「あははっ、ニクスが、
急におかしな呼び方するからっ。」
スーが書字板をお腹に抱えて笑う。
わたしがサンサをお嬢様扱いしただけで、
不本意なことに周囲を笑わせてしまった。
「あなた、いつからわたしの
使用人になったの?」
わたしも、サンサを主人と
認識した覚えはない。
不満に目を細めて、首を横に振る。
「酷い舞台に立たされたものだ。ぶふっ。」
「マルフも勘違いしないでよ。
この子が勝手に言ったのよ。
総督のあなたと違って、
わたしは舞台に立つような
役者ではないのだから。」
「政治をそんな風に言うのは、
アイリアとサンサくらいだぞ。」
マルフが椅子に戻り、
サンサは記号の書かれた札を手にした。
「サンサが傭兵を殺したせいで、
ユヴィルには報復の口実を与えた。
カヴァの軍と繋がりで、
街が攻められる可能性もある。
準備が整い――早ければ、
また冬に攻めてくると議会は噂しておる。
サンサの見解はどうだ?」
カヴァは西にある国で、冬にわたしの国
ネルタへ侵攻をしてきた。
緊張した表情を見せるマルフを前にしても
サンサは理解を示さず、表情を変えない。
「流言は好まないわね。
マルフも分かっているでしょ?
ひとを動かすだけで、
相応の資金が必要になるのよ。
わたしが、あなたの代わりに
エリクに頼んだとしても、
エルテルは動いたりしないわ。
東側の支援が期待できなくても、
西門を閉ざせば済む話よ。」
「降伏せずに凌ぐ…。
それで議会を説得しろと言うのか?」
「今回の件はそこに至らないわね。
西から来るカヴァに攻められて、
困るのは西側のユヴィルだもの。
資金難のカヴァの兵力も限られる。
ここが攻めて得をするのは
どこの誰かしら?
賭けでもしましょうか。」
「政治は札遊びではないぞ。」
札遊びでの賭け事を否定したマルフに、
命運を賭けた勝負を持ちかけたところで
彼が応じる理由はない。
「賭けの内容はこうしましょうか?
冬までにカヴァの侵攻と包囲から、
免れたのであればわたしの勝ち。
負けたマルフには、この館の税を
免除するように動いて貰うわ。」
「侵攻など無いのが理想だ。
いや免税も困る。
わしの勝ちはどこだ?」
サンサの賭けの提案は無理がある。
「マルフは総督の椅子に座って、
構えていればいいわ。
誘いは決して受けずに、ね。」
「つまり?」
「この賭けに勝利する条件は簡単。
総督はなにがあっても
一切関与しないこと。
今回の件でマルフが動けば、
相手を刺激することになるわ。
けれどなにもしなければ、
カヴァから侵攻も包囲も
されないでしょうからね。
マルフがなにもしないことで
この賭けに勝ったのなら、
欲しがっていた劇場の権利を
お譲りするわ。」
「まさか? 本当か?」
驚くマルフに、なぜかスーも頷いている。
劇場の権利と言われた途端、
マルフの堅い決意は揺らぐ。
「これは街の東西を代表する、
娼館同士の些末な喧嘩よ。
それを総督が片方に加担したとなれば、
均衡が崩れるでしょ?」
「しかしだな…。
相手はあのユヴィルだ。
狡猾なやつのことだ…。
こちらは結束を高めるべきだろう。」
マルフの熱心な演説に、
サンサは鼻で息を吐いて傾聴する。
「カヴァに侵攻の口実を
与えてからでは遅いぞ。
それだけは阻止せねばならん。」
スーがまた口を挟んだ。
「戦争に発展するのは望ましくない。
『政治は女の遊び道具ではない。』
今回は無関係のマルフ総督が、
この問題に介入したとなれば、
片側に便宜を図ったと思われます。」
開いた書字板に
手にしたスタイラスを振って、
その木枠を左右交互に軽く叩く。
「両者が共に娼館の人間であれば、
総督が一方に抱き込まれた、
籠絡されたと民衆は考えます。
これでは元老院のみならず、
民衆からの反発は免れません。
誤解を弁解する機会は、
マルフの身分では与えられない。
そんなことになれば、
無関係のアイリアにまで
危害が及びますよ?」
想像の意見でしかないスーの話でも、
傾聴するマルフの、日焼けした顔から
血の気が引いていくのがわかる。
「マルフが動いた場合の話よ。
今回の事件が起きた時刻は夜も浅く
場所は人々の往来な上に、
傭兵達が騒いでくれたから
近隣のひと達にも知れ渡ってる。
放し飼いにされた躾のない獣を、
わたしが処理してあげたのよ。
慰謝料を払うのだから、
感謝の一つはあるべきよね。
ユヴィルも日が経てば落ち着くわよ。」
マルフを諭すサンサは、
わたしの持っていた2枚の札を
全て奪った。
「はい、これでわたしの勝ちね。」
札を手にしたまま
負けたことになったマルフは、
彼女の提案に長く悩む。
「躾のないユヴィルの傭兵が、
フランジを相手に強姦を働いた。
なんて議会で口にしない方がいいわね。」
「事実であってもそんな発言をすれば、
故人を貶める行為になります。」
続くスーの言葉に、
マルフは黙って頷いた。
「侵攻は交渉の最終手段です。
歴史は娼館同士の些末な争いを、
戦争の口実にはしません。
侵略でも侵攻であっても、
どちらも正当性が必要になります。
正当性を主張する交渉も、
互いの利益を尊重できれば、
商売に変えられます。」
「次のあなたの商売相手が、
エルテルからカヴァになるわね。」
サンサが得意気に顎を突き出して言う。
スーは書字板を閉じて、
テーブルの網棚に片付けた。
サンサとマルフも、
テーブルの札を片付けて木箱にしまう。
わたしはスーと、
光沢を放つ赤い布を折り重ねる。
彼女は札を入れた箱と共に、
マルフの前に布を置いた。
札遊びでも負けたマルフは、
なにも言わずに項垂れていた。
彼は太い指で布を優しく撫でて、
細い目で見つめる。
大陸ではこの布を巡って戦争が起きた、
とサンサは言っていた。
――戦争。
わたしの故郷、ネルタと戦ったカヴァが
また攻めてくる…。
『侵攻は交渉の最終手段です。』
スーは言った。
飾緒の糸で織ったシルクの布を受け取れば、
スーの言葉の通り、マルフはこの館に
籠絡されたと誤解を受ける。
総督のマルフがサンサに加担すれば、
都市の東西にあるとされる均衡が崩れる。
天秤は片側に傾ける為の道具ではない。
――彼は気付いているのかしら。
わたしはサンサが提案した賭けに、
マルフが既に負けている点に気付いた。
彼はこの館に来てはいけなかった。
マルフが東西の公平を期すには、
傭兵を殺したサンサの誘いを
無視すべきだった。
手紙に書かれた文面で、
劇場の権利とやらを期待して、
彼はこの館に来てしまった。
『なにもしなければ、マルフの勝ち。』
マルフがこの館に来た時点で、
勝利条件は成立しなくなる。
これでは劇場の権利とやらも手に入らない。
――こんなの勝負になっていないわ…。
――マルフは賭けに負けていて、
カヴァが近い内に攻めてくる?
――それとも彼女は故意に街の均衡を崩し、
戦争を引き起こすことが
狙いなのかしら。
――でも、スーも気付いているはずよね…。
黙って疑念を抱いていると、
黒色の髪の隙間から、冷ややかな
銀に輝く目がわたしを見つめてきた。
サンサが指でわたしを呼び、耳元で告げた。
「あなたはわたしの右の手ではないのよ。」
突き放すその言葉に、
わたしは血の気が引くのを感じた。
▶
急におかしな呼び方するからっ。」
スーが書字板をお腹に抱えて笑う。
わたしがサンサをお嬢様扱いしただけで、
不本意なことに周囲を笑わせてしまった。
「あなた、いつからわたしの
使用人になったの?」
わたしも、サンサを主人と
認識した覚えはない。
不満に目を細めて、首を横に振る。
「酷い舞台に立たされたものだ。ぶふっ。」
「マルフも勘違いしないでよ。
この子が勝手に言ったのよ。
総督のあなたと違って、
わたしは舞台に立つような
役者ではないのだから。」
「政治をそんな風に言うのは、
アイリアとサンサくらいだぞ。」
マルフが椅子に戻り、
サンサは記号の書かれた札を手にした。
「サンサが傭兵を殺したせいで、
ユヴィルには報復の口実を与えた。
カヴァの軍と繋がりで、
街が攻められる可能性もある。
準備が整い――早ければ、
また冬に攻めてくると議会は噂しておる。
サンサの見解はどうだ?」
カヴァは西にある国で、冬にわたしの国
ネルタへ侵攻をしてきた。
緊張した表情を見せるマルフを前にしても
サンサは理解を示さず、表情を変えない。
「流言は好まないわね。
マルフも分かっているでしょ?
ひとを動かすだけで、
相応の資金が必要になるのよ。
わたしが、あなたの代わりに
エリクに頼んだとしても、
エルテルは動いたりしないわ。
東側の支援が期待できなくても、
西門を閉ざせば済む話よ。」
「降伏せずに凌ぐ…。
それで議会を説得しろと言うのか?」
「今回の件はそこに至らないわね。
西から来るカヴァに攻められて、
困るのは西側のユヴィルだもの。
資金難のカヴァの兵力も限られる。
ここが攻めて得をするのは
どこの誰かしら?
賭けでもしましょうか。」
「政治は札遊びではないぞ。」
札遊びでの賭け事を否定したマルフに、
命運を賭けた勝負を持ちかけたところで
彼が応じる理由はない。
「賭けの内容はこうしましょうか?
冬までにカヴァの侵攻と包囲から、
免れたのであればわたしの勝ち。
負けたマルフには、この館の税を
免除するように動いて貰うわ。」
「侵攻など無いのが理想だ。
いや免税も困る。
わしの勝ちはどこだ?」
サンサの賭けの提案は無理がある。
「マルフは総督の椅子に座って、
構えていればいいわ。
誘いは決して受けずに、ね。」
「つまり?」
「この賭けに勝利する条件は簡単。
総督はなにがあっても
一切関与しないこと。
今回の件でマルフが動けば、
相手を刺激することになるわ。
けれどなにもしなければ、
カヴァから侵攻も包囲も
されないでしょうからね。
マルフがなにもしないことで
この賭けに勝ったのなら、
欲しがっていた劇場の権利を
お譲りするわ。」
「まさか? 本当か?」
驚くマルフに、なぜかスーも頷いている。
劇場の権利と言われた途端、
マルフの堅い決意は揺らぐ。
「これは街の東西を代表する、
娼館同士の些末な喧嘩よ。
それを総督が片方に加担したとなれば、
均衡が崩れるでしょ?」
「しかしだな…。
相手はあのユヴィルだ。
狡猾なやつのことだ…。
こちらは結束を高めるべきだろう。」
マルフの熱心な演説に、
サンサは鼻で息を吐いて傾聴する。
「カヴァに侵攻の口実を
与えてからでは遅いぞ。
それだけは阻止せねばならん。」
スーがまた口を挟んだ。
「戦争に発展するのは望ましくない。
『政治は女の遊び道具ではない。』
今回は無関係のマルフ総督が、
この問題に介入したとなれば、
片側に便宜を図ったと思われます。」
開いた書字板に
手にしたスタイラスを振って、
その木枠を左右交互に軽く叩く。
「両者が共に娼館の人間であれば、
総督が一方に抱き込まれた、
籠絡されたと民衆は考えます。
これでは元老院のみならず、
民衆からの反発は免れません。
誤解を弁解する機会は、
マルフの身分では与えられない。
そんなことになれば、
無関係のアイリアにまで
危害が及びますよ?」
想像の意見でしかないスーの話でも、
傾聴するマルフの、日焼けした顔から
血の気が引いていくのがわかる。
「マルフが動いた場合の話よ。
今回の事件が起きた時刻は夜も浅く
場所は人々の往来な上に、
傭兵達が騒いでくれたから
近隣のひと達にも知れ渡ってる。
放し飼いにされた躾のない獣を、
わたしが処理してあげたのよ。
慰謝料を払うのだから、
感謝の一つはあるべきよね。
ユヴィルも日が経てば落ち着くわよ。」
マルフを諭すサンサは、
わたしの持っていた2枚の札を
全て奪った。
「はい、これでわたしの勝ちね。」
札を手にしたまま
負けたことになったマルフは、
彼女の提案に長く悩む。
「躾のないユヴィルの傭兵が、
フランジを相手に強姦を働いた。
なんて議会で口にしない方がいいわね。」
「事実であってもそんな発言をすれば、
故人を貶める行為になります。」
続くスーの言葉に、
マルフは黙って頷いた。
「侵攻は交渉の最終手段です。
歴史は娼館同士の些末な争いを、
戦争の口実にはしません。
侵略でも侵攻であっても、
どちらも正当性が必要になります。
正当性を主張する交渉も、
互いの利益を尊重できれば、
商売に変えられます。」
「次のあなたの商売相手が、
エルテルからカヴァになるわね。」
サンサが得意気に顎を突き出して言う。
スーは書字板を閉じて、
テーブルの網棚に片付けた。
サンサとマルフも、
テーブルの札を片付けて木箱にしまう。
わたしはスーと、
光沢を放つ赤い布を折り重ねる。
彼女は札を入れた箱と共に、
マルフの前に布を置いた。
札遊びでも負けたマルフは、
なにも言わずに項垂れていた。
彼は太い指で布を優しく撫でて、
細い目で見つめる。
大陸ではこの布を巡って戦争が起きた、
とサンサは言っていた。
――戦争。
わたしの故郷、ネルタと戦ったカヴァが
また攻めてくる…。
『侵攻は交渉の最終手段です。』
スーは言った。
飾緒の糸で織ったシルクの布を受け取れば、
スーの言葉の通り、マルフはこの館に
籠絡されたと誤解を受ける。
総督のマルフがサンサに加担すれば、
都市の東西にあるとされる均衡が崩れる。
天秤は片側に傾ける為の道具ではない。
――彼は気付いているのかしら。
わたしはサンサが提案した賭けに、
マルフが既に負けている点に気付いた。
彼はこの館に来てはいけなかった。
マルフが東西の公平を期すには、
傭兵を殺したサンサの誘いを
無視すべきだった。
手紙に書かれた文面で、
劇場の権利とやらを期待して、
彼はこの館に来てしまった。
『なにもしなければ、マルフの勝ち。』
マルフがこの館に来た時点で、
勝利条件は成立しなくなる。
これでは劇場の権利とやらも手に入らない。
――こんなの勝負になっていないわ…。
――マルフは賭けに負けていて、
カヴァが近い内に攻めてくる?
――それとも彼女は故意に街の均衡を崩し、
戦争を引き起こすことが
狙いなのかしら。
――でも、スーも気付いているはずよね…。
黙って疑念を抱いていると、
黒色の髪の隙間から、冷ややかな
銀に輝く目がわたしを見つめてきた。
サンサが指でわたしを呼び、耳元で告げた。
「あなたはわたしの右の手ではないのよ。」
突き放すその言葉に、
わたしは血の気が引くのを感じた。
▶
