相模和都のカイキなる日々


◇ ◇ ◇


 頭の隅で、インターホンの音がする。
 これはマンションのエントランスの、オートロックのほうの呼び出し音だ。
「……あれ、なんか届くんだっけ?」
 この家に人が訪ねてくるなんて、宅配か郵便くらいなものである。
 仁科は欠伸をしながらサイドテーブルに置いていた眼鏡を掛け、ぼんやりした頭で室内の時計を見た。時間はとうにお昼を過ぎていて、カーテンの隙間から入り込んだ光で室内はいささか明るい。
 ゆっくりと空中を漂っていたような意識が、だんだんハッキリしてきて、そこでようやく、今日の予定を思い出した。
「あ、やっべ」
 慌ててベッドから飛び出しリビングまで行くと、インターホンに応答する。エントランスの様子を表示するモニターには、ムスッとした顔の和都が映っていた。
「……はい」
「おはよー、先生。起きた?」
「ごめん、今起きました」
 明らかに不機嫌な声にそう答えて解錠すると、寝室に戻って枕元に置いていたスマホをチェックする。
 和都からメッセージと着信の履歴が山のように来ていた。これだけ鳴らされて、よく起きなかったものだな、と自分に感心してしまう。
 顔を洗う暇もなく、すぐに玄関のチャイムが鳴ってしまい、急いで玄関ドアを開ければ、口を横一文字に結び、分かりやすく怒った顔の和都が立っていて。
「もー、時間になっても来ないんだから!」
「いや、まじでごめん」
 今日は仁科家から持ち帰った本の、解読の手伝いをしにいきたいと和都がいうので、朝から迎えにいく予定だった、のだが、すっかり寝過ごしてしまった。
「メッセージも反応ないし、電話も出ないし!」
「うん、寝てた」
 頬を膨らませ、文句を言う和都を迎え入れるが、どうもこれは、そう簡単に機嫌を取れそうにない。
「あー……お前、よく一人で来れたね。電車?」
「当たり前でしょ! ハクに変なヤツいないか見張ってもらいながら来たの!」
「ここの場所も、よく覚えてたなぁ」
「マンションの名前と部屋番号くらい覚えるよ。検索したらすぐ分かったし」
「……そっか」
 市立図書館近くの大きなマンションなので、分かりやすいといえば分かりやすいかもしれないな、とリビングに着くまで仁科は考えていた。
「事故に遭ったのかなとか、また先生んとこに鬼が来たのかなとか、色々……」
 不機嫌な声が、言いながらだんだん小さくなってくる。
 今回ばかりは弁明のしようもなく、自分が悪い。
「うん、ごめん」
「先生が朝弱いの、知ってるけどさぁ」
「昨日も遅くまで解読やってたから、ついね……」
 リビングのソファ近くにあるローテーブルには、解読途中の本とメモ用のノート、そしてくずし字の解読用に引っ張り出した本や辞書などが散らかったまま。
 その様子を見た和都が、眉を下げて呟くように言う。
「……あんまり無理しないで」
「してないよ」
 俯いた頭を撫でてからソファに座り、おいで、と腕を引いて横に座らせた。
 口を結んだままの顔を覗き込めば、案の定、目の端に涙が溜まっている。
「まぁ、寝坊と事故は気をつけなきゃだけど。鬼がうちに来るってのは、多分ないから、安心して」
 そう言いながら、溢れる寸前の涙を指先で拭ってやった。
「なんで?」
「ここ知ってんの、家族親戚以外だと、お前くらいだから」
「えっ」
「お前も、教頭の擦り寄りっぷり見たろ? 安曇の名前を出すとあーなっちゃう奴多いから、自宅も教えないようにしてんだよ。家まで押しかけられても、困るしね」
 これは実家を出て、一人で暮らすようになってからの習慣である。
 大学時代はうっかり『安曇』の名前を出すだけでご飯をたかられ、家に押し掛けられ、面倒事が起きたら引っ越しを余儀なくされることが多かった。
 社会人になってからは、可能な限り安曇の名前を伏せ、自宅住所は必要最低限の公開に留めている。
「じゃあ、おれは……なんで?」
「まぁ、アルバム探しもあったから、成り行きでそうなっちゃったとこもあるけど。お前はトクベツ。だから、他のヤツに教えんなよ?」
「うん……」
 まだ少しむくれたままの頬を軽くつねるように撫でて、引き寄せるままに唇を重ねた。不機嫌そうに閉じたままの口を、舌先で無理やり開いて内側に入り込む。息苦しそうに縋ってきた腕を、そのまま抱き込むようにしてソファにゆっくり押し倒した。
 息を吐くように唇を離すと、困ったような、観念したような顔が見上げている。
「嫌がんなくなったね」
「……嫌じゃないから」
 言葉と表情が合っていないのは、自分がそうやって機嫌を取ろうとしているのに、勘付いたからかもしれない。
 そんなことを考えていると、和都の手が首元にそっと伸びてくる。Tシャツの襟ぐり、V字に開いたそこから覗く、大きな傷あてパッドを優しく撫でてた。
「病院、ちゃんと行った?」
 学校ではネクタイを締めていて見えないうえ、周囲に聞かれても困るので、話題に出さないようにしていた話。
「行った行った。手もちゃんと診てもらったよ。骨には異常なし」
 そう言って、仁科は湿布を貼った右手をひらひらと振って見せる。
 つい先日、堂島に襲われた際にできた傷は、病院でしっかり治療してもらった。医者には犬にでも噛まれたのかと聞かれたので、そんなところだと答えてある。『鬼』に噛まれたなんて言ったら、頭の検査をされかねない。
「……よかった」
「そうだ、お前の腕は?」
 安堵した顔を見て、文化祭の時のことを思い出し、今度は仁科が和都の右腕をチェックする。
 白くて細い腕の内側に、爪で引っ掻いたようなうっすらした線が残っていた。
「まだすこーし痕が残ってるかな。そのうち消えると思うけど」
「そうだね」
 夏休みが終わって以降、二人してやたらケガが多い。
 それだけ、向こうも本気なのだろう。
 この程度で済んでいる、と思った方がいいかもしれない。
「……あ」
 もう一つ仁科は思い出し、和都の着ていたTシャツの胸元をインナーシャツごと引っ張って、その内側を覗いた。夏の夜につけた赤紫の痕跡は、白くて薄い胸元からきれいさっぱり消えている。
「まぁ、さすがに消えちゃったか」
「……ちゃんと消えました」
 そう答える和都の頬が、不貞腐れたように膨らんでいた。
「体育の着替えの度に、ユースケに確認されちゃうから、もうつけないでね」
 うんざりしたように和都は言うが、仁科には初耳な話である。
「……え、なに。アイツ、体育で着替える時、毎回お前のことひん剥いて全身確認してんの? 変態じゃん」
「いや、そこまではしてない。……けど、なんかチェックはしてるみたいだから」
 当たり前のように言っているが、体育の着替えの際に同性とはいえクラスメイトの身体を、何かしら痕跡がないかと確認するのは、普通ではない。
「お前はそれをよしとしてんじゃないよ」
「……あれ? 変、なの?」
「変だっつの。まったく、お前らは」
「なんか、ユースケに色々全部任せちゃってるから……」
 距離がどこか妙に近すぎるのは、二人が一年生の頃から感じていたことだが、これはどうもお互いに無意識であるようだ。
 ただ、仁科からすれば、面白くない話で。
「じゃあ、春日クンに見つからないとこなら、いいわけだ」
「いや、つけないでって言ってるじゃん?」
 仁科は和都の言い分を無視すると、細い足の付け根を大きな手のひらで掴んで、指先を太腿の内側に滑らせる。
「……この辺、とか?」
「どこ触ってんの?!」
 仁科は悪戯っぽく笑ってみせたが、冗談にも見えなかったようで、和都の顔がさっと赤くなった。
 もちろん、履いているジーンズの上から触れているのだが、ぎゅっと押さえつけてくる指の感触は、どうしたって分かるのだろう。
「さすがにこの辺りまでは見ないでしょ? 見てたら俺でも引くけど」
「いや、そうだけど……」
「だめ?」
「だめ!」
 キッパリ断られたので、仁科は「仕方ないなぁ」と考えるような仕草をしてみせた。
 が、すぐに思いつた顔をして。
「あー、じゃあ……」
 和都の着ているシャツを、インナーごと裾のほうから胸の上まで捲り上げた。
 筋肉の目立たない薄い胸と腹。
 白い肌に細い(あばら)の凸凹が目立つ。
「わ、ちょっと!」
「やっぱこっちかなぁ」
 節の太い長い指で、胸の辺りをゆっくり撫でた。
「ね、おれの話聞いてた?」
 和都が抵抗するように捲り上げられた裾を戻そうとするが、仁科の掴む力に敵うわけもなく。
 胸の中央、左側。心臓のある箇所より少し上の辺り。
「あ、」
 仁科は顔を近づけると、上擦った小さい悲鳴と一緒に、表面の皮膚をきゅう、と強く吸い上げる。
「……んっ」
 ささやかな身じろぎと、ほんのり色づいた息を零す音。
 唇をゆっくり離した白い胸元に、赤い楕円の痕が咲いていた。
「せんせーの、ばか……」
 赤い顔で、ムッとした声が罵倒する。
「お前、肌白いからたくさん付けたくなるんだよねぇ」
「もー! ダメだってば!」
「大丈夫大丈夫、もうしない」
 仁科は笑って言いながら、捲り上げていたシャツの裾を元に戻した。
「ちゃーんとインナーで見えないとこだから、ね」
 春日に見つかると、それはそれで面倒なので、可能な限り見つからない場所にしたつもりだ。心臓のすぐ近くなんて、それこそ意図的に下着まで脱がさないと見えるはずがない。
「……もう。なんでそんなに痕つけようとすんの?」
 ソファに寝転がったまま、和都が困ったような呆れたような顔でこちらを見上げている。
「なんでって……」
 仁科は和都の手をとり、上体を引き起こすようにして抱き寄せると、
「自分のものには、名前を書くでしょ? アレと同じ」
 掴んだ手指に口づけながら、ジィッと和都の目を見てそう言った。
 呆れていた和都の顔が、分かりやすく、みるみる赤くなっていく。
「……な、にそれ」
 色々と耐え切れなくなったのか、自分から身体にすり寄ってきて、胸元に掴まるように顔を埋めた。
「消えたらまた付けるから、ちゃんと言ってね」
「……うん」
 赤くなった耳元で囁いた言葉に、観念した声が返事をする。
「そんな必死にならなくてもいいのに」
「だって、誰にもやりたくないし、どこにも行かせたくない」
 言葉にすると、妙に子どもじみた執着のようだ。
 約束で、痕跡で、色んなもので雁字搦(がんじがら)めにしてでも、ずっと繋ぎ止めておきたい。
 嘘偽りのない、これが本心。
「……大丈夫だよ」
 ゆっくり顔を上げた和都が、両手を伸ばして仁科の顔を引き寄せると、そっと額に口付ける。
 それから、自分の小さな額と仁科の額をくっつけると、深い夜空のような大きな瞳で、ジィッとこちらを見つめて言った。
「おれ、どこにも行かないから」
 困ったような、けれど、嘘のない言葉。
「……うん」
 そう答えた次の瞬間、ばちん、と目の覚めるような衝撃が両頬に走った。
 叩いた目の前の張本人は、どこか頼もしい顔をして、力強く言う。
「ほら、本の解読作業やるよ! せんせーは顔洗ってきて!」
「……はぁい」
 感傷に浸っている場合ではないのだ。