この夏を越えて、君に。

「おはよう錫也!」

 時刻はまだ八時台。夏休み中にしては早く起きたほうだ。
 錫也は祖母が用意してくれた朝食をゆっくり食べていた。今日は庭でも眺めて涼みながら、持って来ていた本でも読もうかと考えていたところだった。
 家の呼び鈴が鳴って祖母が出たと思えば、戻ってきたのは祖母一人だけではなかった。
 昨日と変わらない元気な様子で、大地は片手を上げる。錫也が戸惑いながら「お、はよう」と返すと、満面の笑みで頷いた。

「悪い、飯中だったか」
「もう終わるところだから……」

 大地はテーブルの上を見て、表情にかげりが出る。

「夏バテか……?」
「え、違うけど」
「それだけで足りる?」
「朝からそんなに食べられないよ」

 大地にちょっと待つよう伝えて、錫也は食器を洗い片付けた。
 居間に戻れば、祖母と仲良く談笑している。

「今日は何の用?」

 言えば、大地はショックを受けたかのように固まって、祖母が「あらあら」と微笑む。

「きっ、昨日! また明日って!」

 言っていたかもしれない。
 しかしお決まりの文句というか、友達同士の別れ際によく聞く台詞と思っていたので真に受けていなかった。
 錫也の表情からそれを察したのか大地は畳に両手をついてうなだれる。

「お、俺は……っ! 楽しみに、していたのに……!」

 それほど落胆することだろうか。
 錫也は決まりが悪くなって、視線を逸らし指先を組み合わせる。
 ここで「帰って」と言ったら更に悪化しそうだ。祖母の前だから余計に言い難い。しかしあまり関わるつもりがなかったし、そのつもりで「覚えていない」と言ったのに。

「ごめん、でも俺に付き合わせるのは迷惑かなって感じもあって」

 大地がバッと顔を上げて「まったく!」と叫ぶ。
 顔色に血の気が戻っている。言葉選びを失敗した。

「まったく迷惑じゃないから!」
「え、で、でも」
「むしろウェルカム!」
「あ、う……」

 やんわり断ろうとしたのに、大地への着火剤になってしまったみたいだ。
 すっかり元気とやる気を取り戻した大地は、錫也と遊びに出掛ける気満々となっている。結局錫也は押し切られてしまった。
 祖母からの見送りを受けて外に出ると、既に照りつけている日差しが肌に刺さる。
 大地は家の前に立て掛けてある自転車を指して「錫也は後ろな」と告げた。

「え」
「横向きだと景色見れて楽しいぜ」
「いや、二人乗りとか駄目じゃない? 危ないし……」
「だいじょーぶ!」

 ほら、と急かされて、錫也は渋々自転車の荷台に座った。
 他人の目が気になって仕方ない。下唇を噛んで俯く。

「しっかり掴まれよ」
「ど、どこに」
「俺!」

 掴まれるわけがない。やっぱり降りると言う前に、大地は漕ぎ出した。
 コンクリートで舗装されていない道は凸凹で、時折ガコンと大きく揺れる。錫也は咄嗟に大地の背中に寄り添った。
 服の裾をぎゅっと握って、もしこれで伸びたと文句を言われても責任はお前にあると言ってやるつもりだった。
 しかし大地はくすぐったそうに「もっとちゃんと掴めよ!」と笑う。
 振動があるたびに尻への衝撃も大きかったのだけれど、段々と気にならなくなっていた。景色がとても壮大だったからだ。尻への衝撃なんて気にならなくなるほど目を奪われる。
 広大な畑がずっと遠くまで広がっている。時折大地が「おはよー!」と大声を上げていた。よく見れば、畑のほうで誰かが大きく腕を振っている。知り合いなのだろう。

「ここ自転車で走ると気持ちいいんだよ」

 大地より背は低いし体格は劣っているにしろ高校生男児を後ろに乗せているのに、大地は全く怯むことなくペダルを漕ぎ続けている。
 交代しようか聞いても大地は「これくらい楽勝」と得意気だ。

「山向こうの町の高校通っててさ。バスだと時間微妙だから自転車で通ってんの。すっかり鍛えられたなー」
「だったら自転車、もっと走りやすいのにすればよかったのに」

 大地が乗っているのは所謂ママチャリだ。大きなカゴと荷物を括りつける荷台があって、山を登るには不向きに見える。

「そっちだと高いじゃん。それに今さぁ、錫也を後ろに乗せることできてるから俺的にはこれが最強」

 こいつは女子にモテまくるだろうなと、しみじみ思った。そしてきっとたくさん泣かせてきたはずだ。
 こんな台詞を男相手に言ってしまえるのだから。

「どした?」
「……何でもない」

 後ろに乗っていて良かった。赤くなった顔を見られるわけにはいかないから。
 人たらしって大地みたいな人を言うのだと思う。
 しばらく景色を楽しみながら走っていると、森に着いた。大地は自転車を適当な木に立て掛けると、錫也に向かって手を差し伸べる。

「慣れないと転ぶから」
「いやでも……」
「ほらほら早く!」

 渋っていると、大地は待ちきれないのか錫也の手をぎゅっと握って引いた。
 錫也は掌に汗をかきませんようにと祈りながらその手を柔く握り返す。
 森の中はたくさんの木が日差しを遮って薄暗かったが、その分とても涼しかった。ひんやりした空気が漂っている。
 深呼吸すると冷えた空気が肺に入って、身体の熱を落ち着かせていった。

「夏の間の穴場。マジで暑くてしんどい時はここ来るんだ」
「すごい、夏じゃないみたい……」
「家に居ると冷房もったいないって蹴り出されるからさー」

 大地は錫也にぐいっと近寄って、至近距離で顔を覗き込んだ。錫也は驚いて転びそうになったが、大地が手を引いて抱きとめる。

「あっぶな!」
「だ、だって……!」

 いきなり距離を詰めたそっちが悪いのに。
 大地は「驚かせてごめん」と言ってから、もう一度錫也の顔色を窺った。

「顔色、良くなったな」
「え?」
「暑いの苦手なのかと思ってさ」

 大地はそう言って、錫也の手を引いて森の奥へと進む。
 どうやら錫也が本当に夏バテ状態なのではないかと心配していたようだった。昨日はそれで錫也を送り届けた後すぐに帰ったし、今朝も食事量を気にしていた。
 昨日元気がなかったのは決して大地のせいではない。錫也個人の問題だ。
 錫也はまた唇を噛んで、大地の手をくいっと引いた。

「ん?」
「……ありがと」

 たったそれだけを伝えて、また顔をぷいっと背ける。しかし大地が嬉しそうにしているのだけは伝わってきた。
 森の奥に進むと、水音が聞こえてきた。
 底が見えるほど綺麗な川が流れており、手を伸ばせばひんやりと気持ち良い。近くには大きな木が根っこをうねらせて座しており、二人はそこに腰を下ろした。錫也は繋いだ手をさりげなく離す。
 錫也はゆっくり目を閉じて周りの音に耳を澄ませる。
 わずかな風で葉が擦れ合う音、ピチュピチュと囀り合う鳥の鳴き声、遠くから聞こえる蝉の鳴き声。
 ここまでの自然を感じたのは初めてだった。このまま寝てしまいそうだ。

「こっから先のほうは傾斜になってて、登った先に滝があるんだ。深さがあるから飛び込みできて楽しいけど、どうする?」
「いや、俺泳げないから……」
「オッケー。そしたら今度はサンダル持ってこよーぜ! さすがに靴で入ったら母ちゃんに怒られるし、素足だと危ないからさ」

 大地が川を指差して微笑む。手だけでも気持ち良かったから足をつけたらもっと涼しさを感じられそうだ。

「でも俺、サンダル持って来てないよ」

 海に遊びへ行くならともかく、山沿いの祖母の家まで来るのにサンダルの発想はなかった。
 残念ながら荷物をひっくり返してもサンダルは見つからない。

「商店に売ってるから大丈夫、俺がプレゼントするよ」
「え、何で。ちゃんと自分で買う」
「いいって。俺から誘ってるんだから。……あ、でもかっこいいのは期待するなよ? 安い量産品しか置いてないから」
「ってことは、大地のもそうなんだろ?」
「そう! 隣町なら靴屋もあるんだけど、でも普段は靴だからサンダルに凝った物求めにくいっていうか……意外と高いんだよな」

 移動手段が自転車なら確かにサンダルは使用頻度が減るだろう。サンダルのままペダルを漕げば万が一何かあった時に怪我が酷くなる。靴のほうが安全といえばそうだ。
 錫也は移動手段がバスか電車なのであまり気にしたことはなかった。ふらっと立ち寄った店で気に入った物があれば買っている。

「錫也が泳げないのは意外だな。都会じゃ水泳の授業がないってマジなの?」
「それは学校によるから……。でも今通ってる高校にプールは無いよ。そういう所選んだから」
「泳げないから?」
「そう。必死に受験勉強した」

 中学までは敷地内にプールが併設されていたので夏の体育と言えば水泳の授業だった。
 しかし錫也はどうにも泳ぎ方を覚えることができず、そろそろプールを閉じるって頃に行われる水泳リレー大会が大嫌いだった。
 皆の前で恥を晒し続け、それで進路の第一希望としてプールのない高校としたのは担任の頭をずいぶん悩ませたようだ。だが譲る気は少しもなかった。

「勉強はどこでだって頑張るけど、水泳だけは本当に無理だって言って。先生はもう少し考えてほしかったみたいだけど。でも高校ってプールないほうが多いし、あとは家との距離くらいだったかな」
「へえ……。じゃあ錫也はここら辺の高校は絶対無理だな」
「まさか……」
「軒並みプールあるぜ。まあ、それくらいしか娯楽ないからなあ」
「うわ、絶対に行かない」

 大地が喉の奥でくつくつと笑って、目を細める。
 錫也はどきりとして、木々の合間から差し込む光で照らされた水面に視線を向けた。

「でも残念だなぁ。俺も錫也と同じ学校に通いたかった」

 大地が小石を拾って川へヒュっと投げる。
 何度か水面を跳ねて進み、ぼちゃんと沈んだ。

「泳げるようになるまで傍で教えたのに」
「……夏だけじゃ足りないかも」
「おい、そんなに酷いのか!? バタ足はできるか?」
「それは馬鹿にしすぎ! さすがにそれくらいならできるよ! ……進まないだけ」

 大地は腹を抱えて笑った。でもそこに人を馬鹿にしたような軽薄さはなかった。
 錫也もふ、と口元を崩して小石を投げる。すぐ沈んだ。
 それを見て大地はもっと笑う。

「やべ、ツボに入ったかも……!」

 何度投げても大地のように水面を跳ねない。すぐ沈没してしまう小石を憎たらしく握ると、大地が錫也の後ろから腕を支えた。
 吐息が耳にかかる。

「フォームがまず悪いんだよ。それだとただ叩きつけてるだけ」
「ど、どうすれば」
「こう。ほら、この角度」

 小石を投げる。それは二回跳ねて沈んだ。
 錫也は目を輝かせて見届け、傍らの大地をすぐ見上げた。

「できた!」

 大地が投げたほどではないが、二回も水面を跳ねて進んだ。錫也は自分も飛び跳ねたくなるほど高揚して、もう一度小石を拾った。
 教わったフォームを忘れないように再度投げる。今度も二回。
 大地が投げた時はもっと跳ねていた。あとは細かい技量の問題だろう。
 せめてあともう少し追いつきそうになるまで跳ねる回数を伸ばしたいと思って何度か試し、そこでようやく大地が静かなことに気づく。
 大地は片手で口元を覆い、空を見上げていた。
 空に何かあるのかと思って同じように見上げたが、木々の隙間から青色が覗くだけである。

「大地?」
「ん、ああ……悪い」

 歯切れが悪く感じるが、錫也は気にせずもう一度小石を投げた。今度は三回跳ねた。成長は順調のようだ。
 大地も小石を拾って投げる。……七回だ。

「睨むなよ。こういうのは経験の差だろ」
「分かるけど、なんかずるい」

 納得できるまで投げ続けたら辺りの小石が無くなってしまいそうだったので、自身の最高記録を三回としてお終いにした。
 涼しい場所とはいえ動いていればやはり体温は上がっていく。また木の根に腰を下ろして、他愛もない会話を続けた。
 森に着くまで緊張していた錫也だが、大地との会話は躓くことなく続いていつの間にか緊張はほぐれていたようだ。あまり誰かと関わりたくないと思っていた今回の旅程だが、大地の存在は錫也にとって重荷にはならないらしい。

「何度も言うけど、また錫也に会えて良かったよ。俺ずっと話したいことがいっぱいで、サンタさんにも『錫也と遊びたい』って手紙書いてたくらいなんだぜ?」
「そ、れは……ちなみに何歳の頃の」
「さすがにガキん時。会えなかった最初の年じゃねえかな。今でも母ちゃんと父ちゃんに言われる。おかげで反抗期なんてなかったよ。何かあるたびに言われるんだ、マジ勘弁してほしい」
「俺も恥ずかしいよ……」

 今後何があっても大地の家には近寄らないようにしようと思った。
 もしも彼の両親と鉢合せてしまったら自分がその錫也であると知られ、恐らくとても恥ずかしい気持ちを味わうことになる。
 錫也のこれまでの交友関係に、サンタに願ってまで自分と遊びたいと願ってくれるような友達はいなかった。自身もそんなことを願ったことはない。というか世界中探してもそんなことをサンタにお願いするような子供は早々見つからないと思う。サンタの戸惑う様子が目に浮かぶ。
 川に差し込む光で輝く水面を眺めていると、風がふわっと流れてきて肌を撫でていく。
 錫也は少し身体が震えて、我慢しきれなかったくしゃみを一つ零した。

「寒い?」
「ん、でも平気。汗が冷えただけだよ」
「そろそろ帰るか。こっち来たばっかでまだ疲れ取れてないだろ」

 その申し出は少し助かった。
 電車やバスの長距離移動はそこそこ体力を削るし、慣れない土地なのもあって気力も使う。祖母の家でだらだら過ごすことを目的に来ていたのに当初の予定はとっくに崩れ、それで少し気を張っているところもあった。
 大地との会話は楽しい。楽しいが、一人きりでいるほうが楽なのは確かだ。隠し事があると更にそう感じる。
 こちらから断るよりも向こうから言ってくれると罪悪感も薄れる。
 ……なんてことを考えて、自分自身への嫌な気持ちがまた積み重なる。
 頭を振って、気持ちを切り替えた。

「ありがとう。実はもう疲れちゃってて……」
「暑いだけでも体力減るからなぁ。倒れたら大変だし」
「……うん」

 腰掛けていた木の根から立ち上がって背伸びをする。
 じゃあ帰ろうと手を差し伸べてくる大地を数秒見つめ、こんな所で転ぶよりはいいか……と、その手を取った。優しく握られ、なんだか落ち着かない気分になっていく。
 大地に手を引かれ、歩き出した時だった。
 川向こうに並んでいる木々の間から、一人の男性の姿が見えた。
 見えたのはほんの少しだけの時間だ。
 第一印象は――綺麗。
 目立たない、日の当たらない場所に立っている。しかし視線はそこに留まる。その男性の容姿が絵画のように綺麗で、非日常の象徴かのように佇んでいるからだ。その人は伏せていた目を上げる。
 錫也と視線が交わった。

「……っ」

 錫也は慌てて俯いた。
 心臓が、トットッと少し速くなる。
 失礼な態度を取ってしまったと気づいたのはすぐだ。しかし振り向いても、もう見えない角度になってしまっていた。
 大地に聞こうか? でも、どうしてか黙っていたいような気もしている。
 結局錫也は、先ほど見た男性のことを尋ねることはなかった。きっともう会うことはないだろう。
 大地と何でもない会話をしながら祖母の家まで帰り着く。

「じゃあ、ゆっくり休めよ」
「あ、うん。ありがと」

 ずっと会いたかったんだと言ってくるわりにはずいぶん呆気なく帰るなと思いながら、錫也は玄関を上がって居間に入った。

「お祖母ちゃん、ただいま」
「おかえりなさい。あら、大地君は?」
「帰ったよ。また明日来るみたい」

 小学生でももっと長く遊んでいるよなと思いながら、錫也は自室に戻った。
 置きっ放しのスマホには母から連絡が届いている。
 適当に返事をして、ふと目に入った時刻を見て何ともいえない気持ちになった。
 まだ昼にだって差し掛かっていない。祖母が驚いたのも当然だ。健全な男子高校生はもっと遊び歩いている頃合いだろう。
 しかし心のどこかで帰りたいなと思っていた部分があった錫也は、家に帰ってかなりホッとしているところがある。まさかそういうところを大地に見透かされたのだろうか?

「……まさかな」

 あっちだって、実はあまり楽しさを感じていなかったのかもしれない。
 錫也は話し上手というわけではないし、何やらこちらに対して過度な期待を持っていたようなのだ。現実との違いにガッカリしたことだろう。また明日とは言いつつ、もう来ないかもしれない。
 それならそれでいい。元々、一人きりで過ごす予定の旅だったのだから。
 思考がどんどん嫌なほうへ向かっていって、錫也は縁側にごろりと寝転がった。
 風鈴の小さく柔らかい音が眠気を誘う。
 祖母が昼食だと呼びに来るまで、微睡んで過ごしていた。
 そして午後は当初の予定通り、自室で風鈴の音に癒されながら持って来ていた本を読む。
 二日目は穏やかに過ぎていった。