この夏を越えて、君に。

 いつの間にか寝入ってしまっていて、起きた時はとても身体が怠かった。
 顔を洗って着替えている間にそれは消えたが、あまり頭がパッとしないまま錫也は居間に向かう。

「おはよう錫也! ごめん先に食べてた!」
「……なんでいる」

 大地が、祖母と共に食卓に着いていた。
 そして茶碗に盛られた炊き立ての白米を大きな口に運んでいる。
 錫也は夢かと思ったが、何度瞬きしても目の前の光景は変わらない。

「ほら早く食べろって。冷めちゃうだろ」
「あ、ああ」

 錫也は座って、しかしすぐ顔を上げる。

「――じゃなくて! 何で当然のように居るんだよ!」
「え。だって今日も遊ぶだろ」

 大地は食べ終わった食器を持って流しへ置きに立った。
 戻ってくると唇を尖らせて「それよりも昨日どうして俺を置いて行ったんだよ」と拗ねた様子を見せる。
 それを言われると錫也は視線を泳がせて、小さく返す。

「……だって、彼女がわざわざ会いに来てくれたんだから」

 言っていて、胸の奥がつきりと痛んだ。
 真に会いたくなってくる。恐れを抱いているのに。

「彼女?」

 しかし大地は錫也の言葉に心当たりが全くないといった様子で首を傾げる。
 錫也はさすがにそれはないだろうと思って声を荒げてしまった。

「昨日の子! とぼけるなよ」
「美羽は彼女じゃねえよ! ってか彼女いねえし!」
「誤魔化すなよ、だって昨日浮気がどうとかって」
「それはあいつらが勝手に言ってること! 何回か告られてはいるけど全部断ってるし、俺にとって美羽はただの友達だよ。……なんだ、それで帰っちゃったのか? よかった、俺てっきり知らないうちに錫也を怒らせちゃったのかと……」

 錫也は、美羽は友達という言葉をよく噛んで飲み込むと、首からじわじわと熱が上がってきて顔が真っ赤に染まるのを感じた。
 ということは、錫也は勝手に大地には彼女がいると勘違いして嫉妬して……やつ当たりみたいなことをしてしまったのだろうか。

「ごめん……。昨日、俺ちょっとおかしかった」
「ええ? べつにいいよ。俺もちゃんと美羽のこと言えばよかったし」
「あと日傘、あのまま持って帰っちゃったし」
「それも気にすんなって!」

 大地は「それよりさぁ」と言いながら、脇にあった保冷バッグを錫也に見せる。
 開けると中にはラップで包まれたおにぎりがたくさん詰まっていた。

「母さんがお昼に食べなさいって作ってくれた。じいちゃんとこでお菓子とジュース買ってさ、川遊び満喫しようぜ」
「わあ……! いいな、それ!」

 錫也は朝食を急いで食べると、大地に少し待つよう伝えて食べ終えた食器を洗った。
 居間でテレビを見ながらゆったりしている祖母に声を掛けて、二人で玄関に向かう。二人ともサンダルを履いて、外に飛び出した。
 大地は自転車を置いてきたようで、手には保冷バッグを持っている。錫也は日傘を広げて、大地も入るように傾けた。

「俺はいいよ。錫也が全部使いな」
「でも……」
「ほら、肩出てるし」

 大地は優しく傘を押し戻した。錫也は耳に熱が集まるのを感じながら、傘でそっと顔を隠す。
 昨日と同じく、商店は既に開いていた。老人と挨拶を交わして、二人でお菓子コーナーを物色する。スナック菓子をいくつか取って、ジュースも選んで、会計を済ませる。老人が差し出す飴壺から数個貰って店を出た。
 まだ涼しい頃合いだがじりじりと焼いてくる太陽の光にだらだらと歩きながら山へ向かっていると、向こうから自転車に乗った少女が近づいてきた。美羽だ。

「大地!」
「……今日はなんだよ」

 あからさまにトーンの落ちた声だ。しかし美羽は気にしていない様子だ。
 美羽は自転車から降りると大地と錫也の荷物を見て「どっか行くの?」と首を傾げる。

「そ。昨日も言っただろ、俺大事な予定あるって」
「大事って……。遊びに行くだけなら私も一緒だっていいでしょ? それに大勢いたほうが楽しいし、今からでも私が皆に連絡して……」

 美羽はスマホを取り出して画面をタップする。
 それに大地は不機嫌さを孕んだ声で「やめろよ」と制止した。

「なんで?」
「なんでって……お前さ、けっこう失礼だぞ」

 美羽は傷ついた表情を見せて、錫也のほうをバッと向いた。

「女の子混じってたほうが楽しいよね!?」
「え……」
「あ、私ね朝倉美羽って言うの。大地とは小学校から一緒。君は?」
「生嶋、錫也……です」
「君があのすずちゃん? 昨日もね、もしかしたらそうなのかなって思ってたの。噂のすずちゃんだ、会えて嬉しい! でもよかった、私すずちゃんは女の子だと思ってたから、ずっと嫉妬してたよ。せっかくの夏休みなのに大地、遊びに誘っても『大事な子に会うから』って断って、他は何にも教えてくれなかったから……。此処の人たちは皆『だいちゃんはすずちゃんが大好きだから』しか言わないし……友達、あっ高校のね。友達も、大地は女の子といっぱい遊ぶつもりなんだよって言ってくるし、もう最悪で」

 美羽の喋りは怒涛で、錫也どころか大地も口を挟むことができなかった。
 錫也は日傘の取っ手をぎゅっと握る。

「それでね、よかったらなんだけど私も一緒に行っていい? 私も大地と遊びたいの。昨日は大地怒って帰っちゃったからさ。本当は二人きりがいいんだけど……」

 美羽の視線が鋭くなる。
 すずちゃんは女の子じゃないと誤解は解けたようなのに、美羽は錫也に対して敵意があるようだった。こうも分かりやすく敵意を向けられたことはないので、錫也はどう返せばいいのか分からず、きつい視線をただ受け止めた。
 美羽はそれが気に入らなかったのか「聞いてる?」と言いながら錫也に手を伸ばす。

「――朝倉」

 大地の声が錫也の前に壁となって立ち塞がった。
 呼ばれた美羽は弾かれたように手を引っ込めて大地を窺う。

「え、何で美羽って呼んでくれないの……?」

 大地はそれには答えず、錫也の空いている手を取って、握った。
 錫也はぎょっとするが、大地は握る手に力を込める。簡単には離れない。

「昨日も……その前にも言っただろ。錫也との時間は限られてるから何よりも優先したいんだよ」

 大地は怒っているようだった。これまで錫也に向けられていた柔らかい表情は消え去って、威嚇する獣のように獰猛な気配をまとっている。
 美羽は真正面からその圧を受けてたじろぐが、すぐ持ち直して引き攣った笑みを見せた。

「邪魔するつもりはないよ。でもせっかく遊ぶなら人数多いほうが楽しいでしょ? えっと、ね、錫也君もそうだよね?」

 救いを求めるように視線が錫也へと流れるが、大地はそれを遮った。

「ごめん。ハッキリ言わねえと分かんないかな。遠慮してくんねえ?」

 大地は強く言い放って、美羽を見下ろした。
 美羽は身体を震わせて「あ……、え……」と視線を彷徨わせ、きゅっと口を引き結んで何も言わずに自転車に跨り、黙って去ってしまった。去り際の横顔は少し泣いていたように見える。
 錫也は大地の顔を覗き込もうとしたが、大地は錫也の手を引いて前を歩き出す。
 地面を踏む音と蝉の鳴き声だけが続いて、暫くして錫也は沈黙に耐えられず口を開いた。

「……大地、大丈夫?」

 恐る恐る掛けた声だったが、返ってきた大地の声からは既に怒気は消え去っていた。

「大丈夫って?」
「だってさっきの……。誤解、されたかも」

 錫也の視線が、未だ繋がれたままの手に落ちる。

「誤解って何の」
「だから、その……」

 言葉が喉から出そうになって、引っ込んでを繰り返す。
 錫也は自分のことを大地に話せていないのに、言えるはずもなかった。
 美羽に、大地と錫也はそういう仲だと思われたのかもしれない、なんて。
 一人でうじうじと悩んでいると、繋いでいた手がするりとほどけた。錫也は「あ」と声を上げて、寂しさを追いかけてしまう。しかしすぐに繋ぎ直された。指が絡まって、隙間を埋めるように深く繋がれる。
 錫也が大地の顔を盗み見ると、両耳が真っ赤に染まっていた。日差しの熱だけが理由ではなさそうだった。

「……嫌?」

 頼りなく呟かれたそれに、錫也はふるふると首を横に振った。

「嫌じゃ、ない」

 嫌じゃないから、困っている。
 大地はもしかしたらって思いが、胸の中で期待に踊っている。そして、美羽ではなく自分を優先してくれたって事実がたまらなく嬉しくて、そう思う自分に戸惑いよりも納得が上回った。
 錫也の中で、大地の存在は大きく育っている。
 その後は互いにどこかぎこちなく、山に入って川に辿り着くまでぎくしゃくしていた。
 荷物は木の根に置いて、二人はサンダルを履いたまま浅瀬に入った。冷えた流れが熱を奪っていく。気温以外で上がっていた体温も、落ち着きを取り戻していた。

「錫也、今魚見えなかった?」
「ええ? いる?」
「見間違いじゃないって! ちっちゃいやつ!」

 水の流れは綺麗で川の底がよく見える。
 錫也はあちこちに視線を移して魚の姿を探すが、ちっとも見つけられない。

「……全然いないって。もっと深いほうなんじゃねえの」
「ええー。いたって。間違いない。捕まえて飯にしよう!」
「火どーすんだよ」
「それはほら、こう枝とか木の板集めてくるくる擦るやつ。テレビでやってんじゃん!」
「ははっ、絶対無理だって」

 錫也は足で川底を蹴り上げ、弾けた飛沫を大地へぶつけた。水は大地の脹脛に当たって、突然の冷たさに大地は声を上げる。

「おい! 卑怯だぞ!」
「ほら早く魚探せって」
「見つけても錫也にはあげないからな! 俺が全部食ってやる!」
「いいよ。俺は代わりに大地の分もおにぎり食べるから」
「いやちょっと待ってタンマ! そこは要相談!」
「なんでだよ。ほら自信持って魚探してってば」
「見たって言ってもミニな! ちっちゃいやつって言ったじゃん! 腹の足しになんねえよ」

 そもそも本当に魚がいるのか怪しいところだが。
 ぎゃいぎゃい騒ぐ大地を横目に、錫也は浅瀬から少しだけ先に進んだ。くるぶしの辺りを流れていた水が足首をすっかり覆う。
 慣れるとこの冷たさが心地良くなってくる。錫也は目を閉じて深呼吸した。木々がもたらす新鮮な空気と、耳を打つ川の流れる音で肩の力が抜けていく。
 もし毎年遊びに来ていたら、こんなに穏やかで楽しい時間をたくさん過ごせていたのかなと思って少しの後悔が湧く。そうだったら、錫也と大地の関係はどうなっていたのだろう。大地は、毎年現れる錫也のことを同じような熱量で待っていてくれただろうか。
 なんて、考えても意味ないことに思いを巡らせていると……錫也の頭に冷たい水が降ってくる。

「つっめて! はあ!?」

 振り返ると、大地が両手を濡らしてにやにやと悪い笑みを浮かべていた。

「さっきのお返し」
「なら足にしろよ!」
「それじゃつまんないだろー。倍返しだ」
「倍以上だろっ。くそ、シャツちょっと濡れた……」
「すぐ乾くって」

 あいにくタオルは持って来ていない。頭を振って水気を飛ばすと、大地が吹き出して笑う。

「犬かよ」
「誰のせいだよ!」
「犯行動機は復讐だからなー。錫也にはしっかり反省してもらって」
「ぐっ……」
「言い返せないだろ、やった俺の勝ち」
「復讐の復讐に警戒しとけよ」
「それやると無限ループ入るから」

 二人で顔を見合わせて、次の瞬間には互いに笑い合った。
 錫也は、やっぱり大地と居るのは楽しくて居心地がいいと改めて思う。数年間のブランクがあるのに緊張感は全くないし、言葉に詰まるってこともない。
 錫也は大地のことを覚えていないって嘘をついているのに、大地はそれを軽く飛び越えて錫也の隣に立ち手を取ってくるのだ。大地にとって、錫也が錫也であるだけで特に問題ないようだった。
 大地の距離の詰め方は錫也にとって合っているのだと思う。だから、心を閉ざすつもりだったのにいつの間にかこんなにも心の一番柔らかい場所にまで大地の存在を感じる。
 大地を信じたい。大切にしたいと、今の錫也は思っている。
 大地の本心は分からないけれど、友達という関係に留まっていても錫也はそれでいい。大地はとても良い人だから。そんな人に真正面から向き合える友達でありたいと思う。
 地元に帰ったら、疎遠になってしまった友達ともう一度だけでいいから話したい。
 錫也が怖いと思っていたように、きっと彼だって分からなくて怖かったはずだから。真は、自分たちみたいなのは大っぴらに言うべきではないと思っているようだし、錫也だって言い回るのは少し違うと思っているけれど。
 少なくとも理解を示そうとしてくれた人に対して背を向けたままなのは嫌だと感じた。
 大地との時間は錫也を前向きにしてくれる。

「あー、笑った。俺たちマジで小学生みたいだったな」
「え、一緒にするなよ。ちょっと離れてくれ」
「おいこら! 薄情者!」

 大地が錫也を掴まえようと腕を伸ばす。錫也は笑って避けて、しかし足の踏み場が悪かったのかサンダルの底がずるりと滑った。

「錫也!」
「……っ」

 転びそうになって、錫也は歯を食いしばって痛みに備えた。
 バシャバシャと大きな水音が鳴って、二の腕をとても強く掴まれる。そしてそのままぐいっと強い力で引き寄せられ、大地の肩に額を打ちつけた。しかし倒れて背中をしたたかに打つよりはマシだった。

「悪い。俺がふざけたから……」

 大地の謝罪に首を振る。ふざけていたのは錫也も同じだ。どちらが悪いって話ではない。
 バクバクバクと心音が続く。思っていたよりも焦りを感じていたようだ。落ち着かせるべく軽く息を吐いて、それから大地を見上げると至近距離で視線がぱちりとかち合った。

「あ、と……」

 錫也は口の中で用意していた言葉がどんどん溶けていくのを感じた。
 掴まれたままの二の腕を覆う手は大きい。そして難なく錫也を抱き寄せた力強さに、今更だが体格差を如実に感じる。
 べつに特別なことではない。
 転びそうになって、助けてもらった。ただそれだけ。友達同士でよくあることだ。
 それなのにどうして心臓はまだ落ち着きを取り戻してくれないのか。
 そして大地は、黙ったままである。
 錫也を抱きとめている手が、上へ移動する。
 首筋を通って頬に触れ、そのまま後頭部へ移動する途中、耳朶に触れる。

「あっ」

 背筋を震わせるような感覚に襲われて、錫也はそれまで上げたこともないような繊細な声を上げた。
 大地がぴしりと固まって、錫也から手を離し両手を頭上に掲げる。

「わっ、悪い!」

 そしてそのままジャバジャバと水をかきわけて後退すると、顔を真っ赤に染めたまま視線をあちこちに彷徨わせた。

「そっ、そ、そろそろ飯食うか!」
「あ……そ、そうだな」

 錫也もぎこちなく頷いて、やや距離を開けたまま川から上がった。沈黙が数秒続いて、二人で木の根へ向かい腰掛ける。
 拳数個分を開けて座った二人の間に、頭上からひらひらと木の葉が舞い落ちてきた。
 大地が保冷バッグを開けておにぎりを取り出し、無言で錫也に差し出す。錫也もそれを黙って受け取って、並んで黙々とそれを食べ始める。
 小鳥が浅瀬に飛んできて、水面をツンツンとくちばしで突いている。二羽目が飛んでくると、ちゅちゅと何事か会話をして二羽でどこかへ飛んで行った。その間に、一個目のおにぎりは食べ終わり、錫也は二個目に手を伸ばす。
 大地の手と触れた。
 二人で大袈裟に手を離すと、顔を真っ赤に染めた状態で見合わせた。

「わ、わり……」
「……ごめん」

 嫌ではないのに落ち着かない空気が続く。
 錫也がちらりと大地へ視線をやれば大地もこちらへ視線を向けた瞬間だったのか、うまく噛み合った。二人して慌てて逸らす。
 錫也は期待と不安、そして懇願が入り混じった想いを胸に抱えて、口を開く。

「あのさ……」
「ん」
「あの子、大地のことがすごく好きなんだと思うよ」

 一瞬止まって、大地が小さく返す。

「中学の時に、ちゃんとした告白受けて……そん時にしっかり振ってる。んで、この辺って学校少ないから進学先ってだいたい一緒なんだよ。だから告白とか、誰が誰を好きとか、付き合ってるとか……けっこうバレバレになる」

 大地は小さくなったおにぎりを口に放って、唇を親指の腹で拭った。
 そして錫也を見つめる。

「美羽はただの友達としか思えないし、この先もそういう意味で好きになることはないと思う。つーか最初に振った時言ってるんだけどな」

 さっきまでふざけ合っていたとは思えないほど、大地の声には真剣みがあった。
 これから告げることは冗談でも何でもないと、示しているようだった。

「忘れられない、好きな人がいる」

 葉の擦れる音も、水辺の囁きも、全ての音が錫也から消えた。
 この世全ての時間が止まったように感じて、手のひらに汗が滲む。

「そう言って、断ったんだ。今もずっと、好きな人。だから俺が美羽を好きになることはないし……錫也を置いていくなんてことも絶対にしないよ。誓って言える」

 錫也は口を開けて、しかしうまく言葉を紡げず、また閉じるを繰り返す。
 それを見て大地はふっと表情を和らげた。

「錫也を困らせるつもりはないし、今すぐ何か言ってほしいわけじゃない。でもそうだな……。できれば、まだ首を横に振らないでいてほしいな。帰る日までまだ俺にチャンス欲しいし、がっついて嫌われたくないし……」
「き、嫌うとかは、絶対ない」
「ならよかった! ま、あんまり考えすぎないでくれよ。直感でいいから。俺にとってはガキの頃からの想いだけど、錫也にとっては数日前が俺と初めましてって感じだろ」

 ここで、実は小さい頃のことを覚えていると言ったら大地は喜ぶだろうか。
 しかしあまりにも自分勝手な理由で大地との思い出を無かったことにした自分にはそんな勇気はなかった。情けない、弱い奴だと思われたくないと強く感じている。
 それに明確にそうだと言われたわけじゃないと、心にブレーキが掛かっている。
 でもきっと、大地は錫也のことをそういった意味で好きで、そして錫也も彼のことを……。
 言ってしまいたい気持ちと、でもやっぱりまだ怖いといった感情がせめぎ合っている。大地は怖くないのだろうか。
 錫也は今でも、カミングアウトするのは恐ろしい。大地を信じたいと思っているのに。
 大地は手を錫也の頭に乗せて、ぐしゃぐしゃと髪を撫でまわした。
 そして安心させるように柔らかい笑みを見せる。

「今日はもう帰るか?」

 錫也は首をぶんぶんと振った。
 明後日にはもう錫也はバスと電車を乗り継いで地元に帰る。一日自由に使える時間は今日と明日しかないのだ。
 心臓はまだ高鳴って落ち着かないけれど、それで大地とさよならをしてしまうのはとても惜しかった。もう少し一緒にいたい。
 大地は距離を詰めて、錫也の隣にぴたりと座った。間にあった木の葉はひらひらと地面に落ちていく。
 服越しに触れ合った太腿から熱が伝わってくる。錫也がそっと手を置くと、上から覆うように大地の大きな手が指の間を絡めとっていく。
 優しく、それでも離れないようにきゅっと握られて、手の甲へ集まる熱にくらくらしてきそうだった。触れる皮膚の感触をこの先一生忘れられそうにない。
 錫也はそっと顔を上げた。
 大地は錫也を愛おしそうに目を細めている。そして顔がゆっくり近づいてきて、錫也はドキドキと高鳴る胸へ混じった期待に瞼を下ろし……額がこつりと合わさった。
 何かを堪えるような、大地の吐息が錫也の唇に触れる。

「あーっ……さすがにやばかった」

 錫也が恐る恐る瞼を上げると、大地は瞳に欲を滲ませていた。
 額をぐりぐりと押しつけられる。子犬同士がじゃれ合っているような力加減だった。

「ごめん。手出すとこだった」
「……俺も、突き飛ばすとか、その、色々あったと思うし」

 カーッと熱が上がってくる。大地は己を責めているようだが、錫也だって当たり前のように受け入れようとしていた。
 訪れる唇の熱を黙って待っていたのだ。

「……でもあとちょっとだけこうしてていいか?」
「う、ん……」

 繋いだ手から、合わさった額から、吐息が掛かる唇から、大地から伝わってくる熱が錫也の中に溶けていく。
 あと少しと言わず、永遠に続いてほしいと思える時間。しかしそれを口にすることはなく、錫也は繋いだ手に少しだけ力を込めた。
 無音で二文字を呟く。
 す。き。
 じれったくて、瞼をぎゅっと閉じる。言いたいのに、でも言えない。
 だからもう少しだけ、この時間が続いてくれたらいいのにと幼子のように思っていた。
 その後は、二人でただ寄り添っていた。お菓子を食べてジュースを飲んで、川へ遊びに来た小鳥を眺めて楽しむ。高校生にしては地味な時間だったろうが、錫也にとっては人生で一番充実した時間だった。
 そろそろ帰ろうと重い腰を上げた時、錫也は川を越えた木々の間に誰かが立っていると気づいた。
 背筋に氷塊が落ちたかのように、鳥肌がぶわりと立つ。
 真だ。ひどく冷たい目をした真が錫也を見つめている。
 錫也はその視線から逃れようと後ずさり、しかし両肩に乗った手の重さに大声を上げる。

「うわああっ」
「うおごめん! そんな驚くと思わんかった」

 錫也の様子に気づいた大地が、声を掛けても反応が無かったからと触れただけだった。
 大袈裟に驚いてしまったことを詫びながら、改めて真の立っている場所へ視線を向けると既にそこには誰の姿もなかった。
 錫也がごくりと唾を飲み込むと、大地が「大丈夫か?」と心配してくる。

「大丈夫。ちょっと、ボーっとしちゃってただけ」
「川遊びで疲れたかな。今日は早めに寝ろよ。ほら日傘ちゃんと使えって」
「そんなに柔じゃねえよ。俺のこと何だと思って……」

 心臓がドッドッと鳴っているが、錫也はきっと気のせいだと思いながら大地と歩き出した。すると背中に強い視線を感じたが、振り向くのはとても怖くて、大地の隣に並び立ち思考から真の姿を追い出す。大地は隣にやって来た錫也の手を、当然のように繋ぐ。
 錫也は抵抗なくその手の温もりに包まれた。錫也よりも少し大きくて、溶け合う熱の温度が心地良い。
 その体温と、大地の優しい声を聞いているだけで、錫也はすぐ落ち着くことができた。
 祖母の家まで着くと、なんだか名残惜しく感じて二人ともだんまりになってしまう。錫也は日傘をくるくると回して、大地を見上げた。
 大地は照れ臭そうに頬を掻きながら「あのさ」と繰り出す。

「明日、ちょっと遅くなる。家の手伝いしないとそろそろ母さんキレそうで……」
「あ、いいよ、全然。ずっと俺に付き合わせるのも悪いし」
「そこは俺がやりたくてやってることだから! ……で、代わりにってのもあれなんだけど、でっかいスイカあるから持ってくる」
「それはさすがに貰いにくい! 家で食べろよ!」
「貰い物でいっぱいあんだよ。食べきれないから錫也手伝って。あとついでにスイカ割りしよう。やったことある?」
「……ない、からちょっと魅力的な誘いになってきた」
「やった! じゃあ決定な」

 錫也は楽しみにしていると伝えて、大地と別れた。
 その背が遠く小さくなるまで見送って、完全に見えなくなるとその場にしゃがんで頬を両手で包む。支えが不安定になった日傘がゆらりと傾いたので慌てて取っ手を掴んだ。
 はぁ、と小さく吐き出す。今日の自分を振り返って、恥ずかしくて悶絶していた。
 あの時錫也はキスを期待していた。大地が踏み止まっていなければ受け入れていたと思う。
 自分の唇を人差し指で触る。ふにふにとした感触。これが唇同士であったならどうなるのだろう。

「……俺のこと、ほんとに好きなのかな」

 大地も恋愛対象が同性だった。そう思えば胸に安心が広がっていく。不安に思うことなく、怖がることなく、錫也は自分の気持ちを打ち明けることができるだろう。
 明日、大地に全てを話してしまおう。
 錫也も同性が好きなこと。高校の友達との間に起こってしまったこと。そこから誰かと関わるのが怖くなって、此処まで逃げてきたこと。情けなくて、幻滅されたらと思うと怖くて、傷つきたくなくて逃げ回っている錫也のことを。
 大地はそれでも錫也を好きでいてくれるだろうか。
 そろそろ日が沈む。錫也は立ち上がって玄関に入ろうとした。丁寧に日傘を折り畳む。
 するとその背に声が掛かる。

「錫也君」

 錫也は恐怖に肩を震わせて、恐る恐る振り返った。
 夕暮れから夜へと移り変わる瞬間の薄闇をまとっており、佇む真の表情は窺えなかった。しかしご機嫌でないことだけは分かる。

「僕だけじゃないの?」

 その言葉に包まれている怒気を感じて、錫也は一歩下がった。それが更に気に障ったのか、真は地面を滑るようにずずっと近寄る。
 錫也はその異様さに悲鳴が飛び出そうになったが、真はぬるりと手を錫也の口に押し当て、悲鳴を封じた。

「彼は僕たちと違う。何で分からないの?」

 大地のことを言っているんだと分かった。
 真は錫也の口から手を離すと、今度は身体をぎゅっと抱きしめてきた。真の腕が錫也の背中に回って、蔓のようにまとわりつく。
 正面から抱きつかれて、錫也は服越しであっても触れている場所からどんどん熱が失われていっていることに気づく。日は沈んだとはいえ真夏に、真の体温はおかしかった。錫也からたくさんの熱を奪っていく。そして、そんな状態が続くと錫也の頭はボーっとしていって、真への恐怖心が不思議と和らいでいった。
 それがいいことだとは思わない。

「は、離してっ」

 普段なら乱暴な行いは好まない。しかし錫也は懸命に意思を保って、真を突き放した。
 真はよろけて数歩下がり、眉をキッと吊り上げる。

「錫也君はもうあいつと会わないほうがいい。おかしくなっちゃってる」
「そんなことない! ま、真さんは大地のことを知らないじゃないか……!」

 それにおかしいのは真のほうだ。
 その言葉はぐっと飲み込んで、錫也は自分の身体を抱きしめた。寒くて震える。
 自分の手のひらから、なんとか熱を分け与えようとした。

「強情だな。ちょっと考えればあいつは悪い奴だって分かるのに」

 俯いた真の表情に影が落ちる。
 錫也はじりじりと少しずつ玄関へ近づいた。お守り代わりに、手に持っている日傘を胸に寄せる。

「僕たちみたいに……本当に男が好きなら、人前であんなことできない。僕たちは理解なんてされない。されるわけがない。だから僕たちみたいなのは隠れて触れ合うしかないんだよ。錫也君は彼に騙されているんだ。その証拠に、君たちが手を繋いでいるところをここの人たちに見られたって何も言ってこないだろう? 彼らはちゃんと分かっているんだよ。大地君は本気じゃないって。錫也君に対してとても執着しているように見えるけれどお遊びの一種だって分かってるんだ。だから男同士で距離が近くたって非難するでも、気味悪がるでもなく、何も言わずにいる」

 真は次々にまくしたてる。
 どうあっても大地を悪者にしたい様子の真に、錫也も腹の底がむかむかしてくる。
 昨日は真に対してとても親しい気持ちを抱いていたが、そんなものはすっかり消え去っていた。むしろ不信感ばかりが積もっていく。
 大地は錫也をとても大切にしてくれていると心底思う。だってそうじゃなかったら、大地と錫也は今日キスをしていた。

「真さんだって俺のこと全部知ってるわけじゃないのに」

 思わず零れた言葉に、真の口がぴたりと止まった。
 錫也は勢いのまま続ける。

「僕たちと……って何? まるで俺と真さんが同じみたいだ。でも違う。俺と真さんは違うじゃないか。俺は確かに男が好きだけど、でもだからってそうじゃない人たちのことをそうやって悪く言ったりしない。大地は俺のことすごく気遣ってくれてるし、商店のおじいちゃんは俺と大地の距離が近いからって気持ち悪いなんて言ってこない。大地のお母さんだって、俺と大地のためにおにぎりいっぱい作ってくれた。騙してるって何? どうしてそう穿った見方ができるの? ただ優しい人たちなんだって、どうして思えないんだよ」

 錫也は悔しかったのだと思う。
 成長してから全く訪れなくなった土地で生きる人たちは、変わらず錫也を覚えていて、変わらぬ優しさを注いでいてくれる。
 それをどうして意地悪く吐き捨てることができるだろう?
 真の言葉に頷くことなんてできない。

「何を言っても、錫也君は僕の言葉を受け入れてくれないんだね」
「真さんだってそうだよ。なんでそこまで大地を悪く言うんだ。それに、大地だって……」

 錫也は少し俯いて口を閉ざした。
 気恥ずかしかったのだ。大地は錫也のことを恋愛的な意味で好きだと思っているはずだと、自分の口から言うのが。

「……かわいそうな錫也君」
「え……」
「そんな錫也君の優しさにつけこんで……僕はやっぱり大地君を許せないよ。君の隣に相応しくない」

 相応しいとか、相応しくないとか、そういう話を今はしていない。
 ただ錫也は、自分たちが傷つくことを恐れて周囲の人たちに過剰に牙を剥きたくないだけだ。大地の存在が錫也にそう思わせてくれた。誰とも関わりたくないと思っていた錫也に、何度も手を差し伸べて外へ連れ出してくれた大地。その得難い優しさを、錫也はとても尊く思っている。
 だから真の言うような人たちではないと分かってもらいたいだけなのに……。

「そうじゃなくて、大地は……」
「どうして彼の言うことを全部信じられるの?」

 真は薄ら寒くなるような笑みを浮かべて、首を傾げた。

「大地君が錫也君のことを昔から好きだった? 想ってた? それをどうして信じられるのか僕には理解できない。じゃあどうしてって君は思わないの? 本当に錫也君に会いたかったんだったら、イトさんに頼んで連絡を取ることだってできただろう。電話でも、手紙でも、いくらでも君とコンタクトを取る方法はあったんだよ。だってイトさんは君の祖母なんだから。イトさんに君のことを聞きに来て、イトさんも素直に教えるくらいの間柄だったんならタイミングはいつでもよかったよね。それでもそうしなかった。大地君はもちろん、イトさんもね。どうしてだと思う? 錫也君にこんなにも会いたかったって言ってくる大地君が、そんな大地君のことを長年見てきていたイトさんが、ここの住人たちが、どうしてそんな提案を全くしなかったんだと思うの。答えてよ、錫也君」

 錫也はいくらでも言い返そうとした。そのために口を開いた。
 けれど、言葉は一粒だって出てこなかった。
 そんな錫也を見て真は笑みを深める。

「ほら。君も疑問に感じるだろう。大丈夫、まだ君は戻ってこられる位置にいるってことだよ。僕が連れ戻してあげる」
「ち、ちがう……そんなこと」
「その疑問は、錫也君の防衛本能だよ」

 真が一歩近づく。錫也は逃げようとしたけれど、地面に根でも張ったのかと思うほど少しも足が動かなかった。
 冷たい手で頬を包まれる。

「――嘘だからだよ」

 真がうっとりと呟く。
 その言葉は蛇のようにうねって、錫也の心に絡みついた。

「全部、ぜーんぶ。嘘だから。皆で錫也君を騙しているんだ」

 何を馬鹿なことを。
 錫也は渇ききった喉から何とか言葉を引きずり出す。

「俺を騙したって何も……!」
「此処くらい人が少ない所だと、それくらいしか娯楽がない。これまでずっと遊びに来なかった君が今更やって来る。見るからにワケアリですって顔で。こんなにも好奇心をくすぐるようなこと、見逃すと思う? 君は彼らにとっていいオモチャなんだ」

 そんなことないって叫びたかった。お前が悪意でしか周りを見てないからそんな妄想ができるんだと、突き飛ばしたかった。
 しかし錫也がムキになればなるほど、真の言っていることは本当なのかもしれないとわずかに心が揺らぐ。
 確かに、と思ってしまったのだ。一瞬でも。少しでも。
 大地が錫也に連絡を取らなかった理由は何だろう。毎年夏になると祖母に錫也のことを聞きに来るくらいなのに。
 大地が錫也に会いたいと、ずっと待っていたのは商店の老人でさえ知っていた。それなら大地の両親は、もっとそれを見てきていたはずだ。
 なのに誰も思わなかったのか? 手紙や電話で、錫也と繋がる手段はあると。

「でも、でも……! それだって真さんが勝手に言ってるだけで証拠なんて何もないだろ!」
「そうだよ。でも僕は錫也君のことを大事に想っている。君には少しだって傷ついてほしくない。一番近くで分かり合えるのは僕だけだと思っている。だから君が聞きたくないって耳を塞ぎたくなるようなことも、言うよ。でもそれは意地悪だからじゃないって、いつか君が分かってくれるはずだって信じているから」
「大地は……大地はそんな奴じゃない……。それにお祖母ちゃんだって……」
「そう思いたいならそのままでもいいんじゃないかな。結局自分の目で見たものしか信じられないだろうからね。でも一つだけ」

 真の手が動いて、錫也の唇に触れる。

「僕だけは錫也君の味方だよ。それだけは絶対に変わらない」

 真はふわりと笑って、錫也から離れた。

「また明日の夜、会いに行く。……僕は日の出てる間なら、出会ったあの場所に居るよ。もしも君の心がとても傷ついて、この世界のどこにもいたくなくなったら……夜を待たずに、僕に会いにおいで。その時は僕がずっと、ずっと君の隣にいてあげる」

 もうすっかり暗くなった夜道に、真の姿は溶けて消えていった。
 錫也の身体は雪に身を投げたのかと思うほど、とても冷えてしまっていた。日傘を抱きしめて「大地……」と呟く。
 夜はあまり眠れなかった。
 真の言葉ばかりが、ぐるぐると頭を支配していた。そうしてそのまま夜は更けていった。