夏の終わりに唄う歌

 座敷に放置された食器類を抱えて、何度目かの往復をしていると、航大が無言のまま入ってきた。

 何も言わずに膳の前へ膝をつき、汚れた食器を集め始める。

「いいよ、俺ひとりでできるって」

 航大は俺を一瞥して、短く答えた。

「二人でやった方が、早く終わる」

 まあそうだけどさ……。

 お前は、この家の跡取りだろ。
 そう言ってやりたいけど、今のこいつに、その言葉はあまり、心地よいものではないはずだ。

「サンキュ」

 素直に礼を言うと、「明日は雨が降るな」と軽口を叩かれた。

 なんか、すごく不思議だ。
 航大に会うのは、正月以来だ。
 半年以上経つっていうのに。
 毎日学校で顔を合わせる友だちより、気安く言葉が出てくる。

 たぶん、きょうだいとか、そういうのに近い。
 そういうことに、しておきたかった。

 ふいに、掠れた声が降ってきた。

「お前がいてくれて……本当によかった」

 あまりにも切実なその声に、ばくんと心臓が跳ねる。

「な……、なんだよ、急に……っ」

 高く積み上げた皿を、思わず落としそうになる。
 俺は慌てて、体勢を立て直した。

「今の俺には、じいちゃんと……、お前しか、いないから……」

 ダメだ。
 これ以上言われたら、墓場まで持っていくはずの気持ちに、蓋をしていられなくなる。

 ぐっと奥歯を噛み締め、想いを押し殺す。
 俺は小さく深呼吸して、道化た声で告げた。

「なんだよ。兄貴が欲しくなったか?」

「は? お前が弟だろ。誰がどう見ても」

「何言ってんだ。俺、四月生まれだぞ。ほぼ一年早く生まれてる」

「その割には、成長が遅いな」

「はぁ!? お前がデカすぎるんだろ。俺だって高三男子の平均身長より四センチも高いんだからな」

「四センチ? 誤差だな、そんなもの」
 ふん、と航大が勝ち誇った顔で、俺の隣に立つ。

 ムカつく。
 百八十超えてるからって、ドヤられても困る。

「次の休みこそ、絶対抜いてやるからな!」

「さすがにもう無理だろ。諦めろ」

「諦められるわけないだろ!」

 睨みつけてやろうとして……航大の目が、今にも泣きそうに潤んでいることに気づいた。

 一瞬で心を持っていかれ、言葉を失う。

 俺は逃げるようにシンクに向かい、乱暴に蛇口を捻った。
 勢いよく流れ出した水が、食器に当たって、ざあっと激しい音を立てる。

 離れていれば、消えると思ったのに。
 ほんの数秒、目が合うだけで、俺の全部は、この男に支配されてしまう。

「……優馬」
 水の音に負けないくらい、はっきりと俺を呼ぶ声。

 呼ぶなよ、その声で。
 俺の名前を、気安く呼ぶな。

「……なんだよ」

 できるだけ、面倒くさそうに答えた。
 この想いが、漏れてしまいませんように。
 そう願いながら、不機嫌な声を作る。

 背中に、刺さるような視線を感じた。
 何かを言いたげな沈黙が、やけに重い。

「いや……、なんでもない」

 どんな顔して、言ってるんだろう。
 視線を向ける勇気がない。

 だって、今、顔を見たら、きっと俺は――。

「用もないのに、いちいち呼ぶな」

 本当は死ぬほど嬉しいのに。
 録音して、毎日だって聴いていたいのに。

 そんなふうに拒絶することしか、俺にはできなくて。

「――善処する」

 まじめ腐った声で言うと、航大は俺の手から泡だらけのスポンジを奪い取り、俺をシンクの前から押しのけた。

「食器、運んで来い。俺が洗う」

 押しのけられた時に触れた、航大の肘の感触。
 たったそれだけの熱が、いつまでも皮膚に残っている。

 頭から追い払うようにして、俺は座敷へと向かった。

 背後で、水道の音が続いている。
 その水音だけが、やけに耳に残った。