相模和都のカイキなる日々





 和都の家は学校から数分の徒歩圏内にあるが「また途中でいなくなられても困る」と、仕事を終わらせた仁科が帰るついでに車で乗せていくことになった。
 乗っている時間は本当に数分だけで、玄関の見える道路脇に車を停める。
「この辺でいいか?」
「うん、大丈夫」
 空はオレンジから紺に変わり始めているような時間。
 車から見える家に明かりは灯っていない。
「親は?」
「今日も残業。夕飯に何か買ってこようかなぁって、スーパー行こうとしたら、あんななっちゃって……」
「飯、一緒に行くか?」
「ううん。なんか家にあるもの適当に食べるから大丈夫。今日はありがとうね、先生」
「どーいたしまして。……無事でよかったよ」
 仁科が苦笑するのを見て笑い返すと、和都はシートベルトを外し、ドアを開けて降りようとした。
「……あ、相模」
「ん?」
 呼ばれてそちらを見ると、なぜか仁科が小さく手招きをしている。
「なに?」
 不思議に思って身体を近づけると、仁科の両手に顔を包んで引き寄せられていて。
 あ、と思った時には、唇に唇が触れていた。
「……んっ」
 小さく開いた唇の隙間から舌が入ってきて、自分の舌に絡んでくる。
 チリリと灼けるような感触に、顔が、内側から急騰したように、熱い。
 突然のことに呼吸が追いつかなくなって、慌てて身体ごと唇から離れた。
「……な、なんでっ」
「あー、今日の分?」
「学校でしたじゃん!」
「そうだっけ?」
 仁科が、まるで悪戯っ子のように目を細め、首を傾げる。
 これはどう考えても、わざとだ。
「……バカッ」
 そう言って、逃げるように車を降りると、和都は自宅玄関に飛び込む。
 それからドアを閉め、鍵を掛けると、その場にがくりとしゃがみ込んだ。
「……本当、なんなの」
 暗い玄関で一人、うなだれる。
 まだ顔が熱くて、心臓がドクドクとうるさい。
 額にされるのはもう慣れてしまったし、必要なものだからと割り切れる。でも、唇を合わせるようなキスは、恋人同士でもない限りそう簡単に何度もするようなものではない、はずだ。
 そういう間柄じゃない。向こうは婚約者も一応いる人だ。
 ──でも。
 嫌とは思わない自分に、一番びっくりする。
 多分、仁科の家に行った時くらいから、ずっとおかしい。
 色んな人に迫られたり、押し倒されたことは何度もあるが、仁科に対しては身体が強張ることも、怖いと思うこともない。これも日課のせいなのだろうか。今日も公園で、顔を見たら気が緩んで、どこか安心してしまった。
 深く息を吐いて、和都はようやく立ち上がり、靴を脱いだ。それから家の明かりを順番につけて回る。
 誰もいない。広い家に一人きり。
 多分今、頼れる大人はあの人だけだ。
 仁科は人を執着させる『狛犬の目』の影響を受けていないはずなので、これまで極端に距離を詰めてきた大人達と違うのは分かる。もしかしたら、こちらの反応が面白いと、揶揄(からか)われているのかもしれない。
 でも、他に理由があるとすれば──。
〔カズト──!〕
 頭の中に大きな声が突然響いて、ぐるぐると考えていたことが真っ白になった。
 ハッと気付いて前を見ると、半透明の白い生首だけの犬がいる。
「あ、ハク!」
〔無事でよかった〜〜〕
「ごめんね、心配かけて」
〔もっとボクが早く気付いていればぁ……〕
 オイオイと泣き喚くハクの頭を、和都は宥めるように撫でてやる。
「大丈夫だよ、無事だったし。それに、ハクは先生のところにおれが危ないって、行ってくれたんでしょ?」
 電話も通じず、チャットアプリのメッセージも文字化けしていたのなら、変な悪戯と思われる可能性だってあった。それをスルーせずに対応してもらえたのも、ハクが自分がいなくなったことを伝えにいってくれたからだろう。
〔他にボクが視えるの、ニシナくらいだしね〕
「たしかに。でも、おかげで助かったよ」
 先生のことは、考えても埒があかない。どうせ聞いても、はぐらかされて、まともな答えが聞けるとは思えなかった。
 とりあえず今は、川野から逃げ切り、無事だったことをよしとしよう。
「……あーあ、お腹空いた。なに食べようかなぁ」
 和都はもう一度深く息をついて、キッチンへ向かった。


 信号は赤。
 帰路についた車の中で、仁科は深く息を吐く。
「……何やってんだかねぇ」
 今日は本当に、心臓に悪い日だった。
 電話で話したのを最後に相手が居なくなるなんて経験は、そう何度も経験したいことじゃない。
 年甲斐もなく慌てたし、数年振りに思いきり走った気がする。
 ──執着、か。
 自分は和都の、所謂『執着が酷くなる』チカラの影響は受けないと聞いている。
 じゃあ今抱えてる気持ちは、なんだ?
 最初は似ているから気になって、よく倒れるから気にかけるようになった。
 抱えこんだ問題を、自分でなければ助けてやれないからと手を貸した。
 それだけだった、はずなのに。
 似ているせいで、どうしたって重ねてしまう。
 零れ落ちたものはもう、戻るはずがないのに。
「あーあ、やだやだ……」
 困ったもんだな、と思いながら青に変わった信号を見て、アクセルを踏んだ。


◇ ◇


 人がいない。誰も来ない。
 境内は荒れ果てて、拝殿も手水舎もあっという間にボロボロになった。
 参道には石畳の隙間から草が生えて、境目がわからない。
 さみしい。
 さみしいね、ハク。
 さみしいね、バク。
 ボクらはどうなるの? どうしたらいいの?
 突然大きく地面が揺れて、あっちこっちが崩れていく。
 台座もくずれて、身体が落ちた。
 ■■■様が褒めてくれた、綺麗なツノも折れてしまった。
 どうして?
 どうして彼は、あんなことを?
 さみしい。くやしい。かなしい。


 ゆるさない。


 ハッと目を開くと、外からの明かりが差し込んでいて、天井が明るい。
 ──なんだ、最後の。
 凄まじい怒りと悪意に満ちた声が大きく頭の中で響いて、そこでぶっつりと途切れてしまった。
 和都は溢れ出て止まらない涙を拭いながら、ゆっくり上体を起こす。それからベッドのそばに置いておいたノートとペンを取って、見た夢の内容をメモしていった。頻繁に記憶の夢を見るようになったので、最近では起きてすぐにメモができるよう、寝る前にベッドの近くにノートを置いている。
 メモを書き終わって写真を撮り、仁科に送ろうとチャットアプリを起動すると、仁科宛の画面に昨日のやりとりのログが表示された。助けを求めるメッセージと、不可思議な写真の履歴。
 それを見て、今日は学校でこの件について話をする、という現実を思い出してしまった。
「……やだなぁ〜〜」
 深いため息と一緒に、口の端からそんな言葉が漏れ出ていく。
 色々な嘘と、隠し続けてきた秘密を、あの三人にまとめて一遍に話すのだ。怖くないわけがない。
 一番気になるのは、春日の反応だ。
 どんな顔をされるのか、想像もつかない。
 四年以上の付き合いで、大抵のことは話してきたけれど、視えることだけは、どうしても話せなかった。
『気持ち悪いヤツ』
『嘘つき』
『構って欲しくて言ってるの?』
 小学生の頃に投げつけられた言葉が、今も頭の中で自分を苛んでくる。
 人とは違うものが視えていると訴えると、嘘だと言われて疎まれて、仲のよかった友達もいなくなった。
 だからこそ、ずっと仕舞いこんできた秘密。
 ──でも。
 先生は、楽になれ、と言った。
 隣にいてくれる、とも言った。
 それなら、大丈夫かもしれない。
 ずっと嘘をつき続けるよりは、楽なのかもしれない。
 小さく深呼吸して、それからメモの写真を仁科宛に送ると、スマホを閉じた。