金貨の娘

島の中央北部に位置する分水街の夏は、
高地で寒冷な南のネルタとは
比べるまでもなく、暑い。


早朝に庭木や花園に撒かれた水は、
朝食を終える頃には気化して
蒸し暑さを感じる。


肌を焼くような日差しでは
日陰の庭に張った天蓋からも出られない。


そんな暑さでも蝶には関係なく、
蜜と番を求めて舞っている。


わたしは朝から、スーが図書館で
買ってくれた写本を読んでいた。


子供向けの大陸語の本は
簡単な絵と由来もあって読みやすく、
大陸の表現は読むだけでも
彩り豊かで楽しかった。


「新入りは暇だろ?

 私の仕事を手伝わせてやろう。」


本に集中していた
わたしに呼び掛けたのは、
認証管理の補佐をしている
フランジのファウナだった。


黒い前髪が切り揃えられた少女。


彼女はこんな明るい朝から
灯ったランタンを持ち歩く。


ファウナは館が開かれるこの時刻になると、
ランタンを持って玄関に入っていく。


テーブルの上でお腹を見せて寝ていた
白猫のイオスを抱きながら、
ファウナは南側の椅子に座る。


「イオス。久しぶり。

 しばらく見ないうちに成長したなぁ。
 目の色が変わったか。」


声音を普段より高くして呼び掛けると、
寝起きのイオスは掠れた声で鳴く。


子猫特有の青い目は、
明確な淡青色へと変わっていた。


顔の横に付いて見えた小さかった耳も、
成長に伴って頭上に立つ。


ファウナは懐から紐を取り出した。


イオスが前足を伸ばして
紐で遊ぼうとするので、
彼女はイオスの顔に息を吹きかける。


突然のことにイオスは動きを止めた。


赤髪のフランジが髪を結う為の
金赤色の紐を束ねていたファウナは、
イオスの首輪を仕事の合間に編んでいた。


「似合うなぁ。」


彼女の様子を見ていた黒猫のアルが、
サンサの膝の上で鳴いて心配している。


「ファウナ。」と、サンサが静かに呟く。


名前を呼ばれたファウナは、
背筋を伸ばしてサンサから目を逸らした。


サンサはそれ以上、
何も言ってこなかった。


「ファウナの仕事の手伝いって
 認証管理の?」


「補佐な。
 今日は違う仕事だ。

 招待札での照合だ。」


「照合って…。

 玄関でやってる仕事だね。」


サンサはいつもの席で
わたしに向かってなにも言わずに頷くと、
仕事の手伝いを黙認した。


わたしの行動にサンサの許可は
必要ないけれど、席を外す時は
こうして報告だけはしておく。


「私もファウナの仕事、手伝おっか?」


「あんたはダメ。」


「えぇー。仲間外れぇ。」


ファウナはスーに厳しい。


スーは書字板のスタイラスを握って、
テーブルに突っ伏して伸びた。


「スー、あなたはルービィの本の作業よ。

 言い出したのはあなたよ。」


サンサがテーブルを指先で小突く。


「だけどねぇ、終わるの? これぇ。」


「終わらせる為にやってるのよ。」


サンサは大量の羊皮紙を広げて、
スーに指示を出して別の羊皮紙に写させる。


彼女達はルービィの書いた文章を
本にまとめる作業を連日している。


手紙すら正しく読めないわたしは、
二人からなにも頼まれてはいない。


本を読んで知識をつけるしか
できることはなかった。


ファウナからはそんなわたしの姿が
退屈しているように見えたのだと思う。


「ゼズ島冒険記はもう読み終わったか?
 新入り。」


「ファウナ。
 あの本を読ませるならまずは、
 エンカーンを理解させた方が良いよ。

 ニクスは大陸語を一つも知らないから。」


と、スーが言った。


「訳本だぞ。島の言葉なんだし、
 エンカーンは知らなくても読めるだろ?」


この島に入ってくる大陸語の書物の
ほとんどはエンカーンが占めている。


エンカーンは大陸の中央に位置する、
エンカー半島で使われる言葉で、
この島で使われている言葉に比較的近い。


ファウナから借りたゼズ島冒険記は、
古い文字や癖のある文章が多かった。


訳本でさえも正しく読み進められずに、
物語は海の上を漂った状態で止まっていた。


「あの本はちょっとは読めたのよ。

 でも文章が難しくて…。」


「ははぁ。
 そっか。なるほどな。

 定型表現を知らないから、
 手紙の選別もできなかったわけか。」


ファウナはお菓子を摘み食いしながら
呟いて納得する。


「仕事を教えるから来なって。」


日陰の庭に二人と猫を置いて、
わたしはファウナと玄関に向かう。


今日はボナの部屋で
手紙を選別する仕事ではない。


「あの二人が精励していると
 気軽に本も読んでられないだろ。」


わたしはファウナの背中に向かって頷く。


イオスもわたしについて歩いてきた。


「今日はエンカーンを知らない新入りでも
 できる仕事だぞ。」


前回の手紙の選別で失敗しているので、
気休めを言われたところで安心はできない。


「どうかな…。

 わたしって
 どんな仕事ができると思う?」


「ドレイプになりたいんなら、
 エンカーンの読み書きが
 できなくてもいいんだぞ。」


「ドレイプになりたいなんて
 言ってないわよ。」


前を歩くファウナが頷いた。


「知ってるよ。
 新入りも主体性が無いんだろ。

 自分がなりたい理想の姿を
 想像することもできてない。

 夜の女神になんて
 なれるはずはないからな。」


「…ううん。」


否定を試みたけれど
彼女が指摘した通りわたしには理想がない。


玄関の中に入る扉を開けてファウナは言う。


「新入りだから仕方がないか。」


「ねぇ、ファウナ。
 わたしの名前はニクスよ。」


彼女はいつまで経っても
わたしを新入り呼ばわりする。


「そんなの覚えたって無駄だろ。

 どうせすぐに名前を変えるんだから。」


「名前を変える予定なんて無いわ。

 わたしの名前って
 そんなに変えた方が良いの?」


「女神の名前は母親が与えるもんって
 決まってるからな。

 娼婦が女神を名乗るんなら、
 美の女神や知恵の女神だろ?

 驕った父親か尊大な民族のせいで、
 家名も言えないナルシャのニクス。

 夜の女神を選ぶ理由は驕った身分の
 序列から外れた隠し子だ。

 もしくは慎みのないカヴァの娼婦団か。

 だから首肯しなくてもいいぞ。」


彼女の推測は的確で、言われた通り
わたしは首肯せずに頭の中で感心した。


「その名前に新入りの理念はないだろ?」


「以前スーにも同じこと言われたわ…。」


「うぇ。
 夜の女神に憧れるやつなんて、
 純粋にフランジやってる
 レナタくらいなもんだろ。

 いつまでもこの館の庇護を
 受けるつもりでいるって言うのなら、
 それで良いかもな。」


そこまで言われてわたしは首を横に振る。


「ファウナだって
 認証管理の仕事がしたかった
 わけでもないのよね?」


以前の彼女はわたしやスーに代わって、
わたしみたいに働かない人間を目標にして、
サンサの元で働こうと計画した。


「苦労せずに楽がしたいっていう
 私の理念は変わってないぞ。

 新入りと仕事を交代して
 私は気付いたんだよ。

 苦労は怠惰の結果だってな。

 苦労をせずに楽をするには
 いまの内に精励して、
 もっと多く勉強をすべきだってな。」


「え?」


ファウナの口から精励という言葉が出て
耳を疑ってしまった。


「大陸語の語源や諺なんかは、
 読んで調べて覚えてしまえば
 他の仕事より楽ができる。

 勉強して認証管理に就けば
 客の相手をせずに済むだろ?

 そして私くらい優秀な補佐を育てて
 そいつに仕事を回せば、
 結果的に私が楽ができるからな。」


「迂遠な計画に聞こえる…。」


仕事を楽する目的を持って、
仕事に対して意気込みを見せるファウナ。


――これも『館を売って金貨を集める。』
  って言うのかしら…?


相反する彼女の計画は、
この言葉に通じるところがあった。


「ほい、新入りはこれを持ってな。」


彼女から玄関の中で渡された銀の鍵は、
わたしが持つ青銅の鍵とは違う。


手に持つ部分に蝶の装飾があり、
翅には小粒な赤い宝石が埋め込まれている。


「秘密を保管する照合室の鍵は、
 自他の秘密を誰にも明かさない者だけが
 持つことを許される。」


ファウナも同じ鍵を持って見せる。


言った彼女は自分の出自を平気で明かす。


玄関の中の西側には
照合室という名前の部屋がある。


わたしが館に来た日に会った彼女は、
手紙を抱えてこの部屋から出てきた。


「お客さんが手紙を入れる場所?」


「手紙はそんな粗雑で
 怠け者みたいな管理はしないぞ。

 サンサやスーなら
 するかもしれないけどな。

 これ言わなかったら
 新入りもする気だったのか?」


手紙を送った経験は無いので
首肯はできない。


「客の手紙は『夜のお誘い』なわけだ。

 内容は二人だけの
 秘め事しか書かれてないし、
 使用人からの手渡しだぞ。」


ファウナから指摘された通り、
夜の館の塀に向かって手紙を投げ入れる
無責任な姿は想像できない。


――もっと考えないと…。


「この部屋は招待札の保管をするのと、
 後で受け取った手紙を置くだけだな。

 火の扱いには注意しろよ。」


帯紐に結んだその鍵で扉を開けると、
彼女は手にしていたランタンを
棚に置いて金具で固定する。


「配達業者から、まとめて
 届けられる手紙なんてもんは、
 そのままゴミにしてもいいけどな。」


「ゴミ…。わたしに読ませたやつ?」


彼女は目を細めて頷いた。



 ◆



わたし達は照合室を出て鍵をかけた。


玄関から外へ出ると、使用人らしき男女が
朝から列を作って待っている。


騎士のハーフガンが近くに立ち、
剣を佩いた護衛達が周囲を警戒している。


列の先頭に立つ中年の使用人は、
ファウナになにも言わず
布に包んだ札を提示した。


「使用人達は私に『招待札』を見せて、
 雇い主を夜の館に入れるのがお仕事。

 これからやる仕事は、
 この招待札がドレイプが送った
 本物か確認する作業だ。」


――本物?


「なにかと比べるのよね。」


「だから照合室だな。」


招待札と呼ばれた細長い板切れには
花と鳥が彫られて色付けしてあり、
ニスで表面の保護もされて艶がある。


――黄色の花と、赤い羽の鳥。


「新入りはあの部屋の棚から、
 これと同じ札を探して持って来い。

 さぁ、急げよ。

 客もドレイプもフランジも
 みんな待ってるからな。」


「えっ! うん。分かった…。」


すぐに玄関の中に戻り、
扉の鍵を使って照合室に入った。


並んだ棚には番号が記され、
引き出しを見ると
中には似た招待札が詰まっている。


「痛っ!」


わたしの背中から
棚へと跳び移ったイオスが、
ビャオォと誇らしげに鳴く。


「背中が痛いからやめてね。」


掠れた声で弱く返事をするイオス。


順番に棚を引き出して見ても、
手にした札とはどれも違う絵柄の札。


この部屋には何百枚も札が収納されていた。


「違う。これも違う。
 黄色の花、黄色の花と赤の鳥。

 あった! セセラの棚?
 あ、同じ札ばかりある! …どれぇ?」


9番部屋のセセラの棚の位置は
ドレイプ棟の部屋の配置と同じで、
照合室の奥側にあった。


黄色の花と赤い羽の鳥が彫られた札は、
棚の中にまだ何十枚もある。


それも同じ組み合わせの絵札ばかり。


「正解はこれだな。

 他は違うだろ?」


焦っていたわたしの後ろから、
ファウナが手前の札を1枚取った。


最初に見た黄色の花と、赤い羽の鳥。


彼女の手にした札も他の札と同じに見える。


「うん? でも他も一緒に見えるわ。」


「縁の模様の中に、
 数字が入ってるだろ。」


「あっ、これ…? 本当ね…。
 127?」


細長い招待札の縁。


絵の枠に描かれた細かな曲線(アーチ)の中には、
等間隔に彫られた直線が見える。


「2進法は知ってたか。
 長い線が1で短い線が0な。」


「127の0は先頭だけだね。」


「今日の予約日だから、
 この形を覚えておけばいいわけだ。

 分かったか?」


首を縦に振ったわたしに
ファウナは腕を組んで顎を突き出すと、
見下ろしながら鼻で笑った。


彼女の所作は不慣れで
まだ大人の真似事に見え、
威厳を感じさせないけれど
それが奇妙な安心感を与える。


「ドレイプになったばかりのセセラも
 予約客が多いから、札を持ってきたら
 私も一緒に確認しとこう。」


「この絵柄は部屋を示してるのね。」


「部屋主の好みで彫られる柄だな。
 覚えておくと楽だぞ。

 棚を予め全部開けとけば
 覚える必要もなくなる。」


「それはなんだか杜撰だわ。」


「利便性と引き換えに引き出しの重さで、
 また棚が倒れるぞ。」


――また…。


「経験済みなんだね…。

 最初から1枚だけ
 立て掛けておけばいいのに。」


「絵は覚えれば済む話だろ。

 棚の入れ替わりは多いし、
 ドレイプの注文で札の絵柄もよく変わる。

 仕事を効率的にやるのは大歓迎だから、
 新入りが考えて好きにやったらいい。

 最終的にボナが責任を負うんだしな。」


「それを言われるとやり難いわ。」


ファウナが鼻で笑う。


「最近は暑いしメノーは休みで
 いまの時期は少ない方だとさ。

 レデやジールは人気だから、
 予約の札が多くて確認が大変なんだよ。

 それとここだけの話だけど、
 レデとジールは近いうちに
 婚姻で辞めるらしいぞ。

 招待札を探すのも楽になるな。」


「ねぇ。『流言は好まず』でしょ?」


それが館の決まりと、
教えてくれたのは彼女自身だった。


「客相手に話したり
 ドレイプが言ってるんでもないしな。

 私が新入りに言ったって
 評価が変わるもんでもないだろ?

 館の決まりなんて言ってるが、
 厳密に取り締まる人間が居ないんだよ。」


「別室送りの上に折檻とか?

 ファウナはされたことないの?」


館に連れて来られたばかりのわたしに、
スーはそんなことを言って否定していた。


「ないなぁ。
 誰かがされたなんて話は
 聞いたこともない。

 そもそも別室ってどこよ。」


「知らない…。」


「だろ?
 んでもいま話したことは内緒な。

 私を巻き添えにするなよ。」


わたしの帯紐に付けた
青銅と銀の二つの鍵が、
接触して音が鳴る。


その音が気になるのか、
イオスが棚の上でわたしに前足を伸ばす。


「イオス、遊ばないで。」


こうして呼ぶと鳴いて返事をし、
わたしの胸元に跳びついて甘えはじめた。


イオスに踏まれた太腿が赤くなっている。


爪も当たって腫れてきて痛い。


「暴れ放題だった子猫のイオスが
 利口になって別の猫になってないか?

 芸でも仕込んだのか?」


「ううん? 利口?

 普段からこんな感じよ?」


「目を離したら急に大人になった感じだ。

 猫は成長が早いからだなぁ。」


今日も本を読むわたしに遊びを求め、
テーブルの上でお腹を見せて寝ていた。


よく食べ、よく遊び、よく寝ている。


「生き物って不思議ね。」


「賢くなったもんだ。偉いぞイオス。」


ファウナはまた声音を高くして呼ぶと、
イオスはビャオと賢いつもりで返事をした。


「ねえファウナ。
 お客さんまだぁ?」


フランジのテミニンが
照合室に顔を出して仕事を急かす。


「いま新入りの教育してんだよ。」


「ニクスが認証管理の補佐をやるんだ。

 あんなにやらせないって言ってたのに。」


「私が仕事を楽する為なら
 新入りにやらせる――、
 教育するに決まってるだろ。」


「欲が透けてるわよ。」


「説明はこんなぐらいだ。
 さっさと朝の客を処理しよう。

 遅れたら昼食抜きだぞ。」


「責任は責任者のものだから、
 仕事で遅れたファウナの代わりに
 わたしが食べておくわね。」


「欲が透けてるぞ。」


「早くしてよぉ。」


こうしてわたしはファウナの指示の下で、
招待札を探す作業を手伝うことになった。



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