ガタガタと悪路を走るバスの中で、錫也は重い息を吐いた。朝に地元を出発してから電車をいくつか乗り継ぎ、長くバスに揺られ、ようやく目的地へと到達する。玄関を出た時からずっと帰りたくてたまらなかったが、その我慢もそろそろ終わりそうだ。
バスが停留所に着く。こんな所まで乗っているのは自分だけだった。料金を支払って降りると、むわっとした熱気が肌にまとわりついた。これでもまだ地元の暑さと比べたら涼しいほうだが、よく効いた冷房に慣れてしまった身体にはこたえる。
「錫也……だよな?」
停留所に立っていた少年に声を掛けられた。バスはプシューっと音を立ててドアを閉め、走り去っていく。
錫也は日差しに目を細めながら少年を向く。
背が高く体格も良い少年だ。しかし顔はまだ幼さを残しており、同年代の高校生だと思われる。どこか懐かしさを感じる面影だ。
少年は錫也と目が合うとニカッと笑って手を差し出してきた。
「久しぶり! よかった、やっと会えた」
「……えっと」
「イトばあちゃんに、迎えに行ってあげてって言われたんだ。俺も早く錫也に会いたかったし……」
古い記憶が呼び起こされた。彼の名前は大地。錫也がまだ小学校低学年で、夏休みになると母と共に祖母の家へ遊びに来ていた頃の友達だ。
細かいところは朧げな記憶となってしまったが、彼と遊んでいたことは覚えている。仲良くしていた。しかし最後に会ったのは八歳の頃だ。それから一度も接点はない。
まさか会うと思っていなかった。相手の記憶に残っていると思っていなかったし、錫也は旧友を懐かしんで来たわけではない。
錫也は大地の手をちょこっと握って、気まずそうな表情を作った。
「ごめん、誰……?」
大地が目を見開く。
「あっ、や、ごめん俺こそ! そうだよな、小さい頃だし、覚えてないよな」
大地は手を離すと、後ろ髪をわさわさと触りながら恥ずかしそうに視線を逸らした。
錫也はそれに申し訳なく思いながら覚えていないフリを続ける。
「お祖母ちゃんの知ってる人?」
「あ、そう! 小さい頃、錫也と遊んだことがあって……えっと、成瀬大地って言うんだ」
「俺は生嶋錫也です。……ごめん。本当に覚えてない」
「いやいいんだ! 錫也、もう何年もこっち来てなかったし……あ! 錫也って呼んで大丈夫か?」
「べつに、いいけど」
「じゃあ改めて錫也! もう一度友達になってくれないか」
それは予想外だった。知らないフリをしたら気まずくなって一人にしてくれるかと思ったのに。
大地はニコニコと笑顔を錫也に向けて返事を待っている。
面と向かって断る勇気までは持っていなかった。
小さくこくりと頷くと、大地は「やった!」と喜んで、錫也の手を取る。驚いているうちに大地は錫也の手を引いて歩き出した。
「家の行き方は覚えてる? あっついから早く行こうぜ」
「ちょっ、手!」
慌てて振りほどこうにも大地のほうが力は強かった。
「ああ、ごめん。小さい時の癖でつい……。錫也と歩くの懐かしくてさ」
そう言いながらも離そうとはしない。男同士で手を繋ぐことを大地は気にしていないようだった。
ここで過剰に反応してしまうほうがおかしいのか? 錫也は出かけた言葉をぐっと飲みこんで、周囲をこそっと見回した。
元々人の少ない田舎だ。目に見える範囲で歩行者はいない。
誰にも見られる心配は今のところなさそうで、ほっと胸を撫で下ろした。
「昔の話とかしたら思い出すかな?」
「……さあ、どうだろ」
「俺さ、錫也と遊ぶのがすっげえ楽しくて、いつも夏が待ち遠しかったんだよ」
「そう、なんだ」
「だから毎年夏はイトばあちゃんの所行って『今年は来る?』って聞いてた。いつかまた会いたいなって思ってたんだけど、一昨日イトばあちゃんから電話あってさ、『錫也が来るから迎えに行ってもらえる?』って」
錫也も夏に訪れるのが好きだった。しかし学年が上がって友達と遊びに行ける範囲が広がったり部活動があったり、一度行かなくなると来年も再来年もとどんどん足は遠のいた。祖母も無理して来なくていいと言ってくれて、電話で関わり合うのがほとんどとなってしまっていた。
今年も、本当は来る予定ではなかった。
大地の話を聞きながら、祖母宅への道を暫く歩く。
所々見覚えのある景色を少し楽しみながら家へ着いた頃には、首回りは汗でびっしょりになっていた。
玄関先に、記憶よりも小さくなった女性が佇んでいる。
「よく来たね、錫也」
「久しぶり、お祖母ちゃん」
祖母は錫也と大地によく冷えたタオルを差し出した。
流れる汗をそれで拭きながら、家に上がる。祖母の家にクーラーはないが、日差しに当たらないだけで過ごしやすい空気へと変わった。開いた窓から入る風が心地良い。
居間に腰を下ろして、一息つく。ちりんちりんと鳴る風鈴が更に涼しさを感じさせた。
祖母は氷の入った麦茶を錫也と大地に振る舞った。まだ熱い身体の芯を、一気飲みして冷やす。ごくごくと飲んだ麦茶が流れて腹に冷たく溜まるのがよく分かった。
大地は飲み終わったグラスを置いて行儀良く「ご馳走様でした」と祖母に伝えると、よっこいせと立ち上がった。
「あら。もう帰るの」
「錫也疲れてるだろうし」
「夕飯くらい食べて行ったら?」
「イトばあちゃんの飯美味いからなー。でも、今日は我慢するよ。家族水入らずってやつ!」
大地は錫也に手を振って「また明日な!」と笑って帰った。
錫也は曖昧に笑って返す。また明日は、社交辞令だと思いたい。
「大地君とはいっぱい話せた?」
「……俺、覚えてなくて」
「あらあらそうなの? でもまあ何年も前だし小さかったしねえ……」
祖母に嘘をついているのが心苦しい。
錫也は玄関に置いたままだった荷物を持って、祖母が用意してくれた部屋に行った。
祖母自慢の庭に面している一部屋だ。隅に畑がある。趣味で野菜を育てているようで、遠目でも瑞々しい赤色が見えた。
窓を開けるとそのまま庭に下りることができて、小さい頃はよくここから庭へ遊びに出ていた。こんな田舎で泥棒なんてする者はいないので、不用心にも窓を開けっ放しで寝ていた。入る風が気持ちいいのだ。錫也は今夜もそうするつもりだ。
荷物を少し整理して、畳の床に寝転がって目を瞑る。
暫くそうしていると暑さで削られた体力がじわじわ回復しているような気がして、いつの間にか寝入っていた。
夕食を伝える祖母の声で目が覚める。
「手伝えなくてごめん」
「いいのよ。ここまで遠くて疲れたでしょう」
居間のテーブルには錫也の好きな料理が大皿で置かれていた。茶碗にこんもりと盛られた白米、気持ちの良い香りと湯気が立つ味噌汁。祖母と向かい合って座り両手を合わせる。二人の「いただきます」が重なって、錫也は箸を持った。
普段はそんなに食べるほうではないのだが、祖母の料理はどんどん腹に収まった。それほど長距離移動に疲れていたのか、それとも大地とのやり取りに緊張して疲弊していたのか。
米粒一つ残さず食べ終える頃には、腹はパンパンに膨れていた。
片づけと皿洗いは立候補して、終わったらテーブルに突っ伏した。シャワーを浴びたいが、腹が重くてもう暫くはジッとしていたい。
祖母が見ているテレビからの音をBGMに、錫也はまた微睡みそうになる。
「寝るんなら布団でね」
「……うん」
祖母の細い指が錫也の髪を掬う。そして優しく撫でつけた。
「錫也も今年で十七歳……大きくなるのは早いわねえ」
「身長はそんなに伸びなかったけど……」
「今は身長低くても、ほらあれ……誤魔化せる靴があるんでしょう?」
「シークレットブーツのこと?」
「そうそれ! それに錫也は顔が可愛いから身長低くてもモテるでしょう」
「まさか。顔が可愛くても芸能人じゃなきゃ男はモテないんだよ」
「そうなの? お祖母ちゃん、錫也ならその辺歩いてるだけでスカウトされると思ってたから」
「持ち上げすぎ」
祖母の指が離れていく。錫也は起き上がって浴室へ向かった。
汗でべたついた身体をシャワーで流してスッキリした。タオルで頭をガシガシと拭きながら居間へ戻ると、祖母が冷えた麦茶を用意してくれていた。
座って、グラスを傾ける。喉を流れる冷たさが気持ち良い。中の氷がカロンと鳴る。
「学校は楽しい?」
祖母は静かに問いかけた。
母から何か聞いていたのかもしれない。
錫也は長い沈黙を守った後、ぽつりと呟く。
「……楽しいよ」
「そう。よかった」
「うん」
何を、言えばいいだろう。
学校が楽しいのは確かだ。春の頃までは迷いなくそう言えた。
祖母を安心させるためには何を言えばいいだろう。楽しかった思い出はたくさんあるはずなのに、エピソードを一つも言葉で表せなかった。
「べつに、いいのよ」
テレビへ視線を向けたまま祖母は続ける。
「ちゃんと寝て、ご飯食べて、何でもいいから楽しく生きていてくれるだけで。お祖母ちゃんもお母さんも、それだけで幸せなの」
錫也はそれに「うん」とか「ああ」とか返して、部屋に戻った。
錫也がシャワーを浴びている間に祖母が布団を敷いておいてくれたようで、そこに顔を埋める。
目頭がじわじわ熱くなってきて、顔をぐりぐりと押しつけた。
「大丈夫、大丈夫大丈夫……」
自分を安心させるために何度も繰り返して、目から熱が引く頃にようやく錫也は布団から顔を上げた。
開けたままの窓からは虫の合唱が聞こえてくる。
のそのそと荷物に近寄って、中に入れたままのスマホを取り出した。
母から一言「楽しんできてね」と、数時間前にメッセージがあったようだ。それに「ありがとう」と返して、枕元に置く。
まだ疲れが残っているのか、うとうとと眠気が再び歩み寄っていた。横になって、月明りに照らされた畑を眺める。それを見ていると段々心が落ち着いてきて、あっさりと意識を手放していた。
一日目はこうして過ぎた。
バスが停留所に着く。こんな所まで乗っているのは自分だけだった。料金を支払って降りると、むわっとした熱気が肌にまとわりついた。これでもまだ地元の暑さと比べたら涼しいほうだが、よく効いた冷房に慣れてしまった身体にはこたえる。
「錫也……だよな?」
停留所に立っていた少年に声を掛けられた。バスはプシューっと音を立ててドアを閉め、走り去っていく。
錫也は日差しに目を細めながら少年を向く。
背が高く体格も良い少年だ。しかし顔はまだ幼さを残しており、同年代の高校生だと思われる。どこか懐かしさを感じる面影だ。
少年は錫也と目が合うとニカッと笑って手を差し出してきた。
「久しぶり! よかった、やっと会えた」
「……えっと」
「イトばあちゃんに、迎えに行ってあげてって言われたんだ。俺も早く錫也に会いたかったし……」
古い記憶が呼び起こされた。彼の名前は大地。錫也がまだ小学校低学年で、夏休みになると母と共に祖母の家へ遊びに来ていた頃の友達だ。
細かいところは朧げな記憶となってしまったが、彼と遊んでいたことは覚えている。仲良くしていた。しかし最後に会ったのは八歳の頃だ。それから一度も接点はない。
まさか会うと思っていなかった。相手の記憶に残っていると思っていなかったし、錫也は旧友を懐かしんで来たわけではない。
錫也は大地の手をちょこっと握って、気まずそうな表情を作った。
「ごめん、誰……?」
大地が目を見開く。
「あっ、や、ごめん俺こそ! そうだよな、小さい頃だし、覚えてないよな」
大地は手を離すと、後ろ髪をわさわさと触りながら恥ずかしそうに視線を逸らした。
錫也はそれに申し訳なく思いながら覚えていないフリを続ける。
「お祖母ちゃんの知ってる人?」
「あ、そう! 小さい頃、錫也と遊んだことがあって……えっと、成瀬大地って言うんだ」
「俺は生嶋錫也です。……ごめん。本当に覚えてない」
「いやいいんだ! 錫也、もう何年もこっち来てなかったし……あ! 錫也って呼んで大丈夫か?」
「べつに、いいけど」
「じゃあ改めて錫也! もう一度友達になってくれないか」
それは予想外だった。知らないフリをしたら気まずくなって一人にしてくれるかと思ったのに。
大地はニコニコと笑顔を錫也に向けて返事を待っている。
面と向かって断る勇気までは持っていなかった。
小さくこくりと頷くと、大地は「やった!」と喜んで、錫也の手を取る。驚いているうちに大地は錫也の手を引いて歩き出した。
「家の行き方は覚えてる? あっついから早く行こうぜ」
「ちょっ、手!」
慌てて振りほどこうにも大地のほうが力は強かった。
「ああ、ごめん。小さい時の癖でつい……。錫也と歩くの懐かしくてさ」
そう言いながらも離そうとはしない。男同士で手を繋ぐことを大地は気にしていないようだった。
ここで過剰に反応してしまうほうがおかしいのか? 錫也は出かけた言葉をぐっと飲みこんで、周囲をこそっと見回した。
元々人の少ない田舎だ。目に見える範囲で歩行者はいない。
誰にも見られる心配は今のところなさそうで、ほっと胸を撫で下ろした。
「昔の話とかしたら思い出すかな?」
「……さあ、どうだろ」
「俺さ、錫也と遊ぶのがすっげえ楽しくて、いつも夏が待ち遠しかったんだよ」
「そう、なんだ」
「だから毎年夏はイトばあちゃんの所行って『今年は来る?』って聞いてた。いつかまた会いたいなって思ってたんだけど、一昨日イトばあちゃんから電話あってさ、『錫也が来るから迎えに行ってもらえる?』って」
錫也も夏に訪れるのが好きだった。しかし学年が上がって友達と遊びに行ける範囲が広がったり部活動があったり、一度行かなくなると来年も再来年もとどんどん足は遠のいた。祖母も無理して来なくていいと言ってくれて、電話で関わり合うのがほとんどとなってしまっていた。
今年も、本当は来る予定ではなかった。
大地の話を聞きながら、祖母宅への道を暫く歩く。
所々見覚えのある景色を少し楽しみながら家へ着いた頃には、首回りは汗でびっしょりになっていた。
玄関先に、記憶よりも小さくなった女性が佇んでいる。
「よく来たね、錫也」
「久しぶり、お祖母ちゃん」
祖母は錫也と大地によく冷えたタオルを差し出した。
流れる汗をそれで拭きながら、家に上がる。祖母の家にクーラーはないが、日差しに当たらないだけで過ごしやすい空気へと変わった。開いた窓から入る風が心地良い。
居間に腰を下ろして、一息つく。ちりんちりんと鳴る風鈴が更に涼しさを感じさせた。
祖母は氷の入った麦茶を錫也と大地に振る舞った。まだ熱い身体の芯を、一気飲みして冷やす。ごくごくと飲んだ麦茶が流れて腹に冷たく溜まるのがよく分かった。
大地は飲み終わったグラスを置いて行儀良く「ご馳走様でした」と祖母に伝えると、よっこいせと立ち上がった。
「あら。もう帰るの」
「錫也疲れてるだろうし」
「夕飯くらい食べて行ったら?」
「イトばあちゃんの飯美味いからなー。でも、今日は我慢するよ。家族水入らずってやつ!」
大地は錫也に手を振って「また明日な!」と笑って帰った。
錫也は曖昧に笑って返す。また明日は、社交辞令だと思いたい。
「大地君とはいっぱい話せた?」
「……俺、覚えてなくて」
「あらあらそうなの? でもまあ何年も前だし小さかったしねえ……」
祖母に嘘をついているのが心苦しい。
錫也は玄関に置いたままだった荷物を持って、祖母が用意してくれた部屋に行った。
祖母自慢の庭に面している一部屋だ。隅に畑がある。趣味で野菜を育てているようで、遠目でも瑞々しい赤色が見えた。
窓を開けるとそのまま庭に下りることができて、小さい頃はよくここから庭へ遊びに出ていた。こんな田舎で泥棒なんてする者はいないので、不用心にも窓を開けっ放しで寝ていた。入る風が気持ちいいのだ。錫也は今夜もそうするつもりだ。
荷物を少し整理して、畳の床に寝転がって目を瞑る。
暫くそうしていると暑さで削られた体力がじわじわ回復しているような気がして、いつの間にか寝入っていた。
夕食を伝える祖母の声で目が覚める。
「手伝えなくてごめん」
「いいのよ。ここまで遠くて疲れたでしょう」
居間のテーブルには錫也の好きな料理が大皿で置かれていた。茶碗にこんもりと盛られた白米、気持ちの良い香りと湯気が立つ味噌汁。祖母と向かい合って座り両手を合わせる。二人の「いただきます」が重なって、錫也は箸を持った。
普段はそんなに食べるほうではないのだが、祖母の料理はどんどん腹に収まった。それほど長距離移動に疲れていたのか、それとも大地とのやり取りに緊張して疲弊していたのか。
米粒一つ残さず食べ終える頃には、腹はパンパンに膨れていた。
片づけと皿洗いは立候補して、終わったらテーブルに突っ伏した。シャワーを浴びたいが、腹が重くてもう暫くはジッとしていたい。
祖母が見ているテレビからの音をBGMに、錫也はまた微睡みそうになる。
「寝るんなら布団でね」
「……うん」
祖母の細い指が錫也の髪を掬う。そして優しく撫でつけた。
「錫也も今年で十七歳……大きくなるのは早いわねえ」
「身長はそんなに伸びなかったけど……」
「今は身長低くても、ほらあれ……誤魔化せる靴があるんでしょう?」
「シークレットブーツのこと?」
「そうそれ! それに錫也は顔が可愛いから身長低くてもモテるでしょう」
「まさか。顔が可愛くても芸能人じゃなきゃ男はモテないんだよ」
「そうなの? お祖母ちゃん、錫也ならその辺歩いてるだけでスカウトされると思ってたから」
「持ち上げすぎ」
祖母の指が離れていく。錫也は起き上がって浴室へ向かった。
汗でべたついた身体をシャワーで流してスッキリした。タオルで頭をガシガシと拭きながら居間へ戻ると、祖母が冷えた麦茶を用意してくれていた。
座って、グラスを傾ける。喉を流れる冷たさが気持ち良い。中の氷がカロンと鳴る。
「学校は楽しい?」
祖母は静かに問いかけた。
母から何か聞いていたのかもしれない。
錫也は長い沈黙を守った後、ぽつりと呟く。
「……楽しいよ」
「そう。よかった」
「うん」
何を、言えばいいだろう。
学校が楽しいのは確かだ。春の頃までは迷いなくそう言えた。
祖母を安心させるためには何を言えばいいだろう。楽しかった思い出はたくさんあるはずなのに、エピソードを一つも言葉で表せなかった。
「べつに、いいのよ」
テレビへ視線を向けたまま祖母は続ける。
「ちゃんと寝て、ご飯食べて、何でもいいから楽しく生きていてくれるだけで。お祖母ちゃんもお母さんも、それだけで幸せなの」
錫也はそれに「うん」とか「ああ」とか返して、部屋に戻った。
錫也がシャワーを浴びている間に祖母が布団を敷いておいてくれたようで、そこに顔を埋める。
目頭がじわじわ熱くなってきて、顔をぐりぐりと押しつけた。
「大丈夫、大丈夫大丈夫……」
自分を安心させるために何度も繰り返して、目から熱が引く頃にようやく錫也は布団から顔を上げた。
開けたままの窓からは虫の合唱が聞こえてくる。
のそのそと荷物に近寄って、中に入れたままのスマホを取り出した。
母から一言「楽しんできてね」と、数時間前にメッセージがあったようだ。それに「ありがとう」と返して、枕元に置く。
まだ疲れが残っているのか、うとうとと眠気が再び歩み寄っていた。横になって、月明りに照らされた畑を眺める。それを見ていると段々心が落ち着いてきて、あっさりと意識を手放していた。
一日目はこうして過ぎた。
