久しぶりにも思えた休養日に、
朝食を終えたわたしは
駆け込むように書室に入った。
室内は寒く、
息の水分が凝結して白く見える。
ランタンで照らすと書室は、
誰かに利用された形跡があった。
今日読みたかった『アラズ興亡詩』は
誰にも持ち出されずに4冊とも揃っていて、
わたしの安堵の息がまた白く出た。
――トリンはもう読み終えたのかしら。
足元に熾火を用意し、
太腿の上に白猫のイオスを乗せて、
フランジが使う膝掛けを被せた。
準備を済ませ、テーブルに置いた本を開く。
最初の一文を指で擬え、
わたしはこれを一度読唱した。
『雪は解け、布は褪せても、
想いは咲き零れる。』
すると書室の扉が開け放たれた。
暖まった室内の空気が外に抜け、
冷たい空気が入り込む。
「あれ、居たんだ。」
「トリン。」
「館を脱走したって聞いたから、
もう居ないのかと思った。」
昔の話を穿り返される。
「今朝、食堂で会ったでしょ。
寒いから早く入って。」
「冗談よ。」
トリンは笑わないし、わたしも笑えない。
扉を閉めて、彼女は本を探し始める。
「互いに笑い合えるものを、
冗談っていうのよ。」
「はいはい。」
「『アラズ興亡詩』はもう読み終わったの?
いま、わたしが読んでるの。」
「それはわたしの読みたい本ではないわ。」
「トリンってお菓子、好きだった?
普段お菓子はあまり食べないでしょ。」
お菓子大全という厚い本を手にしていても、
表情は興味を示していない。
「あんたにはあるの? 好きなもの。」
質問に質問で返されて、
わたしは黙ってしまった。
本を読むのは好きだけれど、
本自体が好きなわけでもない。
サンサに押し付けられた、
正統記のような迂遠な思想本や
難解な専門書を含めてまで、
全て好きとは断言できない。
お菓子は好きだけれど、
ヤゴウの作る料理もおいしいから、
お菓子だけが好きでもない。
――質問に質問で返すのは、
やっぱり狡いやり方だわ。
考えを巡らせて視線を向けると、
さらに質問が続いた。
「この部屋にも来なかったね。
向こうの娼館で働いてたの?」
東部風の冗談として聞き流す。
「あれからもう大変なのよ。
わたし達を誘拐した件の頭目、
ユヴィルの資産は全て街が接収。
彼が所有していた偽の競馬場や、
闇の館っていう娼館は営業を停止。」
「そいつはどうなった?」
大略を説明していると、
トリンはユヴィルの末路に興味を示した。
「裁判所の判決に従って、
彼の持つあらゆる権利は剥奪された。
ひととしての権利もね。
罪人は奴隷と同じ扱いで、
強制労働者になるわね。」
一点を見つめる彼女の暗い目が、
ランタンの灯火に照らされる。
「彼の持っていた娼館も、
接収される予定だったのよ。」
「されなかったんだ。どうしてさ?」
「街娼が外に溢れると、
街の風紀、治安が乱れるもの。
でも彼女達を働かせようにも、
あそこはハミウス法を破っていて、
中には子供が居たのよ。」
「ふーん。
わたし達も、そうなってたわけだ。」
彼女は鼻で笑う。
娼婦達を見てきたわたしには、
この冗談も笑えはしない。
雇い主のユヴィルを失い、
仕事を奪われる理不尽さに
憤る娼婦もいた。
「彼女達の中には妊娠していたり、
中絶や堕胎を繰り返してる子も居たわ。
食事を与えず、強い毒を飲まされてね。
反抗的な子は逃げないように、
檻や鎖で拘束されていた。
食事も与えられずに痩せ細って、
自分で水も飲めなくなった子も見たわ。」
それを付け加えると彼女も言葉を呑んだ。
――足の腱を切られた子や
髪や歯を全て抜かれた子も、
メノーの病院へ入れられたのよ。
この事実を彼女に伝えるのは控えた。
トリンはもう成年なので、
近いうちにドレイプになる。
大陸語も読める彼女は
オーナーのルービィに気に入られ、
ムネモスと共にこの館にも早くに入った。
ファウナの部屋の隣の9番部屋は、
セセラが1番部屋に移動してから、
トリンの為に空室になっている。
――トリンも間もなく、
彼女の望まないドレイプになる。
ドレイプにならないわたしが、
そんな話を彼女に向けても仕方がない。
「これから農閑期に入るから、
地方から星鳥が来て
こちらも忙しくなるわよ。
朝からファウナが嘆いてたわ。」
ファウナの話に興味がないらしく、
トリンは返事もせずにページを捲る。
「ニクスは娼婦の仕事もせずに
なにやってたの?」
「オーナーのルービィが権利を整理して
あちらの娼館を買い取ったのよ。
サンサとわたしは
彼女達と面談…というより、
わたしは話し相手かな。」
「ふぅん。」
そんな答えにトリンは興味を失う。
説明しようと思い返してみても、
仕事らしいことはなにもしていなかった。
◆
サンサは娼婦達に簡単な診療を施すと、
劇場に行ってしまう。
わたしに後の責任と給金を押し付けて。
残されたわたしが代わりに質問を受け、
募る不安を和らげる為に診療を真似した。
フランジのわたしには
本で読んだ知識はあっても、
仕事の相談に答えられる部分は無かった。
そのせいで余計な不安を与え、
彼女達が泣き出すだけならまだ良かった。
叩かれたり、引っ掻かれたり、蹴られたり、
病院に行くのを嫌がり、噛みつく子も居た。
髪の毛を引っ張られ、罵倒され、
部屋だけではなく館からも追い出され、
腕には引っ掻き傷だけが残った。
ユヴィル達の行った
名ばかりの教育によって、
事実を思想で歪められた彼女達から
目を背けるつもりもなかった。
囓られるつもりもないので、
彼女達に代用品を与えることにした。
わたしを食べたところで
おいしいはずはないし、
おいしい物ならこの街には沢山ある。
夏も終わってしまい、
ナショーもダギラも
収穫の季節は過ぎていた。
ダギラの代用品とも呼ばれてしまう
マリセスの果実を、市場に寄って探した。
けれどマリセスの果実は、
市場では売っていなかった。
いまの時期に採れる初物は、
クァンと同じく酸味が強くて甘く無い為に、
市場には品質の良い物が出回らない。
果肉を薄切りにして乾燥させたものに、
蜂蜜を掛けて風味を楽しむひとは多い。
それでは果実本来の硬めの食感と、
瑞々しい果汁を損なう。
南部でよく採れるマリセスは、
地下や洞窟などの涼しい氷室で保管し、
ダギラほどではなくとも高級な果物だった。
夜の館の貯蔵室に、マリセスが搬入された。
マリセスの皮に含まれる糖が揮発して、
甘く爽やかな匂いを放つ。
搬入する業者の気を引き、
わたしがまた囮になることで、
従業員のデーン経由で一箱
入手することができた。
デーンはマリセスを一つだけ手にして、
今回の成果に満足している。
責任者のヤゴウがなにか言いた気に、
わたし達の行為を黙って見ていた。
夜の館ではいつでも手に入る
大量のマリセスを目の前にして、
無産街出身の娼婦達は不思議がった。
果実の酸味ではなく、
果物が与えられたことに驚いていた。
夜の館では当たり前に得られるものも、
闇の館の彼女達には無かった。
これまでの不遇を憤り、
格差を嘆き、泣いてしまう子が居た。
わたしは彼女達に鏡を見せて、
現実を突き付けていたことに気付く。
その日は、娼婦達がマリセスを
好きなだけ食べられるように、
わたしは皮を剥き続けた。
最初は上手に出来なかった果実の皮剥きも、
量を熟せば上達する。
娼婦達には果実を通じて、
品の良い食べ方から皮の剥き方、
刃物の危険性などを教えた。
そうしてわたしは、
娼婦達から館に居ることを許された。
◆
この前の休養日には
勉強会が開かれることもあり、
わたしはその準備にも追われていた。
夜の館から闇の館へ移動し、
昼には病院への移動も忙しかったけれど、
わたしを手伝ってくれるひとも居た。
「病気の娼婦は、
メノーが病院に連れて行ってくれたわ。
身重なのに普段通りにしてたわね。
ムネモスのおかげかしら。」
トリンが顔をこちらに向けて興味を示す。
「あれからムネモスはどうしてる?」
事件で塞ぎ込んでいたムネモスは、
他のフランジと同じ仕事を任されず、
妊娠中のメノーの介助を行っている。
ムネモスはメノーと共に、
寝室棟の2階の部屋に住むようになった。
彼女はわたしに見られる度に、
目を逸らして事件の日の責任を感じていた。
――わたしに全ての責任がある。
――でもいまはまだ、トリンみたいに
距離を置くのが正しいのかもしれない。
サンサはわたしの選択を責めない、
と言っていたものの、あの結果には
誰だって責任を感じずにはいられない。
ムネモスは自分よりも酷い境遇に置かれた
闇の館の娼婦達を見ると、悲観的な――
持ち前の明るさと領主の娘らしく
真摯な対応をしていた。
「トリンだって食堂で見てたでしょ?
メノーの介助を愉しんでるわよ。
普段通りにしてるわ。普通よね。」
「…ここでの普通ってなに?」
彼女はページを捲る手を止めて、
暗い目でわたしを見てくる。
「領主の娘が親と離れて、
こんなとこに住んでるなんて
おかしいってあんただって分かるよね。」
彼女は手を固く握り、震わせた。
エルテルの領主、エリクの死後、
ムネモスは母のベリーを領地に残し、
14歳で娼館に入った。
エリクの子供はムネモスの他に、
クロムという名の双子の男の子が居る。
そのクロムは西のカヴァに連れていかれた。
彼の存在はエリクの弟、
現領主のタルヴォの座を脅かしかねない。
同様にムネモスも、
エルテル領に留まって男児を産めば
政略に利用されてしまう。
エリクの養子で義姉のサンサが
ムネモスを夜の館に呼んだのは、
エルテル領の内情が複雑に絡んでいる。
ムネモスの出自を知るトリンだからこそ、
本来の暮らしから逸脱した事象が
注視されてしまう。
――普通…。
わたしもカヴァとの戦争がなければ、
ネルタの塔で本を読んで過ごす生活が
普通だったのかもしれない。
――ユヴィルを失って
働けなくなった娼婦達の普通…。
――ここに来る前のトリンの普通は?
彼女の望みはなにかしら…。
地下室で感情を剥き出しにした彼女。
館の決まりで、
彼女に孤児院以前の過去は訊ねられない。
「…わたしも普通ではないわね。
貴族としての暮らしや、
階級を持った生活を知らないし、
孤児院にも入ったことがないわ。
トリンは孤児院での暮らしが、
当たり前だって思う?」
「そんなわけない。
あそこにあるのは
貧相な食事と汚い本だけよ。」
彼女がテーブルを軽く叩いた為、
太腿の上で寝ていたイオスが驚いた。
「クイナとは、
以前からの知り合いなんでしょう?」
――孤児院でわたしのことを、
『お嬢様』と呼んだ子。
あの子はまだ幼くて、
選考会では選んであげられなかった。
「…あの子と一緒に孤児になっただけ。」
――孤児院に入る前のあなたは…。
「トリンは――。」
言いかけると書室の扉が開いた。
「あ、ニクスはここだった。
トリンも一緒してた。」
スーが書室に入ってきた。
奇妙な黒地の細長い飾り布を肩に掛けて、
金髪を外出用に三つ編みにしている。
「スー、どうしたの。」
「えー? 今日は収穫祭だから、
劇場に行こうって前に言ったよ?」
「…忙しくて忘れてた。
スーも本の製造で居なかったでしょ。」
ルービィの『男の為の学術書』は好評で、
すでに追加で100冊もの製造が決まり、
彼女は写本作業で工場に寝泊まりしていた。
「奇妙な飾り布。」トリンが呟く。
「見て、これ。
飾り布じゃないんだよ。」
肩に掛けた2枚の布。
レナタやムネモスのチュニックと同じ、
薄いシルクの素材が
先細りの袋状になっている。
広い口側には赤い紐が縫われて、
それに似たものをわたしは知っている。
山羊の膀胱で作られた、
精液を受け止めるもの。
「避妊具? ふふっ。」
わたしの口から出てきたその名前に、
自分でも笑ってしまい息が漏れる。
黒い袋は頭が収まるくらい口は広く、
先は細くなっていき、腕ほどの長さがある。
布素材なので精液が染み出てしまい、
まず避妊具にはならない。
「あはは、違うよ。
人間のちんちんは、
こんなに大きくないでしょ?」
「馬用?」と冗談を繰り返す。
夜の館では表向きには、
下品は禁止されている。
「あはははっ。」
スーは堪えきれずに哄笑した。
こんな浅ましい冗談に対して、
予想していた通りにスーに笑われ、
言ったわたしが恥ずかしくなる。
「それで、なんなの?」
「これはソックスっていって、
足に履くんだよ。」
「足用?
だから指が出せないんだ。」
アームカバーに似ていても、
手や指が出せる穴はない。
「それ、男が履くものだろ。」
トリンも想像がついて指摘する。
「南部ではね。」
「こんなスラックスは初めて見るよ。」
草木や獣に棲む小さな生物に噛まれて
傷や病気になるのを防ぐ為に、
オーブの猟師はスラックスを履く。
「これは女用のソックスで、
防寒より見栄え重視の服だね。
これ一組しかないから、
ニクスちょっと履いてみて。」
猟で使う硬い革靴を履くと足が擦れて、
皮が捲れることをソックスで防ぎ、
汗による凍傷を防ぐ効果がある。
「こんな時、
いつもわたしが実験体だよね。」
隣のトリンは指名されずに、
わたしを鼻で笑う。
太腿の上のイオスをテーブルに置いて、
ソックスを履いてみた。
「温かい…かも。あっ! イオスぅ。」
椅子の上に足を乗せて履くと、
イオスがわたしの胸に跳び乗る。
イオスの爪でソックスに傷がついた。
「ごめん、スー。」
「いいよ。それくらい。
ニクスはいつも
どこか傷ついてるもんね。
オーナーが周遊してた時に、
ムネモスの母親のベリー夫人と
一緒に作ったんだって。
今度から避妊具の工場で作るみたい。
そこで試しに作った物だから、
スラックスって考えも近かったね。
でも、ちんちんはどうかと思うよ。」
「それはスーが言ったんだよ。」
「この街って周囲は山ばかりだし、
冬は雪はあまり降らないけど冷えるから、
希少な避妊具より多く売れるかもね。」
「トリンも片方、履いてみる?」
「履かない。」
わたしの提案にすぐに拒否したトリンは、
イオスの鼻を指で突いて叱られていた。
「あっ! 良い所に居たっ!」
スーに引っ張られてムネモスが来た。
汗で前髪を濡らし、
身体中から蒸気を発している。
彼女は舞踏室で、
メノーや他のフランジと一緒に踊っていた。
「ムネモス、メノーと一緒ではないの?」
「メノーには、御不浄は一人で大丈夫
と言われてしまい…。」
メノーに引き離されて不安がる。
「ムネモスも一緒に劇場に行く気はない?
ニクスとトリンも行くよ。
レナタも居るはずだよ。」
「わたし行くって言ってない。」
トリンの抗議の声はスーには届かない。
「劇場…? どちらですか?」
「…無産街の方だよね?
北側って治安は良いの?」
「私、行きたくない…。」と、ムネモス。
わたし達を見て元気を失い、
地下室に入れられた時と
同じ表情を見せる。
「ハーフガンとディーゴに
護衛を頼んであるから、
たぶん平気だよ。」
ムネモスは首を横に振って拒絶した。
「無理に連れてはダメよぉ。」
メノーがムネモスを気にして戻ってきた。
「分かってるよ。
でも見せたいなぁ、サンサの舞台。」
「サンサお姉様が出るの?」
「サンサは役者ではないもの、
出ないわよ。」
「あのひとって、なにしてるの?」
トリンはサンサを警戒している。
「厨房でヤゴウに注文してるわよ。」
「劇場の権利者なのに?」と、わたし。
「冬はドレイプが一番忙しいもの。
あなた達の生活の為に、
ドレイプには精励して貰わないとねぇ。」
メノーは膨らんだお腹を撫でる。
「メノーはまだ踊りますか?」
「食べて寝てばかりでは、
貴族病になるものねぇ。
せっかくの収穫祭なんだから、
今日は夜まで踊るわよ。
ムネモスも付き合ってくれるわよねぇ。」
「ひぇ…。」
ムネモスの前髪から汗が滴り落ちて、
彼女は返事にならない悲鳴をあげた。
▶
朝食を終えたわたしは
駆け込むように書室に入った。
室内は寒く、
息の水分が凝結して白く見える。
ランタンで照らすと書室は、
誰かに利用された形跡があった。
今日読みたかった『アラズ興亡詩』は
誰にも持ち出されずに4冊とも揃っていて、
わたしの安堵の息がまた白く出た。
――トリンはもう読み終えたのかしら。
足元に熾火を用意し、
太腿の上に白猫のイオスを乗せて、
フランジが使う膝掛けを被せた。
準備を済ませ、テーブルに置いた本を開く。
最初の一文を指で擬え、
わたしはこれを一度読唱した。
『雪は解け、布は褪せても、
想いは咲き零れる。』
すると書室の扉が開け放たれた。
暖まった室内の空気が外に抜け、
冷たい空気が入り込む。
「あれ、居たんだ。」
「トリン。」
「館を脱走したって聞いたから、
もう居ないのかと思った。」
昔の話を穿り返される。
「今朝、食堂で会ったでしょ。
寒いから早く入って。」
「冗談よ。」
トリンは笑わないし、わたしも笑えない。
扉を閉めて、彼女は本を探し始める。
「互いに笑い合えるものを、
冗談っていうのよ。」
「はいはい。」
「『アラズ興亡詩』はもう読み終わったの?
いま、わたしが読んでるの。」
「それはわたしの読みたい本ではないわ。」
「トリンってお菓子、好きだった?
普段お菓子はあまり食べないでしょ。」
お菓子大全という厚い本を手にしていても、
表情は興味を示していない。
「あんたにはあるの? 好きなもの。」
質問に質問で返されて、
わたしは黙ってしまった。
本を読むのは好きだけれど、
本自体が好きなわけでもない。
サンサに押し付けられた、
正統記のような迂遠な思想本や
難解な専門書を含めてまで、
全て好きとは断言できない。
お菓子は好きだけれど、
ヤゴウの作る料理もおいしいから、
お菓子だけが好きでもない。
――質問に質問で返すのは、
やっぱり狡いやり方だわ。
考えを巡らせて視線を向けると、
さらに質問が続いた。
「この部屋にも来なかったね。
向こうの娼館で働いてたの?」
東部風の冗談として聞き流す。
「あれからもう大変なのよ。
わたし達を誘拐した件の頭目、
ユヴィルの資産は全て街が接収。
彼が所有していた偽の競馬場や、
闇の館っていう娼館は営業を停止。」
「そいつはどうなった?」
大略を説明していると、
トリンはユヴィルの末路に興味を示した。
「裁判所の判決に従って、
彼の持つあらゆる権利は剥奪された。
ひととしての権利もね。
罪人は奴隷と同じ扱いで、
強制労働者になるわね。」
一点を見つめる彼女の暗い目が、
ランタンの灯火に照らされる。
「彼の持っていた娼館も、
接収される予定だったのよ。」
「されなかったんだ。どうしてさ?」
「街娼が外に溢れると、
街の風紀、治安が乱れるもの。
でも彼女達を働かせようにも、
あそこはハミウス法を破っていて、
中には子供が居たのよ。」
「ふーん。
わたし達も、そうなってたわけだ。」
彼女は鼻で笑う。
娼婦達を見てきたわたしには、
この冗談も笑えはしない。
雇い主のユヴィルを失い、
仕事を奪われる理不尽さに
憤る娼婦もいた。
「彼女達の中には妊娠していたり、
中絶や堕胎を繰り返してる子も居たわ。
食事を与えず、強い毒を飲まされてね。
反抗的な子は逃げないように、
檻や鎖で拘束されていた。
食事も与えられずに痩せ細って、
自分で水も飲めなくなった子も見たわ。」
それを付け加えると彼女も言葉を呑んだ。
――足の腱を切られた子や
髪や歯を全て抜かれた子も、
メノーの病院へ入れられたのよ。
この事実を彼女に伝えるのは控えた。
トリンはもう成年なので、
近いうちにドレイプになる。
大陸語も読める彼女は
オーナーのルービィに気に入られ、
ムネモスと共にこの館にも早くに入った。
ファウナの部屋の隣の9番部屋は、
セセラが1番部屋に移動してから、
トリンの為に空室になっている。
――トリンも間もなく、
彼女の望まないドレイプになる。
ドレイプにならないわたしが、
そんな話を彼女に向けても仕方がない。
「これから農閑期に入るから、
地方から星鳥が来て
こちらも忙しくなるわよ。
朝からファウナが嘆いてたわ。」
ファウナの話に興味がないらしく、
トリンは返事もせずにページを捲る。
「ニクスは娼婦の仕事もせずに
なにやってたの?」
「オーナーのルービィが権利を整理して
あちらの娼館を買い取ったのよ。
サンサとわたしは
彼女達と面談…というより、
わたしは話し相手かな。」
「ふぅん。」
そんな答えにトリンは興味を失う。
説明しようと思い返してみても、
仕事らしいことはなにもしていなかった。
◆
サンサは娼婦達に簡単な診療を施すと、
劇場に行ってしまう。
わたしに後の責任と給金を押し付けて。
残されたわたしが代わりに質問を受け、
募る不安を和らげる為に診療を真似した。
フランジのわたしには
本で読んだ知識はあっても、
仕事の相談に答えられる部分は無かった。
そのせいで余計な不安を与え、
彼女達が泣き出すだけならまだ良かった。
叩かれたり、引っ掻かれたり、蹴られたり、
病院に行くのを嫌がり、噛みつく子も居た。
髪の毛を引っ張られ、罵倒され、
部屋だけではなく館からも追い出され、
腕には引っ掻き傷だけが残った。
ユヴィル達の行った
名ばかりの教育によって、
事実を思想で歪められた彼女達から
目を背けるつもりもなかった。
囓られるつもりもないので、
彼女達に代用品を与えることにした。
わたしを食べたところで
おいしいはずはないし、
おいしい物ならこの街には沢山ある。
夏も終わってしまい、
ナショーもダギラも
収穫の季節は過ぎていた。
ダギラの代用品とも呼ばれてしまう
マリセスの果実を、市場に寄って探した。
けれどマリセスの果実は、
市場では売っていなかった。
いまの時期に採れる初物は、
クァンと同じく酸味が強くて甘く無い為に、
市場には品質の良い物が出回らない。
果肉を薄切りにして乾燥させたものに、
蜂蜜を掛けて風味を楽しむひとは多い。
それでは果実本来の硬めの食感と、
瑞々しい果汁を損なう。
南部でよく採れるマリセスは、
地下や洞窟などの涼しい氷室で保管し、
ダギラほどではなくとも高級な果物だった。
夜の館の貯蔵室に、マリセスが搬入された。
マリセスの皮に含まれる糖が揮発して、
甘く爽やかな匂いを放つ。
搬入する業者の気を引き、
わたしがまた囮になることで、
従業員のデーン経由で一箱
入手することができた。
デーンはマリセスを一つだけ手にして、
今回の成果に満足している。
責任者のヤゴウがなにか言いた気に、
わたし達の行為を黙って見ていた。
夜の館ではいつでも手に入る
大量のマリセスを目の前にして、
無産街出身の娼婦達は不思議がった。
果実の酸味ではなく、
果物が与えられたことに驚いていた。
夜の館では当たり前に得られるものも、
闇の館の彼女達には無かった。
これまでの不遇を憤り、
格差を嘆き、泣いてしまう子が居た。
わたしは彼女達に鏡を見せて、
現実を突き付けていたことに気付く。
その日は、娼婦達がマリセスを
好きなだけ食べられるように、
わたしは皮を剥き続けた。
最初は上手に出来なかった果実の皮剥きも、
量を熟せば上達する。
娼婦達には果実を通じて、
品の良い食べ方から皮の剥き方、
刃物の危険性などを教えた。
そうしてわたしは、
娼婦達から館に居ることを許された。
◆
この前の休養日には
勉強会が開かれることもあり、
わたしはその準備にも追われていた。
夜の館から闇の館へ移動し、
昼には病院への移動も忙しかったけれど、
わたしを手伝ってくれるひとも居た。
「病気の娼婦は、
メノーが病院に連れて行ってくれたわ。
身重なのに普段通りにしてたわね。
ムネモスのおかげかしら。」
トリンが顔をこちらに向けて興味を示す。
「あれからムネモスはどうしてる?」
事件で塞ぎ込んでいたムネモスは、
他のフランジと同じ仕事を任されず、
妊娠中のメノーの介助を行っている。
ムネモスはメノーと共に、
寝室棟の2階の部屋に住むようになった。
彼女はわたしに見られる度に、
目を逸らして事件の日の責任を感じていた。
――わたしに全ての責任がある。
――でもいまはまだ、トリンみたいに
距離を置くのが正しいのかもしれない。
サンサはわたしの選択を責めない、
と言っていたものの、あの結果には
誰だって責任を感じずにはいられない。
ムネモスは自分よりも酷い境遇に置かれた
闇の館の娼婦達を見ると、悲観的な――
持ち前の明るさと領主の娘らしく
真摯な対応をしていた。
「トリンだって食堂で見てたでしょ?
メノーの介助を愉しんでるわよ。
普段通りにしてるわ。普通よね。」
「…ここでの普通ってなに?」
彼女はページを捲る手を止めて、
暗い目でわたしを見てくる。
「領主の娘が親と離れて、
こんなとこに住んでるなんて
おかしいってあんただって分かるよね。」
彼女は手を固く握り、震わせた。
エルテルの領主、エリクの死後、
ムネモスは母のベリーを領地に残し、
14歳で娼館に入った。
エリクの子供はムネモスの他に、
クロムという名の双子の男の子が居る。
そのクロムは西のカヴァに連れていかれた。
彼の存在はエリクの弟、
現領主のタルヴォの座を脅かしかねない。
同様にムネモスも、
エルテル領に留まって男児を産めば
政略に利用されてしまう。
エリクの養子で義姉のサンサが
ムネモスを夜の館に呼んだのは、
エルテル領の内情が複雑に絡んでいる。
ムネモスの出自を知るトリンだからこそ、
本来の暮らしから逸脱した事象が
注視されてしまう。
――普通…。
わたしもカヴァとの戦争がなければ、
ネルタの塔で本を読んで過ごす生活が
普通だったのかもしれない。
――ユヴィルを失って
働けなくなった娼婦達の普通…。
――ここに来る前のトリンの普通は?
彼女の望みはなにかしら…。
地下室で感情を剥き出しにした彼女。
館の決まりで、
彼女に孤児院以前の過去は訊ねられない。
「…わたしも普通ではないわね。
貴族としての暮らしや、
階級を持った生活を知らないし、
孤児院にも入ったことがないわ。
トリンは孤児院での暮らしが、
当たり前だって思う?」
「そんなわけない。
あそこにあるのは
貧相な食事と汚い本だけよ。」
彼女がテーブルを軽く叩いた為、
太腿の上で寝ていたイオスが驚いた。
「クイナとは、
以前からの知り合いなんでしょう?」
――孤児院でわたしのことを、
『お嬢様』と呼んだ子。
あの子はまだ幼くて、
選考会では選んであげられなかった。
「…あの子と一緒に孤児になっただけ。」
――孤児院に入る前のあなたは…。
「トリンは――。」
言いかけると書室の扉が開いた。
「あ、ニクスはここだった。
トリンも一緒してた。」
スーが書室に入ってきた。
奇妙な黒地の細長い飾り布を肩に掛けて、
金髪を外出用に三つ編みにしている。
「スー、どうしたの。」
「えー? 今日は収穫祭だから、
劇場に行こうって前に言ったよ?」
「…忙しくて忘れてた。
スーも本の製造で居なかったでしょ。」
ルービィの『男の為の学術書』は好評で、
すでに追加で100冊もの製造が決まり、
彼女は写本作業で工場に寝泊まりしていた。
「奇妙な飾り布。」トリンが呟く。
「見て、これ。
飾り布じゃないんだよ。」
肩に掛けた2枚の布。
レナタやムネモスのチュニックと同じ、
薄いシルクの素材が
先細りの袋状になっている。
広い口側には赤い紐が縫われて、
それに似たものをわたしは知っている。
山羊の膀胱で作られた、
精液を受け止めるもの。
「避妊具? ふふっ。」
わたしの口から出てきたその名前に、
自分でも笑ってしまい息が漏れる。
黒い袋は頭が収まるくらい口は広く、
先は細くなっていき、腕ほどの長さがある。
布素材なので精液が染み出てしまい、
まず避妊具にはならない。
「あはは、違うよ。
人間のちんちんは、
こんなに大きくないでしょ?」
「馬用?」と冗談を繰り返す。
夜の館では表向きには、
下品は禁止されている。
「あはははっ。」
スーは堪えきれずに哄笑した。
こんな浅ましい冗談に対して、
予想していた通りにスーに笑われ、
言ったわたしが恥ずかしくなる。
「それで、なんなの?」
「これはソックスっていって、
足に履くんだよ。」
「足用?
だから指が出せないんだ。」
アームカバーに似ていても、
手や指が出せる穴はない。
「それ、男が履くものだろ。」
トリンも想像がついて指摘する。
「南部ではね。」
「こんなスラックスは初めて見るよ。」
草木や獣に棲む小さな生物に噛まれて
傷や病気になるのを防ぐ為に、
オーブの猟師はスラックスを履く。
「これは女用のソックスで、
防寒より見栄え重視の服だね。
これ一組しかないから、
ニクスちょっと履いてみて。」
猟で使う硬い革靴を履くと足が擦れて、
皮が捲れることをソックスで防ぎ、
汗による凍傷を防ぐ効果がある。
「こんな時、
いつもわたしが実験体だよね。」
隣のトリンは指名されずに、
わたしを鼻で笑う。
太腿の上のイオスをテーブルに置いて、
ソックスを履いてみた。
「温かい…かも。あっ! イオスぅ。」
椅子の上に足を乗せて履くと、
イオスがわたしの胸に跳び乗る。
イオスの爪でソックスに傷がついた。
「ごめん、スー。」
「いいよ。それくらい。
ニクスはいつも
どこか傷ついてるもんね。
オーナーが周遊してた時に、
ムネモスの母親のベリー夫人と
一緒に作ったんだって。
今度から避妊具の工場で作るみたい。
そこで試しに作った物だから、
スラックスって考えも近かったね。
でも、ちんちんはどうかと思うよ。」
「それはスーが言ったんだよ。」
「この街って周囲は山ばかりだし、
冬は雪はあまり降らないけど冷えるから、
希少な避妊具より多く売れるかもね。」
「トリンも片方、履いてみる?」
「履かない。」
わたしの提案にすぐに拒否したトリンは、
イオスの鼻を指で突いて叱られていた。
「あっ! 良い所に居たっ!」
スーに引っ張られてムネモスが来た。
汗で前髪を濡らし、
身体中から蒸気を発している。
彼女は舞踏室で、
メノーや他のフランジと一緒に踊っていた。
「ムネモス、メノーと一緒ではないの?」
「メノーには、御不浄は一人で大丈夫
と言われてしまい…。」
メノーに引き離されて不安がる。
「ムネモスも一緒に劇場に行く気はない?
ニクスとトリンも行くよ。
レナタも居るはずだよ。」
「わたし行くって言ってない。」
トリンの抗議の声はスーには届かない。
「劇場…? どちらですか?」
「…無産街の方だよね?
北側って治安は良いの?」
「私、行きたくない…。」と、ムネモス。
わたし達を見て元気を失い、
地下室に入れられた時と
同じ表情を見せる。
「ハーフガンとディーゴに
護衛を頼んであるから、
たぶん平気だよ。」
ムネモスは首を横に振って拒絶した。
「無理に連れてはダメよぉ。」
メノーがムネモスを気にして戻ってきた。
「分かってるよ。
でも見せたいなぁ、サンサの舞台。」
「サンサお姉様が出るの?」
「サンサは役者ではないもの、
出ないわよ。」
「あのひとって、なにしてるの?」
トリンはサンサを警戒している。
「厨房でヤゴウに注文してるわよ。」
「劇場の権利者なのに?」と、わたし。
「冬はドレイプが一番忙しいもの。
あなた達の生活の為に、
ドレイプには精励して貰わないとねぇ。」
メノーは膨らんだお腹を撫でる。
「メノーはまだ踊りますか?」
「食べて寝てばかりでは、
貴族病になるものねぇ。
せっかくの収穫祭なんだから、
今日は夜まで踊るわよ。
ムネモスも付き合ってくれるわよねぇ。」
「ひぇ…。」
ムネモスの前髪から汗が滴り落ちて、
彼女は返事にならない悲鳴をあげた。
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