高校1年生。初恋グミは優しい味でした。


①転校初日の居残り掃除から

昨日まで8月だった東京の夏の陽射しは厳しくて、柔らかい色のカーテンでは頼りなかったのか、窓から容赦なく突き刺してきている。引っ越してきたばかりのお父さんの会社の社宅、この辺りでは普通のマンションらしい玄関の扉に僕は手をかけて、ぎゅ、と両手の拳を握り込んだ。

「いってきます」

見送りに来てくれたお母さんに宣言をする。うまく笑えているかな。

(あおい)、ネクタイが」

エプロンをつけたままのお母さんは、新しくなった制服のネクタイを丁寧に正してくれた。頑張ってね、と口では言わないところがお母さんらしい。地元の田舎では高齢と言われてきたお父さんとお母さんは、東京でも高齢だと言われてしまうのだろうか。

ブレザーとネクタイは着慣れない。引っ越してくる夏休み前まで、学ランだったから。

「これで大丈夫。いってらっしゃい」

心配を隠さないお母さんに、うん、と僕は強く頷いた。心配しないで、頑張るから。

まだ馴染んでいない金属のノブを回した。新しい外の世界へ一歩を踏み出す。初めて履くローファーの革が硬くて、親指の爪に当たって痛い。早く馴染みますように。

下に降りたら、コンクリートの暑さにびっくりした。ゆらゆらと陽炎が立ち昇ってきそうだ。窓から手を振ってくれているお母さんに、小さく手を振り返す。横からやってきたサラリーマンにぶつかりそうになって慌てて謝る。近所の人かな。

「すみません」

サラリーマンは、もう僕のことを見てもいなかった。足早に背中を向けられている。切り替えの早さにあんぐりと口が開く。地元だったら立ち話でも始まっているところだ。

気づいたら、どこを見ても人だらけだ。

「葵! 早く行きな! 初日から遅刻するよ! 」

頭上からお母さんの少ししゃがれた声が降ってきた。慌ててスマホで時刻を確認して、駆け出した。

そうだ。僕は頑張るんだ! 

ド田舎の高校に通っていた高校1年生の僕は、お父さんの仕事の都合で、夏休み明けから東京の男子校へ編入することが、中学校卒業時には決まっていた。中学校と言ったけれど、正しく言うと義務教育学校。子どもの数が少なすぎて、小学校と中学校を合体させた学校のことだ。全校生徒13人。基本的に各学年の児童生徒は1人ずつ。僕も学年でたった1人だった。だから子どもたちはみんな友達で、バス通学。学校の子の中で、1番近所の子の家まで5kmくらい。近所のスーパーまでもそのくらい。コンビニも自販機もない。

夏休み前まで通わせてもらった高校は、通学がとにかく大変だった。家から最寄りのバス停までお父さんに車で送ってもらって20分。次に高速バスで1時間30分。最後に自転車で学校まで15分。合計約2時間。各学年1クラスずつ、1学年40人の高校だった。

9学年分13人で過ごしてきた僕には人が多すぎて、転校が決まっていたのもあって、前の高校では友達をつくれなかった。喋れる子はいたけれど、授業のペアを決まって組む子はいなくて、放課後遊べる子なんてまぼろし。

だから東京の高校では友達をつくるんだ!

僕は人でごった返した東京の街をスイスイ……などできる訳もなく、ぶつかって謝ってを繰り返しながら、どうにか歩いた。なんでみんな当たらずに歩けるの?! 忍者の末裔かなにか?! のんびり屋、ぼーっとしている、と言われたこともあった。そうかな? と思っていたけれど、みんなの言っていたことは本当だった。自己紹介で言おうかな。

家から新しい高校まで徒歩のみで20分。2時間の通学をこなしてきた僕にとっては信じられないほど短く、正直道のりの心配なんて何もしていなかった。だけれど、既に家を出てから20分。人にぶつかりまくってしまったからだ。高校までの道のりは、たぶんあと半分くらい。ホームルームの開始まであと10分。走らないと間に合わない。けれど、コンクリートの猛暑と、無限に沸き立つような気がする人々。もうフラフラだった。目の前に現れたピカピカのコンビニが眩しい。これが噂の! 人が出入りする度に流れてくる冷気に抗えなくて、誘われるように入ってしまった。

「うわ! 涼しい〜」

思わず、キンキンに冷えたむぎ茶とスイカを見つけた時みたいな、大きなひとり言が漏れてしまい、ハッと口を抑えた。チラチラと知らない大人たちに見られた。恥ずかしい。

赤くなった顔をパタパタと扇ぐ。初めて入ったけれど、コンビニってステキなところだ。ずっと居たくなってしまう。でも遅刻しそうだし、少しだけ走る気力をチャージしよう、と中を物色する。どんなものが売っているんだろう?

誰もいない、生活雑貨のコーナーに入る。パンツまで売ってるんだ?! とコンビニの万能さに驚いていると、後ろからスーツ姿のおじさんが入ってきた。ぽちゃっとしたお腹をスーツのベルトの上でぷるぷるさせて、太陽をテラテラと反射させそうな頭をした、お父さんと同じくらいの歳そうな。どんどん近づいてくるから、パンツ買うのかな、とどこうとすると、僕のお尻に、おじさんの肉厚な手がサッと当たった。

「ごめんなさい」

邪魔だったかな、と謝る。でもおじさんは後ろをピタッとつけてきて、サササッと、でも何度も、僕のお尻を撫でつけてきた。

嘘でしょ。ゾゾゾーっと背中から鳥肌が走って、僕は硬直してしまった。……これって、もしかして痴漢? 僕、男なのに? 逃げなくちゃ、それか叫ばなくちゃ、と思うのに、怖くてなにもできなくなる。

「君……嫌がらないね? 素直で可愛い子だ。最近の女子高生は生意気な子が多いからね。君くらい男に従順な子がね、モテるんだよね」

おじさんは、荒く息巻いていた。

女の子じゃないです! と心は叫ぶけれど、縫い付けられたみたいに口は動かない。都会の学校では、女の子もスラックスを選べると聞く。僕が160cmしかなくて、小柄だから? 色白だって言われるから? だから女の子に間違えられたの? 僕のせい?

お願い、誰か助けて。でもこのコーナーはレジからちょうど死角らしく店員さんは気づかない。外からも見えない位置で、みんな忙しそうにコンビニを出入りするから、誰も気づいてくれそうにない。

やめてって、やめてって言わなくちゃ。でも、首締められたりしたらどうしよう。力では敵いそうにない。焦りと気持ち悪さで、冷や汗が顔を伝った。

その時、ブーッブーッと、ブレザーのポケットに差しているスマホが振動した。僕のだ!

おじさんの手が離れて固まっているのを見て、急いでスマホを抜き取る。『お母さん』と表示された着信画面を見て、縋るように電話をとった。

「お母さん! 」

心臓が口から飛び出すような大声が出た。おじさんは青い顔をして、コンビニを飛び出して行った。よかった、とほっとしてその場に座り込んでしまった。

「大きな声ねぇ。学校からまだ来ないって電話があったけど、どうしたの? 迷った? 」

ハッとして時間を確認すると、ホームルームの時間を10分も過ぎていた。初日から遅刻、とヘコむけれど、今はおじさんを撃退できた安心感の方が強い。

「あ、うん」

嘘をつくのは苦手だ。でも、痴漢されたことをお母さんに言いたくない気持ちが勝った。男なのに痴漢されたなんて惨めだ。僕がもっと男らしい見た目だったらきっとされなかった。打ち明けて心配をかけたくない気持ちもあるし。

「まったく葵は。だからもっと早く出なって言ったのに。ま、初日だから仕方ないね。道はわかるの? 」

お母さんの呆れ声に安心して、うん、と返事をする。泣きそうになって、必死にこらえた。怖かった、と誰かに言いたい。

「じゃあ気をつけて行きな。学校にはお母さんから電話しておくから。学校ついたらLIMEちょうだい」

「ありがとう」

お礼を言って電話を切ると、足が笑っていた。行かなくちゃ、と足を軽く叩いた。

「だいじょうぶですか? 」

レジからやってきた外国人女性の店員さんが、声をかけてくれた。

「……大丈夫です! 」

異国の地に来て一生懸命働いて、頑張っている人がいる。しかも僕に優しくしてくれた。そう思うと勇気が出てきて、スっと立ち上がることができた。もう少し元気をもらうために、冷蔵コーナーで目をつけていた、キンキンに冷えたペットボトルの麦茶を買って、僕は今度こそ高校へ向かった。