屋敷の二階にある、航大の父親の部屋。
神崎家の長男の部屋だけあって、他の個室と比べてもかなり広い。
透おじさんの部屋の、倍以上はありそうだ。
室内には、伯父さんが昔使っていたと思しき古い机や本棚と、航大のものらしい真新しい参考書やスタンドライト、ノートパソコンが入り混じっている。
置きシャンプーまであるくらいだし、航大は長期休み以外にも、頻繁にこの屋敷に足を運んでいるのだろう。
「あれ」
「何だ」
「ベッド、こんなもんだっけ……」
記憶の中のベッドは、もっとずっと大きかった。
三人で転がっても、まだ余裕があって、秘密基地みたいに広かった。
けれど、今目の前にあるベッドは、たしかに普通よりは大きいけれど、今の俺たち二人で寝るには、少し心もとない。
「もっとおっきかったような……」
「ガキだったから、大きく見えただけだろ」
航大が呆れた顔をする。
「どうする? 布団、運ぶか?」
「いや……いい。もう遅いし。俺、端っこで寝るから」
そう言って、俺はベッドの端に腰を下ろした。
すぐに、航大が眉をひそめる。
「お前は奥だろ」
「何で」
「寝相が致命的に悪い。そんな端に寝たら、絶対に転げ落ちる」
「致命的って何だよ」
「事実だ」
「昔の話だろ」
「あの寝相の悪さが、たった数年で改善するとは思えない」
「失礼なやつだな、お前は」
反論も虚しく、結局、俺はベッドの奥へ追いやられた。
壁側。
逃げ場のない場所。
そのことに気づいた瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。
怖い。
でも、安心する。
俺は浴衣の裾を押さえ、壁際に身を寄せた。
パンツなんか履いてなくたって、なんともないと思ったけれど。
浴衣の裾は心許なくて、なんだか落ち着かない気持ちになる。
すぐ隣に航大が腰を下ろしただけで、狭いベッドが、さらに狭くなった気がした。
「……狭くない?」
「今さら言うな」
「いや、思ってた以上に狭いっていうか……」
「だから布団を運ぶか、と聞いただろう」
「今から取りに行くの、怖い」
「――俺が行ってくる」
「一人にするなよ! 怖いだろ!?」
「……ガキか、貴様は。もういい、寝るぞ」
航大は呆れたようにため息を吐くと、部屋の明かりを消した。
「わ、全部消すなよ! 玉、点けろ。玉。真っ暗はダメだって……!」
「常夜灯のことか?」
「そう、それ。真っ暗にならないやつ」
「ったく……。これでいいだろ」
面倒くさそうに、航大はリモコンを操作して、常夜灯を点けた。
常夜灯の淡い橙色が、部屋の中をぼんやり照らす。
けれど、明かりがあるからといって、怖くなくなるわけじゃなかった。
むしろ、暗がりに沈んだ本棚の隙間や、古い机の下の影が、先刻より妙に目につく。
白く曇った鏡に浮かんだ文字。
湯船の底から聞こえた歌。
小さな足跡。
忘れようとすればするほど、全部がまた、頭の中で濡れたみたいにリアルに蘇ってくる。
航大が、俺に背を向けるようにして、ベッドに横たわる。
背中が触れてしまわないように、壁際に寄ろうとして、だけど——触れていたい欲求に抗えず、身じろぎすることができない。
背中越しに伝わってくる、航大の温もり。
規則正しい呼吸に合わせて、航大の背中がかすかに動いている。
そんな些細なことにさえも、心臓が、壊れそうなくらい暴れてしまう。
「……航大」
「何だ」
「寝た?」
「今電気消したばかりだろ」
「うん……」
「……怖いのか」
馬鹿にするような声ではなかった。
だから余計に、喉の奥が詰まった。
「怖い」
小さく答えると、隣で航大が息を呑む気配がした。
「笑うなよ」
「——笑わない」
「高三にもなって、情けないって思ってるだろ」
「思ってない」
即答だった。
その声があまりにまっすぐで、胸が苦しくなる。
「……俺は、今も忘れられないんだ。あのとき、翔太のことを信じてやっていたら——あんなことにはならなかったかもしれない」
いつになく、強い声だった。
かすかに震えているかのような、切実な声音。
「二度と、失いたくないんだ。——お前を、失いたくない」
航大の背中が、呼吸とは違うリズムで、小刻みに震えた。
翔太を失ったことは、俺にとっても、とてつもなく大きな悲しみだった。
だけど航大が抱えている悲しみは、俺のそれとは比べものにならないほど、深くて重い。
弟を、母親を、祖母を。
航大は、近しい人を、失い続けている。
「俺は——消えない。航大が会いたいって思ってくれる間は、どれだけだって、会いにくる」
従兄弟の絆なんて、祖父母がいなくなれば、簡単に薄れていく。
進学して、就職して、それぞれの家庭を持てば、それだけで遠くなる。
血は繋がっている。
けれど、自分の意思で選び合った絆じゃない。
たった四分の一の血なんて——あまりにも、頼りない。
航大の背中が、今まで以上に、大きく震えた。
たまらない気持ちになって、俺は、寝返りを打った。
震える背中に、そっと、手のひらを当てる。
「大丈夫。——お前は、一人なんかじゃない」
俺は、翔太にも、母親にも、ばあちゃんにもなれない。
それでも、誰よりもお前のことを大切に想っている人間がいるよって、伝えてやりたかった。
だけど……そんなの、言えるはずもなくて。
俺は、ただ黙って航大の震える背中を、撫で続けた。
「怖いんじゃなかったのか……?」
しばらくすると、低い声の振動が、掌越しに伝わってきた。
「え……。あぁ……、うん」
怖い。
でも——怖さ以上に、愛しい気持ちのほうが、大きかった。
「一人じゃなければ、平気」
答えると、もぞりと航大の背中が動いた。
俺が慌てて手を離すと、航大が寝返りを打って、航大の顔が間近に迫ってきた。
「っ……!」
声を上げそうになって、慌てて口をつぐむ。
「普段から——お前はこんなふうに、誰かと同じベッドで寝たりするのか……?」
唐突な問いに、「はぁ?」と今度こそ、声が出た。
「誰と?」
「いや……だから、その……クラスのやつとか……恋人とか……」
航大の、視線が泳ぐ。
「ないな。俺、パーソナルスペース侵害されるの、死ぬほど苦手だし」
ハッとした顔で、航大がベッドの端に寄ろうとする。ただでさえ、かなり際どい場所なのに。床に転がり落ちてしまいそうだ。
「お前は別だって。昔から、普通に一緒に寝てたじゃん」
落ちられても面倒なので、身を乗り出して航大の腕を掴んで引き留める。
その拍子に浴衣の襟元と裾が大きくはだけて、航大がびくっと肩を揺らして視線を逸らした。
触れた腕の筋肉が、思っていた以上に逞しくて、どくんと心臓が跳ねた。
同い年のくせに。
なんだかこいつだけ、すっかり大人の男になってしまっている。
「……兄貴みたいなもんってことか」
「弟だろ。お前が」
「いや。ないな、それは。お前が弟だ」
「俺、四月生まれー! お前は三月だろ?」
「お前には誇れるものがそれしかないのか」
「うざ! これだから優等生はヤなんだよ。はいはい。偏差値も、身長も、肩幅も、顔も、何もかもお前の方が上だよ! くそっ……!」
「自覚があるのなら、大人しく負けておけ」
尊大に言い放った後、航大は、ごにょごにょとよくわからないことを付け加える。
「いや、まあ、顔は……お前のほうが……」
「は? 何?」
「……何でもない」
「よくわかんねぇけど。とりあえず、俺が、半径三十センチ以内に入ってきても不快じゃない人間は、多分、世の中にお前しかいないぞ」
「そ……そうか」
航大は、ホッとしたようにため息を吐いて、ふわりと口元を緩めた。
心臓が、止まるかと思った。
久々に見る、航大の笑顔だ。
いつも無愛想で、ぶっきらぼうなこの男の、とてつもなく貴重な笑顔。
思わず、ぽかんと見惚れる。
馬鹿みたいに、口を開いたまま。
すると、航大は、さらに優しく、目を細めるようにして笑った。
「よかった。顔色、戻ったな」
航大に指摘されて、自分でもようやく気づいた。
風呂場を出てから、氷の柱を背骨に押し当てられているみたいに、ゾクゾクと背筋が冷えたまま、ずっと戻らなかった。
航大とバカな話をしている間に、氷の柱は、いつの間にか溶けて消えたのだ。
「——こんな薄暗くて見えんのかよ」
ありがとう、って心の中で呟きながら、俺は照れ臭くて軽口を叩いた。
「見えなくても、表情でわかる」
至近距離で、まっすぐ見据えられ、かぁっと顔が熱くなる。
これ以上、見つめられたら、心臓が飛び出してしまいそうだ。
「眠い。——寝る」
ふいっと、航大に背中を向ける。
「あぁ……。おやすみ」
いつになく、優しい声が背後から聞こえてきた。
顔は見えないけど。すごくいい表情<かお>で、笑ってるんだろうなって、伝わってくるような声だ。
背中合わせになったまま、とん、と航大の広い背中が、俺の背に軽く触れた。
「——おやすみ」
さっきまで、あんなに怖かったのに。
背中に感じる航大のぬくもりのおかげで、俺は、安心して目を閉じることができた。
神崎家の長男の部屋だけあって、他の個室と比べてもかなり広い。
透おじさんの部屋の、倍以上はありそうだ。
室内には、伯父さんが昔使っていたと思しき古い机や本棚と、航大のものらしい真新しい参考書やスタンドライト、ノートパソコンが入り混じっている。
置きシャンプーまであるくらいだし、航大は長期休み以外にも、頻繁にこの屋敷に足を運んでいるのだろう。
「あれ」
「何だ」
「ベッド、こんなもんだっけ……」
記憶の中のベッドは、もっとずっと大きかった。
三人で転がっても、まだ余裕があって、秘密基地みたいに広かった。
けれど、今目の前にあるベッドは、たしかに普通よりは大きいけれど、今の俺たち二人で寝るには、少し心もとない。
「もっとおっきかったような……」
「ガキだったから、大きく見えただけだろ」
航大が呆れた顔をする。
「どうする? 布団、運ぶか?」
「いや……いい。もう遅いし。俺、端っこで寝るから」
そう言って、俺はベッドの端に腰を下ろした。
すぐに、航大が眉をひそめる。
「お前は奥だろ」
「何で」
「寝相が致命的に悪い。そんな端に寝たら、絶対に転げ落ちる」
「致命的って何だよ」
「事実だ」
「昔の話だろ」
「あの寝相の悪さが、たった数年で改善するとは思えない」
「失礼なやつだな、お前は」
反論も虚しく、結局、俺はベッドの奥へ追いやられた。
壁側。
逃げ場のない場所。
そのことに気づいた瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。
怖い。
でも、安心する。
俺は浴衣の裾を押さえ、壁際に身を寄せた。
パンツなんか履いてなくたって、なんともないと思ったけれど。
浴衣の裾は心許なくて、なんだか落ち着かない気持ちになる。
すぐ隣に航大が腰を下ろしただけで、狭いベッドが、さらに狭くなった気がした。
「……狭くない?」
「今さら言うな」
「いや、思ってた以上に狭いっていうか……」
「だから布団を運ぶか、と聞いただろう」
「今から取りに行くの、怖い」
「――俺が行ってくる」
「一人にするなよ! 怖いだろ!?」
「……ガキか、貴様は。もういい、寝るぞ」
航大は呆れたようにため息を吐くと、部屋の明かりを消した。
「わ、全部消すなよ! 玉、点けろ。玉。真っ暗はダメだって……!」
「常夜灯のことか?」
「そう、それ。真っ暗にならないやつ」
「ったく……。これでいいだろ」
面倒くさそうに、航大はリモコンを操作して、常夜灯を点けた。
常夜灯の淡い橙色が、部屋の中をぼんやり照らす。
けれど、明かりがあるからといって、怖くなくなるわけじゃなかった。
むしろ、暗がりに沈んだ本棚の隙間や、古い机の下の影が、先刻より妙に目につく。
白く曇った鏡に浮かんだ文字。
湯船の底から聞こえた歌。
小さな足跡。
忘れようとすればするほど、全部がまた、頭の中で濡れたみたいにリアルに蘇ってくる。
航大が、俺に背を向けるようにして、ベッドに横たわる。
背中が触れてしまわないように、壁際に寄ろうとして、だけど——触れていたい欲求に抗えず、身じろぎすることができない。
背中越しに伝わってくる、航大の温もり。
規則正しい呼吸に合わせて、航大の背中がかすかに動いている。
そんな些細なことにさえも、心臓が、壊れそうなくらい暴れてしまう。
「……航大」
「何だ」
「寝た?」
「今電気消したばかりだろ」
「うん……」
「……怖いのか」
馬鹿にするような声ではなかった。
だから余計に、喉の奥が詰まった。
「怖い」
小さく答えると、隣で航大が息を呑む気配がした。
「笑うなよ」
「——笑わない」
「高三にもなって、情けないって思ってるだろ」
「思ってない」
即答だった。
その声があまりにまっすぐで、胸が苦しくなる。
「……俺は、今も忘れられないんだ。あのとき、翔太のことを信じてやっていたら——あんなことにはならなかったかもしれない」
いつになく、強い声だった。
かすかに震えているかのような、切実な声音。
「二度と、失いたくないんだ。——お前を、失いたくない」
航大の背中が、呼吸とは違うリズムで、小刻みに震えた。
翔太を失ったことは、俺にとっても、とてつもなく大きな悲しみだった。
だけど航大が抱えている悲しみは、俺のそれとは比べものにならないほど、深くて重い。
弟を、母親を、祖母を。
航大は、近しい人を、失い続けている。
「俺は——消えない。航大が会いたいって思ってくれる間は、どれだけだって、会いにくる」
従兄弟の絆なんて、祖父母がいなくなれば、簡単に薄れていく。
進学して、就職して、それぞれの家庭を持てば、それだけで遠くなる。
血は繋がっている。
けれど、自分の意思で選び合った絆じゃない。
たった四分の一の血なんて——あまりにも、頼りない。
航大の背中が、今まで以上に、大きく震えた。
たまらない気持ちになって、俺は、寝返りを打った。
震える背中に、そっと、手のひらを当てる。
「大丈夫。——お前は、一人なんかじゃない」
俺は、翔太にも、母親にも、ばあちゃんにもなれない。
それでも、誰よりもお前のことを大切に想っている人間がいるよって、伝えてやりたかった。
だけど……そんなの、言えるはずもなくて。
俺は、ただ黙って航大の震える背中を、撫で続けた。
「怖いんじゃなかったのか……?」
しばらくすると、低い声の振動が、掌越しに伝わってきた。
「え……。あぁ……、うん」
怖い。
でも——怖さ以上に、愛しい気持ちのほうが、大きかった。
「一人じゃなければ、平気」
答えると、もぞりと航大の背中が動いた。
俺が慌てて手を離すと、航大が寝返りを打って、航大の顔が間近に迫ってきた。
「っ……!」
声を上げそうになって、慌てて口をつぐむ。
「普段から——お前はこんなふうに、誰かと同じベッドで寝たりするのか……?」
唐突な問いに、「はぁ?」と今度こそ、声が出た。
「誰と?」
「いや……だから、その……クラスのやつとか……恋人とか……」
航大の、視線が泳ぐ。
「ないな。俺、パーソナルスペース侵害されるの、死ぬほど苦手だし」
ハッとした顔で、航大がベッドの端に寄ろうとする。ただでさえ、かなり際どい場所なのに。床に転がり落ちてしまいそうだ。
「お前は別だって。昔から、普通に一緒に寝てたじゃん」
落ちられても面倒なので、身を乗り出して航大の腕を掴んで引き留める。
その拍子に浴衣の襟元と裾が大きくはだけて、航大がびくっと肩を揺らして視線を逸らした。
触れた腕の筋肉が、思っていた以上に逞しくて、どくんと心臓が跳ねた。
同い年のくせに。
なんだかこいつだけ、すっかり大人の男になってしまっている。
「……兄貴みたいなもんってことか」
「弟だろ。お前が」
「いや。ないな、それは。お前が弟だ」
「俺、四月生まれー! お前は三月だろ?」
「お前には誇れるものがそれしかないのか」
「うざ! これだから優等生はヤなんだよ。はいはい。偏差値も、身長も、肩幅も、顔も、何もかもお前の方が上だよ! くそっ……!」
「自覚があるのなら、大人しく負けておけ」
尊大に言い放った後、航大は、ごにょごにょとよくわからないことを付け加える。
「いや、まあ、顔は……お前のほうが……」
「は? 何?」
「……何でもない」
「よくわかんねぇけど。とりあえず、俺が、半径三十センチ以内に入ってきても不快じゃない人間は、多分、世の中にお前しかいないぞ」
「そ……そうか」
航大は、ホッとしたようにため息を吐いて、ふわりと口元を緩めた。
心臓が、止まるかと思った。
久々に見る、航大の笑顔だ。
いつも無愛想で、ぶっきらぼうなこの男の、とてつもなく貴重な笑顔。
思わず、ぽかんと見惚れる。
馬鹿みたいに、口を開いたまま。
すると、航大は、さらに優しく、目を細めるようにして笑った。
「よかった。顔色、戻ったな」
航大に指摘されて、自分でもようやく気づいた。
風呂場を出てから、氷の柱を背骨に押し当てられているみたいに、ゾクゾクと背筋が冷えたまま、ずっと戻らなかった。
航大とバカな話をしている間に、氷の柱は、いつの間にか溶けて消えたのだ。
「——こんな薄暗くて見えんのかよ」
ありがとう、って心の中で呟きながら、俺は照れ臭くて軽口を叩いた。
「見えなくても、表情でわかる」
至近距離で、まっすぐ見据えられ、かぁっと顔が熱くなる。
これ以上、見つめられたら、心臓が飛び出してしまいそうだ。
「眠い。——寝る」
ふいっと、航大に背中を向ける。
「あぁ……。おやすみ」
いつになく、優しい声が背後から聞こえてきた。
顔は見えないけど。すごくいい表情<かお>で、笑ってるんだろうなって、伝わってくるような声だ。
背中合わせになったまま、とん、と航大の広い背中が、俺の背に軽く触れた。
「——おやすみ」
さっきまで、あんなに怖かったのに。
背中に感じる航大のぬくもりのおかげで、俺は、安心して目を閉じることができた。
