半年後。
卒業式を終えたその足で、俺は新幹線に飛び乗った。
胸には、後輩につけてもらった小さなブーケが、まだ揺れている。
水守に一番近い新幹線の駅に着く頃には、夕方になっていた。
事前に車両番号を伝えていたから、ホームには詰襟姿の航大が待ち構えていた。
俺を見るなり、勢いよく飛びかかってくる。
バカだろ、お前は。
こんなところでイチャついたら、周りの奴ら、ドン引きすんぞ。
そう言ってやりたいけど……無理だ。
俺も、一秒たりとも我慢できない。
キスされたら、「仕方ないなぁ……」って受け入れてやるつもりだった。
だけど、航大はこの半年の間に、ちゃんと『待て』を覚えたようだ。
「卒業、おめでとう」
耳朶に触れるか触れないかのところで囁き、ギュッと強く俺を抱きしめた後、すぐに解放する。
たった一週間ぶりの抱擁なのに。
離れてゆく腕を、もう寂しく思ってしまう。
その寂しさを見透かしたみたいに、不意打ちで手を握られた。
周囲の人たちが、ざわつくのがわかる。
けれど、気にせず、俺は航大の手を握りかえした。
三月一日。
今日は互いの高校の卒業式であり、航大の十八歳の誕生日でもある。
一ヶ月前、欲しいものは何か尋ねると、『優馬』と即答された。
そう。俺たちは律儀に、高校卒業と航大の成人まで、待ち続けたのだ。
夏休み以降、俺は、母の要請を受け入れる形で、毎週末、神崎家に通って家事を担当することになった。
本当のことを言うと、じいちゃんは目覚ましい速度で家事を覚え、今では自分で洗濯をするし、お掃除ロボットまで購入して、広い屋敷を清潔に保っている。
米も炊けるし、味噌汁も野菜炒めも、航大よりずっと上手に作る。
それでも——あえて、『もう大丈夫だ』と言わないでくれている。
あの夏、廃校で撮った航大の写真は、コンクールに入選した。
講評には、『被写体への距離感が極めて切実で美しい』とあった。
俺の気持ちは、写真にまで写っていたらしい。
同じ写真を受験のポートフォリオにも入れた。
特別講師を務める著名な写真家に「この一枚が、いちばん強い」と言われた時、嬉しさより先に、少しだけ照れくさくなった。
あの夏、俺は航大を忘れるために、航大を撮ろうとした。
だけど結局、その写真に背中を押されて、第一志望だった東京の芸術大学の写真学科に通えることになったのだ。
航大も、第一志望の地元国立大学の医学部に合格した。
どちらも妥協しなかった。
それでも、二人で生きていく道を選んだ。
いつものように在来線の乗り換え口に向かおうとして、航大に強く手を引かれた。
「近くの駐車場に、車、停めてある」
「えっ……!? お前、このあいだ自動車学校入ったばっかだよな」
「一刻も早く欲しくて、受けてみたら一発で受かった」
「嘘だろ。え、ちょっと待って。めちゃくちゃ怖いんだけど……!」
確かに航大の頭なら、あの分厚いテキストを一日で暗記することだって可能かもしれない。
だけど運転実習は、いったいどうなってるんだ……!?
俺の心配をよそに、航大の運転は、驚くほど安定していた。
「すげぇ……。なんで乗れるの!?」
「言っただろう。俺は、器用なんだ。料理以外はな」
そんなふうに言うと、航大は信号待ちの間に、助手席に座る俺の頬に、キスまでしてきやがった。
なんだ、その余裕は。
いまだに米も炊けないくせに生意気だ。
じいちゃんから誕生日プレゼントに購入してもらったという車は、シンプルな国産の小型車だった。
「もっと高そうな車のがよかったか?」
「いや。航大らしくていいと思う。これがあれば、買い出しも楽々だな。スーパー、行くだろ? 航大の好物、全部作ってやるよ」
「いや。今日は、スーパーには行かない」
やんわりと、でも、きっぱりとそう言い切ると、航大は本当にどこにも寄らず、まっすぐ神崎の屋敷まで車を走らせた。
家に着くなり、抱きすくめられ、思いきりキスをされる。
「おい、ちょっと待て——。そろそろ、じいちゃん帰ってくるだろ……?」
「いや。今日は帰ってこない。透おじさんと郁人さんと、温泉に行ってるから」
「は!? 今日ド平日だぞ。なんでそんな日に温泉に……っ」
靴を履いたまま姫抱きにされ、そのまま室内に連れ込まれそうになる。
「航大、おい、靴! 靴、まだ履いたままだって」
抗って、なんとか靴を脱がさせてもらうと、またすぐに抱き上げられた。
それが——三時間前。
さすがに、そろそろ限界だ。
「なぁ……航大、腹、減らない……? 夕飯、食お……っ」
最後まで言う前に、がっつくようにくちづけられ、それから更に二時間——。
「い……いい加減にしろ……!」
航大の髪を引っ掴んで、思いきり引っ張る。
「これ以上したら絶交だからな!」
航大の動きが、ぴたりと止まった。
よし。
最高の命令語<コマンド>を手に入れた。
名残り惜しそうな顔をする航大の頬を、ペち、と軽く叩き、俺はベッドから起きあがろうとした。
うまく立ち上がれずに、よろけて転びそうになる。
航大が抱き支えて、またベッドに連れ戻そうとするから、今度は鼻の頭に噛みついてやった。
航大に支えられながら台所まで向かい、冷蔵庫を開く。
冷やご飯で炒飯でも作ってやろう、と思っていたのに。
冷蔵庫内には、デパ地下で買ったと思しき、ご馳走がたくさん用意されていた。
おまけに、小さなケーキまで。
考えなしのばかわんこのままだと思っていたけれど——だいぶ、成長しているらしい。
「ここに座ってろ」
航大は俺を椅子に座らせると、てきぱきと惣菜類を温め、テーブルに並べた。
驚くことに、ノンアルコールのスパークリングワインまで用意されている。
「ごめんな。——しんどくなるまでシて。どうしても、止まらなかった」
真顔でそんなことを言うな。
叱り飛ばしてやりたいけど、本当に嫌なら、俺だってとっくに止めている。
二人で選んだことだ。
謝られる筋合いなんてない。
「罰として、次は半年後な」
航大の瞳が、大きく見開かれる。
今にも泣き出しそうな顔をされて、「ばか。嘘だよ、嘘」と訂正してやった。
思いきり、抱きすくめられる。
このままベッドに連れ戻されるのだけは、回避しなくてはいけない。
「食べよう。冷める前に」
「ああ……」
少しだけ名残り惜しそうにしながらも、航大は素直に従った。
「優馬」
向かいの席から、航大が真剣な顔で俺を見た。
「何だよ」
「今度、米の炊き方をもう一度教えてくれ」
「まだそこ!?」
「仕方ないだろ。お前と生きていくには、生活力の向上が必要だ」
あまりにも真面目な顔で言うから、俺は堪えきれずに吹き出した。
航大は少し不服そうに眉を寄せる。
ああ、やっぱり俺は、この男が好きだ。
完璧なくせに、米も炊けない。
不器用なくせに、人の手だけは絶対に離さない。
そんな航大と二人で、俺はこれからも生きていく。
何もかも簡単にはいかないだろう。
互いを隔てる距離は遠くて、選ぶ未来も、大きく異なっている。
それでも、もう、諦めるつもりはない。
俺はテーブルの下で、航大の足を軽く蹴った。
「じゃあ明日の朝、特訓な」
「ああ。頼む」
真面目に頷く航大を見て、また笑ってしまう。
水底から呼ぶ歌は、もう聞こえない。
代わりに聞こえるのは、食器の触れ合う音と、航大が俺の名前を呼ぶ声。
もう離さない、なんて、刹那的な言葉は要らない。
離れても、また会いにくればいい。
迷いそうになったら、黙り込まず、ちゃんと気持ちをぶつけ合えばいい。
どんなに離れたって大丈夫。
俺たちはもう、知っている。
欲張って、全部抱えて、生きていっていいのだと。
航大の手が伸びてきて、俺の手のひらを、ぎゅっと握りしめる。
そんなふうにしたら、メシ、食えないだろ。
心の中で悪態を吐きながらも、俺は、愛しい男の手を、ぎゅっと握り返した。
卒業式を終えたその足で、俺は新幹線に飛び乗った。
胸には、後輩につけてもらった小さなブーケが、まだ揺れている。
水守に一番近い新幹線の駅に着く頃には、夕方になっていた。
事前に車両番号を伝えていたから、ホームには詰襟姿の航大が待ち構えていた。
俺を見るなり、勢いよく飛びかかってくる。
バカだろ、お前は。
こんなところでイチャついたら、周りの奴ら、ドン引きすんぞ。
そう言ってやりたいけど……無理だ。
俺も、一秒たりとも我慢できない。
キスされたら、「仕方ないなぁ……」って受け入れてやるつもりだった。
だけど、航大はこの半年の間に、ちゃんと『待て』を覚えたようだ。
「卒業、おめでとう」
耳朶に触れるか触れないかのところで囁き、ギュッと強く俺を抱きしめた後、すぐに解放する。
たった一週間ぶりの抱擁なのに。
離れてゆく腕を、もう寂しく思ってしまう。
その寂しさを見透かしたみたいに、不意打ちで手を握られた。
周囲の人たちが、ざわつくのがわかる。
けれど、気にせず、俺は航大の手を握りかえした。
三月一日。
今日は互いの高校の卒業式であり、航大の十八歳の誕生日でもある。
一ヶ月前、欲しいものは何か尋ねると、『優馬』と即答された。
そう。俺たちは律儀に、高校卒業と航大の成人まで、待ち続けたのだ。
夏休み以降、俺は、母の要請を受け入れる形で、毎週末、神崎家に通って家事を担当することになった。
本当のことを言うと、じいちゃんは目覚ましい速度で家事を覚え、今では自分で洗濯をするし、お掃除ロボットまで購入して、広い屋敷を清潔に保っている。
米も炊けるし、味噌汁も野菜炒めも、航大よりずっと上手に作る。
それでも——あえて、『もう大丈夫だ』と言わないでくれている。
あの夏、廃校で撮った航大の写真は、コンクールに入選した。
講評には、『被写体への距離感が極めて切実で美しい』とあった。
俺の気持ちは、写真にまで写っていたらしい。
同じ写真を受験のポートフォリオにも入れた。
特別講師を務める著名な写真家に「この一枚が、いちばん強い」と言われた時、嬉しさより先に、少しだけ照れくさくなった。
あの夏、俺は航大を忘れるために、航大を撮ろうとした。
だけど結局、その写真に背中を押されて、第一志望だった東京の芸術大学の写真学科に通えることになったのだ。
航大も、第一志望の地元国立大学の医学部に合格した。
どちらも妥協しなかった。
それでも、二人で生きていく道を選んだ。
いつものように在来線の乗り換え口に向かおうとして、航大に強く手を引かれた。
「近くの駐車場に、車、停めてある」
「えっ……!? お前、このあいだ自動車学校入ったばっかだよな」
「一刻も早く欲しくて、受けてみたら一発で受かった」
「嘘だろ。え、ちょっと待って。めちゃくちゃ怖いんだけど……!」
確かに航大の頭なら、あの分厚いテキストを一日で暗記することだって可能かもしれない。
だけど運転実習は、いったいどうなってるんだ……!?
俺の心配をよそに、航大の運転は、驚くほど安定していた。
「すげぇ……。なんで乗れるの!?」
「言っただろう。俺は、器用なんだ。料理以外はな」
そんなふうに言うと、航大は信号待ちの間に、助手席に座る俺の頬に、キスまでしてきやがった。
なんだ、その余裕は。
いまだに米も炊けないくせに生意気だ。
じいちゃんから誕生日プレゼントに購入してもらったという車は、シンプルな国産の小型車だった。
「もっと高そうな車のがよかったか?」
「いや。航大らしくていいと思う。これがあれば、買い出しも楽々だな。スーパー、行くだろ? 航大の好物、全部作ってやるよ」
「いや。今日は、スーパーには行かない」
やんわりと、でも、きっぱりとそう言い切ると、航大は本当にどこにも寄らず、まっすぐ神崎の屋敷まで車を走らせた。
家に着くなり、抱きすくめられ、思いきりキスをされる。
「おい、ちょっと待て——。そろそろ、じいちゃん帰ってくるだろ……?」
「いや。今日は帰ってこない。透おじさんと郁人さんと、温泉に行ってるから」
「は!? 今日ド平日だぞ。なんでそんな日に温泉に……っ」
靴を履いたまま姫抱きにされ、そのまま室内に連れ込まれそうになる。
「航大、おい、靴! 靴、まだ履いたままだって」
抗って、なんとか靴を脱がさせてもらうと、またすぐに抱き上げられた。
それが——三時間前。
さすがに、そろそろ限界だ。
「なぁ……航大、腹、減らない……? 夕飯、食お……っ」
最後まで言う前に、がっつくようにくちづけられ、それから更に二時間——。
「い……いい加減にしろ……!」
航大の髪を引っ掴んで、思いきり引っ張る。
「これ以上したら絶交だからな!」
航大の動きが、ぴたりと止まった。
よし。
最高の命令語<コマンド>を手に入れた。
名残り惜しそうな顔をする航大の頬を、ペち、と軽く叩き、俺はベッドから起きあがろうとした。
うまく立ち上がれずに、よろけて転びそうになる。
航大が抱き支えて、またベッドに連れ戻そうとするから、今度は鼻の頭に噛みついてやった。
航大に支えられながら台所まで向かい、冷蔵庫を開く。
冷やご飯で炒飯でも作ってやろう、と思っていたのに。
冷蔵庫内には、デパ地下で買ったと思しき、ご馳走がたくさん用意されていた。
おまけに、小さなケーキまで。
考えなしのばかわんこのままだと思っていたけれど——だいぶ、成長しているらしい。
「ここに座ってろ」
航大は俺を椅子に座らせると、てきぱきと惣菜類を温め、テーブルに並べた。
驚くことに、ノンアルコールのスパークリングワインまで用意されている。
「ごめんな。——しんどくなるまでシて。どうしても、止まらなかった」
真顔でそんなことを言うな。
叱り飛ばしてやりたいけど、本当に嫌なら、俺だってとっくに止めている。
二人で選んだことだ。
謝られる筋合いなんてない。
「罰として、次は半年後な」
航大の瞳が、大きく見開かれる。
今にも泣き出しそうな顔をされて、「ばか。嘘だよ、嘘」と訂正してやった。
思いきり、抱きすくめられる。
このままベッドに連れ戻されるのだけは、回避しなくてはいけない。
「食べよう。冷める前に」
「ああ……」
少しだけ名残り惜しそうにしながらも、航大は素直に従った。
「優馬」
向かいの席から、航大が真剣な顔で俺を見た。
「何だよ」
「今度、米の炊き方をもう一度教えてくれ」
「まだそこ!?」
「仕方ないだろ。お前と生きていくには、生活力の向上が必要だ」
あまりにも真面目な顔で言うから、俺は堪えきれずに吹き出した。
航大は少し不服そうに眉を寄せる。
ああ、やっぱり俺は、この男が好きだ。
完璧なくせに、米も炊けない。
不器用なくせに、人の手だけは絶対に離さない。
そんな航大と二人で、俺はこれからも生きていく。
何もかも簡単にはいかないだろう。
互いを隔てる距離は遠くて、選ぶ未来も、大きく異なっている。
それでも、もう、諦めるつもりはない。
俺はテーブルの下で、航大の足を軽く蹴った。
「じゃあ明日の朝、特訓な」
「ああ。頼む」
真面目に頷く航大を見て、また笑ってしまう。
水底から呼ぶ歌は、もう聞こえない。
代わりに聞こえるのは、食器の触れ合う音と、航大が俺の名前を呼ぶ声。
もう離さない、なんて、刹那的な言葉は要らない。
離れても、また会いにくればいい。
迷いそうになったら、黙り込まず、ちゃんと気持ちをぶつけ合えばいい。
どんなに離れたって大丈夫。
俺たちはもう、知っている。
欲張って、全部抱えて、生きていっていいのだと。
航大の手が伸びてきて、俺の手のひらを、ぎゅっと握りしめる。
そんなふうにしたら、メシ、食えないだろ。
心の中で悪態を吐きながらも、俺は、愛しい男の手を、ぎゅっと握り返した。
