夏の終わりに唄う歌

 俺が居間の座卓に料理を並べ終えると、じいちゃんと航大は、そろって奇妙な顔をした。

「……これは」
 航大が、まじめ腐った声で呟く。

「夕飯」
「見ればわかる」
「じゃあ何だよ」

「いや……」
 航大は、座卓の上をもう一度見下ろした。

 大皿に盛ったそうめんに、錦糸卵、庭でむしってきた大葉、甘辛く煮た揚げ。
 茄子の煮浸しと、きゅうりとツナの和えもの。
 それだけでは航大には足りない気がして、冷凍庫にあった鶏肉で、とり天も揚げた。

 食欲がなさそうなじいちゃんに合わせてそうめんにしたけれど、育ち盛りの航大にも、いちおう配慮したつもりだ。
 これ以上、差をつけられたくないけどな。

「すごいな……。まさか、お前がここまで料理がうまいとは」

「食ってみないとわかんないぞ。見た目だけでクソまずいかもよ」
 照れくさくなって、俺は嘯いた。

 じいちゃんは、しばらく黙って座卓を見つめていた。
 それから、箸を手に取る前に、ぽつりと呟く。

「夕子は……いい子を持ったな」
 夕子、というのは、俺の母さんの名前だ。

 普段なら、照れくさくて何か言い返しているところだ。
 けれど、その時のじいちゃんの声は、からかうにはあまりに弱かった。

「……いただきます」

 俺が手を合わせると、航大もじいちゃんも、静かに手を合わせた。

 ぴんと伸びた背筋。
 まじめ腐った顔で頭を下げる航大が、時代劇に出てくる武士みたいで、ちょっと面白い。

 最初に箸を伸ばしたのは、航大だった。
 そうめんをつゆにくぐらせ、無言で口に運ぶ。

 しばらく咀嚼してから、航大は大きく目を見開いた。

「……うまい」

「お世辞言っても、何も出ないぞ」

「いや、俺は、世辞は嫌いだ。――まさか、お前に、こんな才能があったとは……」

「うるさい。どうせ俺の特技は、これだけだよ」

 照れ隠しに、少し強めの声が出た。
 航大は気にした様子もなく、今度は茄子の煮浸しに箸を伸ばす。

「お前んとこ、父親だけだろ。自分で作らないのか?」

「外で済ませるか、出来合いだな。大抵、飯は別々だ」

「別々……」
 航大はなんでもないことのように言った。

 一人で黙々と食事を摂る航大の姿を思い浮かべ、少し胸が苦しくなる。

 さっきのじじいどもの戯言は、正直、かなりムカついた。
 けれど、あれでも彼らなりに、航大の孤独を案じていたのかもしれない。

 早く所帯を持てば、寂しくないだろうと。

 いや、やっぱり余計なお世話だ。
 普通にムカつく。

「毎日外食や出来合いじゃ、体壊すぞ」

 航大に向かって言ったつもりだった。
 けれど、先に反応したのは、じいちゃんだった。

「そうだな……」

 じいちゃんは、味噌汁の椀を両手で包むように持ったまま、静かに言う。

「まあ……これ以上、長生きしても、何の意味もないが」
 箸を持ったまま、俺は言葉に詰まった。

「――何言ってんだよ、じいちゃん」
 思わず、声が大きくなった。

「航大の成人式、まだ見てないだろ。神崎の紋の入った袴、着るんだろ?」

「着る。じいさんや親父が着たやつだ」
 航大が、淡々と口を挟んだ。

「それに、そのうち七五三だってあるかもしれないだろ。あのでっかい鯉のぼりとか、座敷いっぱいの雛飾りとか……また出す日が来るかもしれないしさ」

 口にしながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 じいちゃんが、ゆっくりと顔を上げる。
「……そうだな」
 頷いたけれど、その目は航大のことも、俺のことも、見ていないようだった。

 怖いくらいの人だったのに。
 こんなにも覇気がなくなってしまうなんて。

 無口だし、亭主関白に見えていたけれど、本当はばあちゃんのことを、深く愛していたのだろう。

 そうでなければ、こんなふうに何もかもを失ったような顔にはならない気がした。

「あのさ――」

 俺は、箸置きに箸を置いて、顔を上げた。

「俺、東京帰る前に、色々、惣菜作って冷凍しておくから。レンジで解凍して食べてよ」

 じいちゃんは、何か言いたげに俺を見る。

「航大、お前、やってくれる? お前の分も作っておいてやるから」

「いいのか……?」

「米くらいは炊けるんだろ」

「いや……」

「覚えろよ、簡単だから。俺が教える」

「ああ……」

 航大は、なぜか神妙な顔で頷いた。

 航大の家までは、ここからバスで三十分、電車で三十分。
 合計一時間くらいかかる。

 だけど、生真面目で優しいこの男は、これからもじいちゃんのもとに通うつもりなのだろう。
 たとえ受験勉強があっても、父親に何か言われても。

 ふと、航大の器が目に入った。

 氷の揺れる涼やかなそうめんの器。
 乳白色の麺に混じって、一本だけ朱色の麺が浮いている。

「紅いの、食わないの?」

「ん……ああ……」

 航大は曖昧に答えた。

 航大の弟・翔太はあの紅い麺が大好きで、いつも航大や俺の分まで食べたがっていた。
 だからだと思う。

 この男は、最後まで、紅い麺を残す。
 もう、欲しがる弟など、どこにもいないというのに。

 麺に添えた缶詰のみかんも、もう誰も独り占めしようとしない。

 航大は少しだけ箸を止め、それから味噌汁を啜った。

「うまい……」

 しみじみとした声だった。

「なんか、優馬に負けた気分だ……」

「料理、教えようか?」

 航大が、大きく目を見開く。
 その発想はなかった、という、心底意外そうな顔だ。

「いいのか……?」

「その方が、じいちゃん的にも、よくね? どうせお前、週に一度くらいは、ここ、来るつもりだろ」

「……ああ」

「じゃあ、決まりだな。明日は夕方くらいまではいられるんだろ? 米の炊き方と、味噌汁と野菜炒めの作り方、お前が帰る前に教えるよ。材料は、撮影の帰りに中沢商店で買ってこよう」

「一日で覚えられるとは思えない……」

「覚えろよ」

「お前は、明日、何時の新幹線で帰るんだ?」

「俺? 帰らないよ。盆が明けるまで、ここにいる」

 航大の箸が、ぴたりと止まった。
「――じゃあ、俺もそれまで、ここにいる」

「は!?」

「それくらいやらないと、多分、覚えられない」
 そう言って、航大はぷいっとそっぽを向いて味噌汁を啜った。
 耳のあたりが、少しだけ赤い気がする。

「伯父さんはいいのかよ」

「親父には連絡しておく。夏期講習には行くが、終わったら戻る」

「ここから通う気か?」

「ああ」

「往復二時間かけて? お前、受験生って、自覚ある?」

「ある」

 航大は、涼しい顔で、付け加えた。

「その程度で合格が怪しくなるほど、落ちぶれてない」

 不遜にも聞こえるその言葉に、じいちゃんが顔を上げた。

 そして、その日初めて、白い歯を見せて笑った。

 俺は少し驚いて、胸の奥のわだかまりが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。

「わかった。じゃあ、明日から特訓な。そしたら、撮影も何度かさせてもらっていい?」

「好きにしろ。俺なんかで良ければ」

 俺なんか、じゃない。

 お前がいい。
 お前じゃなくちゃ、ダメだ。

 想いを口にする代わりに、俺は航大の器を指差した。

「その紅いの、食わないなら俺が食うぞ」

 航大は、一瞬だけむっとしたような顔をした。
 けれど、すぐに真面目な目で、俺を見つめ返してきた。
 それから、何かを決意したみたいに、紅い麺を箸で掬い、自分の口に運んだ。

 何も言わない。
 俺も何も言わなかった。

 だけど、たぶん、ほんの少しだけ。

 航大は今日、翔太がいなくなった後の時間を、自分で進めた。