この夏を越えて、君に。

 錫也はスマホの目覚ましを止めた。
 身体をゆっくり起こすと、軽いめまいがした。全く疲れが取れていないように感じる。
 祖母に顔色を心配されたが問題ないと返し、朝食を早々に終えると自室に戻る。昨日言われた通り大地はまだ来ない。
 この間に、荷造りをしようと思った。泊まるのは今日が最後だ。明日の朝にはバスに乗って、電車を乗り継いで地元へ帰る。来た時と逆の道のりだ。長時間の移動で疲労は溜まる。明日になってバタつかないように準備は済ませておきたかった。
 といっても、あちこちに散らかしていたわけじゃないからすぐ片付いた。荷造りはすぐ終わってしまう。
 ふとサンダルのことを思い出した。
 錫也は少し考えて、祖母のもとへ行く。

「お祖母ちゃん。サンダル置いてってもいい?」
「いいけど……あっちで履かないの?」
「うん。また来年、必要になるから」

 その言葉に祖母は目を丸くした後、口に手を当ててふくふくと笑った。
 そして快く応じてくれる。

「まあ、まあ。それなら大事に仕舞っておかないとね」

 錫也は小さく頷いて、祖母の隣でテレビを眺めた。
 暫く二人並んでいたのだが、一向に大地がやって来ない。時間を聞いていなかったものだから、そわそわしてしまう。
 そんな錫也を見かねて祖母は「迎えに行く?」と、大地の家までの道を教えてくれた。
 外へ出ると照りつける太陽の光がとても眩しい。日傘を開いて、これも今日には返さないとなと気づく。
 祖母に教えてもらった道を一人で歩く。あまり目印のない平凡な道だが、少しずつ懐かしさを感じていった。小さい頃に一度、母に手を引かれながらこの道を歩いたような気がする。錫也は大地の家へ遊びに行ったことが既にあるのかもしれない。
 あまりにも小さい頃のことは覚えていない。そういった意味では、錫也が覚えていないと言った嘘は半分くらいは無罪になるかもしれない。
 そんなことを考えながら、暑い空気をかきわけながら歩いていると祖母から聞いていた家が見えてきた。特徴が一致する。大地の家だ。
 家を囲むように立派な生垣が並んでいる。庭には大きな木も一本植わっていて、日陰ができて涼しそうだ。
 生垣の並びをぐるりと回って家の正面まで近づくと、男女の言い合う声が聞こえてきた。
 一人は大地。もう一人は……大地に恋する少女、美羽だ。錫也は咄嗟にその場へしゃがみこむ。日傘がその身体をすっぽりと隠した。
 正面玄関で何か言い合っているようで、美羽の荒げた声が飛んでくる。

「いつもの大地に戻ってよ!」
「いつものって何だよ……。つーかもういいか? 俺行くとこあんだよ」
「そういうとこ! 前までだったら美羽たちと遊んでくれたじゃん!」
「それは錫也が来てなかったからで……何回言えばいいんだ? いい加減しつこいぞ」
「そんな言い方……ひどい……。大地だってどうして分かってくれないの? 美羽、ずっと『すずちゃん』のこと女の子だと思ってたから、振られても仕方ないかもって納得できてたのに。『すずちゃん』は男じゃん! それなのにおかしいよ、何でそんなにあの子のこと優先するの! 手だって握って……、絶対おかしい! 大地おかしくなっちゃった!」

 錫也は俯く。こめかみから汗が伝って、ぽたりと地面に落ちた。
 めまいがしそうで、くらくらしている。うまく息を吸えない。

「ね、今からでも遅くないよ。今日は美羽と遊ぼ? 美羽、大地のことまだ大好きだし……きっと昔の『すずちゃん』は女の子みたいに可愛かったから勘違いしているだけだよね? ずっと会いたかったって言ってたもんね。もしかして大地も再会するまで女の子と勘違いしてたのかな。うん、きっとそうだよね。それで頭が混乱しちゃったんだね。大丈夫だよ、美羽ちゃんと理解できるし。皆にもちゃんと言うから。大地は女の子が好きなんだよって」

 地面が揺らいで、陽炎みたいだ。
 来るんじゃなかった。家で待っていればよかった。
 心にプスプスと針を刺されているような気分だ。美羽の声は悪意に満ちていて、これ以上聞いていたくない。

「馬鹿言うなよ。錫也は男だって昔から知ってる。それに」
「大地こそ馬鹿なこと言わないでよ! 自分が何言ってるか分かってる!?」

 美羽の金切り声がうるさい。
 でも言っていることは正しいと思う。これが普通の反応だろう。だから錫也は地元から逃げ出したくてたまらなかった。
 だから、ここまで逃げてきた。

「男が好きとか知らなかった! 大地、皆のことそういう風に見てたの!? 気持ち悪いよ!」

 ぐさぐさと胸に刺さっていく。
 これ以上美羽の言葉を聞いていたくないのに、大地の答えを聞かずに去るのも嫌で……。
 心臓がバクバクと大袈裟に叩いてくる。汗が一筋背中を垂れる。

「きもいこと言うなよ。男が好きなわけないだろ、俺が好きなのは――」

 錫也は手から力が抜け切ったのを感じた。焼けつくような光を浴びる。遮っていた物が無いからだ。日傘は地面に落ちている。手に力が入らないからだ。
 自分の息と心音しか聞こえない。世界の端からじわじわと絶望が這い寄って来て、見える景色全てがモノクロに変わっていく。
 気づいた時には身体は走り出していた。いつの間に立ち上がっていたのだろう。分からない。とりあえず腕を振る。足を動かす。どこかへ向かう。
 息が上がっても、足が疲れても、暑さに身を焼かれても、立ち止まりたくなかった。
 朝からずっと、ずっとずっと考えないようにしていた。意識してそうしていた。
 昨日の真の言葉は信じるに値しない。大地は良い奴なんだ。嘘をついて知らないフリをした錫也に、また友達になろうって手を差し伸べた良い奴なんだ。底抜けに明るくて、優しい。そんな大地を疑うなんて、ひどいことを……。
 だから真の言葉は全部頭から放り出して、錫也は今日を過ごすつもりだった。
 苦しくて、苦しくて、苦しくて、走り続け、錫也は転んだ。
 咄嗟に手をついて、しかし膝を打ったので痛い。錫也はそのまま地面を引っ掻いて、うずくまった。
 痛い。痛くて痛くてたまらない。
 ぼろぼろと大粒の涙が両目からあふれ、止める間もなく落ちていく。

「っぐ、ぅ……あ……」

 歯を食いしばって嗚咽を殺す。それでもこらえきれなかったものが零れていく。
 胸が痛い。とても苦しい。この心臓を抜き出して痛みを止めてほしい。何が悪いんだろう、どこが悪いんだろう。胸から抜き出して洗ってみたら治まるだろうか。
 涼やかな風が錫也の頬を撫でた。錫也が顔を上げると、さわさわと風に揺れる木を背に真が立っている。
 黙々と涙を流し続けている錫也に憐みの表情を向け、真はゆったりとした足取りで近づいた。

「だから言ったのに。……なんて、今の錫也君に向けるにはあまりにも無神経すぎるかな。でもこれで僕の言いたかったことを理解してくれたよね?」

 真は錫也の傍へしゃがむと、その背を優しく撫でる。

「この世界のどこにも、僕たちの居場所は無い。かわいそうな錫也君……」

 再会した日に嘘だけじゃなくて冷たく突き放していたらよかった。
 ずっと一人でいたらよかった。元々祖母の家でゆっくりするためだけに来たんだ。そうしていればよかった。
 中途半端なことをしていたから今こんなに苦しい思いをしている。最初からちゃんと拒絶していたらよかった。
 全部遅すぎることだけれど。

「だ……っ、だ、って……」
「うん」
「だってっ、好きかも、て……! 思って……」
「うん」

 たった数日でしかなくとも、錫也はとっくに大地のことを好きになっていた。
 友達同士の距離感、触れ合いではなかった。

「そうだね。彼は意図的に君を勘違いさせたんだよ」

 真の言葉が毒のように心へ滲んでいく。
 もう誰を信用していいのか分からない。自分はこのまま一生、他人に怯え疑いながら生きていくのだろうか。

「ひどい奴だ。錫也君へ気があるように見せて、その裏では嘲笑っていたんだね。もしかしたらイトさんのことも騙していたのかもしれない。君たち家族は被害者なんだ。昨日はイトさんまで悪く言ってしまってごめんね……。イトさんはただ君が喜べばと思って大地君と会わせただけなんだ。優しい人だからね」

 真は錫也を立ち上がらせると、両腕で深く抱きしめてきた。
 泣いている錫也を宥めるように、冷たい手が背中を這う。

「僕がずっと傍にいてあげる」
「ずっと……?」
「そう、ずっと。僕だけは君を裏切らない。傷つけない。だって僕は、錫也君のことが好きだから」

 真には悪いが、今はその言葉を全く信じられなかった。

「いいんだよ、すぐに信用できなくても。でも僕の『好き』って気持ちは変わらず存在しているから、少しずつ信じていってくれたら嬉しいな。これから長い時間を掛けて、僕は君を裏切らないって証明していくから」

 今はただ、この胸の途方もない痛みをどうにかできるのなら藁にだって縋りたい思いだった。
 錫也は力なく腕を上げて真の背に回す。
 真の身体は服越しであってもとても冷たく、まるで氷塊に触れているかのようだった。

「嬉しいな。受け入れてくれるんだね」
「……も、どうでもいい。何でもいいから、痛いの、止めて……」

 体温がどんどん吸い取られていく。
 すると意識が朦朧としてきて、錫也は自分が今何をしているのか分からなくなった。
 真の言葉だけが頭にするりと入り込む。

「ねえ、顔を上げて」
「ん……」

 唇に冷気が掛かる。錫也は両目を閉じてそれを受け入れようとした。

「錫也君、一緒に……」

 あともう数ミリといった距離に真の唇はあって、もうすぐ触れ合う瞬間。
 引き裂いたのは怒りを伴った声だった。

「――錫也から離れろ!」

 意識が落ちかけていた錫也はハッとして、しかし真にしがみついた。
 聞きたくない。もう何も話したくない。そんな思いがあるのに、どうしてか視線はそちらへ向いてしまう。
 潰してしまうんじゃないかってくらい、日傘を強く握っている大地が鋭い視線を真へ向けていた。錫也が落としてそのままだった日傘だ。大地はそれを見つけて、錫也が来ていたことを知ったのだろう。それで追いかけてきたのか?
 錫也は唇を強く噛んだ。
 嬉しいと感じるな。そう自分に言い聞かせる。たったそれだけのことで心を弾ませるな。だから簡単に騙されるんだ。
 でも、と心のどこかが声を上げる。
 大地は息を切らしているし、汗でシャツの色が変わってしまっている。きっと走って探しに来てくれたんだ。

「あーあ、二人の時間を邪魔されちゃったね」

 真は錫也の肩を抱いて、大地へ冷ややかな視線を向ける。

「誰だお前……」
「錫也君と特別親しい者だよ。君と違ってね」

 大地は真を不審に見つめ、錫也へ手を差し伸べる。
 その瞳には焦りが滲んでいた。

「錫也! こっち来い!」
「大地……」
「心外だな。僕を不審者みたいに……」
「この辺の奴じゃないだろ! お前なんか見たことないし知らねえよ!」

 大地が一歩踏み出すと、錫也は怯えて真に縋った。
 それを見て大地が「錫也……?」と、戸惑いの声を上げる。

「大丈夫だよ、錫也君。僕が傍にいるからね」
「……お前、錫也に何したんだ」
「自分のしたことを棚に上げて、よくもそんなことが言えたね」
「俺のしたこと……?」

 錫也は真にぎゅっと縋りついたまま「聞いたんだ」と言葉を落とす。
 脳裏に蘇る金切り声と、無情な台詞。大地の声で聞きたくなかった言葉。

「あの子と話してたの、全部聞いた」
「あの子……?」
「俺のこと揶揄ってたんだな……。馬鹿みたいに舞い上がって、馬鹿みたいだ」
「錫也、待ってくれ何のことか」
「――男が好きで、きもくて悪かったな!」

 一度決壊してしまったものは止まらない。
 錫也はこれまで我慢してきたもの全てを今ここで吐き出してしまおうと、心のストッパーを外した。

「俺だって普通でありたかったよ! 普通に、女の子を好きになりたかった! でも無理なんだ、仕方ないだろ! いいなって思うのも、考えるのも、全部そうじゃないんだから! でもそれで何か悪いことしたか……? バレないように頑張ったし、普通に見えるようにしたし、友達のことそういう目で見たことだってなかったし! でも、それでもバレちゃったらどうしたらよかったんだよ。偏見ないからって言われたって、そんなのどうやって信じたらよかったんだ。いつか周りにバラされたらどうしようって、ある日突然そうされてたらどうしようって、怯えるのは当たり前じゃないのか? それなのに俺ばかりが悪いのかよ。俺が信じなかったように、あっちだって俺のこと信じてなかったじゃないか。それなのに、それなのに……!」

 怖い。苦しい。そんな思いを誰にも打ち明けられずに、今日こそは全てバラされているのかもしれないと思いながら教室のドアを開ける瞬間の苦痛を知らないだろう。
 視線が合うたびに、何か言いたそうな様子を受けて……怯える錫也のことを何も知らないくせに。

「普通でいたかったよ、俺も……。でもこれが俺の普通なんだ。これが俺なんだ。それなのに、俺がお前たちと違うからってこんなひどい扱い受けなきゃいけないのかよ」
「まさか美羽との……。錫也、俺があの時美羽に言ったのはそうじゃなくて」
「聞きたくない!」

 普通でありたかった。
 大多数の人と同じ側に立っていたかった。
 それが無理であっても、なるべく波風立たないように努めていたつもりだ。
 それなのにどうして……? どうして、こんなにも苦しい思いをしているのか。

「俺の反応を楽しんでた? 騙されて馬鹿な奴、気持ち悪いとか思ってた? 俺には何が楽しいのか全く分かんないけど! これってさ、何かの罰ゲームとかだった? そっちの友達連中で、短期間で俺のこと勘違いさせられるかってやつ? おめでとう、大成功だよ。最悪な趣味だけど、それくらいしか楽しみないんだろ。俺……っ、俺に何の恨みがあるんだよ!」
「錫也頼む聞いてくれ!」
「うるさい! うるさいうるさい!」

 涙が止まらない。
 もう二度と誰のことも好きになりたくない。

「大地なんか! 大嫌いだ!」

 声を荒げて、錫也は叫んだ。
 これでもう大地は去ってくれるだろうと思った。ここまで言われて、もう錫也に関わろうとしないだろう、と。

「錫也」

 しかし大地は錫也に怒るでもなく、むしろ一際優しい声音で語り掛ける。

「俺のこと大嫌いでもいい。一旦落ち着いてくれ。それで、一緒に帰ろう。全部ちゃんと話すから」

 変わらず、錫也へと手を差し出す。
 それがとても眩しくて、錫也は嗚咽をこらえた。
 揺らいでしまう自分に、まだ大地を信じていたいと思う自分に、苛立ちが沸き起こる。

「もう全部嫌だ……!」

 とことん自分が汚く見えていく。大地のことを信じられないのも、大嫌いと言ったのも、全部錫也が弱いからだと示しているようでつらい。もう、此処に居たくない。
 そう思って吐き出した言葉だった。
 それに真は微笑みを返す。

「僕がそれを叶えてあげる」

 真は錫也の手を握って「こっち」と走り出す。錫也は転びそうになりながら、懸命に足を動かした。
 後ろから大地の呼び止める声が聞こえるが、すぐ遠くなっていく。
 真は凄まじい速さで山道を登っていった。錫也は何度か「待って!」と叫ぶが、真は耳を貸さずにどんどん奥へと進んでいく。
 精神的にも疲れきっていた錫也は真に引きずられるような形でそれについて行った。何度も転びそうになって、無理に引っ張り上げられる。
 真がようやく止まり辿り着いたのは、切り立った崖のようになっている滝壺だった。中々に高さがあって、大きな音を立てて水が下へ流れ落ちている。
 錫也の呼吸が整う間も待たず、真は手を引いて崖の端まで歩を進めた。

「……真さん待って。危ないよ、あっちまで戻ろう」
「言ったよね。僕がずっと傍にいるって」
「真さん……?」

 錫也を振り向くその表情は逆光となっていて黒く塗りつぶされており分からない。

「だから錫也君も、僕とずっと一緒に、傍にいられるようになってほしいんだ」
「真さん、とりあえずあっちに戻ってから話そう……?」

 手を引くが、びくともしない。
 むしろ真は痛いくらいに手を強く引いて、離れようとする錫也を引っ張り上げた。
 足場の悪い所に立たされて、錫也は腹の底がひゅんと寒くなる。少しでも体勢を崩せば真っ逆さまに落ちてしまいそうだった。
 真が錫也の耳元に顔を寄せる。

「分かっているだろう? 僕がどういうものか」
「真、さん」
「一緒にいるには同じようにならないとね」

 背筋を恐怖が滑り落ちる。
 錫也は本能で危険を感じ取って、真から離れようとした。しかし真の腕が既に腰へ回っており、無理に突き放そうとすれば二人とも滝壺へ落ちてしまう。

「真さん、やだ、嫌だやめて」
「どうして。大丈夫、怖くないよ。僕が傍にいるからね。それに苦しいのは一瞬だ」
「嫌だ、嫌だってば!」
「さあ、逝こうか」

 あまりにも呆気なく、錫也の両足は地面から浮いた。
 頭が真っ白になる。指が宙を掻く。何にも掴まることができない。

「――――錫也ァ!!」

 声が聞こえたほうへ手を伸ばそうとしたけれど。

「だい――」

 天地がひっくり返り、錫也は青い空を見た。
 怖いくらいに真っ青で、それが近いのか遠いのか分からなくなって、周りの音も途絶する。
 この時間が長かったのか短かったのか分からない。
 確かなのは、人間には空中に留まる術はないということだけだ。
 永遠とも思える瞬間を通り過ぎれば、錫也は大口開けた水の中へと放りこまれた。水が胴体や四肢、身体全てにまとわりつく。
 錫也は怖くなって瞼を固く閉じた。

「……っ!?」

 どうすればいいのか分からない。右も左も、上も下も分からない。
 沈んでいるのか上がっているのか。
 息が、苦しい。
 唇をぎゅうっと引き結んでいるが、酸素が足りない。
 めちゃくちゃに手も足も動かしてみるが、地上へ進めているのか……。
 目を開けたら光る水面が地上じゃないのか? 混乱の中でありながらふと気づいて、薄らと瞼を開いた。

「だめだよ」

 目の前に真がいた。
 錫也は思わず口腔内にわずか残っていた酸素を吐き出してしまう。泡だけが地上へ逃げていく。咄嗟に口を閉じるが、少し水を飲んでしまった。
 真は錫也の両足を掴むと、ぐいぐいと下へ引っ張った。どんどん底へと連れて行かれる。
 錫也は足をばたつかせようとしたが、水が重くてうまくいかない。真の手は蔓のように錫也の足に絡みつく。
 地上の光から更に遠ざかる。
 これ以上はもう息がもたなかった。
 嫌だ。死にたくない。
 苦しかったし、つらかったし、もう居たくないと思ったけど。
 それでもここで終わりになんてしたくない。
 こんな極端な解決なんて望んでなかった。嫌だ。生きていたい。

「――――」

 助けて、と。
 音にならない言葉が生まれる。
 それが届いたからなのかは分からない。
 しかし、錫也の目に飛び込んできたのは……ヒーローのような大地の姿だった。
 大地はすぐ錫也の姿を見つけると、身体をしっかり抱えて水面へ押し上げてくれた。
 真は抵抗するように錫也を水底へ引きこもうとするが、大地は絶対に錫也を離さなかった。
 輝く水面がもうすぐそこにあって、水の膜から顔を突き出せた時、ようやく錫也は大きく息を吸った。
 そしてすぐに咳きこむ。
 大地は錫也を地面に引き上げて、水際から距離を取った。そして噎せている錫也の背中を優しく撫でる。
 錫也は数万年ぶりに酸素を吸い込んだような気分だった。

「落ち着け。ほら、ゆっくり……吸って、吐いて」
「……っ、ぅ……」
「そう上手……」
「う……、だい、だいち……」
「うん」
「だいち……っ」
「大丈夫だぞ。錫也、もう大丈夫だから」

 錫也は涙がぼろぼろと落ちて、大地にしがみついた。
 大地の手が宥めるように頭を撫でる。
 互いにびしょ濡れだったが、錫也には大地の体温をしっかり感じ取れた。陽だまりのような優しい温もりだ。
 言いたいことはいっぱいあったのに、言葉は全て喉の奥にべったりと貼りついて出てこない。

「錫也、大丈夫……」
「うっ、ひっく……、だいちぃ」

 死ぬかと思った。死んだと思った。
 あのまま暗く冷たい水の底に引きずり込まれて、もう二度と太陽なんて拝めないと思った。
 もう二度と。大地の声も、祖母の声も、母の声も、何も。
 聞こえないまま死んでいくと思った。
 生還できたことで、味わった恐怖が更に強調されたようだ。次から次へと涙は止まらないし、身体は震える。
 大地にしがみついて、その心音を感じて、錫也はようやく生を実感できた。
 生きている。助かった。
 大地が助けてくれた。あの高さを飛び降りて。
 落ちる直前に聞こえた声は幻覚じゃなかった。追いかけてきてくれていた。錫也は大地にひどい言葉を投げかけてしまっていたのに。
 錫也は大地の肩に預けていた頭を上げる。
 謝らなくちゃと思った。
 大地は――泣いていた。
 静かに涙が流れている。

「だい、ち」
「本当に、もう……大丈夫だから……錫也」

 大地の目は真っ赤に充血しており、錫也と同じように涙があふれていた。
 唇がわなわなと震える。錫也は死ぬかもしれないと怖かった。
 でもそれは錫也だけが抱える恐怖じゃなかったんだ。

「よかった……!」

 大地は錫也の頬を両手で挟んで、額を合わせた。
 まつ毛に乗っていた水滴が落ちる。

「錫也……! よかった、ほんとに……!」
「う、うぁ……」

 赤子のように泣いた。
 ただ互いの感情をぶつけるように、ひたすら泣き声を上げた。
 生きてる。生きてる。生きてる。
 それだけが全て。

「――どうして死んでくれないの?」

 大地の腕が錫也の肩に回って、強い力で抱きしめられた。
 錫也も大地に寄り添って、声のしたほうへ恐る恐る顔を向ける。
 真が、揺らぐ水面の上に立っていた。その影は無く、水面に姿が映ってもいない。
 無機質な瞳をただ錫也に向けて心底不思議そうに首を傾げている。

「ねえ、どうして?」

 そのあまりの異様さに錫也が言葉に詰まると、大地が真をキッと睨みつけた。

「それより先に言うことがあるだろうが!」

 こんなにも険がある声音は初めてだった。

「てめえ、錫也を殺そうとしやがったな」
「……お前とは話したくない。僕は錫也君に聞いているんだよ」
「ざけんな! 錫也をこんな目に遭わせやがって」
「はあ? 僕は錫也君の願いを叶えてあげようとしただけだ」
「死ぬことが錫也の願ったことだって言うのかよ! じゃあ何で錫也はこんなに泣いてんだ、こんなにお前のこと怖がってんだよ!」

 真は「怖がってる……?」と、理解できない言葉を浴びたように呟く。
 そして錫也へ視線をやると、口角をぐいっと上げた表情を見せた。

「そんなことないよね。僕と錫也君はちゃんと分かり合えてる」

 錫也はそこでようやく、真は錫也のことを想っているわけじゃないと気づいた。
 まるで物真似を見ているような気分だ。
 こうすれば好感を持たれる。そんな風にのっぺりと貼られた笑顔は、どこか不気味だった。
 錫也は勇気を持って、首を横に振る。

「ちがう」

 真の表情が曇った。けれど錫也は視線を逸らさなかった。

「死にたいなんて思ってない」
「……それはおかしいよ。おかしい。だって僕と一緒にいたいと思っただろう」
「……このまま痛くて苦しいのが続くくらいなら、好きって言ってくれる真さんに縋るのが一番楽かもしれないって最低なこと思った。でも、だからって死にたいわけじゃなかった」
「そうだよ。痛くて苦しいのが続くんだ。ちゃんと分かってるのに……」

 真には、錫也が我儘を言っているように見えているらしい。
 こんなにも言葉は届かないものなのか。それとも、生者と……死者との違いなのか。

「痛くて苦しいのが続いても、生きていたいんだよ」
「なに、何を言ってるの」
「死にたくない。まだ生きていたい」
「でも僕と一緒にいるなら死んでもらわないと……。どっちもはズル。駄目だよ錫也君」
「ズルじゃねえよ。馬鹿かお前」
「……なんだと」
「つーか頭おかしいよ。好きな奴がたとえ死にたいって言ったとしても、無理矢理にでも生きるほうへ引っ張り上げるべきだろうが! それで生きててよかったって、いつか思わせられるように傍に居続けるのが男ってもんだろうが! じゃあ死ねって突き落とすのは殺人鬼と変わんねえんだよ! てめえは錫也を殺すことしか考えてねえ、そんな奴に錫也は絶対渡さない」

 肩に置かれた手に力がこもる。錫也はその手に自分の手を重ねた。

「……真さんと一緒なら、もう誰からも傷つけられることはないのかもしれない」
「そうだよ! そう、僕と一緒ならもう二度と傷つくことも苦しむこともない!」
「でも今度は、置いて来てしまった人たちを想って苦しむんだ」
「……誰の話? 死んだらもう、僕と君だけなんだよ」
「違うよ。全然違う。俺には家族が居て友達が居て、その人たちとの思い出がある。死んじゃったらもうその思い出を増やせないし、取り返しのつかないことをしてしまったって苦しみ続ける。永遠に」

 実際に死を目の当たりにして、錫也は思った。
 ここで立ち止まって終わりにしてしまうことと、更に続いていく未来のことを。

「それなら俺は生きて苦しむことのほうを選ぶよ」
「……傷つくばかりになるよ」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。少なくとも今は、傷つくばかりじゃないってようやく気づけたから」

 だから、真とは一緒に逝けない。
 そう告げると、真の顔は怒気に歪んで、しかしすぐ興が削がれたかのように無表情になった。

「……そんな錫也君はもういらない」

 真は足先から水に沈んでいった。
 最後に交わった視線は、こちらを恨めしそうに睨んでいた。
 真の姿が見えなくなり十秒くらいはその水面を見つめていたと思う。

「……錫也、立てるか?」
「うん」

 大地に支えられながら立ち上がって、二人は同時にくしゃみをした。

「イトばあちゃんとこ、帰ろう」
「うん。……大地、あの」
「色々と俺も話したいことがある。でも今はここを離れよう、な?」
「……わかった」

 弱々しい足取りで森を抜けると、外は昼を通り越してオレンジ色に染まっていた。
 二人で口をぽかんと開ける。
 それほど時間が経っているようには感じなかった。しかし以前にも同じことがあったと思って大地に伝えると、彼は頭をぐしゃぐしゃと掻き回して「……もう来るのやめたほうがいいな」と苦笑した。
 二人でよたよたと歩きながら家に着く。
 玄関を開け声を張って「ただいまぁ」と告げると、奥から祖母がぱたぱたと走ってきた。
 びしょ濡れの錫也と大地を見てぎょっとする。

「どこ行ってたの!」
「ごめん。とりあえずタオルお願いしていい?」
「もうシャワー浴びなさい、大地君も!」
「あ、お邪魔しまーす……」

 肌に張り着いていた服を脱ぐのは気持ち良かった。二人で順番にシャワーを浴びて服を着替え、居間に座るとようやく全身の力が抜けて安心できた。大地も同じようで、表情が緩みきっている。
 祖母は「それで?」と錫也たちの前に座った。

「お昼はどこかで食べたの? 大地君を迎えに行ってから中々帰ってこないから心配してたのよ」
「ごめんなさい……。お祖母ちゃん、実は――」

 錫也と大地は、こんなこと信じてもらえないかもしれないけどと前置きをして全て話した。
 途中言葉に詰まったりしたが、それでもきちんと話すことができたと思う。
 怪訝そうだった祖母の表情は段々変わって、錫也が話し終える頃にはその両目に涙を抱えていた。嗚咽を零さないためか、しわくちゃの手で口を押さえている。
 祖母は黙って錫也を抱きしめて、その背を何度も優しく撫でながら「おかえり」と口にした。錫也は涙の混じった声で「うん」とだけ返す。
 錫也を離すと今度は大地の頭を撫でて「ありがとうね」と話す。

「錫也を助けてくれてありがとう」
「いや、元はと言えば俺が悪くて……」
「違う、大地は悪くない」

 そんな二人の様子を見て祖母は表情を和らげた。
 そして視線を下に落とす。

「私が小さかった頃……今の錫也たちよりもっと小さかった頃ね」

 もっと人が多くて、それで子供の数も今よりうんと多かった頃。
 祖母が言うには、綺麗な青年が居たらしい。男性でも思わずドキリとしてしまうような、美しい見目の青年。
 その頃の祖母は十にもまだ届かない年齢で、しかも恥ずかしがり屋だったのでその青年と道ですれ違う時でも照れくさくて目を合わせることが全くできなかった。いつも俯いていたそうだ。
 しかしそんなに綺麗な人に失礼な奴だと思われたくなくて、祖母は勇気を振り絞って小さな声であっても挨拶だけは続けていた。

「私よりうんとお姉さんな女の子たちも同じだった。あまりにも綺麗で、まるで違う世界の人のように思えたの。私たちが話し掛けるのは恐れ多いって思ってしまうくらい、姿も所作も何もかもが美しい人だった。すれ違う時、少しでも触れたら汚してしまうんじゃないかって怖かったのね。でもたまに視線が合って、そのお兄さんがふわって笑いかけてくれた時は応えるために手を振ったわ。こう、小さくだけどね」

 しかしその容姿のせいか、青年は孤立してしまっていた。同性でも気軽に話し掛けることはできないようだった。
 そのうち何人かが度胸試しとして青年と関わるようになって、更にその中の一人の男性が青年と特に親しくなったようだった。
 青年とその一人が隠れて抱き合い微笑み合っているのを見たことがある。まるでお伽噺のワンシーンのように、完成された世界に見えた。息を殺して隠れていたつもりだったのに、青年とバチリと目が合ってしまった時は心臓がこれ以上ないほどバクバクとうるさかった。
 しかし青年は怒ることなく、その綺麗で長い指を口元に運んで微笑んだ。特別な秘密の共有のようで、首をぶんぶんと縦に振った。そして同時に、青年はもうひとりぼっちではないんだと嬉しくなった。
 でもすぐ後に、青年は姿を消した。
 見つかったのは暫く経ってからだった。山のほうで警察がたくさん来ていたのを覚えている。赤いランプが夜闇の中に浮いているようで、少し怖かった。
 青年が自殺したというのを子供たちが知ったのは、それから更に経ってからのことだった。

「……もしかしてその人が」
「私は挨拶しか交わしたことがなかった。でも、ちゃんと目を合わせていっぱいお話ができていたら……。あの人を孤立させて寂しい思いをさせていたのは私も同罪ね」

 青年と親しくしていた人は、どこか遠くへ引っ越した。綺麗なお嫁さんを貰ったとは聞いている。親の紹介での見合いだったとか。
 子供だった祖母は大人たちの間で何があってどういう話し合いがあったのか分からない。しかし失踪する直前に見かけた青年の表情はひどく落ち込んでいて、あんなに綺麗だった口元は赤く腫れていた。
 今思うと、青年はただ美しいというだけで孤立していたわけじゃないんだろう。

「真お兄さん。そう、まだずっとそこにいるのね……」
「お祖母ちゃん……」
「でも、錫也をどうこうしようなんて許せないわ。文句言いに行ってやろうかしら」
「や、やめて! お祖母ちゃんに何かあったら俺……」
「ふふ、大丈夫よ。もう少し涼しくなったら散歩ついでに花を供えに行くだけ。私のこと覚えてくれているかしらね」
「……覚えてると思うよ。お祖母ちゃんの名前、知ってたから」
「……本当に。勇気出して話し掛けたらよかった。お友達も連れて、一緒に遊んでもらったらよかった。後からこうしたらよかったってことばっかり浮かんで、情けないわね」

 祖母は昔を思うように寂しそうな顔をする。子供だったから仕方ないというのは、祖母の中で免罪符にならないんだろう。
 真がどうしてあんなに同じであることに拘るのか垣間見えた気がした。彼はきっと、同じではなかったことでひどく傷つけられて、それはたぶん恋愛以外の部分でもそうだったのだ。

「さ、暗い話はここでお終い! ご飯食べましょ。大地君も食べて行くわよね?」
「お願いします。あ、電話借りていい? 家に電話しないと……スイカ持ってくって言ったのに」
「それならお母様が持って来てくださったわよ」
「げえっ!」
「大変怒っていらしたわね」
「終わった……」

 その後は祖母が作ってくれた夕飯を、二人は黙々と食べた。疲労が凄まじかったのだ。
 もちろんスイカ割りなんて到底できそうになくて、祖母が綺麗に切り分けてくれたそれを縁側で食べる。

「来年の楽しみにしようぜ」
「ん……?」
「スイカ割り!」

 錫也は目元をほころばせて、小さく頷いた。
 来年の夏がもう既に待ち遠しかった。
 スイカを食べ終わって、大地が祖母に「今日、泊ってもいいですか」と尋ねる。
 祖母は大地をじっと見つめると、ただ一言「節度!」と告げる。

「守ります!」
「ならいいわよ。お客様用のお布団出すから手伝ってくれる?」
「もちろん!」

 布団は錫也の真横に並べて敷かれた。
 祖母におやすみと告げて、二人は布団の上で向かい合う。
 まず大地が先に頭を下げた。

「傷つけてごめん! 確かに俺の言葉選びは最悪だった!」
「まってまって! そもそも俺が盗み聞きしたのも悪いし、話の前後だってちゃんと把握してなかったのに」
「でも傷つけたのは確かだ。そこをなあなあにはしねえよ。錫也、ごめんな」
「……うん」
「美羽に『男は好きじゃない』って言ったのは、言葉通りの意味じゃ……いや、言葉としては合ってるんだけど、でもそういうのじゃなくって……ああくそ、ごちゃごちゃしてきたな。つまりだな! 俺は錫也のことが好きなわけで! 男が好きってわけじゃない! 俺が好きなのは錫也だけ! 錫也が女でも男でも、錫也であれば好きってこと! 分かるか!?」

 半ばやけくそのようであったと思う。
 大地は顔を真っ赤にして、錫也の両肩をがしりと掴んだ。

「でもあいつは友達引き合いに出してくるから、きもいこと言ってんじゃねえよって思って! あいつらは錫也じゃないんだから」
「わ、分かった」
「俺はずっと生嶋錫也が恋愛的に好きなんだって家族にも宣言してるしこの辺じゃ皆知ってるから!」
「分かったってば! ってか家族!? 皆!?」
「あ」
「な、なななにを言い触らしてるんだよ!」
「有言実行って言うだろ。言ってればいつか叶うかなって」
「馬鹿なのか!?」
「でもこうやって錫也とまた会えたし……。あっ、それに俺の初恋が錫也だっていうのは小さい頃から皆知ってるから隠すようなことでもないし」
「は、初恋?」
「……そうだよ」

 錫也の肩を掴んでいた手がするりと落ちて、錫也の両手を優しく包む。
 熱っぽい視線を向けられて、錫也は心臓がドキリとした。

「ガキの頃、初めて会った時から錫也に惚れてる。錫也が女でも男でも関係なく好きだ。大好き。だからもし叶うなら……俺の、こと。ほんの少しでも可能性あるなら、受け入れてくれないか」

 額が合わさって熱が伝わってくる。
 至近距離で見つめ合って、錫也は耐えられなくて瞼を伏せた。

「あ、の……俺も、言いたいこと、いっぱいあって」
「ああ。でも、ごめん。我慢できそうにない」
「せ、節度は……?」
「……ほんのちょっと破っちまうかも」
「……えっと、じゃあ一個だけ」
「なに?」
「大地のこと覚えてないって言ったの、嘘だよ。ごめん……」
「ははっ、あの可愛い嘘な」
「き、気づいて」
「気づくよ。だって、錫也は――」

 唇が柔らかいものに触れた。一度ふにりと触れると、少し離れて、またすぐ押しつけられる。
 想像していたものよりもずっと柔らかい。
 数度それを繰り返すと、大地の手は錫也の後頭部に回った。
 角度を変えて再び唇が重なると、今度は吸いつかれた。ちゅ、と音を立てて上唇を吸われ、驚いて目を開けると情熱的な瞳に射貫かれる。
 制止するよりも前に、深く唇が重なった。
 リップ音が耳に届いて、顔にじわじわと熱が集まってくる。
 されるがままになっていると掠れた声で名を呼ばれる。

「錫也、鼻で息して」
「は、ん……」

 閉じた唇の隙間を、ぬるりとした何かで突かれる。
 わけもわからず、とりあえず開くと中に侵入された。ざらりとした面が錫也の舌を擦って、背筋に甘い痺れが流れる。
 まるで教授するかのように大地の舌は動いて、錫也はその通りに舌を動かした。
 口内に侵入した大地の舌と擦れ合う。これがとても気持ち良くて、頭はボーっと熱に浮かされた。
 あふれた唾液が口端から零れて、顎を伝い首筋に流れる。
 それに声を漏らせば、大地の舌が錫也から離れ、首筋をツウーっとなぞった。

「ひゃっ……」

 上げたこともない声が口から零れる。
 恥ずかしくなって両手で口を押さえたら、大地の目がぎらりと燃えて錫也の肩を押した。錫也はそのまま布団へ倒れてしまう。
 両手を剥がされ、布団の上に縫いつけられる。
 錫也の真上に大地が跨って、一切の身動きが取れなかった。
 また唇が重なる。
 今度は最初から舌を入れられ、熱く絡まった。戸惑いながら、しかし自ら舌を動かしてみると応えるように大地のそれも動いて、水音が一層大きくなる。
 上顎を撫でられるとまた違った快感が背筋を走って、錫也は生理的な涙を目尻に浮かべた。思わず舌が逃げると、大地は許さないと告げるかのように追って、更にひどく絡み合う。
 鼻で呼吸するのを忘れて、息が苦しくなってくる。くぐもった声で合図すると、くちゅりと音を立てて舌は離れた。唾液が一本の線で引かれる。
 大地はそれを乱暴に拭うと、荒く息を吐きながら錫也の上から退いた。
 そして隣に敷かれている布団へうつ伏せになって「ごめーん!」と、枕に顔を押しつけたまま叫ぶ。

「本当にごめん……好きなだけ殴ってくれ……」
「い、いや」
「俺は猿だ……いや猿以下だ……」

 大地が突っ伏しているのをいいことに、錫也は先ほどまで貪られていた唇にそっと触れた。まだじんじんと熱が宿っている。
 初めてのキスだった。
 こんなにも情熱的で、感情が伝わるものだと知らなかった。
 頭が熱く蕩けて、もうこのまま全て受け入れてしまってもいいと思ってしまうくらい、魔法に掛けられた時間だった。
 身体の全部がぞくぞくとして、知らない刺激ばかりなのに頭はこれが気持ち良くなれるものだと本能で理解している。
 大地が止まらなければ、錫也のほうが我慢なんてできていなかっただろう。
 それくらい濃密で、甘美だった。
 錫也は大地の服の裾をちょいちょいと引っ張る。
 大地は起き上がって、錫也と膝を突き合わせた。

「ん……?」
「俺もちゃんと言いたい、から」

 勘違いしてひどい言葉を浴びせたこと。
 大嫌いと言ったこと。
 それでも錫也のことを助けに来てくれたこと。
 その全てに謝罪と感謝を告げて、錫也は頭を下げた。もしかしたら大地だって死んでしまっていたかもしれないのだ。

「だから、本当にごめんなさい。俺、暴走してた」
「……わかった。受け取る。でもこれ以上謝るのはナシな! 互いに生きてて良かった。それでお終いにしよう?」
「うん」

 錫也は指先をもじもじと合わせて、視線をあちこちに巡らせ、大地が不思議そうに首を傾げた頃ようやく意を決した。

「大地のことが、好き。……です」
「……」
「大地のこと忘れたフリしたのに変わらず優しくしてくれたり、また友達になろうって言ってくれたり、これまでのこと本当に感謝してる。でもそれだけじゃなくて……何て言ったらいいか分からないんだけど、その、俺のことを大切? に、してくれてるんだなって感じとか、一緒にいて落ち着くっていうか……。もちろん、ドキドキはするんだけど、それは落ち着かないだけじゃなくって。えっと、だから……俺は、大地のことがすごく好き」
「…………」

 言った。顔から発火しそうなほど熱が上がっている。
 しかし言いきった達成感でいっぱいだった。
 この勢いのまま、もう一つの秘密も口にする。

「俺、恋愛対象が同性なんだ。男の人が好きってこと。それが仲の良かった友達にバレて、気まずくなって、ここまで逃げてきた。本当はずっと一人で過ごすつもりだったんだ。だからバス停で大地が声掛けてきた時すげえ焦った。俺、他人と関わって何がきっかけでまたバレるんだろうってずっと怖かったから……。それで咄嗟に、覚えてないって忘れたフリしちゃった。大地はそれでも俺のこと外に連れ出してくれて、俺は段々それがとても楽しくて……」

 じわじわと大地の優しさが伝わってきて、気づいたら錫也は大地に惹かれていた。
 もしかしたら錫也も幼い頃から大地のことが気になっていたのかもしれない。
 そう思うと、再会できたのは運命のように感じる。
 そしてそのおかげで、錫也は再び歩き出すための力を取り戻すことができた。

「だから……大地、俺のことをずっと好きでいてくれてありがとう。俺のこと待っていてくれてありがとう」

 大地は錫也の手をぐいっと引くと、真正面から抱きしめてきた。

「……熱いよ」
「悪い」
「身体、燃えてるみたい」
「錫也もだろ」
「……うん」
「錫也」
「なあに」
「これからはつらいことあったら何でも話し聞く。そんで、全力で元気にしてやる」
「よろしく。……でも、できれば楽しいことだけ話していたいよ」
「誤魔化したら怒るからな。俺に嘘は通用しないと思えよ」
「ええー……。そう言えばさ、どうして嘘って分かった?」
「ああ。分かんないか?」
「分かんないよ」
「長年会えてなくたって、好きな奴の嘘なんて分かっちまうよ」

 そっか、と返して。
 錫也はバレないようにそっと笑った。
 大地が愛おしい。この感情は絶対に嘘ではない。

「――よし。これ以上は本当に俺の我慢がやばい! 寝るぞ」
「……大地」
「ん?」
「手だけでいいから触っててもいいか?」
「…………」
「だめ?」

 布団は横並びだが、できればまだその体温を感じていたかった。
 同じ布団で寝ることはさすがにできないだろうが、手を伸ばして触れていることだけなら可能だろうか?
 もちろん、大地が許してくれるのなら……だが。
 想いが通じ合って、こんなにも近くにいるのに触れていることができないのは少し寂しかった。叶うなら手を握っていてほしい。

「大地?」

 だんまりが続いている。おかしなことを言ってしまったのだろうか。
 大地は大きな手で自分の顔を覆って何やら呻いている。

「……がまんがまんがまんがまん」
「あの……嫌なら」
「嫌じゃない嫌じゃないんだよだから問題っていうか! でも錫也がこんなに可愛いこと言ってくれるの俺の長年の願望とか欲望が生み出した幻じゃねえよな!? ああもうなんで俺ってまだ高二なんだろう! 節度! 冷静になれ俺ぇ!」
「大丈夫?」
「……よろしくお願いします!」

 まるでこれから腹を切る武士のような面持ちで、大地は錫也に手を差し出した。
 錫也はそれをきゅっと握って、へらりと笑う。

「大袈裟だな」
「……錫也が可愛すぎて俺のこれからの心臓大丈夫か不安になってきた」
「冗談はそれくらいにしとけよ」
「本人が分かってない感じが一番可愛い……!」

 握った手から伝わってくる体温に安心する。
 錫也はすぐに瞼が重くなってきた。

「だいち……」
「うん?」
「おやすみ……」
「ああ。おやすみ、錫也」

 あともう少しだけ、この夜が引き延ばされてくれたらいいのに。
 そんなことを思いながら、錫也は優しい眠りの底に落ちていった。