夏の終わりに唄う歌

 脱衣所に出ると、航大は棚からバスタオルを引っ掴み、俺の頭に乱暴にかぶせた。

「拭け」

「言われなくても拭くよ……」

「髪もだ。雫が落ちてる」

「……おかんかよ!」

「誰のせいでこんなことになったと思ってる」

 そんなの、俺の方が聞きたい。

 翔太の声。
 湯船の底から聞こえた歌。
 曇るはずのない鏡に浮かんだ、『き・こ・え・る?』の文字。
 それから、排水口のそばに残っていた、小さな足跡。

 思い出しただけで、背筋がぞくりと冷える。

 航大はしばらくこちらに背を向けたまま、脱衣所の入り口に立っていた。
 片手で鼻元を押さえながら、できるだけ俺を見ないようにしている。

「先に居間に戻ってるぞ」

「待ってくれ」

 反射的に、その甚平の裾を掴んでいた。

 航大の肩が、びくりと跳ねる。

「……何だ」

「行くな。俺を一人にしないでくれ」

「は?」

「怖いんだ。またあの歌が聞こえたらって思うと……たまらなく怖い」

 自分で言って、情けなくなった。
 だけど、今は強がれる気がしなかった。

「ここに一人で取り残されるなんて、絶対無理」

 航大は少し黙った。
 それから、深く息を吐く。

「……わかった。さっさと着替えろ」

 そう言って、航大は再び俺に背を向けた。

「早くしろ」

「いちいち命令すんな」

「風邪をひいても知らんぞ」

 相変わらず偉そうだ。
 けれど、航大の大きな背中がそこにあるだけで、少しだけ呼吸が楽になる。

 俺は急いで身体や髪を拭き、航大が用意してくれた浴衣に袖を通した。

 透おじさんの趣味らしく、白地に大きな波しぶきが描かれた、やけに手触りのいい上質な浴衣だった。

 浴衣なんて、ちゃんと着たことがない。
 小さい頃は、ばあちゃんが着せてくれていたし、成長してからは、夏祭りでも甚平ばかりだった。

 とりあえずそれっぽく合わせて、帯を巻こうとしたところで、航大が俺に背を向けたまま言った。

「できたか」

「多分」

「多分?」

 航大がゆっくり振り返る。

 その目が、俺の胸元で止まった。

「ばか。これじゃ死装束だ」

「えっ」

「合わせが逆だ」

 死装束。

 その言葉に、さっきまでの恐怖が、また喉元までせり上がってくる。

 航大は一歩近づくと、当然のように俺の浴衣に手を伸ばした。

「直す。じっとしてろ」

「え、あ、うん」

 浴衣の前を開いた、その瞬間。

 航大の動きが、ぴたりと止まった。

「……お前」

「何」

「なんで何も履いてないんだ」

「え、さっき言ったじゃん。パンツの替えがないから、ノーパンで着るって。浴衣なら問題ないだろ。昔の人はそうだったんじゃないの?」

「問題ないわけないだろ……!」

 怒鳴るように言って、航大は浴衣から手を離して顔を背けた。
 耳が、先刻以上に真っ赤になっている。

「何だよ。さっきから変だぞ。長湯しすぎてのぼせたのか?」

「変なのはお前だ! 誰かに見られたらどうするつもりだ!?」

「はぁ? 誰も見ねぇよ。俺とお前しかいないじゃん。じいちゃん、もう寝てるし」

「……もういい。黙れ。動くな。俺を見るな」

「注文多すぎだろ」

 航大はぱんっと自分の頬を叩くと、視線を逸らしたまま、信じられないくらい器用な手つきで浴衣の合わせを直していく。

 左前は死装束。

 そんな言葉、今までは何となく聞き流していた。
 けれど、今夜ばかりは妙に重く響いた。

 死んだばあちゃん。
 六年前、水底へ消えた翔太。
 そして、さっき聞こえた歌——

「できた」

 航大の低い声で、我に返る。

 浴衣は、さっきまでとはまるで違って、身体にしっくり馴染んでいた。
 帯も苦しくないのに、ほどけそうな感じがしない。

「すげぇ。うまいな」

「和装する機会が多いからな」

「さすが本家の坊ちゃん」

「茶化すな」

 航大は短く一蹴した後、なぜかこちらをじっと見ていた。

 さっきまでの狼狽とは違う。
 怒っているわけでも、呆れているわけでもない。
 ただ、不意を突かれたみたいな顔で、俺を見ている。

「……俺の顔に何かついてるか?」

「い、いや」

 航大はぎこちなく視線を逸らした。

「何もついてない」

「じゃあ見るなよ」

「見てない」

「見てただろ」

「見てない」

 いつものやり取りのはずなのに、航大の声が少しだけ硬い。

 変なやつ。
 やっぱり、まだのぼせているのかもしれない。

 脱衣所を出ると、廊下の冷たさが足裏から這い上がってきた。

 客間は仏間の近くにある。
 ばあちゃんの遺骨や遺影も、線香の匂いも、まだそこにある。

 今夜、あの近くで、一人で眠る。
 そう考えた瞬間、風呂場で聞いた歌が耳の奥に蘇った。

『みなそこさま』

 ぞっとして、立ち止まる。

「優馬?」

 航大が振り返った。

「あのさ」

「何だ」

「ちゃんと自分で布団運ぶからさ。俺も、伯父さんの部屋で寝かせてくれない?」

 航大が目を見開く。

「……俺の部屋に?」

「お前の部屋じゃないだろ。伯父さんの部屋だろ」

「ほぼ俺の部屋だ。今は、俺の私物のほうが多いし」

「ダメなのか……?」

「ダメだ。そもそも、なぜ客間で寝ない? あそこのほうが広々しているだろう」

「客間、仏間から近いし……」

 言いながら、情けなくなる。
 高三にもなって、怖いから一人で眠れないなんて。

 けれど、今夜だけは無理だった。

「なんか、たまらなく不安なんだ。だって、あの歌は翔太の——」

 航大の表情が変わった。

 さっきまでの妙な照れも、狼狽も消える。
 まっすぐ俺を見る目が、ひどく真剣になる。

「――わかった」

「え」

「だが、板張りの部屋で布団は、背中が痛むはずだ。お前はベッドを使え。俺が床で寝る」

「そういうわけにはいかないだろ」

「いいから、そうしろ」

「ダメだって、そんなの」

「俺は慣れている」

「慣れててもダメだって!」

「面倒なやつだな」

「お前に言われたくない」

 しばらく睨み合う。

 その時、ふと、子どもの頃の記憶が蘇った。

 航大の父親の部屋。
 大きなベッド。
 俺と航大と翔太。
 三人で川の字になって、寝る場所を取り合っていた夜。

「じゃあさ」

 俺は、できるだけ軽い調子で言った。

「二人でベッド使ったら良くね? 伯父さんのベッド、かなり大きいよね。俺ら、三人でよく寝てたじゃん」

 言った瞬間、航大の顔が固まった。

 しまった、と思った。

 航大にとって翔太の不在は、今も癒えない生々しい傷だ。
 軽々しく触れていいものじゃない。

 浴室の空気が、また戻ってきたみたいに、廊下が冷える。

 けれど、しばらく黙った後、航大は小さく息を吐いた。

「……わかった」

「いや、嫌なら別に」

「嫌とは言ってない」

 航大は少しだけ照れくさそうに、そっぽを向いた。

「むしろ、客間で寝ることは許さん。何かあってからじゃ遅い」

 不機嫌そうに言うと、航大は俺に背を向けた。