「おはよー、錫也!」
朝から元気な大地の声が家中に響く。今日は早めに朝の支度を終えることができた錫也は、玄関先で大地を出迎えた。昨日言っていた通り、川での水遊び用にまずサンダルを調達に行く予定だ。
祖母に出掛けてくると伝えて家を出る。まだ日差しが弱く涼しかったが、今日も昨日と変わらず暑い天気になるだろう。
大地はまた自転車で来ており、錫也は後ろに自分が乗るのかと思っていたのだが大地に止められる。
「錫也はこっち」
「……折り畳み傘?」
「日傘! 自転車は押して歩くからさ」
渡されたのはシンプルなデザインの黒い日傘だ。バッと開くと、肌をじわじわ焼くような日差しから逃れて心地良い。
「涼しい?」
「快適。でも俺だけ? 悪いよ、返す」
「いいって!」
そうは言っても一人だけ日傘を差して歩くなんて。
錫也はせめて大地も入るように高く掲げるが、大地は錫也の手の上から取っ手を握ってやんわりと押し返した。
「俺はともかく、錫也の綺麗な肌が真っ赤になったら大変だろ?」
耳を疑った。しかし大地は錫也を揶揄っている様子はなく、とても真面目に話している。
錫也は目を泳がせて、日傘の取っ手をぎゅっと握る。涼しかったはずなのに、握られている手と顔は温度が上がっていった。
「……男相手に何言ってるんだ、馬鹿」
「えぇ? 男とか女とか関係ないだろ」
大地は取っ手から手を離すと、そのまま錫也の頬に触れた。
「ほら。錫也はこんなに可愛くて綺麗なのに」
「……っ」
錫也は思いっきり後ずさって、大地の手から逃れた。じわりと嫌な汗が背中に流れる。
心臓がひっくり返ったかのように鼓動が強くなって、唾をごくりと飲みこんだ。
「錫也?」
落ち着け。大丈夫。何も知られていない。バレていない。大地の言葉に深い意味なんてない。
彼は人たらしなんだ。きっと言葉に羞恥を持たない。だから特別な意味なんてないし悪気だってない。ない意味を考えたって時間の無駄だし、そもそも本人にその気がないのだから勘ぐったってそれこそ無意味だ。
錫也がここで変に狼狽えるほうがおかしく見える。
日傘で顔を隠して、錫也は深呼吸をした。
「暑いの苦手だから、ありがたく借りる。ありがと」
「お、おう」
商店までの道を二人でゆっくり歩く。
段々と昔の記憶が蘇ってきた。母に手を引かれながら歩いた思い出がある。祖母に「これでお菓子を買ってきてね」とお小遣いを貰って、少し涼しくなった夕暮れの道を母と共に歩いた。汗ばんだ手。それでも離したくはなくて、小さな手で母の指をぎゅっと掴まえていたんだっけか。
何のお菓子を買ったのかは覚えていない。しかし道中がとても楽しかったのは覚えている。
「まだ九時前だけど、こんな早くからお店って開いてんの?」
「代わりに閉まるのが早いぜ。学校帰りにはもうシャッター降りてるからさ」
大地の言う通り、商店は営業を開始していた。
コンビニよりも小さな店だ。店先には日焼けして色の抜けた長イスが置かれている。その隣には使い古されたゴミ箱だ。
店内には一人の老人がレジ横に座っていた。老人の目が大地に向き、次いで錫也を捉える。
「だいちゃん、高校の友達か?」
「錫也だよ、錫也!」
「ああ、イトさんとこの……。だいちゃんよかったなぁ」
老人は柔らかく頬を緩ませる。錫也の上から下を見て「すずちゃんもでっかくなったなぁ。覚えてるか?」と、歯の抜けた口をニッと引き延ばした。
錫也は頑張って記憶を漁った。レジ横に置いてあるキャンディが詰まった壺を見て、あっと声を上げる。
「おまけで飴をいっぱい……」
「そうそう。飴のじいちゃんだよ」
祖母の家から商店までの道のりは小さな子供にとって大冒険だ。祖母からお小遣いを貰って、自分の好きな物を選んで買っていい状況は非日常を演出した。うきうきで楽しんでいた錫也に、店主の老人はおまけと称して飴をたくさん持たせてくれたのだ。
意外にも覚えているものだなと、錫也は店内を見回した。こじんまりと感じるが、あの頃の錫也にとって此処はお菓子のお城のようだった。何もかもが大きく見えた。
老人は壺を錫也に向けると「ほれ、好きなだけ持ってけ」と笑う。
「え、いや悪いです。ちゃんと払います」
「子供が遠慮しなくていい。此処も趣味で開けてるだけだ。だいちゃんなんて一回も遠慮したことないぞ。もうありゃあわし掴みだな、体格だけじゃなく手も大きくなってよ」
「ちょっとちょっと! 俺そんなにがっついてねえって!」
慌てた様子の大地に、老人はフンと鼻を鳴らす。
「なんだ、すずちゃんの前だからってかっこつけやがって。去年まで会いたい会いたい泣き喚いてたくせに」
「なっ、泣き喚いてないけど!?」
「同じようなもんだ。朝からうじうじ鬱陶しかったろうが」
「鬱陶しい!? ひどっ!」
「ひどかねえよ。泣きながらアイス買っていじけてただいちゃんの話し相手になってやってたじゃねえか」
「だから泣いてないってば!」
錫也はなんだか恥ずかしくなって、言い合っている二人からそっと離れる。
商品棚には同じコーナーにカップ麺やスナック菓子の他にも絆創膏や文房具もあったりと統一性がない。しかし老人は趣味で開けていると言っていたので、これらの商品は大地に向けて置いてあるのだろう。朝早くから開いているのも、大地が通学前に寄っていくからだ。
その証拠に、カップ麺が置いてあるスペースに「ビッグサイズはだいちゃん用」と付箋が貼られている。他の住民が利用することだってあるだろうが、一部の商品は大地専用なのだ。
錫也も此処で育っていたら同じような付箋を貼られていただろうか。少し微笑ましく感じて、そのカップ麺を指で突く。
商品棚の一番下の列に目当てとしていたサンダルはあった。七百円と値札が付いており、錫也はそれを二度見する。
最低でも千円はするだろうと思っていた。それを持ってレジに戻ると、大地はレジ横に設置されている冷凍のケースを開けてアイスを二個取り出しているところだった。大地は錫也にバニラアイスの袋をぷらぷら見せながら「俺の奢り」と目尻を下げる。
「こんな時間からアイスって背徳的だろ」
「確かに。高校生の特権だな」
大地は錫也のサンダル代も一緒に払おうとしたが、これは断固として拒否した。お菓子類を奢るくらいなら友達同士でよくあることだが、サンダルは度が過ぎている。しかし大地は中々譲ろうとしなかった。
助け船を出してくれたのは老人だ。頬杖をつきながら小さく「しつけえ男は嫌われるぞ」と呟き、それを聞いた大地はピシッと固まって、レジへの道を錫也に譲った。それを老人は呆れた視線で見送って、錫也に「ほれ、すずちゃん」と手招いてくれた。再び妨害が始まる前に老人へサンダルを渡す。
会計を終えると、老人は店先の長イスの日除けにパラソルを設置してくれた。
礼を言って、大地と二人で並んで座る。アイスをしゃくりと齧ると、喉を通って腹の底をじーんと冷たくしていった。
「……さっきの」
錫也は風景から視線を逸らさず大地に語り掛ける。
「此処の人たちって皆知ってる感じなのか?」
「さっき? ……ああ、俺が錫也に会いたがってたこと?」
こくりと小さく頷く。
大地は「んー」と考える素振りを見せながら言葉を続ける。
「たぶん。俺ずっと夏になったら錫也は錫也はって言って回ってたし。夏じゃなくても会いたいなって言ってたかな。あ、さすがに今はやってねえよ!?」
「今もやってたらさすがに引く」
「やってねえって! イトばあちゃんの所に顔出したりはしてるけど、習慣みたいなもんだったし……」
老人が大地に「よかったなぁ」と言っていた表情を思い出す。
大地が再び錫也と出会えたことに心底喜んでいるようだった。
「でも俺以外にだって友達はいただろ?」
山向こうの学校なら通うのは大変かもしれないし、今はともかく小学生中学生の頃に友達と遊ぶ約束だって難しかっただろう。それでも友達と呼べる存在はいたのだから、大地がそこまで錫也に執着する理由はない。
錫也は夏の間のわずか一掴みの期間を共にしただけの存在だ。
大地は顔をしかめて、言い難いのか「それは、だって……」と小さく呟く。
アイスを食べ終わって、錫也は大地のほうへ視線を向けた。やけに真剣な表情をしている。
その視線に、錫也は狼狽えた。
「俺はだって、錫也が……」
言葉が続く前に、大地の手にあるアイスが溶けて棒から離れ、地面に落ちた。
ぐしゃりと無残な姿になる。
「あーっ!」
叫ぶ大地の声。アイスが上げた断末魔のように聞こえて、錫也は笑いを堪えられなかった。
「ふ、あはは! 早く食べないから!」
「だっ、まっ、ああちくしょう! 半分もいった! もったいねえ!」
さすがに地面に落ちたアイスに対して数秒ルールは適用されない。どんどん溶けて地面に吸われていっている。きっと後で甘い匂いに誘われて蟻が群がってくるだろう。
ゴミ箱に棒を捨てて、背徳的なアイスタイムは終了となった。
錫也はまだ笑いが続いていて、ふふっと口角が上がっている。
大地はじめじめと泣いていたが、笑っている錫也を見ると目尻を緩ませて表情を柔らかくした。
「今度は錫也の番。そっちの話聞かせてよ」
「……俺は、大して面白みないから」
「そんなことないって。俺は知りたいよ、錫也のこと」
店の軒下に吊るされている風鈴がちりちりんと短く鳴る。
背中を押されているようで、錫也はなんとなく口を開いた。
「泳げないって話はしたよな。水泳の授業が本当に嫌で、でも体育が苦手だったわけじゃないんだよ」
「へえ……」
「中学ではバスケ部で、一応ユニフォーム貰ってた」
「すごいじゃん!」
「大会とかは一回戦勝てればマシなほうだったんだけど、でもやっぱり引退するってなった時は後悔ばっかだったかな。もっとやれることがあったんじゃないかって」
「高校じゃバスケやってないのか?」
錫也は自分の手を見つめた。今じゃ突き指をすることがなくなった、普通の手だ。もっとできたことがあるはずだと後悔しながら去ったバスケ部だったけれど、高校でその熱を燃やすことはなかった。
逃げていたのだと思う。
逃げているうちは、自分はもっとやれるはずだと夢を見ていられるから。
しょせんは学校の部活動で、錫也にバスケの才能はない。そしてつらい練習を続けられる根性もなければ、一度手に入れた安穏とした時間を手放す勇気もなかった。
中学までは部活動が必須だったからバスケ部に入っただけで、入部は自由となればわざわざ苦しい時間を選ぶ必要はない。
なんだかんだと自分に都合のいい理由を並べているだけで、結局のところ錫也はつらいことをしたくないから逃げているだけなのだ。
ここまで話しきって、これで大地が何故か錫也に抱いている幻想は砕けただろうと思った。
大地が長年待ち続ける価値は、自分にないのだ。
しかし大地から返ってきたのは失望ではなかった。
「いいんじゃね? 逃げるが勝ちって言うだろ。あれ、意味が違うか……?」
大地は「ともかく」と言って、錫也に柔らかな視線を向ける。
「やってもやらなくてもオッケーなら、やらなくても問題ないってことだ! むしろそこまで考えてるなんて凄いよ。俺なんて、怠いからしか思い浮かばなかったし……」
「……なんか、俺が馬鹿みたいに思える」
「遠回しに俺のほうを馬鹿って言ってるか?」
「くっ」
「笑ったな! おいやっぱそうなんだな!」
大地と話していると、腹の底に溜まっていた黒くてどろどろしたものが綺麗に流れていくのを感じる。
錫也が一人で思い悩み悔やんでいることなんて、その実大したことではないのだと。
「あー、笑った……。あ、そういえば此処って花火も置いてるんだな」
錫也は店内に置かれていた花火セットを思い出す。最後に花火をしたのはいつだろうか。
「川辺でさ、ちょっとした花火大会があって。ちょうど部活終わりで友達と帰ってた時なんだけど……」
いつも通っている道は人の姿であふれていて、友達と顔を見合わせて不思議に思っていた。遠回りをして道を抜けると、ドーンと大きな音がなって、慌てて周囲を見回したのだ。友達が「あっ」と指を差して、その先を辿ると夜空に大きな花が咲いていた。
疲れきっていた錫也は花火大会のことをすっかり忘れていた。それは友達も同じで、いきなりの花火を呆然と眺めていたのを覚えている。
しかし思わず見られた大きな花火は美しく咲いて散り、その一瞬は今でも記憶の中にハッキリと残っている。
ざわざわと人がたくさんいて、その誰もが夜空に釘付けとなっている。そして夜空には絶え間なく大きな花が咲いては散ってを繰り返し、その残滓がぱらぱらと夜空からこちらへ降ってきているような迫力。あの時間、あの空間だけが切り取られて異世界に取り込まれたかのようだった。
たったそれだけのことだが、大切な夏の思い出だ。
楽しかったと語り終えると、何故か大地は表情を曇らせていた。
何か変なことを言ってしまったかと錫也は焦る。
「……俺も一緒にいたかった」
大地はそうぽつりと零すと、錫也を静かに見つめた。
「錫也が楽しいと思えた時間の全部に、俺が関わっていたかった」
錫也は一瞬何を言われているのか分からず、口をぽかんと開けた。
しかし次第に言葉の意味を噛み砕いて飲みこんで、顔がじわじわと熱くなっていく。
大地は自分の言っていることを分かっているのだろうか。ただの友達に向ける言葉ではないだろう。
これではまるで、異性に対する告白だ。錫也が男だからまだ勘違いが起こらずに済んでいる。錫也が女の子だった場合、告白されたと勘違いしたっておかしくない。
人たらしにもほどがあるだろう。
そうだ。これは同性に向けての言葉だ。深い意味なんて存在しない。
だから勘違いしちゃ駄目だ。錫也は自分にそう言い聞かせて、口内で舌を柔く噛んだ。
しかし大地は錫也の手を取る。
指先に暑さとは別の熱が宿って、手から腕、その先へと伝播していく。
「俺はずっと錫也に会いたくてたまらなかったんだ」
「お、男同士で冗談きついって!」
錫也は咄嗟に手を払った。
心臓がばくばくとうるさい。手が震えている。声も震えていた。
「……ごめん。きもかった?」
大地の声音にハッとして顔を上げると、傷ついたように笑っている。
そんな顔をさせたかったわけじゃなくて、錫也は「そんなことない!」と大声で返した。
そんなことはないけれど、しかしその後に何と続ければいいのか分からず黙ってしまう。
嬉しい? それこそどういう意味を含んで言えばいい。もしも大地に「そういうつもり」がなかったら、気持ち悪いと思われるのは錫也のほうだ。そして大抵の場合「そういうつもり」は存在しないと分かっている。錫也は少数派の人間でしかない。
それに錫也が穿った捉え方をしているだけで、大地は最初からただの友達に対して言葉を向けているだけかもしれない。
分からない、何も。
ただ一つ言えるのは、錫也は傷つきたくない。そのために祖母の所まで逃げてきたのに。
「あのさ、俺……!」
大地がまた錫也の手を取る。そして頬を少し赤く染めて何か伝えようとした。――その時、二人の前に自転車がキュッと止まる。
「大地! 見つけた!」
自転車から降りて、少女は頬をぷくりと膨らませる。
キャミソールから覗く腕はすらりと白く、顔も少しメイクをしているようだった。
大地は錫也からそっと手を離すと、錫也の前に立つ。
「何しに来たんだよ。俺しばらくは遊べないってあいつらにちゃんと言ったぞ」
「だって気になったんだもん……」
どうやら大地の高校の同級生のようだ。
容姿はもちろん声も可愛いと思う。太腿の半分くらいしか丈のないショートパンツから伸びる細い足は綺麗な肌が無防備に晒されている。
「大地、スマホ持ってないから不便! 早く持って!」
「家に電話あるだろ」
「だって大地ママとか大地パパが出ると恥ずかしい……。大地ってばすぐ切っちゃうし、もっと秘密のお話がしたいの! それに美羽といつでも話せるんだよ?」
「教室で話してるだろ……」
「だーかーらー! 二人だけでってこと! 特別感が欲しいの!」
「いらねーよ」
大地の後ろからちらりと覗くと、美羽という少女はパチパチと目を瞬かせて大地を上目遣いで見ていた。
そして大地の手を取って「ねえ」と甘い声を出す。
「美羽、頑張ってここまで来たんだよ? 皆が、大地は可愛い女の子と浮気するつもりだって言うから……」
そう言って、ぎろりと視線が錫也に向く。錫也は居心地が悪くなって、美羽から視線を逸らした。
棘のある声が錫也の耳に届く。
「てっきり女の子かと思ったのに!」
「浮気って……。だから前にも言ったけどさ」
錫也は立ち上がって、美羽には視線を向けず大地に「もう帰る」と告げる。
「えっ、錫也!」
大地から戸惑いの声が聞こえたけれど無視して、店内に居る老人へ礼を伝え、日傘を開いてそのまま歩き始めた。
しかしすぐ追いついた大地に腕を取られる。
錫也は苛立ちを抑えられず、それを乱暴に払った。
「帰るんだってば。離せよ」
「なんで急に……っ」
錫也は大地にぶつけたい言葉を腹の中にいっぱい仕舞い込んで、たった一つを吐き出した。
「学校の宿題があるから。そっちだって、俺以外にも友達はいるだろ。俺じゃなくたっていいはずだよ」
大地の表情に、徐々にヒビが入っていく。
大袈裟だ。ほんの少し突き放しただけなのに。そもそも距離が近すぎたのだ。
一人で居たかった錫也の傍へ強引に入ってきたのは大地だ。締め出されたからって、被害者ヅラするのはやめてほしい。
錫也は傷つきたくなくて、わずかな時間だけでもと此処まで逃げてきた。
当初の目的を優先させるだけだ。
大地はもう追ってこなかった。錫也はそのまま歩き続けて、しかし家まで帰る気にもならなくてそのまま涼しい場所を求めてあの場所に向かった。
森は静かな気配を宿していた。雑草だらけの道をさくりと一歩踏み出すと、涼しい空気が身体にまとわりつく。
錫也は日傘を畳んで、奥へ歩いた。
昨日大地に連れて行ってもらった川まで着くと、手に持ったサンダルと川とを交互に見て、しかし何もせず木の根に腰掛ける。
一人で川遊びをする気にならなかった。せっかく買ったのに。
家には大地の自転車が置きっ放しだ。今戻って大地と鉢合わせたら気まずい。その隣に美羽を見つけたらもっと嫌だ。きっとすごく惨めな気持ちになる。
重い溜め息を吐いて、錫也は目を閉じて木に寄り掛かった。
ちゅ、ちゅちゅ……と、鳥の鳴き声が遠くに聞こえる。
こういう時間を求めて、地元から時間を掛けて祖母の家まで来たはずだった。それなのに初日から大地に予定を狂わされている。
大地とはもう、関わらないほうがいいのかもしれない。だって大地はきっと、こちら側ではない。
「――寝るのなら、そこはあまり安定していないから倒れたら痛いよ」
錫也はバチリと目を開けて、声のしたほうへバッと向いた。
「驚かせちゃったかな。ごめんね」
すぐ近くに見知らぬ青年が立っていた。足音に全く気づかなかった。
申し訳なさそうに眉を下げる青年は、よく見れば昨日見かけた人と同じ人だった。あちらも覚えがあるのか「昨日も居た子だよね」と錫也に笑いかける。
その微笑みに目を奪われる。
「僕の名前は真。君は、錫也君だよね」
「そうですけど……」
「ここ、人の話ってすぐ広まるじゃない? 君はイトさんの所の子でしょ」
怪しい人かと思って身構えていた錫也だが、祖母の名前が出たので身体に入っていた力を抜いた。
「えっと、真さん。ごめんなさい、若い人は大地以外居ないって祖母に聞いてたから」
「そうだね。僕もたまにしか帰ってこないからさ」
「大学生ですか?」
「君は高校生だよね。あ、隣いい?」
真は錫也の隣に腰を下ろす。
近くで見ると、昨日思った通り真はとても綺麗な顔立ちをしていた。長い睫毛で縁どられた目を向けられると、少しドキリとする。
「昨日のお友達とは一緒じゃないんだね」
何気なく言われたその言葉に錫也は表情を硬くする。
「余計なことを聞いちゃったかな」
真は長い前髪を耳に掛けると、落ち着いた声音で話し始めた。
「僕もたぶん、君と同じだから……放っておけなかったんだ」
「同じ……?」
「そう。僕は昔、とても嫌なことがあってね。あまり人と関わりたくなくて……もしかしたら君もそうなのかなって思ったんだよ。こんな所に一人で来て、川遊びをするわけでもなさそうだったからね」
地面に放ったままの新品のサンダルを指で示される。
真は更に「でも、昨日は一人じゃなかったよね。楽しそうだった」と続ける。
「喧嘩でもしたのかな」
「喧嘩とはちょっと違います。ただ俺が、その……」
錫也も嫌なことがあって、人と関わることが怖くなっていた。地元に居たままでは家から出られなくなるのではと危惧した母の提案で、夏休みの数日を祖母の家で過ごすことにしたのだ。
環境が変われば、心はスッキリするのではと思って。
その原因について母にも祖母にも伝えていない。言えなかった。言えるわけがない。
「――僕は男だけど、男の人が好きなんだ」
錫也は目を見開いた。間抜けにも口をぽかんと開けて、真に視線を寄越す。
真は穏やかな表情を保ったまま、少し首を傾げた。
「これで少しは話しやすくなったかな」
「な、なん……ど、して」
錫也は言えなかった。誰にも言えなかった。
「僕は錫也君とちゃんと向き合って話したいと思ったから。それに言っただろ、たぶん同じって。それなら僕から言ったほうが、君も心の中を見せやすいかなと思ったんだ」
「でもそれでもし俺がそうじゃなかったら?」
錫也は全く別の事で悩んでいて、同性愛者ではなく異性愛者だったら?
それで真のことを気持ち悪いって思ったら?
他人と必要以上に関わって傷つくのは自分なのに、どうして。
「それならそれで僕の判断が間違っていたってだけだよ。傷ついて泣くかもしれないけど、でも次からはもっと慎重になれるよね。それにこれは誰かに強制されてのことじゃなくて、僕自身が錫也君と仲良くなりたくて勝手をした結果だからさ。早まったなって後悔はするかもしれないけど、納得はできるよね」
「……そこまで、前向きに考えられない」
「意外と後ろ向きかもよ。結局のところ僕だって傷ついても大丈夫だって自分を騙す理由を前もって用意しているわけだから」
真は照れ臭そうに笑い頬を掻くと、改めて錫也に向き合った。
「それで、錫也君の悩みを聞かせてもらっても大丈夫かな。きっと僕なら君の気持ちを全部分かってあげられるよ」
それは甘美な誘いだった。
誰にも言えずに腹の底で積み重なっていたものをようやっと吐き出せるかもしれない安堵。
木の根に置いていた錫也の手に、真の手が重なる。ひんやりと冷たい手が錫也の体温を奪っていく。
それがとても心地良くて、錫也は真の手をそのまま受け入れた。そしてその冷涼感に導かれるように口を開く。
「男の人が、好きなんです」
「うん」
「でもずっと誰にも言えなくて、言うのは怖くて。黙ってたらバレないと思ってて……」
高校二年に進級した春の頃。錫也は長年仲良くしていた友達に映画を見ようと誘われて、その友達の家まで行った。
どんな映画なのか聞いても誤魔化されていた辺りで錫也も気づけばよかったのだが、ただ普通に映画を見るだけだと思っていたので映像が始まるまで本当に疑うことはなかった。
面倒くさがりのこの友達が、レンタルなんて利用するわけなかったのに。
始まったのは映画ではなく、男性同士のアダルトビデオだった。
大学に進学した部活の先輩から回ってきたのだと言う。怖いもの見たさで借りたんだと、どこか誇らしげな様子で錫也に語っていた。
「普通にしていればよかったんです。普通に、同じようにふざけて笑ってたら、よかった」
初めて見た同性同士での性交に、錫也は見入ってしまった。隣に友達が居るにも関わらず、羞恥にやや目を伏せつつも両目はしっかり映像を捉えていて、ごくりと唾を飲み込んだ。
自分がどんな表情を浮かべていたかなんて分からない。でもきっと、そうと分かるような表情を浮かべていたのだろう。
「友達は何も悪くないんです。むしろ俺が……」
友達はすぐ映像を止めると躊躇いがちに口を開いた。もしかして、と続いた言葉に錫也は肯定も否定もできなかった。うまくふざけて返していたら全ては冗談で済ませられたのに。友達もきっとそれを望んでいた。
けれど錫也は焦りから最適解を逃してしまったのだ。
友達は優しい奴だ。錫也に「……そっか」と頷いて、それからその話題は出さないでいてくれた。
でも錫也は恐ろしくて仕方なかった。
次に登校した時に、教室へ入った途端に皆の視線が集まったらどうしよう。
実は学校中に言い触らされていたら?
錫也が気づいていないだけで、皆とっくに錫也がそうだって知っていたら?
友達はあんなことがあった後も普通に接してくれた。錫也が変に意識をしているだけだ。でも、友達との関係がもしも悪化した時にバラされるんじゃないか。そんな存在しない悪意の不安がいつも付きまとっていた。
「怖くて、怖くて……。俺のどんな行動から周りにそうだって知られるか分かんなくて、どうしようとか。色々考えたらキリがなくて……。それでもこんなこと家族には言えないし、ってか誰にだって言えないし……。不安ばっかり膨らんで、気づいたら俺のほうから友達を避けていたんです。あいつは何も悪くないし、むしろ俺のことを気遣ってくれていたのに。俺はそれを信じきれなくて、怖くて、不安で、それならいっそのこと一人のままのほうが都合いいよなって思うようになっちゃって」
あからさまに避けてしまっていたから、周りからは喧嘩したのかと聞かれた。それでも錫也のことはバレていなかったのだから、本当に良い奴だなと思う。
「きっかけは小さなことだったんです」
錫也が落とした消しゴムを、友達が拾おうとしてくれただけ。そこに錫也の手も触れてしまった。
ただそれだけ。
友達は錫也の手が触れると驚いて、肩を震わせた。視線が合うと気まずそうに「ごめん」と言って、そっと手を引いた。
「友達もきっと俺のこと分からなくて怖かったんだと思います。俺はずっと避けていたから余計に」
それからすっかり疎遠になって、錫也はクラスに一人でいるようになった。
いじめられたわけじゃない。錫也が一方的に周囲から距離を置いただけだ。
「手が触れたの、気持ち悪かったのかな。なんて、思ったりもして……」
悪気はなかった。互いに。
ただ、うまく関係を維持できなかった。
それでも錫也は傷つくことが怖かったし、自ら踏み込んで自分のことを話すなんてあの時は無理だったと思っている。
友達を信用できなかった罪悪感だけを抱えていればいいのなら、自分からつらくて苦しいほうへ向かう必要もないだろうとも思って。
結局逃げているだけなのは変わらないのに。言い訳ばかりが積もっていく。
真は錫也の話を黙って聞いて、口を挟まない。だからだろうか、誰にも明かせなかった気持ちがすらすらと口から出てくる。
不思議と胸が軽くなっていった。
「俺、なんで……こんなに、生きるの下手くそなのかなぁ」
鼻の奥がつんと熱くなる。
眉間に皺を寄せて、錫也は弱音を吐き出した。
「いつもみたいに、ふざけ合ってたらよかったのに。やべえなって言いながら、笑えてたらよかったのに。なんで、なんでそんな……簡単なことできなかったんだろ……なんで、あの時、ちゃんと話せなかったんだ……!」
友達はきっと錫也を理解しようとしてくれていた。それを怖がって逃げたのは錫也だ。
「俺いっつも逃げてばっかりで! この先も、ずっとそうやって生きていくのかな……。俺とちゃんと向き合おうとしてくれた人を突き飛ばして、逃げて、勝手に傷ついて……それならやっぱり一人のままのほうが誰も嫌な思いしないじゃん……」
真は繋いでいる手にぎゅっと力を込めると、錫也の顔を覗き込んだ。
「錫也君は何も悪くないよ」
真の瞳は静かに凪いでいて、見つめられると落ち着かなくなる。
錫也が視線を逸らすと、咎めるように顔が近づいた。
「いくら友達同士だからって、アダルトな映像を不意打ちで見せるほうに責はあるんだよ。ましてや君たちはまだ高校生。咄嗟に誤魔化したりできないのは仕方ないことだと僕は思うよ。それに、僕たちみたいなのは隠れて生きるしかないんだから、錫也君のことをよく知らずにそんな映像を見せてくるなんて、配慮がなさすぎるよね。僕は錫也君に問題があったとは思わないな」
「で、でも……」
「それにね。錫也君はべつにその友達のことを恋愛的に好きだったわけじゃないよね? それなのに向こうは過剰に反応して、それこそひどいのは友達のほうじゃないか」
「そんなことは」
「どうして。これが男女だったらどう? 君は友達の女の子から『男の人が恋愛対象』って言われて、じゃあ自分のこと好きなのかもって思う?」
思わないけれども。
しかしそれは極端な話だ。
「でもそういう話だよ。君は勝手に、友達にレッテルを貼られたんだ。それで勝手に怖がられている。それってひどいのはどっち?」
「……でも、やっぱり俺が避けたのがきっかけだと思うし」
「気まずくなって距離を置くのは普通のこと。それにそもそも不適切なものを見せてきたのは向こうだよね。それでも錫也君は全部自分が悪いんだって思うの? 僕は決してそんなことはないと思ってるよ。君の気持ちはどう? 納得しきれないから苦しかったんじゃないの? 何か心に引っ掛かる部分があったから、こうして僕に話してくれたんじゃないの。全部自分の中で終わってる話なら、こうして僕に話してないんじゃない? 少なくとも僕は、君のSOSを感じたつもりだよ」
真の手が宥めるように錫也の手の甲を撫でる。指の腹で優しく皮膚を撫でられて、錫也は真の言うこと全てに頷きそうになった。
真の言葉には錫也が身勝手に求める全てを孕んでいた。緩やかに全身へ回っていく甘い毒は、錫也から責任を奪って簡単に頷かせようとする。真の言う通りに、錫也は春から続くつらく苦しい思いの責任を全て友達にぶつけてしまいたくなった。
元はと言えばお前のせいで、と。
でも、それでも。
「でも、友達なんだよ。今でも俺が学校に通えているのは、あいつが俺のことを誰にも話していないからなんだ」
友情は薄れてしまったかもしれないが、錫也が同性を好きであることを友達は誰にもバラしていない。
錫也の手の甲に爪を立てられる。穏やかだった真の表情に苛立ちが浮かんでいた。
「その友達が君を苦しめているんだってどうして分からないの」
真の言うことは分かる。きっと彼の言葉に従って頷いていれば、心はもっと軽くなる。
でも同時に、錫也はもう二度と誰も信じられなくなる気がした。
「何それ。他人と距離を置きたいから来たんじゃないの?」
「そうなんだけど、でも、それだけじゃなくて……」
真の言う通り、錫也は誰とも関わりたくなかった。しかしそれは初日に大地が錫也を迎えに来たことで失敗している。
それでも本当に拒絶したいのなら大地を冷たく突き放せばよかったのだ。
でもそれをしなかった。
そして今日、大地と美羽の関係を察して傷ついて、勝手に怒って、一緒に遊ぼうと約束した場所に一人で来てしまっている。
「俺、本当は……」
誰かと関わっていたかったのかもしれない。不安だからこそ傍に誰かがいてほしかった。
錫也の悩みを笑って吹き飛ばして、じゃあもっと楽しいことを考えようと外に連れ出してくれるような人に、出会いたかったのかもしれない。だから錫也は大地を突き放せず、こうしてサンダルを買ってしまっている。
真は大きく溜め息を吐いた。錫也は怒らせてしまったかと身体を強張らせる。
「あの、ごめんなさい……。話を聞いてもらったのに……」
「謝らないで。今のは僕が悪かったよ」
真は錫也から手を離すと、今度は肩に腕を回してそっと寄り添った。真は手だけでなく全身ひんやりとしていて、錫也の身体にぴたりと引っつく。
錫也はぎょっとして身体を離そうとするけれど、木の根から落ちそうになって余計に真が抱き寄せてくる。
「あ、あのっ」
「人恋しいんだ。僕たちみたいなのは簡単に誰かに触れられない。それは君も同じだろ?」
もう片方の手が錫也の太腿をさらりと撫でていく。錫也は口をぎゅっと閉じて、変な声が勝手に飛び出ないよう努めた。
真はくすりと笑うと「慣れてないんだ」と揶揄うように呟く。
「でも、そうだよね。錫也君の周りに同じ子はいなかったんだもんね」
「……真さんは、いたんですか」
「さあどうかな。でもいたんだったら、僕はこうして一人きりで錫也君に会うことはなかったかもね」
余計なことを言ってしまったかもしれない。
錫也の話を親身に聞いてくれたから、真をすっかり大人のお兄さんと思っていたけれどこの人だってまだ大学生なのだ。人生経験は錫也とそう変わらないはず。
そして真も錫也と同じように嫌な思いをして他人を避けていると言った。
真だって傷ついた経験を持っているのだ。
「ごめんなさい、不躾だった」
「ああ、べつに気にしてないよ。それに、おかげで錫也君に会えたからね」
「えっと……」
「深く考えなくていい。夏の間の、ちょっとした火遊びだよ。君も僕もひとりぼっちだ。誰かに期待したって、本当に分かり合えるのは結局こちら側の人間だけだ。だから、ね、いい?」
真が身を乗り出して、錫也の顔と近づく。
その淡く色づいた唇もきっと冷たいんだろうなと思いながら、錫也はうるさい心音を無視するように目を閉じて……慌てて顔を背けた。
「……急すぎたかな」
「あ、その……ごめん……」
「いいよ。僕も焦りすぎちゃったみたいだ」
真は詰めていた距離を戻した。
胸の辺りをぎゅっと握って、錫也は息を浅く吐き出した。
真とキスする瞬間、思い浮かんだのは大地の顔だった。自分でもどうしてか分からない。でも、真とキスした後に大地と顔を合わせられるかと考えて……無理だと感じた。
大地には可愛い彼女がいるのに。錫也に対して過剰に友好的だと感じるのは、今まで会っていなかった反動によるもので、大地がそういう意味で錫也のことを好きなわけじゃないのに。
錫也は、ほんの少しの時間で、もしかしたら大地のことを……。
「……気に入らないな」
「え?」
「何でもない。じゃあ話を戻そうか。錫也君は、昨日一緒だった子……大地君と何かトラブルがあったのかな」
真の瞳からは先ほどまでの恐ろしいほど引きこまれるような情欲が消えていた。錫也は安心して真の目を見返す。
「それ。一緒に遊ぶために買ったんだろ?」
新品のサンダルが所在なさげに地面に放っておかれている。
「トラブルってほどじゃないんだけど……。たぶん大地の高校の同級生かな、女の子が来て……いたっておかしくないよなって思うんだけど、でも、なんだ彼女いるんじゃんって……思ったらちょっと、腹がむかむかしてきちゃって」
「この辺は特に娯楽が少ないから、思春期の子供たちが何を娯楽とするかって錫也君には思い浮かばなかったのかな」
「え……」
やけに棘のある声だった。
真は吐き捨てるように続ける。
「人が来ないような場所なんて子供でも分かるからね。今頃何をしているかなんて分からないよ」
「ちょっとそれは言いすぎなんじゃ」
「そう? でもむかつかない? 散々思わせぶりな態度を取っておきながら、でも結局は異性を選ぶんだよ。大地君みたいなのはその典型的なものだよね。きっと錫也君をもっと傷つけるよ。これ以上深く踏み込む前に離れたほうがいいんじゃないかな」
やはり真は怒っているようだった。
遠回しに、キスを拒絶したことを言われているような気がする。錫也はしかし、真に触れる理由を持たない。キスを受け入れるような関係ではないのだ。火遊びと言われても、錫也にとってそう簡単な行為ではなかった。
「大地は……良い奴です」
それしか言えなかった。錫也だって大地のことを深く知らない。知ろうとせずに、美羽の存在に怖じ気づいて逃げてきてしまったのだから。でも、錫也以上に大地のことを知らなさそうな真に大地を悪く言われてしまうのは受け入れられなかった。
真は錫也が言い返すと思っていなかったのか、眉を吊り上げて「なにそれ」と返す。
「僕は錫也君のことを思って言ってるんだよ」
「そこはありがとうございますって思います。会ったばっかの俺に優しくしてくれて、色々話せて俺も少しは頭の中とかがスッキリしました。でも、大地は何も悪くないのにそういう言われ方するのは嫌です」
「悪くない? 悪いよ。君を傷つけた」
「違います。勝手に俺がむかついて、苛立って、尻尾巻いて逃げただけです。むしろ俺が大地を傷つけた――んだと、思います」
それでもう大地が錫也に会いに来なくたって、大地が悪いわけじゃない。
しかし真はその答えを気に入らなかったようだ。
「違う。全然違うって。どうして錫也君が悪いの? そんなこと絶対にないよ。どうして分からないかな。悪いのは僕たちの気持ちを弄ぶあいつらのほうだよ」
「俺は男が好きだって誰にも言ってない。だから大地に、俺のそれを察して気遣って行動しろって求めるのは無理な話だし、強要なんてできない。それを要求するんだったら俺だって大地の気持ちを汲まないとフェアじゃないです」
そうだ。だから錫也は美羽が来てもあの場に留まっているべきだった。
大地と友達だって言うなら、錫也は勝手に怒って逃げる前に、大地の友達として美羽の前に立てばよかったんだ。そのことが腹にすとんと落ちる。
「……そっか。俺やっぱり嫉妬したんだな……」
久しぶりに訪れた土地で、幼い頃に別れたきりの友達が自分のことをずっと覚えていてくれた。
そしてずっと会いたかったと、嘘偽りない言葉をぶつけてくれる。
そんな大地に錫也はいつの間にか心を許していたのだ。だから、大地の傍に女の子が立っただけで嫌な感情がブワッと湧き上がって冷たい態度を取ってしまった。
だからやっぱり、大地は何も悪くない。
「恋になる前に失恋するってこんな感じなんだ……」
「はぁ……。痛い目見ないと分からないって言うなら僕からはもう何も言わないよ。これ以上言い合って、錫也君に嫌われたくないからね」
「なんかごめんなさい……」
「謝らないでよ。僕だって君に勝手な想像を押しつけただけさ。大地君が本当に女の子と人目のない所で何かしてるなんて根拠のない言い掛かりだったからね。品のない発言だった、僕こそごめんね錫也君」
真はしょんぼりと眉を下げて、錫也に軽く頭を下げる。
錫也は慌てて両手を振った。
「いや! 全然! そもそも俺が真さんに始めた相談ですし!」
「許してくれる?」
「俺こそ生意気言ってばっかで!」
「ふふっ、じゃあお互い様ってことにしようか」
「ですです」
真は立ち上がって背伸びをすると、錫也の手を取ってふんわりと微笑んだ。
「そろそろ帰ったほうがいいね。日も落ちてきている」
「え……?」
言われて周囲に目を向ければ、辺りはどんよりと暗くなっていた。鳥の鳴き声は消え、時折風で擦れる葉音が聞こえるだけである。
錫也は顔からサーっと血の気が引いた。いつの間にそんなに時間が経っていたのだろう。見上げた空は茜色を通り越して薄闇をまとい始めていた。
「話し込んじゃったから気づかなかったね。お腹は空いていない?」
「えっ、ええっ! こんなに気づかないもん!? ごめんなさい、真さん! 早く帰らないと」
「それだけ真剣だったってことじゃないかな。急がないなら一緒にご飯でもと思ったんだけど……イトさんが心配して待っているものね。早く帰って安心させてあげなよ」
「はい! あ、っと……」
サンダルと日傘を手に持って、錫也は真を振り返った。スマホは家に置いてきてしまったし、真も持って来ているように見えない。
錫也の言いたいことを感じ取ったのか、真はくすりと笑って首を傾けた。
「連絡先知りたい?」
「……よかったら、なんですけど」
それこそ都合よすぎることだ。
錫也は真をそういった意味で拒絶してしまったのだし……。
けれど真は嬉しそうに目を細める。
軽やかに一歩進んで、錫也の唇を人差し指で押した。
「僕のことは誰にも秘密だよ」
「秘密……?」
「そう、秘密。最初に言ったの覚えてる?」
真の言っていた嫌なこととは、此処の人たちとの間に起きたことなのだろうか。
確かに誰からも年齢の近い真のことを聞かなかった。祖母も商店の老人も、大地か錫也のことだけだ。
錫也は眉をひそめた。祖母が真に対して理不尽な行いをしているなんて思いたくなかったのだ。
「もし嫌がらせとか受けてるなら俺からお祖母ちゃんに」
「ああ、いいよ。余計なことはしないで。僕は一人きりなのが性に合っているんだ。ただ、たまに人肌恋しくなるだけ……」
真は指をつうーっと動かして、錫也の首筋をなぞった。
ぞわりとしてものが背を駆けあがって、錫也は首を振る。
「ふふ……ごめんね」
「あんまり、そういうのよくない、かも」
「そうだね。でも、君だからしてるんだよ」
真はまた蠱惑的な雰囲気をまとって、錫也に怪しい笑みを向ける。
錫也は飲み込まれないように視線をやや逸らした。
「さっき言ったことは守ってね。僕のことは秘密」
「もう会えない……?」
「会えるよ。会いに行く」
真はそれだけを残して、森の奥へと歩いて行った。
錫也は呆然とそれを見送った後、風が吹いて森がざわざわと騒ぎだしたのを皮切りに慌てて踵を返した。森に背を押されるような形で抜け出せば、見える風景はすっかり夜の雰囲気をまとっている。
頼りなく佇んでいる街灯のわずかな光源を頼りに家まで帰り着くと、そこには既に大地の自転車はなかった。当たり前かと思って、がらがらと音を立て戸を引いて「ただいまー」と家の奥まで届くように声を掛ける。
少しも経たず、祖母がぱたぱたと玄関までやって来た。
「よかった、心配してたのよ」
「ごめん。遅くなっちゃった」
「大地君が錫也を怒らせちゃったって来て……喧嘩しちゃったの? それで遅くまでかくれんぼ? お昼はちゃんと食べた?」
「森で……疲れちゃったからちょっと休むつもりが寝ちゃってたみたい。本当にごめん、お祖母ちゃん。大地には……次会ったら謝るよ」
その機会が訪れるとは思わないけれど。
なにせ錫也はけっこうな態度だったのだから。大地が錫也に呆れて、もう会いに来なくなったら終わるのだ。
錫也から会いに行く勇気はない。
そのくらいの関係で終わるくらいが、互いにとってはいいのかもしれないが。
錫也は祖母が用意してくれた夕食を食べ、入浴を済ませると自室に戻って敷いた布団へ横になる。
真と別れて森から出た後、とてつもない空腹を覚えた。昼を忘れて真との時間に没頭していたようだから仕方ないのだが、夜になるまで気づかないなんて……。自分はどれだけ重い悩みを抱えていたんだろう。付き合わせてしまった真に申し訳なく思いつつ、しかしあまりにも普通ではない状況に納得しきれない自分がいた。
うとうとと眠りの舟を漕ぎかけていると、冷えたものが錫也の額に触れた。
「もう寝ちゃうの?」
錫也はバッと起き上がって、目の前の人物を信じられない気持ちで見つめた。
真は別れた時と同じ服装のまま、布団の横に足を崩して座っている。全く気配が分からなかった。足音も聞こえなかったと思う。半分寝かけていたのであまり当てにならないが……。
「真さん!?」
「しー。静かに。イトさんが来ちゃうよ」
真は縁側に寄ると足を放り出して腰を下ろした。手を招いて錫也を呼ぶ。
「会いに行くって言ったから」
「どうやって入って……」
「入るのも出るのも簡単だよ。いつまでも留まるのは難しいけどね」
言っている意味が分からないでいると、真は錫也の手を取って指の間を絡めるように握った。
「ちょ、ちょっと」
「さっきはごめんね。改めて謝りたかったんだ。君の気持ちを無視して、僕の考えだけを押しつけてしまっていた」
「……俺も、真さんは俺がこれ以上傷つかないようにって言ってくれていたのに、なんか全部反抗してるみたいになっちゃって……」
「でもね、僕思ったんだよ。こうやって正反対でも互いの意見を言い合えるのが理想的な関係なんじゃないかなって」
真の指が何か誘惑するような意思を持って錫也の指を擦る。
錫也はどぎまぎして、手を離したかったが意外と強い力に阻止される。
「これは僕だけの想い? いや、違うはず。だって錫也君も僕に会いたかったわけだよね」
「ま、ことさん……」
「考えてみて。今まで誰かに話せた? できなかったから君は此処まで、イトさんの家までやって来たんだ。誰にも話せない傷ついた心を抱えていたんだ。そしてそれを剥き出しにして晒すことができたのは僕にだけ。そうだよね」
真は空いている手で錫也の肩を強く押して、縁側に押し倒した。上に乗った真の身体は嫌に軽く感じたけれど、こちらを押さえつける力はとても強かった。冷えた身体が錫也から熱を奪い続ける。
「や、やだ……怖いよ、真さん……」
「ちゃんと考えてよ。錫也君、僕とのこと」
「か、考える。考えるからっ」
月を背にして錫也の上に跨っている真から、とても恐怖を感じた。
しかし同時に頭はボーっとしていく。このまま真を受け入れてしまってもいいんじゃないかと。
錫也を理解しているのは大地よりも真だ。頭がくらくらとして、思考が鈍っていく。
真の瞳はとても綺麗だ。見つめられると、他のことはどうなってもいいと思ってしまう。
「錫也君……」
「まことさ……」
軒先の風鈴が大きく鳴った、ように感じた。まるで耳元で目覚まし時計が鳴ったかのようなそれに、錫也は身体を震わせて目を見開く。
すぐ近くまで迫っていた真の肩を押し退けて、バクバクと叩いてくる心臓を落ち着かせるために深呼吸をした。
「残念。もう少しだったのに」
「ま、ことさ……今、なに……」
真はくるりと翻って庭に下りた。裸足だ。慌てて錫也が引き留めようとするが、真はスゥーっと離れてしまう。
そこでようやく錫也は、異常に気づいた。
「でも絶対に、僕たちは相性が良いと思うよ」
月明かりがあるにしたって、部屋の明かりがあるにしたって、真の姿は見え過ぎていた。
その輪郭は白く朧気に光をまとっているように見える。真はどんどん縁側から離れて行くのに、ハッキリと見えている。
真は振り返ると、濡れているような瞳を錫也に向けて口角を上げた。
「また明日会いに来るよ。僕たちもっと分かり合える」
そして、夜の暗闇に紛れるかのようにぼやけて消えていった。
錫也はすぐに布団に戻って、頭まで被って丸くなった。
身体は震えている。しかしそれは恐怖だけだろうか。
真はおかしい。そう気づいても、また会えるんだという期待が不安と交じり合って、どうしてか消えなかった。
まるでよくないものに魅入られてしまったかのように。
朝から元気な大地の声が家中に響く。今日は早めに朝の支度を終えることができた錫也は、玄関先で大地を出迎えた。昨日言っていた通り、川での水遊び用にまずサンダルを調達に行く予定だ。
祖母に出掛けてくると伝えて家を出る。まだ日差しが弱く涼しかったが、今日も昨日と変わらず暑い天気になるだろう。
大地はまた自転車で来ており、錫也は後ろに自分が乗るのかと思っていたのだが大地に止められる。
「錫也はこっち」
「……折り畳み傘?」
「日傘! 自転車は押して歩くからさ」
渡されたのはシンプルなデザインの黒い日傘だ。バッと開くと、肌をじわじわ焼くような日差しから逃れて心地良い。
「涼しい?」
「快適。でも俺だけ? 悪いよ、返す」
「いいって!」
そうは言っても一人だけ日傘を差して歩くなんて。
錫也はせめて大地も入るように高く掲げるが、大地は錫也の手の上から取っ手を握ってやんわりと押し返した。
「俺はともかく、錫也の綺麗な肌が真っ赤になったら大変だろ?」
耳を疑った。しかし大地は錫也を揶揄っている様子はなく、とても真面目に話している。
錫也は目を泳がせて、日傘の取っ手をぎゅっと握る。涼しかったはずなのに、握られている手と顔は温度が上がっていった。
「……男相手に何言ってるんだ、馬鹿」
「えぇ? 男とか女とか関係ないだろ」
大地は取っ手から手を離すと、そのまま錫也の頬に触れた。
「ほら。錫也はこんなに可愛くて綺麗なのに」
「……っ」
錫也は思いっきり後ずさって、大地の手から逃れた。じわりと嫌な汗が背中に流れる。
心臓がひっくり返ったかのように鼓動が強くなって、唾をごくりと飲みこんだ。
「錫也?」
落ち着け。大丈夫。何も知られていない。バレていない。大地の言葉に深い意味なんてない。
彼は人たらしなんだ。きっと言葉に羞恥を持たない。だから特別な意味なんてないし悪気だってない。ない意味を考えたって時間の無駄だし、そもそも本人にその気がないのだから勘ぐったってそれこそ無意味だ。
錫也がここで変に狼狽えるほうがおかしく見える。
日傘で顔を隠して、錫也は深呼吸をした。
「暑いの苦手だから、ありがたく借りる。ありがと」
「お、おう」
商店までの道を二人でゆっくり歩く。
段々と昔の記憶が蘇ってきた。母に手を引かれながら歩いた思い出がある。祖母に「これでお菓子を買ってきてね」とお小遣いを貰って、少し涼しくなった夕暮れの道を母と共に歩いた。汗ばんだ手。それでも離したくはなくて、小さな手で母の指をぎゅっと掴まえていたんだっけか。
何のお菓子を買ったのかは覚えていない。しかし道中がとても楽しかったのは覚えている。
「まだ九時前だけど、こんな早くからお店って開いてんの?」
「代わりに閉まるのが早いぜ。学校帰りにはもうシャッター降りてるからさ」
大地の言う通り、商店は営業を開始していた。
コンビニよりも小さな店だ。店先には日焼けして色の抜けた長イスが置かれている。その隣には使い古されたゴミ箱だ。
店内には一人の老人がレジ横に座っていた。老人の目が大地に向き、次いで錫也を捉える。
「だいちゃん、高校の友達か?」
「錫也だよ、錫也!」
「ああ、イトさんとこの……。だいちゃんよかったなぁ」
老人は柔らかく頬を緩ませる。錫也の上から下を見て「すずちゃんもでっかくなったなぁ。覚えてるか?」と、歯の抜けた口をニッと引き延ばした。
錫也は頑張って記憶を漁った。レジ横に置いてあるキャンディが詰まった壺を見て、あっと声を上げる。
「おまけで飴をいっぱい……」
「そうそう。飴のじいちゃんだよ」
祖母の家から商店までの道のりは小さな子供にとって大冒険だ。祖母からお小遣いを貰って、自分の好きな物を選んで買っていい状況は非日常を演出した。うきうきで楽しんでいた錫也に、店主の老人はおまけと称して飴をたくさん持たせてくれたのだ。
意外にも覚えているものだなと、錫也は店内を見回した。こじんまりと感じるが、あの頃の錫也にとって此処はお菓子のお城のようだった。何もかもが大きく見えた。
老人は壺を錫也に向けると「ほれ、好きなだけ持ってけ」と笑う。
「え、いや悪いです。ちゃんと払います」
「子供が遠慮しなくていい。此処も趣味で開けてるだけだ。だいちゃんなんて一回も遠慮したことないぞ。もうありゃあわし掴みだな、体格だけじゃなく手も大きくなってよ」
「ちょっとちょっと! 俺そんなにがっついてねえって!」
慌てた様子の大地に、老人はフンと鼻を鳴らす。
「なんだ、すずちゃんの前だからってかっこつけやがって。去年まで会いたい会いたい泣き喚いてたくせに」
「なっ、泣き喚いてないけど!?」
「同じようなもんだ。朝からうじうじ鬱陶しかったろうが」
「鬱陶しい!? ひどっ!」
「ひどかねえよ。泣きながらアイス買っていじけてただいちゃんの話し相手になってやってたじゃねえか」
「だから泣いてないってば!」
錫也はなんだか恥ずかしくなって、言い合っている二人からそっと離れる。
商品棚には同じコーナーにカップ麺やスナック菓子の他にも絆創膏や文房具もあったりと統一性がない。しかし老人は趣味で開けていると言っていたので、これらの商品は大地に向けて置いてあるのだろう。朝早くから開いているのも、大地が通学前に寄っていくからだ。
その証拠に、カップ麺が置いてあるスペースに「ビッグサイズはだいちゃん用」と付箋が貼られている。他の住民が利用することだってあるだろうが、一部の商品は大地専用なのだ。
錫也も此処で育っていたら同じような付箋を貼られていただろうか。少し微笑ましく感じて、そのカップ麺を指で突く。
商品棚の一番下の列に目当てとしていたサンダルはあった。七百円と値札が付いており、錫也はそれを二度見する。
最低でも千円はするだろうと思っていた。それを持ってレジに戻ると、大地はレジ横に設置されている冷凍のケースを開けてアイスを二個取り出しているところだった。大地は錫也にバニラアイスの袋をぷらぷら見せながら「俺の奢り」と目尻を下げる。
「こんな時間からアイスって背徳的だろ」
「確かに。高校生の特権だな」
大地は錫也のサンダル代も一緒に払おうとしたが、これは断固として拒否した。お菓子類を奢るくらいなら友達同士でよくあることだが、サンダルは度が過ぎている。しかし大地は中々譲ろうとしなかった。
助け船を出してくれたのは老人だ。頬杖をつきながら小さく「しつけえ男は嫌われるぞ」と呟き、それを聞いた大地はピシッと固まって、レジへの道を錫也に譲った。それを老人は呆れた視線で見送って、錫也に「ほれ、すずちゃん」と手招いてくれた。再び妨害が始まる前に老人へサンダルを渡す。
会計を終えると、老人は店先の長イスの日除けにパラソルを設置してくれた。
礼を言って、大地と二人で並んで座る。アイスをしゃくりと齧ると、喉を通って腹の底をじーんと冷たくしていった。
「……さっきの」
錫也は風景から視線を逸らさず大地に語り掛ける。
「此処の人たちって皆知ってる感じなのか?」
「さっき? ……ああ、俺が錫也に会いたがってたこと?」
こくりと小さく頷く。
大地は「んー」と考える素振りを見せながら言葉を続ける。
「たぶん。俺ずっと夏になったら錫也は錫也はって言って回ってたし。夏じゃなくても会いたいなって言ってたかな。あ、さすがに今はやってねえよ!?」
「今もやってたらさすがに引く」
「やってねえって! イトばあちゃんの所に顔出したりはしてるけど、習慣みたいなもんだったし……」
老人が大地に「よかったなぁ」と言っていた表情を思い出す。
大地が再び錫也と出会えたことに心底喜んでいるようだった。
「でも俺以外にだって友達はいただろ?」
山向こうの学校なら通うのは大変かもしれないし、今はともかく小学生中学生の頃に友達と遊ぶ約束だって難しかっただろう。それでも友達と呼べる存在はいたのだから、大地がそこまで錫也に執着する理由はない。
錫也は夏の間のわずか一掴みの期間を共にしただけの存在だ。
大地は顔をしかめて、言い難いのか「それは、だって……」と小さく呟く。
アイスを食べ終わって、錫也は大地のほうへ視線を向けた。やけに真剣な表情をしている。
その視線に、錫也は狼狽えた。
「俺はだって、錫也が……」
言葉が続く前に、大地の手にあるアイスが溶けて棒から離れ、地面に落ちた。
ぐしゃりと無残な姿になる。
「あーっ!」
叫ぶ大地の声。アイスが上げた断末魔のように聞こえて、錫也は笑いを堪えられなかった。
「ふ、あはは! 早く食べないから!」
「だっ、まっ、ああちくしょう! 半分もいった! もったいねえ!」
さすがに地面に落ちたアイスに対して数秒ルールは適用されない。どんどん溶けて地面に吸われていっている。きっと後で甘い匂いに誘われて蟻が群がってくるだろう。
ゴミ箱に棒を捨てて、背徳的なアイスタイムは終了となった。
錫也はまだ笑いが続いていて、ふふっと口角が上がっている。
大地はじめじめと泣いていたが、笑っている錫也を見ると目尻を緩ませて表情を柔らかくした。
「今度は錫也の番。そっちの話聞かせてよ」
「……俺は、大して面白みないから」
「そんなことないって。俺は知りたいよ、錫也のこと」
店の軒下に吊るされている風鈴がちりちりんと短く鳴る。
背中を押されているようで、錫也はなんとなく口を開いた。
「泳げないって話はしたよな。水泳の授業が本当に嫌で、でも体育が苦手だったわけじゃないんだよ」
「へえ……」
「中学ではバスケ部で、一応ユニフォーム貰ってた」
「すごいじゃん!」
「大会とかは一回戦勝てればマシなほうだったんだけど、でもやっぱり引退するってなった時は後悔ばっかだったかな。もっとやれることがあったんじゃないかって」
「高校じゃバスケやってないのか?」
錫也は自分の手を見つめた。今じゃ突き指をすることがなくなった、普通の手だ。もっとできたことがあるはずだと後悔しながら去ったバスケ部だったけれど、高校でその熱を燃やすことはなかった。
逃げていたのだと思う。
逃げているうちは、自分はもっとやれるはずだと夢を見ていられるから。
しょせんは学校の部活動で、錫也にバスケの才能はない。そしてつらい練習を続けられる根性もなければ、一度手に入れた安穏とした時間を手放す勇気もなかった。
中学までは部活動が必須だったからバスケ部に入っただけで、入部は自由となればわざわざ苦しい時間を選ぶ必要はない。
なんだかんだと自分に都合のいい理由を並べているだけで、結局のところ錫也はつらいことをしたくないから逃げているだけなのだ。
ここまで話しきって、これで大地が何故か錫也に抱いている幻想は砕けただろうと思った。
大地が長年待ち続ける価値は、自分にないのだ。
しかし大地から返ってきたのは失望ではなかった。
「いいんじゃね? 逃げるが勝ちって言うだろ。あれ、意味が違うか……?」
大地は「ともかく」と言って、錫也に柔らかな視線を向ける。
「やってもやらなくてもオッケーなら、やらなくても問題ないってことだ! むしろそこまで考えてるなんて凄いよ。俺なんて、怠いからしか思い浮かばなかったし……」
「……なんか、俺が馬鹿みたいに思える」
「遠回しに俺のほうを馬鹿って言ってるか?」
「くっ」
「笑ったな! おいやっぱそうなんだな!」
大地と話していると、腹の底に溜まっていた黒くてどろどろしたものが綺麗に流れていくのを感じる。
錫也が一人で思い悩み悔やんでいることなんて、その実大したことではないのだと。
「あー、笑った……。あ、そういえば此処って花火も置いてるんだな」
錫也は店内に置かれていた花火セットを思い出す。最後に花火をしたのはいつだろうか。
「川辺でさ、ちょっとした花火大会があって。ちょうど部活終わりで友達と帰ってた時なんだけど……」
いつも通っている道は人の姿であふれていて、友達と顔を見合わせて不思議に思っていた。遠回りをして道を抜けると、ドーンと大きな音がなって、慌てて周囲を見回したのだ。友達が「あっ」と指を差して、その先を辿ると夜空に大きな花が咲いていた。
疲れきっていた錫也は花火大会のことをすっかり忘れていた。それは友達も同じで、いきなりの花火を呆然と眺めていたのを覚えている。
しかし思わず見られた大きな花火は美しく咲いて散り、その一瞬は今でも記憶の中にハッキリと残っている。
ざわざわと人がたくさんいて、その誰もが夜空に釘付けとなっている。そして夜空には絶え間なく大きな花が咲いては散ってを繰り返し、その残滓がぱらぱらと夜空からこちらへ降ってきているような迫力。あの時間、あの空間だけが切り取られて異世界に取り込まれたかのようだった。
たったそれだけのことだが、大切な夏の思い出だ。
楽しかったと語り終えると、何故か大地は表情を曇らせていた。
何か変なことを言ってしまったかと錫也は焦る。
「……俺も一緒にいたかった」
大地はそうぽつりと零すと、錫也を静かに見つめた。
「錫也が楽しいと思えた時間の全部に、俺が関わっていたかった」
錫也は一瞬何を言われているのか分からず、口をぽかんと開けた。
しかし次第に言葉の意味を噛み砕いて飲みこんで、顔がじわじわと熱くなっていく。
大地は自分の言っていることを分かっているのだろうか。ただの友達に向ける言葉ではないだろう。
これではまるで、異性に対する告白だ。錫也が男だからまだ勘違いが起こらずに済んでいる。錫也が女の子だった場合、告白されたと勘違いしたっておかしくない。
人たらしにもほどがあるだろう。
そうだ。これは同性に向けての言葉だ。深い意味なんて存在しない。
だから勘違いしちゃ駄目だ。錫也は自分にそう言い聞かせて、口内で舌を柔く噛んだ。
しかし大地は錫也の手を取る。
指先に暑さとは別の熱が宿って、手から腕、その先へと伝播していく。
「俺はずっと錫也に会いたくてたまらなかったんだ」
「お、男同士で冗談きついって!」
錫也は咄嗟に手を払った。
心臓がばくばくとうるさい。手が震えている。声も震えていた。
「……ごめん。きもかった?」
大地の声音にハッとして顔を上げると、傷ついたように笑っている。
そんな顔をさせたかったわけじゃなくて、錫也は「そんなことない!」と大声で返した。
そんなことはないけれど、しかしその後に何と続ければいいのか分からず黙ってしまう。
嬉しい? それこそどういう意味を含んで言えばいい。もしも大地に「そういうつもり」がなかったら、気持ち悪いと思われるのは錫也のほうだ。そして大抵の場合「そういうつもり」は存在しないと分かっている。錫也は少数派の人間でしかない。
それに錫也が穿った捉え方をしているだけで、大地は最初からただの友達に対して言葉を向けているだけかもしれない。
分からない、何も。
ただ一つ言えるのは、錫也は傷つきたくない。そのために祖母の所まで逃げてきたのに。
「あのさ、俺……!」
大地がまた錫也の手を取る。そして頬を少し赤く染めて何か伝えようとした。――その時、二人の前に自転車がキュッと止まる。
「大地! 見つけた!」
自転車から降りて、少女は頬をぷくりと膨らませる。
キャミソールから覗く腕はすらりと白く、顔も少しメイクをしているようだった。
大地は錫也からそっと手を離すと、錫也の前に立つ。
「何しに来たんだよ。俺しばらくは遊べないってあいつらにちゃんと言ったぞ」
「だって気になったんだもん……」
どうやら大地の高校の同級生のようだ。
容姿はもちろん声も可愛いと思う。太腿の半分くらいしか丈のないショートパンツから伸びる細い足は綺麗な肌が無防備に晒されている。
「大地、スマホ持ってないから不便! 早く持って!」
「家に電話あるだろ」
「だって大地ママとか大地パパが出ると恥ずかしい……。大地ってばすぐ切っちゃうし、もっと秘密のお話がしたいの! それに美羽といつでも話せるんだよ?」
「教室で話してるだろ……」
「だーかーらー! 二人だけでってこと! 特別感が欲しいの!」
「いらねーよ」
大地の後ろからちらりと覗くと、美羽という少女はパチパチと目を瞬かせて大地を上目遣いで見ていた。
そして大地の手を取って「ねえ」と甘い声を出す。
「美羽、頑張ってここまで来たんだよ? 皆が、大地は可愛い女の子と浮気するつもりだって言うから……」
そう言って、ぎろりと視線が錫也に向く。錫也は居心地が悪くなって、美羽から視線を逸らした。
棘のある声が錫也の耳に届く。
「てっきり女の子かと思ったのに!」
「浮気って……。だから前にも言ったけどさ」
錫也は立ち上がって、美羽には視線を向けず大地に「もう帰る」と告げる。
「えっ、錫也!」
大地から戸惑いの声が聞こえたけれど無視して、店内に居る老人へ礼を伝え、日傘を開いてそのまま歩き始めた。
しかしすぐ追いついた大地に腕を取られる。
錫也は苛立ちを抑えられず、それを乱暴に払った。
「帰るんだってば。離せよ」
「なんで急に……っ」
錫也は大地にぶつけたい言葉を腹の中にいっぱい仕舞い込んで、たった一つを吐き出した。
「学校の宿題があるから。そっちだって、俺以外にも友達はいるだろ。俺じゃなくたっていいはずだよ」
大地の表情に、徐々にヒビが入っていく。
大袈裟だ。ほんの少し突き放しただけなのに。そもそも距離が近すぎたのだ。
一人で居たかった錫也の傍へ強引に入ってきたのは大地だ。締め出されたからって、被害者ヅラするのはやめてほしい。
錫也は傷つきたくなくて、わずかな時間だけでもと此処まで逃げてきた。
当初の目的を優先させるだけだ。
大地はもう追ってこなかった。錫也はそのまま歩き続けて、しかし家まで帰る気にもならなくてそのまま涼しい場所を求めてあの場所に向かった。
森は静かな気配を宿していた。雑草だらけの道をさくりと一歩踏み出すと、涼しい空気が身体にまとわりつく。
錫也は日傘を畳んで、奥へ歩いた。
昨日大地に連れて行ってもらった川まで着くと、手に持ったサンダルと川とを交互に見て、しかし何もせず木の根に腰掛ける。
一人で川遊びをする気にならなかった。せっかく買ったのに。
家には大地の自転車が置きっ放しだ。今戻って大地と鉢合わせたら気まずい。その隣に美羽を見つけたらもっと嫌だ。きっとすごく惨めな気持ちになる。
重い溜め息を吐いて、錫也は目を閉じて木に寄り掛かった。
ちゅ、ちゅちゅ……と、鳥の鳴き声が遠くに聞こえる。
こういう時間を求めて、地元から時間を掛けて祖母の家まで来たはずだった。それなのに初日から大地に予定を狂わされている。
大地とはもう、関わらないほうがいいのかもしれない。だって大地はきっと、こちら側ではない。
「――寝るのなら、そこはあまり安定していないから倒れたら痛いよ」
錫也はバチリと目を開けて、声のしたほうへバッと向いた。
「驚かせちゃったかな。ごめんね」
すぐ近くに見知らぬ青年が立っていた。足音に全く気づかなかった。
申し訳なさそうに眉を下げる青年は、よく見れば昨日見かけた人と同じ人だった。あちらも覚えがあるのか「昨日も居た子だよね」と錫也に笑いかける。
その微笑みに目を奪われる。
「僕の名前は真。君は、錫也君だよね」
「そうですけど……」
「ここ、人の話ってすぐ広まるじゃない? 君はイトさんの所の子でしょ」
怪しい人かと思って身構えていた錫也だが、祖母の名前が出たので身体に入っていた力を抜いた。
「えっと、真さん。ごめんなさい、若い人は大地以外居ないって祖母に聞いてたから」
「そうだね。僕もたまにしか帰ってこないからさ」
「大学生ですか?」
「君は高校生だよね。あ、隣いい?」
真は錫也の隣に腰を下ろす。
近くで見ると、昨日思った通り真はとても綺麗な顔立ちをしていた。長い睫毛で縁どられた目を向けられると、少しドキリとする。
「昨日のお友達とは一緒じゃないんだね」
何気なく言われたその言葉に錫也は表情を硬くする。
「余計なことを聞いちゃったかな」
真は長い前髪を耳に掛けると、落ち着いた声音で話し始めた。
「僕もたぶん、君と同じだから……放っておけなかったんだ」
「同じ……?」
「そう。僕は昔、とても嫌なことがあってね。あまり人と関わりたくなくて……もしかしたら君もそうなのかなって思ったんだよ。こんな所に一人で来て、川遊びをするわけでもなさそうだったからね」
地面に放ったままの新品のサンダルを指で示される。
真は更に「でも、昨日は一人じゃなかったよね。楽しそうだった」と続ける。
「喧嘩でもしたのかな」
「喧嘩とはちょっと違います。ただ俺が、その……」
錫也も嫌なことがあって、人と関わることが怖くなっていた。地元に居たままでは家から出られなくなるのではと危惧した母の提案で、夏休みの数日を祖母の家で過ごすことにしたのだ。
環境が変われば、心はスッキリするのではと思って。
その原因について母にも祖母にも伝えていない。言えなかった。言えるわけがない。
「――僕は男だけど、男の人が好きなんだ」
錫也は目を見開いた。間抜けにも口をぽかんと開けて、真に視線を寄越す。
真は穏やかな表情を保ったまま、少し首を傾げた。
「これで少しは話しやすくなったかな」
「な、なん……ど、して」
錫也は言えなかった。誰にも言えなかった。
「僕は錫也君とちゃんと向き合って話したいと思ったから。それに言っただろ、たぶん同じって。それなら僕から言ったほうが、君も心の中を見せやすいかなと思ったんだ」
「でもそれでもし俺がそうじゃなかったら?」
錫也は全く別の事で悩んでいて、同性愛者ではなく異性愛者だったら?
それで真のことを気持ち悪いって思ったら?
他人と必要以上に関わって傷つくのは自分なのに、どうして。
「それならそれで僕の判断が間違っていたってだけだよ。傷ついて泣くかもしれないけど、でも次からはもっと慎重になれるよね。それにこれは誰かに強制されてのことじゃなくて、僕自身が錫也君と仲良くなりたくて勝手をした結果だからさ。早まったなって後悔はするかもしれないけど、納得はできるよね」
「……そこまで、前向きに考えられない」
「意外と後ろ向きかもよ。結局のところ僕だって傷ついても大丈夫だって自分を騙す理由を前もって用意しているわけだから」
真は照れ臭そうに笑い頬を掻くと、改めて錫也に向き合った。
「それで、錫也君の悩みを聞かせてもらっても大丈夫かな。きっと僕なら君の気持ちを全部分かってあげられるよ」
それは甘美な誘いだった。
誰にも言えずに腹の底で積み重なっていたものをようやっと吐き出せるかもしれない安堵。
木の根に置いていた錫也の手に、真の手が重なる。ひんやりと冷たい手が錫也の体温を奪っていく。
それがとても心地良くて、錫也は真の手をそのまま受け入れた。そしてその冷涼感に導かれるように口を開く。
「男の人が、好きなんです」
「うん」
「でもずっと誰にも言えなくて、言うのは怖くて。黙ってたらバレないと思ってて……」
高校二年に進級した春の頃。錫也は長年仲良くしていた友達に映画を見ようと誘われて、その友達の家まで行った。
どんな映画なのか聞いても誤魔化されていた辺りで錫也も気づけばよかったのだが、ただ普通に映画を見るだけだと思っていたので映像が始まるまで本当に疑うことはなかった。
面倒くさがりのこの友達が、レンタルなんて利用するわけなかったのに。
始まったのは映画ではなく、男性同士のアダルトビデオだった。
大学に進学した部活の先輩から回ってきたのだと言う。怖いもの見たさで借りたんだと、どこか誇らしげな様子で錫也に語っていた。
「普通にしていればよかったんです。普通に、同じようにふざけて笑ってたら、よかった」
初めて見た同性同士での性交に、錫也は見入ってしまった。隣に友達が居るにも関わらず、羞恥にやや目を伏せつつも両目はしっかり映像を捉えていて、ごくりと唾を飲み込んだ。
自分がどんな表情を浮かべていたかなんて分からない。でもきっと、そうと分かるような表情を浮かべていたのだろう。
「友達は何も悪くないんです。むしろ俺が……」
友達はすぐ映像を止めると躊躇いがちに口を開いた。もしかして、と続いた言葉に錫也は肯定も否定もできなかった。うまくふざけて返していたら全ては冗談で済ませられたのに。友達もきっとそれを望んでいた。
けれど錫也は焦りから最適解を逃してしまったのだ。
友達は優しい奴だ。錫也に「……そっか」と頷いて、それからその話題は出さないでいてくれた。
でも錫也は恐ろしくて仕方なかった。
次に登校した時に、教室へ入った途端に皆の視線が集まったらどうしよう。
実は学校中に言い触らされていたら?
錫也が気づいていないだけで、皆とっくに錫也がそうだって知っていたら?
友達はあんなことがあった後も普通に接してくれた。錫也が変に意識をしているだけだ。でも、友達との関係がもしも悪化した時にバラされるんじゃないか。そんな存在しない悪意の不安がいつも付きまとっていた。
「怖くて、怖くて……。俺のどんな行動から周りにそうだって知られるか分かんなくて、どうしようとか。色々考えたらキリがなくて……。それでもこんなこと家族には言えないし、ってか誰にだって言えないし……。不安ばっかり膨らんで、気づいたら俺のほうから友達を避けていたんです。あいつは何も悪くないし、むしろ俺のことを気遣ってくれていたのに。俺はそれを信じきれなくて、怖くて、不安で、それならいっそのこと一人のままのほうが都合いいよなって思うようになっちゃって」
あからさまに避けてしまっていたから、周りからは喧嘩したのかと聞かれた。それでも錫也のことはバレていなかったのだから、本当に良い奴だなと思う。
「きっかけは小さなことだったんです」
錫也が落とした消しゴムを、友達が拾おうとしてくれただけ。そこに錫也の手も触れてしまった。
ただそれだけ。
友達は錫也の手が触れると驚いて、肩を震わせた。視線が合うと気まずそうに「ごめん」と言って、そっと手を引いた。
「友達もきっと俺のこと分からなくて怖かったんだと思います。俺はずっと避けていたから余計に」
それからすっかり疎遠になって、錫也はクラスに一人でいるようになった。
いじめられたわけじゃない。錫也が一方的に周囲から距離を置いただけだ。
「手が触れたの、気持ち悪かったのかな。なんて、思ったりもして……」
悪気はなかった。互いに。
ただ、うまく関係を維持できなかった。
それでも錫也は傷つくことが怖かったし、自ら踏み込んで自分のことを話すなんてあの時は無理だったと思っている。
友達を信用できなかった罪悪感だけを抱えていればいいのなら、自分からつらくて苦しいほうへ向かう必要もないだろうとも思って。
結局逃げているだけなのは変わらないのに。言い訳ばかりが積もっていく。
真は錫也の話を黙って聞いて、口を挟まない。だからだろうか、誰にも明かせなかった気持ちがすらすらと口から出てくる。
不思議と胸が軽くなっていった。
「俺、なんで……こんなに、生きるの下手くそなのかなぁ」
鼻の奥がつんと熱くなる。
眉間に皺を寄せて、錫也は弱音を吐き出した。
「いつもみたいに、ふざけ合ってたらよかったのに。やべえなって言いながら、笑えてたらよかったのに。なんで、なんでそんな……簡単なことできなかったんだろ……なんで、あの時、ちゃんと話せなかったんだ……!」
友達はきっと錫也を理解しようとしてくれていた。それを怖がって逃げたのは錫也だ。
「俺いっつも逃げてばっかりで! この先も、ずっとそうやって生きていくのかな……。俺とちゃんと向き合おうとしてくれた人を突き飛ばして、逃げて、勝手に傷ついて……それならやっぱり一人のままのほうが誰も嫌な思いしないじゃん……」
真は繋いでいる手にぎゅっと力を込めると、錫也の顔を覗き込んだ。
「錫也君は何も悪くないよ」
真の瞳は静かに凪いでいて、見つめられると落ち着かなくなる。
錫也が視線を逸らすと、咎めるように顔が近づいた。
「いくら友達同士だからって、アダルトな映像を不意打ちで見せるほうに責はあるんだよ。ましてや君たちはまだ高校生。咄嗟に誤魔化したりできないのは仕方ないことだと僕は思うよ。それに、僕たちみたいなのは隠れて生きるしかないんだから、錫也君のことをよく知らずにそんな映像を見せてくるなんて、配慮がなさすぎるよね。僕は錫也君に問題があったとは思わないな」
「で、でも……」
「それにね。錫也君はべつにその友達のことを恋愛的に好きだったわけじゃないよね? それなのに向こうは過剰に反応して、それこそひどいのは友達のほうじゃないか」
「そんなことは」
「どうして。これが男女だったらどう? 君は友達の女の子から『男の人が恋愛対象』って言われて、じゃあ自分のこと好きなのかもって思う?」
思わないけれども。
しかしそれは極端な話だ。
「でもそういう話だよ。君は勝手に、友達にレッテルを貼られたんだ。それで勝手に怖がられている。それってひどいのはどっち?」
「……でも、やっぱり俺が避けたのがきっかけだと思うし」
「気まずくなって距離を置くのは普通のこと。それにそもそも不適切なものを見せてきたのは向こうだよね。それでも錫也君は全部自分が悪いんだって思うの? 僕は決してそんなことはないと思ってるよ。君の気持ちはどう? 納得しきれないから苦しかったんじゃないの? 何か心に引っ掛かる部分があったから、こうして僕に話してくれたんじゃないの。全部自分の中で終わってる話なら、こうして僕に話してないんじゃない? 少なくとも僕は、君のSOSを感じたつもりだよ」
真の手が宥めるように錫也の手の甲を撫でる。指の腹で優しく皮膚を撫でられて、錫也は真の言うこと全てに頷きそうになった。
真の言葉には錫也が身勝手に求める全てを孕んでいた。緩やかに全身へ回っていく甘い毒は、錫也から責任を奪って簡単に頷かせようとする。真の言う通りに、錫也は春から続くつらく苦しい思いの責任を全て友達にぶつけてしまいたくなった。
元はと言えばお前のせいで、と。
でも、それでも。
「でも、友達なんだよ。今でも俺が学校に通えているのは、あいつが俺のことを誰にも話していないからなんだ」
友情は薄れてしまったかもしれないが、錫也が同性を好きであることを友達は誰にもバラしていない。
錫也の手の甲に爪を立てられる。穏やかだった真の表情に苛立ちが浮かんでいた。
「その友達が君を苦しめているんだってどうして分からないの」
真の言うことは分かる。きっと彼の言葉に従って頷いていれば、心はもっと軽くなる。
でも同時に、錫也はもう二度と誰も信じられなくなる気がした。
「何それ。他人と距離を置きたいから来たんじゃないの?」
「そうなんだけど、でも、それだけじゃなくて……」
真の言う通り、錫也は誰とも関わりたくなかった。しかしそれは初日に大地が錫也を迎えに来たことで失敗している。
それでも本当に拒絶したいのなら大地を冷たく突き放せばよかったのだ。
でもそれをしなかった。
そして今日、大地と美羽の関係を察して傷ついて、勝手に怒って、一緒に遊ぼうと約束した場所に一人で来てしまっている。
「俺、本当は……」
誰かと関わっていたかったのかもしれない。不安だからこそ傍に誰かがいてほしかった。
錫也の悩みを笑って吹き飛ばして、じゃあもっと楽しいことを考えようと外に連れ出してくれるような人に、出会いたかったのかもしれない。だから錫也は大地を突き放せず、こうしてサンダルを買ってしまっている。
真は大きく溜め息を吐いた。錫也は怒らせてしまったかと身体を強張らせる。
「あの、ごめんなさい……。話を聞いてもらったのに……」
「謝らないで。今のは僕が悪かったよ」
真は錫也から手を離すと、今度は肩に腕を回してそっと寄り添った。真は手だけでなく全身ひんやりとしていて、錫也の身体にぴたりと引っつく。
錫也はぎょっとして身体を離そうとするけれど、木の根から落ちそうになって余計に真が抱き寄せてくる。
「あ、あのっ」
「人恋しいんだ。僕たちみたいなのは簡単に誰かに触れられない。それは君も同じだろ?」
もう片方の手が錫也の太腿をさらりと撫でていく。錫也は口をぎゅっと閉じて、変な声が勝手に飛び出ないよう努めた。
真はくすりと笑うと「慣れてないんだ」と揶揄うように呟く。
「でも、そうだよね。錫也君の周りに同じ子はいなかったんだもんね」
「……真さんは、いたんですか」
「さあどうかな。でもいたんだったら、僕はこうして一人きりで錫也君に会うことはなかったかもね」
余計なことを言ってしまったかもしれない。
錫也の話を親身に聞いてくれたから、真をすっかり大人のお兄さんと思っていたけれどこの人だってまだ大学生なのだ。人生経験は錫也とそう変わらないはず。
そして真も錫也と同じように嫌な思いをして他人を避けていると言った。
真だって傷ついた経験を持っているのだ。
「ごめんなさい、不躾だった」
「ああ、べつに気にしてないよ。それに、おかげで錫也君に会えたからね」
「えっと……」
「深く考えなくていい。夏の間の、ちょっとした火遊びだよ。君も僕もひとりぼっちだ。誰かに期待したって、本当に分かり合えるのは結局こちら側の人間だけだ。だから、ね、いい?」
真が身を乗り出して、錫也の顔と近づく。
その淡く色づいた唇もきっと冷たいんだろうなと思いながら、錫也はうるさい心音を無視するように目を閉じて……慌てて顔を背けた。
「……急すぎたかな」
「あ、その……ごめん……」
「いいよ。僕も焦りすぎちゃったみたいだ」
真は詰めていた距離を戻した。
胸の辺りをぎゅっと握って、錫也は息を浅く吐き出した。
真とキスする瞬間、思い浮かんだのは大地の顔だった。自分でもどうしてか分からない。でも、真とキスした後に大地と顔を合わせられるかと考えて……無理だと感じた。
大地には可愛い彼女がいるのに。錫也に対して過剰に友好的だと感じるのは、今まで会っていなかった反動によるもので、大地がそういう意味で錫也のことを好きなわけじゃないのに。
錫也は、ほんの少しの時間で、もしかしたら大地のことを……。
「……気に入らないな」
「え?」
「何でもない。じゃあ話を戻そうか。錫也君は、昨日一緒だった子……大地君と何かトラブルがあったのかな」
真の瞳からは先ほどまでの恐ろしいほど引きこまれるような情欲が消えていた。錫也は安心して真の目を見返す。
「それ。一緒に遊ぶために買ったんだろ?」
新品のサンダルが所在なさげに地面に放っておかれている。
「トラブルってほどじゃないんだけど……。たぶん大地の高校の同級生かな、女の子が来て……いたっておかしくないよなって思うんだけど、でも、なんだ彼女いるんじゃんって……思ったらちょっと、腹がむかむかしてきちゃって」
「この辺は特に娯楽が少ないから、思春期の子供たちが何を娯楽とするかって錫也君には思い浮かばなかったのかな」
「え……」
やけに棘のある声だった。
真は吐き捨てるように続ける。
「人が来ないような場所なんて子供でも分かるからね。今頃何をしているかなんて分からないよ」
「ちょっとそれは言いすぎなんじゃ」
「そう? でもむかつかない? 散々思わせぶりな態度を取っておきながら、でも結局は異性を選ぶんだよ。大地君みたいなのはその典型的なものだよね。きっと錫也君をもっと傷つけるよ。これ以上深く踏み込む前に離れたほうがいいんじゃないかな」
やはり真は怒っているようだった。
遠回しに、キスを拒絶したことを言われているような気がする。錫也はしかし、真に触れる理由を持たない。キスを受け入れるような関係ではないのだ。火遊びと言われても、錫也にとってそう簡単な行為ではなかった。
「大地は……良い奴です」
それしか言えなかった。錫也だって大地のことを深く知らない。知ろうとせずに、美羽の存在に怖じ気づいて逃げてきてしまったのだから。でも、錫也以上に大地のことを知らなさそうな真に大地を悪く言われてしまうのは受け入れられなかった。
真は錫也が言い返すと思っていなかったのか、眉を吊り上げて「なにそれ」と返す。
「僕は錫也君のことを思って言ってるんだよ」
「そこはありがとうございますって思います。会ったばっかの俺に優しくしてくれて、色々話せて俺も少しは頭の中とかがスッキリしました。でも、大地は何も悪くないのにそういう言われ方するのは嫌です」
「悪くない? 悪いよ。君を傷つけた」
「違います。勝手に俺がむかついて、苛立って、尻尾巻いて逃げただけです。むしろ俺が大地を傷つけた――んだと、思います」
それでもう大地が錫也に会いに来なくたって、大地が悪いわけじゃない。
しかし真はその答えを気に入らなかったようだ。
「違う。全然違うって。どうして錫也君が悪いの? そんなこと絶対にないよ。どうして分からないかな。悪いのは僕たちの気持ちを弄ぶあいつらのほうだよ」
「俺は男が好きだって誰にも言ってない。だから大地に、俺のそれを察して気遣って行動しろって求めるのは無理な話だし、強要なんてできない。それを要求するんだったら俺だって大地の気持ちを汲まないとフェアじゃないです」
そうだ。だから錫也は美羽が来てもあの場に留まっているべきだった。
大地と友達だって言うなら、錫也は勝手に怒って逃げる前に、大地の友達として美羽の前に立てばよかったんだ。そのことが腹にすとんと落ちる。
「……そっか。俺やっぱり嫉妬したんだな……」
久しぶりに訪れた土地で、幼い頃に別れたきりの友達が自分のことをずっと覚えていてくれた。
そしてずっと会いたかったと、嘘偽りない言葉をぶつけてくれる。
そんな大地に錫也はいつの間にか心を許していたのだ。だから、大地の傍に女の子が立っただけで嫌な感情がブワッと湧き上がって冷たい態度を取ってしまった。
だからやっぱり、大地は何も悪くない。
「恋になる前に失恋するってこんな感じなんだ……」
「はぁ……。痛い目見ないと分からないって言うなら僕からはもう何も言わないよ。これ以上言い合って、錫也君に嫌われたくないからね」
「なんかごめんなさい……」
「謝らないでよ。僕だって君に勝手な想像を押しつけただけさ。大地君が本当に女の子と人目のない所で何かしてるなんて根拠のない言い掛かりだったからね。品のない発言だった、僕こそごめんね錫也君」
真はしょんぼりと眉を下げて、錫也に軽く頭を下げる。
錫也は慌てて両手を振った。
「いや! 全然! そもそも俺が真さんに始めた相談ですし!」
「許してくれる?」
「俺こそ生意気言ってばっかで!」
「ふふっ、じゃあお互い様ってことにしようか」
「ですです」
真は立ち上がって背伸びをすると、錫也の手を取ってふんわりと微笑んだ。
「そろそろ帰ったほうがいいね。日も落ちてきている」
「え……?」
言われて周囲に目を向ければ、辺りはどんよりと暗くなっていた。鳥の鳴き声は消え、時折風で擦れる葉音が聞こえるだけである。
錫也は顔からサーっと血の気が引いた。いつの間にそんなに時間が経っていたのだろう。見上げた空は茜色を通り越して薄闇をまとい始めていた。
「話し込んじゃったから気づかなかったね。お腹は空いていない?」
「えっ、ええっ! こんなに気づかないもん!? ごめんなさい、真さん! 早く帰らないと」
「それだけ真剣だったってことじゃないかな。急がないなら一緒にご飯でもと思ったんだけど……イトさんが心配して待っているものね。早く帰って安心させてあげなよ」
「はい! あ、っと……」
サンダルと日傘を手に持って、錫也は真を振り返った。スマホは家に置いてきてしまったし、真も持って来ているように見えない。
錫也の言いたいことを感じ取ったのか、真はくすりと笑って首を傾けた。
「連絡先知りたい?」
「……よかったら、なんですけど」
それこそ都合よすぎることだ。
錫也は真をそういった意味で拒絶してしまったのだし……。
けれど真は嬉しそうに目を細める。
軽やかに一歩進んで、錫也の唇を人差し指で押した。
「僕のことは誰にも秘密だよ」
「秘密……?」
「そう、秘密。最初に言ったの覚えてる?」
真の言っていた嫌なこととは、此処の人たちとの間に起きたことなのだろうか。
確かに誰からも年齢の近い真のことを聞かなかった。祖母も商店の老人も、大地か錫也のことだけだ。
錫也は眉をひそめた。祖母が真に対して理不尽な行いをしているなんて思いたくなかったのだ。
「もし嫌がらせとか受けてるなら俺からお祖母ちゃんに」
「ああ、いいよ。余計なことはしないで。僕は一人きりなのが性に合っているんだ。ただ、たまに人肌恋しくなるだけ……」
真は指をつうーっと動かして、錫也の首筋をなぞった。
ぞわりとしてものが背を駆けあがって、錫也は首を振る。
「ふふ……ごめんね」
「あんまり、そういうのよくない、かも」
「そうだね。でも、君だからしてるんだよ」
真はまた蠱惑的な雰囲気をまとって、錫也に怪しい笑みを向ける。
錫也は飲み込まれないように視線をやや逸らした。
「さっき言ったことは守ってね。僕のことは秘密」
「もう会えない……?」
「会えるよ。会いに行く」
真はそれだけを残して、森の奥へと歩いて行った。
錫也は呆然とそれを見送った後、風が吹いて森がざわざわと騒ぎだしたのを皮切りに慌てて踵を返した。森に背を押されるような形で抜け出せば、見える風景はすっかり夜の雰囲気をまとっている。
頼りなく佇んでいる街灯のわずかな光源を頼りに家まで帰り着くと、そこには既に大地の自転車はなかった。当たり前かと思って、がらがらと音を立て戸を引いて「ただいまー」と家の奥まで届くように声を掛ける。
少しも経たず、祖母がぱたぱたと玄関までやって来た。
「よかった、心配してたのよ」
「ごめん。遅くなっちゃった」
「大地君が錫也を怒らせちゃったって来て……喧嘩しちゃったの? それで遅くまでかくれんぼ? お昼はちゃんと食べた?」
「森で……疲れちゃったからちょっと休むつもりが寝ちゃってたみたい。本当にごめん、お祖母ちゃん。大地には……次会ったら謝るよ」
その機会が訪れるとは思わないけれど。
なにせ錫也はけっこうな態度だったのだから。大地が錫也に呆れて、もう会いに来なくなったら終わるのだ。
錫也から会いに行く勇気はない。
そのくらいの関係で終わるくらいが、互いにとってはいいのかもしれないが。
錫也は祖母が用意してくれた夕食を食べ、入浴を済ませると自室に戻って敷いた布団へ横になる。
真と別れて森から出た後、とてつもない空腹を覚えた。昼を忘れて真との時間に没頭していたようだから仕方ないのだが、夜になるまで気づかないなんて……。自分はどれだけ重い悩みを抱えていたんだろう。付き合わせてしまった真に申し訳なく思いつつ、しかしあまりにも普通ではない状況に納得しきれない自分がいた。
うとうとと眠りの舟を漕ぎかけていると、冷えたものが錫也の額に触れた。
「もう寝ちゃうの?」
錫也はバッと起き上がって、目の前の人物を信じられない気持ちで見つめた。
真は別れた時と同じ服装のまま、布団の横に足を崩して座っている。全く気配が分からなかった。足音も聞こえなかったと思う。半分寝かけていたのであまり当てにならないが……。
「真さん!?」
「しー。静かに。イトさんが来ちゃうよ」
真は縁側に寄ると足を放り出して腰を下ろした。手を招いて錫也を呼ぶ。
「会いに行くって言ったから」
「どうやって入って……」
「入るのも出るのも簡単だよ。いつまでも留まるのは難しいけどね」
言っている意味が分からないでいると、真は錫也の手を取って指の間を絡めるように握った。
「ちょ、ちょっと」
「さっきはごめんね。改めて謝りたかったんだ。君の気持ちを無視して、僕の考えだけを押しつけてしまっていた」
「……俺も、真さんは俺がこれ以上傷つかないようにって言ってくれていたのに、なんか全部反抗してるみたいになっちゃって……」
「でもね、僕思ったんだよ。こうやって正反対でも互いの意見を言い合えるのが理想的な関係なんじゃないかなって」
真の指が何か誘惑するような意思を持って錫也の指を擦る。
錫也はどぎまぎして、手を離したかったが意外と強い力に阻止される。
「これは僕だけの想い? いや、違うはず。だって錫也君も僕に会いたかったわけだよね」
「ま、ことさん……」
「考えてみて。今まで誰かに話せた? できなかったから君は此処まで、イトさんの家までやって来たんだ。誰にも話せない傷ついた心を抱えていたんだ。そしてそれを剥き出しにして晒すことができたのは僕にだけ。そうだよね」
真は空いている手で錫也の肩を強く押して、縁側に押し倒した。上に乗った真の身体は嫌に軽く感じたけれど、こちらを押さえつける力はとても強かった。冷えた身体が錫也から熱を奪い続ける。
「や、やだ……怖いよ、真さん……」
「ちゃんと考えてよ。錫也君、僕とのこと」
「か、考える。考えるからっ」
月を背にして錫也の上に跨っている真から、とても恐怖を感じた。
しかし同時に頭はボーっとしていく。このまま真を受け入れてしまってもいいんじゃないかと。
錫也を理解しているのは大地よりも真だ。頭がくらくらとして、思考が鈍っていく。
真の瞳はとても綺麗だ。見つめられると、他のことはどうなってもいいと思ってしまう。
「錫也君……」
「まことさ……」
軒先の風鈴が大きく鳴った、ように感じた。まるで耳元で目覚まし時計が鳴ったかのようなそれに、錫也は身体を震わせて目を見開く。
すぐ近くまで迫っていた真の肩を押し退けて、バクバクと叩いてくる心臓を落ち着かせるために深呼吸をした。
「残念。もう少しだったのに」
「ま、ことさ……今、なに……」
真はくるりと翻って庭に下りた。裸足だ。慌てて錫也が引き留めようとするが、真はスゥーっと離れてしまう。
そこでようやく錫也は、異常に気づいた。
「でも絶対に、僕たちは相性が良いと思うよ」
月明かりがあるにしたって、部屋の明かりがあるにしたって、真の姿は見え過ぎていた。
その輪郭は白く朧気に光をまとっているように見える。真はどんどん縁側から離れて行くのに、ハッキリと見えている。
真は振り返ると、濡れているような瞳を錫也に向けて口角を上げた。
「また明日会いに来るよ。僕たちもっと分かり合える」
そして、夜の暗闇に紛れるかのようにぼやけて消えていった。
錫也はすぐに布団に戻って、頭まで被って丸くなった。
身体は震えている。しかしそれは恐怖だけだろうか。
真はおかしい。そう気づいても、また会えるんだという期待が不安と交じり合って、どうしてか消えなかった。
まるでよくないものに魅入られてしまったかのように。
