。
 そりゃあ年数経ってからいきなり電話が掛かってきたら、いったい誰かなのかと身構えもするだろうが……。祖母を経由してのことなら素直に応じていただろう。
 それに行動力のある大地ならば怖がることなくすぐ祖母に協力を頼みそうなものなのだが。

「実際、イトばあちゃんから何度か提案されてはいたんだよ。でも、錫也は学校のことで忙しいから今年は来られないって聞いてから、なんつーか……ああ、錫也は俺以外にも友達がいるんだよなって。当たり前のこと実感してさ」

 大地は、だから怖くなったと続ける。

「変だよな、俺にだって他に友達がいるのに。でもどうしてか……。錫也には俺以外に楽しくなれる相手がいて、そいつらと一緒にいる俺の知らない時間がいっぱいあるんだって思ったら一気に怖くなっちまった。電話して、それで、もしも錫也の口からそいつらのことを聞くことになったら? 想像するだけでこんなに嫌な気持ちでいっぱいになるのに、直接錫也から聞いちゃったらどうしよう。俺はきっとその気持ちを我慢できないで錫也にぶつけちゃうような気がして、電話なんて絶対にできなかった。でも中学生くらいになってさ、俺も成長したから今度は自分の気持ちコントロールして話せるだろって思ったんだけど、そしたら今度は、錫也はもう俺のことなんて覚えてないかもしれないって超不安になった。……やっぱり怖くなって、どうにも動けなくて、でも錫也に会いたい会いたいって周りには言って……。あー、俺こんなこと言うつもりなかったんだけどなー。かっこ悪い姿なんて見せたくなかった」

 眉を下げてへらりと笑う大地に、錫也は胸がきゅうっと締めつけられた。
 錫也のほうがもっと情けない姿ばかり見せている。それでも大地は錫也に「好きだ」と伝えてくれている。
 その言葉を伝えてくれるまでの間に、錫也には見せない葛藤がたくさんあったのだ。

「……かっこ悪くなんて、ない」
「錫也……」
「俺にとって大地はすごいかっこいいよ。俺は大地からいっぱい元気を貰ってるし、また会えて本当に良かったし、たった数日の間だったのにこんなに大好きになった。それは大地が俺のことたくさん想って行動してくれていたからで、ちっともかっこ悪くなんてない。俺、おれが……っ! また上を向けるようになったのは大地が俺のこと真っ直ぐに好きって伝えてくれているからなんだ!」
「……泣くなよ。泣き虫だなぁ」
「大地のせいだ」
「お、いいぞ。どんどん人のせいにしていけ」
「だいち!」
「あははっ! でもそろそろ涙腺は締めていってくれよ。今はまだいいけど、向こう帰ったら俺は拭ってやれないんだからな」

 大地の指が優しく目元に触れる。
 その手を取って、錫也は頬に当てた。

「寂しいよ……」
「今度は俺から会いに行く。お年玉めっちゃ貯めてるから交通費とか楽勝だ」
「うち泊まって」
「……それは嬉しいけど同時に苦行っていうか」
「頑張って我慢しろ」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい!」
「……いつ来る?」
「冬休み。もう夏を待つ必要ないだろ。会いに行くよ、絶対」
「大地」
「ああ」
「キスして」

 酸素を奪い取られるような口づけだった。
 また目尻から涙が一筋流れ落ちる。
 たった数日の間に、こんなにも人を好きになれるなんて思わなかった。自分がまた明るい感情を取り戻せるなんて思っていなかった。
 好きだ。大好き。
 この気持ちをお守りに、錫也は明日も生きていける。

「――錫也」

 大地に名前を呼ばれるのがとても好き。
 大切そうに、愛おしそうに名前を呼んでくれる人はきっと大地だけだ。

「頑張って勉強して、錫也が行きたい所どこでも行けるようになるからさ。高校卒業したら一緒に住みたい」
「……」
「一緒に暮らして、ご飯食べて、寝て……恋人らしいこともそうだし、あとは今まで一緒にいられなかった時間含めてたくさん楽しいことをしていきたい。そういう未来のことを、ちょっとずつでいいから話していきたいし、考えていきたいんだよ」
「……」
「錫也?」
「…………プロポーズされたのかと思った」

 大地は「ぷろぽーず」と呟くと、錫也と同じくらいに顔を真っ赤に茹らせる。
 錫也は心臓がバクバクバクバクと、動悸が激しくてたまらない。それはさすがに気が早いのではと思いつつ、全く嫌だと思わない辺り自分だってかなり乗り気でいるどころかむしろウェルカムといった感じで……。
 しかしそれを改めて口に出すにはさすがに羞恥が勝るし、大地はもしかしたらそこまでのつもりで言っていないかもしれないし……。

「そ、の覚悟、ではある」

 顔は真っ赤でも真剣な表情で、大地は錫也に向き直った。

「正直、他の誰かに錫也を取られたくない。錫也は俺と一緒じゃないと嫌だ」
「ご、強引」
「この際もう自分の気持ちをバシッと伝えていくことにする。俺は錫也を独り占めしたいってこんなにちっちぇえ頃から思ってたんだ」
「……っ」
「錫也は? 俺と住むのは嫌? 高校卒業してすぐとかじゃなくてもいい。でも俺は錫也と同じ家で暮らしたい。将来的にはそうするつもりだっていうのだけ、とりあえず今は考えといて。指輪はさすがに働いてからじゃないと用意できないし」
「もっ、もうお腹いっぱいだから!」
「俺は足りない」

 大地の何か積極的になるようなスイッチを押してしまったようだった。
 ぐいぐいと迫る大地に錫也はもういっぱいいっぱいになってこれ以上は限界だった。
 するとタイミングよく、バスが遠くからやって来る。来た時と同じように、バスは相変わらず悪路にガタガタと車体を揺らしていた。
 来た時は「このバスで行くのか……」と大変後悔していたのだが、今は救世主のように思えた。

「ほら! もう来たから!」
「さっきまで寂しいって可愛いこと言ってくれてたのに……」
「大地!」
「分かったよ……。ほら落とすなよ」
「ありがと。……あ、日傘、返すよ」
「あー、いいよ」
「よくない。帰る時暑いだろ、ほら……」
「いいって。それ、錫也にやるために買ったやつだし」
「へ」
「傘くるくる回してんの小さい時から変わんなくてびっくりした。そういうとこも可愛くて好きだよ」

 頬をぷくっと膨らませてこれ以上顔がにやつかないように誤魔化す。しかし大地にはお見通しなのか、とても愛おしそうに見つめられた。大地に勝てる日は来ないのかもしれない。
 大地から荷物を受け取って、錫也はプシューっと開いたバスのドアから中に乗りこむ。来た時と同様、寒いくらいに冷房が効いている。
 振り返ると、大地は優し気な微笑みを浮かべていた。

「錫也、頑張れ。俺も頑張る」
「うん」
「でも頑張れなくなったら俺の所まで逃げてこい。好きなだって泣いていい。またいっぱい元気にしてやるから」

 バスのドアが閉まる。錫也は一番後ろの席に移動して、大地の姿が見えなくなるまでずっと手を振った。大地は両腕を大きく振っている。
 来た時は、早く帰りたいって気持ちでいっぱいだった。
 今は、もう少しバスが遅く来てくれていたらよかったのにと恨み言を思っている。ついさっきは、助かったと思ったのに。コロコロと一喜一憂し、様々な色に移り変わりやすいこの感情を人は恋と呼ぶ。
 どうしようもなくつらくて逃げてきた場所で、好きな人ができて、その好きな人も自分のことをとっくに昔から好きで……そんな、奇跡のような体験を終えて。
 今はとても不思議な感覚に包まれている。
 この数日間で起きた出来事は現実なのに錫也にとっては非日常にあふれていて、怖いことももちろんあったのだけれど。
 これから先の人生で必要不可欠な、かけがえのない大切な時間に恵まれたと感じている。
 そんなことをしんみり思いながら、錫也は帰宅の途に着いた。
 バスや電車を乗り継いで帰ってきた地元。錫也は大地から貰った日傘を開いて駅から出る。
 ほんの数日前までは、家を出て駅まで来るのだってとても苦痛だったのに。今は全く何も感じない。
 何を恐れていたんだろう。何を怯えていたんだろう。
 大体の人にとって錫也はただの通行人だし、錫也にとっても周りはそうだった。
 あんなにも重かった足は快適に進む。
 家へ帰る前に駅近くの書店に寄って便箋をいくつか見繕うかなと思った。買ったことはなかったが文房具コーナーに置いてあるのだけは知っている。まさか自分が利用することになるとは考えたこともなかった。
 日傘を閉じて入店すると、バスとは違って居心地の良い冷房の空気が身体に触れた。
 目当てのコーナーにはポップな物から大人で和風な物までたくさんあって、どれにしようか選ぶだけで楽しくて口角が上がってしまう。
 大地はどんな便箋で手紙を送ってくれるだろう。それに対して、自分はどんな便箋で返そうか。
 いくつか買って、毎回違う物で出したいなとも思った。
 書き損じた時のために、下書き用に紙を用意したっていいかもしれない。
 友達にだって手紙を書いたことはない。錫也は初めてのことに心が浮き立っていた。

「――生嶋?」

 錫也はその声が誰かなんて考える間もなく顔を上げた。
 そこには、疎遠になってしまった友達が立っていた。
 向こうも思わず声を掛けたといった様子で、目が合うと気まずそうに視線を逸らす。

「久しぶり」
「あ、ああ……」
「何か買いに来たの?」

 錫也は努めて平静に尋ねる。目が合った時は変な感じに心臓が跳ねたけれど、大地の『頑張れ』と言ってくれた声が胸に広がっていく。

「え、と……まあ、シャー芯とか? ついでにマンガの新刊見たり。お前は……これからどっか、遠出?」

 錫也の荷物はただ買い物に来ただけのようには見えない。
 続いていく会話が少し嬉しくて、錫也は言葉を丁寧に選ぶ。
 大丈夫。ちゃんと話せている。何も怖くない。

「いや、行って帰ってきたとこ。お母さんの実家で、自然がいっぱいって感じ」
「へー。山? 海?」
「山。川が綺麗だったよ」
「川遊び涼しそうだなぁ。魚もいんの?」
「いるらしいけど、俺は見つけらんなかった」
「あー、な。そういうとこ鈍いもんな」
「はぁ!?」

 友達は喉の奥を震わせ、錫也の反応に笑みを零す。つられてこちらも笑ってしまう。
 友達は錫也の手元に視線をやると、その手にある物を見て目を瞬かせた。そして今立っているコーナーはどこであるのかを認識する。

「便箋セット……?」
「そう。色々あって迷っちゃってさ」
「手紙、書くのか?」
「うん……。大切な人が、できたんだ」

 友達はその言葉に目を丸くすると、慌てた様子で周囲を見回し、ほっと息を吐く。
 そして錫也にだけ聞こえるような声量で「よかった」と零した。

「……ずっと謝りたかったんだ。俺、お前に変な態度取って、嫌な気持ちにさせただろ。でもどうしたらいいか、お前とどう向き合ったらいいのか分かんなくて……。距離を取るのが互いに一番なのかなって勝手に思ってさ」
「俺こそ、不安にさせたと思う。でも、誰彼構わず好きってわけじゃないし、お前のことは本当にただの友達としか思ってないから」
「ははっ、言葉だけだとこっちが失恋したみたいだな」

 そこでようやく、本当に久しぶりに錫也はこの友達の前で呼吸が楽になった。

「ほんとだ。俺が振ったみたいだ」
「……でも、本当によかった。このままずっと話せなくなったらどうしようって、不安だったんだ」
「俺と? でも、他にも友達はいっぱいいるだろ」
「ばーか。お前と遊んだ思い出は他の奴らじゃ代わりにならないだろ。……生嶋だって、俺の大切な友達の一人なんだよ」
「……」
「だから、ごめん。ごめんなさい。そもそも俺が不意打ちであんなの見せてさ、友達だからってよくなかったなって……。でも時間が経てば経つほど、どうしようって気持ちとか……何て言えばいいのか、とかさ。伝えたいこと全部分からなくなっちゃって、そんな自分に対する苛立ちだったはずなのにそういうの全部を生嶋にぶつけちゃって、マジにかっこ悪かった。本当はただ、またこうして話したいってだけだったのに」
「……俺も。俺もさ、どうせ陰で言い触らされたりするんだろうなって思って……そんなことするような奴じゃないって知ってるはずなのに。どいつもこいつももう敵なんだって、いじけてたんだ。俺のほうがかっこ悪いよ。だって、最初から全部拒絶して背を向けていたのは俺のほうなんだから」

 でもこうして、また関係を結び直すことができた。
 それはきっと互いに互いのほうを向いていたからだ。どちらか一方が背を向けたままでは、成し得なかった。

「ありがとう、俺にまた話し掛けてくれて。まだ友達だって思っていてくれて、すごく嬉しい」
「……なんか。大人っぽくなったな」
「一応これ一人旅だったからかな。色んな体験があったんだよ」

 錫也は今とても、真に伝えたくなった。
 怖いと思って怯えて蹲っていた所から一歩踏み出してみれば、自分が思い描いていたような恐ろしいばかりの世界ではなくて、もっと明るい場所へだって歩いて行けたよ、と。
 自分とは違う――と、線引きして背を向けるのではなくて、その線沿いを横並びで共に歩くことはできる。
 そんな明るい道行きのことを伝えたかった。

「それは、その……大切な人と関係ある感じ? つーか聞いていい話?」
「……まあ、関係は、ある」
「あっはは! 照れてやんの。えーなんだよ、恋バナ好きだぜ俺」
「うっさい!」

 便箋を買って、友達とは別れた。また遊ぶ約束を交わして、背を向け合う。
 空は快晴、気温は高め。
 まだ夏の盛り。錫也は日傘を開く。
 そして、大地にまた会う日までの第一歩を、力強く踏み出した。
 この夏を越えた先で、また会える日を待ち遠しく思いながら。