夏の終わりに唄う歌

 ゆさゆさと誰かに揺さぶられて、目を覚ます。

「起きろ、優馬」

 低くてやわらかい声が、耳に心地いい。
 航大の夢を見ているのだろうか。
 だとしたら、このまま目覚めたくない。

 シーツに頬をすり寄せたところで、再び強く揺さぶられた。

「起きろ。ラジオ体操に行くぞ」
「……は?」

 寝ぼけた頭では、うまく理解できなかった。

「区長さんに、廃校の鍵を借りるんだろ。ラジオ体操に持って来てくれると言っていたじゃないか」

「ん……ぁー……」

 廃校の鍵。
 そうだ。
 ばあちゃんの葬儀で、久々に水守に来たんだった。

「眠い。航大、取りに行ってくんない……?」

 シーツにしがみついたまま答えると、勢いよく取り上げられた。
「ふざけるな。お前が撮影したいって言い出したんだろ……!」

「ひぁっ……!」
 ベッドの上でごろんと仰向けになった瞬間、航大の怒声が飛んできた。

「なんてはしたない格好しとるんだ! 貴様は……!」
「ほぁ……?」

 渋々まぶたを開く。
 カーテンはすでに開け放たれていて、眩い朝の光が目に突き刺さる。

「い、いいからさっさと浴衣を着直せ……!」

 自分の姿を見下ろしてみる。
 帯はかろうじて留まっているものの、胸元は大きくはだけ、裾もひどいことになっている。

「うわぁあああ……!」

 そうだ。
 パンツを履いていないんだった。

 慌てて浴衣の前を合わせた瞬間、ぽたり、と何かが床に落ちた。
 
 赤い。
 血だ。

「航大……?」
「見るな」
「また出血!? お前、やっぱり呪われてるんじゃ……」
「呪われてなんかない!」

 鼻を押さえたまま、航大が真っ赤になって言い返す。

「じゃあ、どっか悪いんじゃね……? じいちゃんに診てもらったほうが……」
「病気じゃない。原因もわかってる。絶対に、じいさんには言うな!」

 航大は俺にシーツを投げつけると、「さっさと着替えろ! 遅刻する」と言って、部屋を出ていってしまった。

**

 慌ただしく着替えを済ませ、航大に急かされるまま屋敷を出た。

 朝の水守は、東京の朝とはまるで違っていた。
 空気が少しひんやりしていて、山の匂いが清々しい。
 夜には不気味に見えた木々も、朝日に照らされると瑞々しく見えた。

 屋敷からほど近い旧小学校の校庭には、すでに何人もの人が集まっていた。
 ほとんどがお年寄りで、ほんの数名、小学生くらいの子どもが眠たそうな顔で立っている。
 お年寄りたちは、航大に気づくと、我先にと集まってきた。

「若先生、麻子さん、急だったで大変だねぇ……」
「正大さん、今日はどうしとる?」

 若先生。
 まだ医学部にも入っていないのに。
 この集落の人たちは、航大が神崎家の跡を継ぎ、医者になることを、誰ひとり疑っていないらしい。

 航大は背筋を伸ばし、ひとりひとりに律儀に頭を下げる。

「ご心配をおかけしました。祖父も、もう起きて読経していました。職場にも顔を出すつもりのようです」
「あの人は気丈だで、無理するんじゃないかって心配でねぇ」

 おばあさんの一人が、俺の方を見る。
「そちらは、夕子さんとこの子かね?」
「あ、はい。佐伯夕子の息子、優馬です」
 慌てて姿勢を正す。

「まぁまぁ、大きくなって。昔は航大くんと翔太くんと、三人でよう走り回っとったよねぇ」
 翔太の名前が出た瞬間、航大の横顔がわずかに強張った。
 俺も、うまく笑えなかった。

 おばあさんは、しまった、というように口元を押さえる。

「ごめんねぇ。年寄りは、つい昔の話ばっかり」
「いえ……」
 何と答えていいかわからず、俺は曖昧に首を振った。

 ラジオ体操の音楽が流れ始めるまでの間、老人たちは次々と航大に声をかけてきた。

「神崎さんとこの病院があるで、うちらは本当に助かっとるよ」
「送迎バスがあるのが命綱だで。車に乗れん年寄りには、本当にありがたいわ」
「若先生が継いでくれれば安心だねぇ」

 航大は否定も肯定もせず、ただ静かに頭を下げている。

 いつの間にか人の輪から弾き出された俺は、改めて思い知らされた。

 航大は、ただの高校生じゃない。

 この集落の人たちにとって、神崎家の跡取りで、未来の医者で、安心して暮らすための頼みの綱なのだ。

 その重さを、航大はこれから背負って生きていく。

 そう思った瞬間、朝の冷えた空気が、胸の奥まで入り込んできた。

 しばらくすると、早起きな蝉たちの合唱をかき消すように、聞き慣れた前奏が流れ始める。

「やっと始まるな」

 航大の顔から、すっと作り物の笑顔が消える。
 見慣れたその表情に、なぜか無性に目頭が熱くなった。

 ラジオ体操の動きなんて、どう考えたって滑稽なのに。
 青空の下、のびのびと長い手足を伸ばす航大の姿は、腹立たしいくらいかっこよく見えた。