高校1年生。初恋グミは優しい味でした。

できるだけ早足をしたけれど、結局コンビニから学校まで20分かかってしまった。地元にはないような大きな校舎に圧倒される。太陽に灼かれているのも忘れて、しばらく立ち尽くした。麦茶のペットボトルの汗が手を濡らしてきて、我に返った。お母さんにLIMEをする。校舎の中に入って、土足のままでいいことになんとなく気持ち悪さを持つ。職員室がどこか分からなくて、廊下の真ん中に立ってキョロキョロした。授業が始まっているのだろう。どこか遠くから騒がしい声が聞こえては来るが、廊下は誰も通らない。右に進むか、左に進むか。横断歩道で、信号が青になった小学1年生のように真剣に見渡し、右、と決めてつま先を出す。そろ、そろ、と一歩ずつ。

その時、社会科準備室、と札のついた教室の扉が、ガラガラ、と力なく開いた。ピタ、と僕は止まる。

「もう授業始まってるぞー。なんだよ? 1年生? 遅刻か? 」

ワイシャツをサッと着こなした、細身の20代後半くらいの男性は、僕を見下げるなりイタズラを見つけたみたいに笑った。ネクタイはしていない。たぶん、先生だと思うけれど。大人の男性だと思うと、痴漢のことを思い出してしまって怖くなる。ちがう人だよ、と何度も言い聞かせた。

「あ、あの、僕……」

回れ口、と頭の中で唱える。

「あ! もしかして日下葵(くさかあおい)か? 」

大人なのに僕たちと変わらないみたいな笑顔をされて、恐怖は削がれた。

「はい」

自分で言う前に、当てられてしまった。助かったと思う気持ちと、情けないな、と思う気持ちが半分ずつくらい。

「待ってたぞ。担任の佐合(さごう)です。迷ったんだって? 東京の荒波にさっそく揉まれたか? 」

責められている雰囲気はなくて、ほっと息をつく。厳しそうな先生じゃなくてよかった。

「はい。いろんな人がいて。遅れてごめんなさい」

「明日はもっと早く出てこいよ〜。今からじゃ中途半端だから、次の10分休憩に行こうか」

「はい……」

緊張して、硬いローファーの先を見た。

「大丈夫! 朝のホームルームで、転校生は迷って遅刻だって言っておいたから! 」

出会う前から恥をさらして? と思うが、遅刻は明確なので何も言えない。

「はい……」

社会科準備室に入れてもらった。教室と言うよりは、資料だらけの小さな部屋だった。

「緊張しなくても大丈夫だ。バカばっかりだけど、みんなイイヤツだから」

時間になるまで、佐合先生は学校やクラスメイトのことを話してくれた。面白おかしく話してくれるから、ケタケタと笑うことができた。

時間だぞ、と言われて、佐合先生の後ろについて社会科準備室を出る。教室へと続く廊下は、一歩進むごとに常夜灯が、非常灯までもが消されていくような気がした。まるで肝試しに、独りぼっちで挑むような心細さ。

1年1組。その札のついた教室の扉を、佐合先生は躊躇なく開けた。

「おい、お前ら聞け〜」

佐合先生はズカズカと教室に入った。

「先生! なんだよ、休み時間だろー? 生徒たち(俺たち)のフィーバータイムだぞ! 」

気軽な口を聞く坊主頭の生徒がひとり。そうだぞー! と周りの男子生徒たちがノッたから、彼がこのクラスのムードメーカーかな。

「ちげぇよ、前野。先生たち(俺たち)の準備時間だよ。転校生を紹介するから歓迎しろ! 日下、入れ〜」

佐合先生はクラスの生徒たちに背中を向けた。左手で僕を手招きして、右手は白いチョークを黒板に走らせる。『日下葵』(くさかあおい)と、教師らしいキレイな字で名前を書いてくれた。

僕はすうっと深呼吸をして、佐合先生が歩いたラインを決して踏み外さないように、慎重になぞった。

佐合先生は、コン、とチョークで軽く教卓を叩くと、みんなに向き直った。

「転校生の日下葵くんだ! 田舎から出てきたばっかりだ。みんなで東京のことを教えてやれ! ほら日下、自己紹介しろ! 」

トン、と背中を叩かれて前に出された。35人分の瞳はいっせいに僕を見てきて、うっと喉が詰まる。

「あ、あの、くさきゃっ! 」

どうしよう噛んだ、と顔が赤くなるのがわかった。失敗した、失敗した、と頭が支配されてしまう。坊主の彼が明るく、「ドンマイ! 」と言うと、わっと教室が爆笑で弾けた。温かさに、少しだけ平穏を取り戻す。

「日下葵です。……よろしくお願いします」

自己紹介の文はたくさん考えてきたのに言えなくて、ペコリ、と折目正しく頭を下げた。パチパチ、と拍手をもらえて、心にジワっと沁みた。

「じゃあ日下の席はあの空いてるところ。飛田(とびた)の隣な」

指さしされた先の席に、僕はガタガタと腰掛けた。廊下側から2列目の、いちばん後ろの席。

隣の席の、廊下側の列の1番後ろに座る飛田くんは、座っていても背が高いのがわかる。耳の見える黒々とした短髪に、適度に日焼けした肌。高い鼻に、キリッとツリ目がちな奥二重で、全体的に男らしい雰囲気だ。机にはテキスト。そこに肘をついて、静かに黒板を見つめている意志の強そうな瞳は大人っぽく、3年生だと言われても信じたと思う。そしてまったくこちらを見てくれず、少し寂しい気持ちになった。

「あ。そうだ、忘れてたんだけどさ、今日の放課後美化委員の清掃あるんだって。飛田、よろしく」

佐合先生の顔には、今思い出した、とそのまま書いてあった。

「え。そんな急に困ります」

隣の飛田くんがしゃべった! 大人みたいな低い声で。まったくしゃべらなさそう、と勝手なことを考えていたので、びっくりして見つめてしまった。

視線に気づいたのか、飛田くんはふいっと壁を向いてしまった。な、なんで? 見たから怒った?

佐合先生は苦笑して続けた。

「ごめんごめん。あ、しかも今日のはふたり出せって言われてたんだった。ほか誰か掃除したいヤツいるかー? 」

しーん……と、騒がしさは嘘のように静まり返った。

「いるわけねーだろ」

坊主くんが言う。

佐合先生はクラス全員の顔を見渡すようにすると、軽くため息をついた。

「まったく、お前らは。よし、じゃあ俺の権力で遅刻なしにしてやるから、日下、飛田と掃除してきて」

「え! 僕? 」

突然の指名に、肩はビクッと跳ねた。

「そう。日下だよ。よろしくな」

34人プラス先生の瞳に見られて、抗えるわけがなかった。飛田くんだけ、見ていない気がする。どうやら初対面なのに嫌われているらしいこの人と掃除なんて今から気が重い。

「はい……」

「じゃあよろしくな〜」

佐合先生が出ていった瞬間に、2時間目開始のチャイムが鳴り、ほかの先生らしき人が入ってきた。

「10分休み返せー! 」

叫ぶクラスメイトたち。

僕は飛田くんに声をかける機会を失ってしまった。