相模和都のカイキなる日々





「二年三組です。すみません、和都が、」
「鼻血でました……」
 保健室の引き戸を開けた声にそう言われ、デスクで作業していた仁科は意外そうな顔をして出迎えた。
「あらまー、珍しい」
 そう言いながら、一番端のベッドをカーテンで囲み、そこへ座るように促す。
「今日は何をやらかしたんだ?」
「バレーの試合中に、顔面でボール取ってました」
 ベッドに座り、タオルで鼻を押さえたままの和都に代わり、春日が答えた。
「手で取りなさいよ」
「間に合わなくてぇ」
「よそ見してるからだろ」
 仁科がタオルを少しだけ外して様子を見ると、まだ少し鮮血が滲む。腕時計を確認すると、四限終了まであと二十分といったところ。
「うーん、四限終わるくらいには落ち着いてるだろうけど、昼飯はここで食べてもらわないとかな。顔打ってるならちょっと安静にしたほうがいいし」
 頭を掻きながら、仁科は付き添ってきた春日のほうを見る。
「春日クン、昼休み入ったらこいつの着替え持ってきてくれる?」
「わかりました」
 久しぶりのやりとりのような気がしながら、仁科は保健室を出る春日を見送った。
 それから新しいタオルと軽く濡らしたタオルを持って、ベッドに腰掛けたまま下を向いている和都の前で腰を落とす。
「どれ、タオル替えようか」
 そう言って、体育館を出る前から押さえていたタオルを外した。出血は落ち着いてきているものの、鼻のまわりは血で汚れ、目の周りは腫れて赤い。濡らしたタオルで顔を拭い、新しいタオルで鼻を押さえた。
「目の周りは少し冷やしたほうがよさそうだねぇ」
 そう言うと今度は冷凍庫から保冷剤を出してガーゼに包み、和都の目の上に当てる。
「そのまま、もう少し下向いてなね」
「はぁい」
 和都がこもった声でちゃんと返事をしたので、意識周りは問題なさそうだ。
「んで? 春日クンもよそ見してたって言ってたけど。なんか気になるものでもあったの?」
 仁科は保冷剤を包んだガーゼを和都の顔に当てたまま、優しく頭を撫でる。
「……あのさ、体育館の天井にボール挟まってる時あるでしょ?」
「あぁ、あるねぇ」
「あれが、人の顔になってこっちに向かってきてさ」
「なにそれ、こわっ」
 高いところから物が落ちてくるだけでも充分に怖いのに、それが人の頭だなんて余計に嫌な話だ。
「ハクが食べてくれたから大丈夫だったんだけど、そのせいでボールに気付くの遅れちゃって」
「……それは、しょうがないわなぁ」
 体育の授業中だからといって、堂島本人が仕掛けてくるとは限らないらしい。
 しばらくして鼻に押し当てていたタオルを離すと、出血はおさまったようだった。
「止まったみたいだね」
「うん」
 タオルを回収するついでに仁科が時計を見ると、そろそろ四限が終りそうな時間になっている。
「もうすぐ四限終わるし、今のうちに昼飯買ってくるよ。お前のは何がいい?」
「たまごサンドとカツサンドとサラダロールと牛乳!」
 まだ少し腫れて赤いものの、わりあい元気そうな顔で和都が返したので、仁科もつい頬が緩んだ。
「はいはい。すぐ戻るよ。一応、鍵はかけとくからね」
「はーい」
 財布と鍵を持って、仁科が保健室を出ていく。しっかりガチャン、と外側から鍵のかかる音もしたので、勝手に誰かが入ってくることはないだろう。
 それにしても、と和都は息をついた。
 先日からどうも普段は姿を見せない、怪異やお化けの類からの攻撃が多いような気がする。これまでは、遭遇しても図書室の幽霊くらいで、学校でこんなに怖いものを見たり、遭遇したりすることはなかった。
「やっぱ『鬼』のせい、なのかな」
〔そうだと思うよ〕
 和都が小さく呟くと、少年のような声と共に白い渦が空中に現れ、渦から白い犬の頭部へ形を変える。
「あ、ハク」
〔鬼のチカラを持った先生二人に、学校に潜んでるヤツらも刺激されてるんじゃないかなぁ。あとはぁ──〕
「あとは?」
〔……『支配』されちゃってるかも〕
「えっ」
〔カズトを捕まえるために学校のお化けを支配して、命令してるって可能性もあるよ〕
 ハクのいささか不穏な単語に驚いていると、四限終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
 それからしばらくして保健室前の廊下を、クラスメイト達がぞろぞろと教室へ戻っていくざわめきが聞こえてくる。その中から小さくはぐれ、保健室のドアの方へ向かってくる足音がした。それからすぐ、ガタガタッと保健室のドアが揺れる。
「あれ、開かない」
「え? あ、鍵かかってるじゃん」
 ドアの向こうから、菅原と小坂の声がした。保健室の廊下側には手の届く位置に窓がなく、あっても天井近くの明かり取りと換気を兼ねた小さな窓くらい。すると仕方ないという様子で、廊下側から大きな声が聞こえてきた。
「相模ー、聞こえるー? 鼻血止まったー?」
「うん、なんとかー」
 壁越しに聞こえる菅原の呼びかけに、和都も少し声を張って返事をする。
「お、聞こえる聞こえる」
「先生はー?」
「お昼買いにいってくれてるー」
「相模は保健室で食うの?」
「うん。休んでなきゃいけないって」
「そっかぁ」
「じゃあまた後でなー」
 そう言って、バタバタと騒がしい足音が保健室前を去っていった。すると、ふっと辺りが静かになる。昼休みに入ってすぐは、みんな購買のほうへ向かうせいか、校舎の東側は少しだけ静かだ。
 不意に、ガチャリ、とドアの鍵を解錠する音。
「あっ」
 仁科が戻ってきたのだと思って顔をあげたが、ガラガラと引き戸を開けて入ってきたのは、小豆色のジャージを着た人物だった。
「堂島、先生……?」
「ああ、相模くん。血は止まったのかな?」
 授業中の時と同じ、にこやかな表情を顔に貼り付けた堂島が言う。
 すぐに引き戸が閉まって、ガチャン、と鍵が掛かった。
「あ……」
「大丈夫かい? 相模くん」
 名前を呼ばれて、和都は思わずベッドの上に乗って後退る。
 ドアを開けるための鍵は、仁科が持って出ていった。鍵を持っていない人間が、開けることはできない。
 心臓がドクドクと早鐘を打つ。
「倒れた君が心配でねぇ。授業が終わったから早速見に来たんだ」
 堂島がそう言いながら、遠慮なく真っ直ぐ、ベッドへと近づいてくる。
〔カズトに近づくな!〕
 和都を庇うように二人の間にハクが現れ、大きな口を開けて吠えかかった。
「……邪魔だよ、狗神」
 そう言って堂島が腕で軽く払っただけで、ハクが〔きゃあ!〕と短い悲鳴をあげて消えてしまった。
「ハク!」
 呼びかけるも返事はない。
 堂島はお構いなしでベッドの上の和都に迫る。
「……あっ」
「担当の子がケガをしたら、心配するのは当たり前だろう?」
 穏やかな声でベッドに押し倒されて、鼻の先が触れそうなほど近くに顔があった。
 にこやかに笑う瞳の色が、赤い。
「見せてごらん、ほら……」
「……いやだっ」
 殴って突き放そうとするも、振り上げた手はあっけなく大きな手に掴まれる。その反対の手で、背けようとする顔を正面に向けさせられた。
 緋色の瞳。
 縦に細長い瞳孔がじっとこちらを見ていた。
 触れたところから冷たいものが流れ込んできて、心臓に突き刺さるような感覚。
「ぐっ……!」
 苦しくて、声が出ない。
 そこにガチャリと開錠する音がして、ガラガラッと勢いよく引き戸が開いた。
「堂島、おまえ……!」
「……あれ? もう来たの?」
 戻ってきた仁科は慌ててベッドへ駆け寄ると、堂島のジャージの襟を掴んで、和都から引き剥がす。
「お前、何してる! どうやって入った?!」
 ジャージの襟首を掴み、怒りを滲ませながら、キツく睨んだ顔で仁科が問うも、堂島は普段のような平然とした顔のままだ。
「担当の子の、ケガの様子を見にきただけだよ?」
「……様子を見るのに、ベッドに押し倒す必要なんかあるかよ」
「ああ、そうだ、俺に手伝えることがあれば」
 今、していたことに対しての弁明も謝罪もなく、堂島はなおも居座ろうと言葉を選ぶ。
 視点も合わず、まるで話が通じない。
 曖昧であやふやな何かと話しているようだ。
「お前に手伝えることはない。出ていけ!」
「……分かったよ」
 へらへらと笑った顔を貼り付けたままの堂島を保健室から追い出すと、仁科は急いでドアに鍵を掛けた。
 それからすぐにベッドのほうへ駆け戻り、ベッドの上の和都に近づく。青ざめた顔でベッドの奥に座り込んだ和都は、肩を上下させながら荒い呼吸を繰り返し、心臓の辺りを両手でぎゅっと押さえていた。
「相模」
「せんせ……」
「……そっち行っていいか? 触っても平気?」
 怯えながらも小さく頷いたので、仁科はなるべくゆっくり近づくと、両腕でギュッと包むように和都を抱きしめた。
「怖かったな。アイツは追い出したよ。もう、大丈夫……」
 腕の中の身体は、まるで氷のように冷たい。
 鬼たちの『食べる』という行為は、やはり『命そのものを奪う』ということなのだろう。
「こわ、かった……」
 小さく絞り出した声が掠れていて、目の端から涙が溢れているのに気付く。
「……うん、怖かったな。大丈夫、もう大丈夫だからな」
 そう言いながらしばらく温めるように身体をさすり、それから額に小さく口付けた。