夏の終わりに唄う歌

「戻るぞ。あんまり遅くなると、またぐだぐだ言われる」

 しばらくすると、航大は、ぱんっと自分の頬を叩き、何事もなかったかのように、俺に背を向けた。

「え……。ああ、うん……」

 ずっと、ここにいられたらよかった。
 だけど、航大の言う通り、本家の跡取りが長いこと宴席を外したら、皆、色々とやかましいことを言うのだろう。

 一刻も早く戻ったほうがいいのだと、頭ではわかる。
 だけど、先刻の航大の泣き顔が、脳裏に焼きついて離れない。

「なあ……」
「なんだ」
 不機嫌そうに、航大が振り返る。

「――ばあちゃんの料理で、何が一番好きだった?」

「貴様、俺を泣かす気か」
 軽く、頭を叩かれた。

「いや……。なんか、やじゃね? あいつら、誰もばあちゃんの話してねぇし。いや、したら辛くなるからかもしれないけどさ、でも、俺だったらなんか嫌だ。自分の葬式の後の宴が、あんなだったら」

 航大はしばらく考えるような顔をした後、ぼそりと呟いた。

「レモンドーナツ」

「わかる! 俺もあれ、すごく好き。ちょっと硬めで、甘酸っぱくて。時々、無性に食べたくなるけど、似た味のとか、どこにも売ってない」

 少しでも笑ってほしくて、つい早口になった。
 だけど、航大は少しも笑ってくれなくて、むすっとした顔のまま、「もう、二度と食えないんだな」とだけ答えた。

 地雷を踏んだ。
 バカだ、俺は。
 好きな相手の痛みひとつ、和らげられない。

「あのドーナツのせいで…… 他のドーナツ、何食ってもうまいと思えなくなった」

 掠れた声で呟いた航大の、自分より広い背中を、抱きしめたくてたまらない衝動に駆られる。

 全国模試で上位に入るくらい頭がよくて、いつだって良識的な大人の顔をしているくせに。
 実際には、ガキみたいに純粋な部分もあるやつなんだって……。
 こいつのクラスメイトたちも、知っているだろうか。

 パンっともう一度、強く己の頬を叩く。
 振り返った航大の顔からは、先刻までの涙の気配が消えていた。
 そこにいるのはもう、『神崎本家の跡取り』だった。

 さっきまで泣いていた一人の高校生は、あの部屋に置き去りにされたみたいだった。

 その広い背中を追って、俺も部屋を後にした。

**

「本当にアンタだけで大丈夫? 母さん片付けようか?」

 玄関先で、母が心配そうな顔をする。

「平気だって。母さん、明日も仕事入ってるんだろ? 早く帰りなよ」

 ひとしきり飲み食いすると、男連中は、連れ立って麓の街に降りていった。
 何をしに、どこに行ったのかは、あまり想像したくない。

 宴席で酒を一滴も口にしなかった航大の父親は、酔っ払い連中とは群れることなく、
「病院から連絡が入った」
 と言って、職場である大学病院に戻っていった。

 航大も父親に帰るよう言われていたが、「もう少し、じいさんのそばにいる」とだけ答え、じいちゃんと仏間に引っ込んでしまった。

 最後に残ったのが、この家の長女一家である、俺たち佐伯家の面々なのだ。

「洗い物、大変よ」

 座敷には、十数名の男たちが飲み食いした後の膳が、そのまま残されている。

 母親に心配そうな顔をされたけれど、動きっぱなしだった母や姉を、これ以上、酷使する気にはなれない。

「全然平気。慣れてるし」

「本当に……?」

「お母さん、明日早いんだよね? 優馬に任せたらいいよ。航大くんも手伝ってくれるだろうし」
 姉の美咲が、ひょこっと間に入ってくる。

「ばか。本家の跡取り坊ちゃんにそんなことさせたらダメでしょ!」

「いいよ、俺一人で余裕だし。それにさ、なんか今は、ちょっと体動かしたいっていうか……」

 単純労働は、嫌いじゃない。
 黙々と手を動かしていると、心の中のモヤモヤが、少し晴れるような気がするから。

 母は少し考えるような表情をした後、屋敷の中、仏間の方角に視線を向けた。

「本当はねぇ、仕事休みにして、しばらくそばにいてあげたいのよ。おじいちゃんのあんな姿、初めてだし……」

 祖父の正大は、地元の名士たる威厳を崩すことなく、堂々と喪主を務め上げた。

 けれども――火葬場から戻ってきて以降、ほとんど誰とも口を聞いておらず、完全に表情が抜け落ちてしまっているのだ。

「優馬、アンタ、しばらくこっちに残れない?」

「えっ……!?」
 母の突然の要請に、思わず声が裏返る。

「心配なのよ。航大くんも受験勉強で、すぐ帰っちゃうだろうし。そしたら、おじいちゃん、一人きりになっちゃうじゃない?」

 いつになく悲痛な顔で、母は瞳を潤ませる。

 自営業者の母に、忌引きはない。
 今日だって取引先に頭を下げ、アシスタントを現場に向かわせたのだ。何度も同じことをすれば、母の仕事に響く。

「いいじゃない! 優馬。そしたら、じっくり撮影できるし」

「いや、航大は明日には帰るだろ。受験生だぞ、アイツは」

「アンタも受験生でしょ」

「いや、俺は……」

 私立の美大、写真学科志望の俺と、旧帝大医学部を目指す航大。
 受験の重みは、まったく違う。

 美大入試がぬるいってわけでもないけれど……。
 勉強に費やすべき時間は、比較にならないはずだ。

「せめてお盆までいられない? そしたら安心なんだけど」
「そんなこと言われてもなぁ……」

「おじいちゃん、家事なんかひとっつもできないし。このままじゃ、おじいちゃんまで倒れちゃうんじゃないかって心配なのよ。アンタ、料理だけは得意じゃない?」

 だけは、ってなんだ、だけはって。
 俺だって、他にも得意なものくらい、色々……いや、うん、あんまりないかもしれないな、悔しいけど。

「お願い! もし残ってくれたら、新しいレンズ買ってあげる。予算は、そうねぇ……十五万」

「十五万!? マジで!?」

 信じられない。
 だけど、母が本気でじいちゃんを心配していることはわかった。
 自分が残れないからこそ、そんな金額を提示しているのだろう。

「……乗った」

 答え終わるより先に、ぎゅっと抱きしめられた。
 母の喪服から、ふわりと線香の匂いが漂う。

「いい息子を持って、母さん幸せだわ」
「大して成績もよくなくて、料理くらいしかできないけどな!」

 くしゃりと、髪を撫でられた。

「そこがいいのよ。母さんも弘明さんも美咲も、アンタのおいしい手料理に、生かされてるんだもん」

 弘明さん、というのは、俺の父親のことだ。
 アクティブな母の、精神安定剤みたいな人で、息子の俺でさえ、一度も怒鳴られたことがない。

「無理はするなよ。お前だって、悲しいんだろうから。たまには店屋物で済ませるのも大事だぞ」

 財布から、何枚か札を抜き取り、父はさりげなく俺のズボンのポケットに捩じ込んだ。

「着替えやら何やらは、帰ったらまとめて送るわ。必要なものがあったら、LINEして。カメラは持ってきてるんでしょ?」

「……うん。カメラとノートパソコンはある。服もまあ、透おじさんのを借りればなんとかなるかな……。パンツは、買わないとダメだけど」

「Amazonで買えば、明日には届くんじゃない? 私が買っといてあげるよ」
「やだよ! 姉ちゃんの選んだ下着なんて!」
「なんでよ。ちゃんと可愛いやつ選んであげるから」
「下着に可愛さとか求めてないし!」

 どつきあう俺たちを前に、なぜか母は泣き出してしまった。
 ぎゅうっと姉とまとめて、抱きしめられる。

「アンタたちが仲良く育って、本当によかったわ」
「姉の私の教育がいいせいね!」
「はぁ!? 姉ちゃんに教育された覚えねぇし!」
「嘘嘘、アンタがいい子なのよね。はいはい。じゃあ、頑張りなね。――おじいちゃんのこと、よろしくね。それから……言わなくてもわかってるだろうけど、あの子のことも」

 あの子。
 航大のこと、そんなふうに呼ぶな。

 言ってやりたいけど、うまく言葉にならない。

「火の元だけは気をつけなさいね」
「言われなくても、俺は姉ちゃんみたいに空焚きしたりしないし」
「ほんっとムカつく。一言多いのよ!」

 ムッとした顔で、姉は、俺を軽く小突く。
 離れる瞬間、「アンタも泣きたくなったら、ちゃんと泣きなさいよ」と小声で囁かれた。

 俺は、多分、泣けない。

 大好きなのに。
 悲しいのに。
 きっと、うまく泣けないのだ。

 去ってゆく家族の姿を見送りながら、俺は、箪笥の前で震えていた航大の背中を思い出して、たまらない気持ちになっていた。

 賑やかだった母さんや姉ちゃんの声が消えると、広すぎる屋敷は、急に温度を失ったみたいに冷たく感じられた。
 その奥で、航大は今、どんな顔をして、じいちゃんの隣にいるのだろう。

 すっかり日は傾いたというのに、背後の山から盛大な蝉の合唱が降ってくる。
 その中に、一瞬だけ、蝉ではない何かが混じった気がして、思わず振り返る。

 そこには、鬱蒼とした木々の影が見えるばかりで、目新しいものは何もない。
 それが何の音だったのか、俺にはわからなかった。