夏の終わりに唄う歌

 夕飯後、俺たちが洗い物を終える頃には、じいちゃんは先に風呂を済ませ、寝室に引っ込んでいた。

 俺と航大のどちらが先に風呂へ入るかは、じゃんけんで決めた。
 負けたのは俺だ。

 子どもの頃は、航大と同じ湯船に入れるだけで嬉しかった。
 今は、航大がさっきまで浸かっていた湯船に入るのだと意識するだけで、緊張して、どうにかなってしまいそうだ。

 居間に一人残された俺は、溶けた氷で薄まった麦茶を飲みながら、スマホをいじるふりをしていた。
 画面なんて、ほとんど見ていない。

 廊下の奥から、引き戸の開く音がした。

「風呂、空いたぞ」

 顔を上げると、航大が居間の入り口に立っていた。

 じいちゃんのを借りたのだろうか。寸足らずの甚平は、航大には少し窮屈そうだった。
 張った布地越しに浮かぶ、競泳で鍛え抜かれた肩や胸の厚みに、視線が吸い寄せられてしまう。

 濡れた髪から、ぽたりと水滴が落ちる。
 日に焼けた頬が、ほんの少し上気している。

 首筋に残った水滴が、甚平の襟元へゆっくり落ちていく。
 そこから覗く肌は、まだ湯上がりの熱を残しているように見えた。

 見てはいけないものを見ている気がして、俺は慌てて視線を逸らした。

「……おい」

 航大が眉をひそめた。

「何ぼんやりしてる」

「してない」

「してるだろ」

「してないって」

 俺は慌てて立ち上がった。
 けれど、立った瞬間、航大との距離が近くなって、余計に気まずくなる。

「タオル、脱衣所にあるから使え」

「あ、うん」

「着替えは、透おじさんの部屋にあった浴衣を置いておいた。着方、わかるか?」

「多分」

「下着は……さすがに借りるの嫌だよな」

「浴衣なら、履かなくても平気じゃね?」

「は!?」

 タオルで髪をガシガシ乾かしていた航大の手がピタリと止まり、なぜかバサッとタオルを床に落とした。

「何やってんの?」

「い…… いや、なんでもない……」

 慌ただしくタオルを拾う航大の耳が、微かに赤い。

 変なやつ。
 長湯しすぎて、のぼせたのだろうか。
 
「んじゃ、俺も入ってくるわ。航大は伯父さんの部屋で寝るんだろ? 先寝ていいよ。俺、客間で寝るから」

 居間を出て、浴室に向かう。

 廊下は、夜の湿気を含んでひんやりしていた。

 あんなに喧しかった蝉の声は、今はもう聞こえない。
 代わりに、どこか遠くで、都会では聞いたことのない虫の声が、微かに響いている。

 中庭に面した廊下の窓には、わずかに波打ったガラスが嵌め込まれていた。
 その向こうに見える庭木の影は、水底から眺めているみたいに、ゆらりと歪んで見える。

 素足に触れる板張りの廊下が、ぞくっとするほど冷たい。

 風呂場は、屋敷の最奥だ。

 母屋の廊下を抜け、突き当たりの角を曲がる。
 さっきまで居間にいた航大の気配が、明かりごと背後に遠ざかっていく。

 床板を踏むたび、ぎし、と湿った音が響く。
 古い柱時計の音だけが、やけに大きく耳についた。

 がらりと引き戸を開けると、温かく湿った空気に包まれる。
 微かに漂う、シャンプーの匂い。
 航大が使っている、爽やかなミントの香りがするやつだ。

 航大が入った直後なのだということを強く意識してしまい、どくんと心臓が跳ねる。

 邪な妄想を振り払うように、俺はさっと服を脱ぎ、浴室に入った。

 数年前に改装された浴室は、タイルも檜の浴槽もまだ新しい。

 熱いシャワーを頭から被ると、ミントと檜の匂いが、湯気に混じって立ちのぼった。
 航大のシャンプーを拝借して、髪を洗う。
 石鹸で全身の汗を洗い流し、熱い湯船にざばんと浸かると、ようやく今日一日が終わった気がした。

 骨になったばあちゃん。
 酒を飲んで笑う親戚たち。
 泣き顔を見られて、必死に『本家の跡取り』の顔を作り直した航大。

 全部、頭の中でごちゃごちゃに混ざっている。

 肩まで湯に沈めると、ふう、と息が漏れた。

 その時だった。

 ぽちゃん。

 水音がした。

 蛇口は閉めた。
 シャワーも止めた。

 浴室には、俺しかいない。

 なのに。

 ぽちゃん。

 もう一度、水が落ちる音がした。

「……やめろよ」

 誰に向けて発したのか、自分でもわからない声が漏れる。

 湯船の湯は、ちゃんと熱いはずだ。
 なのに足先から、じわじわ冷え、鳥肌が立ってゆく。

 水底で、何かが息をしているみたいに、細かな泡が立っていた。

 ぽちゃん。

 今度は、耳のすぐ奥で鳴った。

 違う。

 これは、水音じゃない。

『みなそこさま』

 俺は息を止めた。

『みなそこさま』

 湯船の底から、子どもの声が染み出してくる。

『だあれが――』

「やめろ」

 自分の声が、情けないくらい震えていた。

 その瞬間、浴室の鏡が白く曇った。

 曇り止め加工されているはずなのに、濃い白に覆われてゆく。

 ぬるり、と。

 見えない指が、鏡の表面をなぞるのがわかった。

『き』
『こ』
『え』
『る』
『?』

 ひと文字ずつ、指の跡が浮かび上がる。

 全身の血が、一気に冷えた。

 振り返っても、誰もいない。
 窓の外は真っ暗で、何も見えない。

 なのに、耳元で、誰かが笑った。

『ゆうにぃ』

 翔太の声だった。
 懐かしい、翔太の声。

「うわああああっ!」

 湯船の中で立ち上がろうとして、足を滑らせる。
 湯が派手に跳ね、浴槽からざばんと溢れる。

「優馬!」

 浴室のドアが乱暴に開き、航大が駆け込んでくる。

「優馬、どうし――」

 航大の声が、途中で消えた。

 俺は浴槽の縁にしがみついたまま、半ば立ち上がりかけていた。
 当然、素っ裸だ。

 数秒。
 航大は固まった。

 その顔が、見る見るうちに赤く染まる。

「っ……!」

 航大は、見たことのない速度で顔を背けた。

「お、お前……っ、ま、前を隠せ……っ!」

「は!? そっちが勝手に入ってきたんだろっ」

「悲鳴を上げたのは貴様だろうが!」

「だからって勝手に入ってくんなよ!」

「緊急事態だと思ったんだ!」

「緊急事態だよ!」

 叫んだ瞬間、ぽたり、と赤いものが床に落ちた。

 俺は凍りついた。

 血だ。

 航大が、出血している……?

「航大……?」

「見るな」

「いや、それどころじゃないだろ。血……! お前、血が出てる……!」

 俺は自分が何も着ていないことも忘れて、湯船から飛び出し、航大に駆け寄った。
 濡れた身体から、ぽたぽたと湯が落ちる。

「見せてみろよ。どこか怪我したのか!?」

「俺に触るな! 今すぐ前を隠せ!」

 航大は片手で鼻を押さえたまま、必死に顔を逸らしている。

 突然の出血。
 湯船の底から聞こえた歌。
 鏡に浮かんだ文字。

 これは——

「お前、やばいって……! その血、きっと呪いだ!」

「は!? 何を言ってるんだ、お前は」

「翔太の声がしたんだ。いきなり。そんで、浴室の鏡に文字が浮かんで……っ」

「鏡……?」

 怪訝な顔で、航大が鏡に視線を向ける。
 俺も、釣られるように鏡を見た。

「あれ……、文字が、ない……」

「当然だ。リフォームした時、曇らない鏡に変えたんだ。文字なんか、書けるはずないだろ」

 航大の言うとおり、鏡は曇り止め加工がしっかり効果を発揮しており、端だけが少し曇っているものの、中央はやけにくっきりしていた。

「嘘、だ……」

 喉の奥が、ひゅっと鳴った。

 膝から力が抜け、その場にしゃがみ込んでしまいそうになる。
 咄嗟に航大の腕に捕まると、航大の身体が、びくんと大きく跳ね上がった。

「さっきまで、書いてあったんだ。『き・こ・え・る?』って。あと、歌声が……湯船の底から……」

「歌声?」

「『みなそこさま』って。あの——翔太が消えた日に歌ってた歌と、同じ歌だと思う」

 その瞬間、航大の顔色が変わった。
 赤かった耳からも、すっと血の気が引いていく。

 航大は手の甲で乱暴に鼻血を拭うと、俺の肩を強く掴んだ。
 先ほどまでの動揺は、そこにはもう欠片もない。

「……他には。他にはどんなことがあった?」

 青ざめた顔で、航大が俺を問いただす。

「えっと……翔太の、声がした。歌声も、多分、翔太の声だった」

 航大は、黙って眉間に皺を寄せる。

「『ゆうにぃ』って。翔太は、確かにそう呼んだんだ」

 浴室の空気が、急に重くなる。

 六年前の夏。
 翔太は、池のほとりで『池の中から歌が聞こえる』と言っていた。
 俺たちには何も聞こえなかったから、作り話だと思って信じなかった。

 すると翔太は、俺たちの目の前で聞こえるはずのないその歌を歌い始めた。
 直後、池の水が柱のようにせりあがり、水を被った翔太は、池に飲み込まれて消えてしまった。

 警察も消防も、池と山を大掛かりに捜した。
 けれど翔太は見つからないまま、六年が経った。

 その歌が、今、俺に聞こえた。

 航大は何も言わず、床に視線を落とした。

「……優馬」

「何?」

「あれを見ろ」

 航大が浴室の床を指さす。

 排水口のそば。
 濡れた床の上に、小さな足跡が一つだけ残っていた。

 子どもの足跡だった。

 俺の足ではない。
 航大の足でもない。

「俺のじゃない」
「見ればわかる」

 航大は、低い声で答えた。

 六年前と違って、航大は否定しなかった。

 怖いはずなのに。
 その一言だけで、少しだけ息ができた。

「なあ、これ……ただの汚れかもしれないよな。水で流しても、消えないかも」

 くっきりと浮かんだ子どもの足跡に、俺はシャワーでお湯をかけてみた。

 すると、すぅっと足跡が消えてゆく。
 その直後、耳のすぐそばで、誰かが息を吸い込む音がした。

 ひゅ、と。

 小さな子どもが、泣くのをこらえる時みたいな音だった。

「うわぁああああ!」

 思わず飛び上がり、シャワーを投げ捨てて、航大に飛びつく。

 水滴の滴る裸の身体が、航大の胸元にぴったりと押し付けられた。
 甚平越しに伝わる熱い体温に、ようやく自分が何も着ていないことを思い出す。

「何の真似だ……!」

 航大の声が、盛大に裏返る。
 怒られている気がするけれど、そんなの、どうだっていい。

 怖い。
 怖い。
 怖い。

 湧き上がる恐怖に、どうすることもできない。

「落ち着け。このままじゃ風邪ひく。――とりあえず、出るぞ」

 腕を引っ張られ、浴室の外に連れ出される。

 バタン、と浴室の扉が閉まる瞬間、濡れた鏡の奥から、何かがこちらを見ているような気がした。