夏の終わりに唄う歌

 夏祭りは、即刻中止となった。
 
 溺れることなどないはずの人工池で神崎家の当主が溺れそうになり、それを助けようとした孫が、忽然と姿を消した。

 多くの人が目撃したことで、水神様の池の怪異は、ただの噂では済まされなくなった。

 祭りの翌日には、池の水を抜くため、周辺の木々が伐採され、巨大なポンプ車が何台も集結した。
 数日かけて水を吸い上げると、水底からは、大量の人骨が発見された。

 翔太。
 澄也さん。
 じいちゃんの弟。
 そして——遺書を残して姿を消したまま、ずっと見つからなかった航大の母親の骨も、そこで見つかった。

 航大の父親は、池の前に立ち尽くしたまま、最後まで何も言わなかったらしい。
 泣いたのかどうかも、俺は知らない。

 航大はその日以来、父親のことを語るとき、以前ほど強い否定の言葉を使わなくなった。

 空っぽになった池は埋め立てられ、慰霊碑が建てられることになった。
 人骨の大半は、身元不明のままだ。

 郁人さんが調査を続けていた、『余り子』の記録。
 言い伝えや古文書の中に、わずかに残されていた氏名の記録をのぞけば、彼らの名前さえ、知ることはできない。

 それでも——。
 たったの百年かそこら前まで、その場所で悲しい出来事が繰り返されていた事実と、その痕跡は、白日の元に晒されることになったのだ。

 ワイドショーやネットニュースがおもしろおかしく取り上げ、水守の名は、広く世に知られることになった。
 
 長年、水守の『余り子捨て』について調べ続けていた郁人さんは、この件の専門家として、テレビや動画配信チャンネルに引っ張りだこだ。

 いくつか観てみたけれど、彼はどの番組でも、この因習が水守独自のものではなく、様々な土地で行われていた、普遍的で悲しい行為なのだと、繰り返し伝えていた。

 あれ以来、怪異はいっさい起こらなくなった。
 野次馬やマスコミが大量に押し寄せ、水守は騒々しい日々が続いているけれど、おそらくこれも、数ヶ月もすれば、自然と収まるのだろう。

 今日は、八月三十日。
 俺は明日の新幹線で、東京に帰る。

 ひと足早く夏休みが終わり、通常授業の始まっている航大と違い、ウチの学校は八月末日まで休みなのだ。
 
 怒涛のような日々を思い出しながら、俺は、揚げ油の中に、甘酸っぱい香りのする生地を投入した。

「もう夕飯の準備をしているのか?」
 背後から声をかけられ、ゆっくりと振り返る。

 そこには、夏制服姿の航大の姿があった。
 相変わらず、ひと目見ただけで鼓動が早くなるほど、とてつもなく格好がいい。

 もう、誤魔化すのはやめた。
 俺は、この男が好きだ。
 どうしようもなく。

「違うよ、これは……お前を泣かすための秘密兵器」

「なんだよ、それは」

 怪訝な顔をしながら近づいてくる航大に、すでに第一陣として、揚げ上がっているそれを、差し出す。
 
 油紙の上にちょこんと鎮座したそれは、こんがりときつね色に揚がったレモンドーナツだ。

「これは……」
 航大の目が、大きく見開かれる。

「食べろよ。熱々のうちに。揚げたて、絶対おいしいから」

 航大は律儀に手を洗って、「いただきます」と頭を下げた後、それを、口に運ぶ。

 大きな口で頬張り、しばらく咀嚼した後、唸るような声を漏らした。

「うまい……!」

「当然だ。渾身の一作だからな」

 こっそり研究し続けていたのだ。
 祖母の味に近づけるまで、かなりの労力を要した。
 味見役を押し付けられたじいちゃんが、うんざりするほどに。

 航大は、最後のひとかけらまできれいに食べ終えると、唐突に、俺を抱きしめた。

 突然の抱擁に、息が止まりそうになる。

 あの夜——航大にキスされたけれど、それ以降、それらしいことは、何もなかった。
 あまりにも色んなことが起こりすぎて、互いにうまく消化しきれなくなってしまったのだ。
 
「優馬——好きだ。お前のためなら、俺は——全部、捨てられる。ここを出て、お前と……」

「はぁ? 何言ってんの。ダメだろ、捨てたら」

 渾身の、告白なのだと思う。
 嬉しい。
 嬉しい、けど。
 だけど、これは違う。
 これは——ヤケクソになって諦めるのと、同じだ。

「俺が好きな航大は、じいちゃん思いで、優しくて、責任感のある航大だぞ? 目の前でじいちゃんが溺れそうになったら、即座に俺の手を離して、じいちゃんを助けに行く。そういう航大に惚れたんだぞ?」

「優……馬……?」

「お前だって、そうだろ。色ボケして、航大のことしか見えなくなって、じいちゃんが目の前で溺れそうなのに、何にもしない俺が好きか?」

「いや……それは……」
 
 あの時、航大も俺も、咄嗟に互いの手を離した。
 目の前で溺れる祖父が、自分や航大よりずっと、か弱い存在だと思ったからだ。
 少なくとも、物理的には。

 恋は、大事だ。
 だけど、それ以外のことも、大事。

 俺の、航大への想いは、何もかも捨てて結ばれることを望むような、そんな、刹那的なものじゃない。

「捨てなくていい。諦めなくていいんだ。——じいちゃん孝行も、集落の人たちの期待も、俺との関係も、全部、手に入れろよ。——少なくとも、俺はそうするよ」

「どうやって……?」
「さあ。それはお前が考えろよ。俺は、全部欲張るって決めたよ」

 志望校への進学も、航大との恋も、諦めない。

「身近に、めちゃくちゃいいお手本があるだろ」
「は……?」

 航大が、怪訝そうに眉を寄せる。

「透おじさんと郁人さん。あの人たち、国境を越えて、付き合ってるだろ。遠く離れてても、ちゃんと愛し合えてる」

「えっ……!? 何!? あの二人、そういう……!?」

 航大の声が、盛大に裏返る。

 ああ、この男は、どこまで鈍いんだ。
 どこからどう見たって、あれは、愛し合う恋人同士じゃないか。

「お前……もしかして、俺がお前のこと好きなのも、気づいてなかったの?」
「いつから!?」
「いつかな……。うーん、わかんないけど……翔太が生まれた頃くらい?」
「は!?」

 理解不能な目で、航大が俺を見る。
 
「嘘だろ!? ちょっと待て。なんでそれを早く言わないんだ……!」
「言えるかよ、ばか! お前だって、何も言わなかっただろ!? ぜんっぜん、好きなそぶりとか、示さなかったし」

 最後まで言う前に、ぎゅううっと抱きしめられた。
「わ、こら、離せ! 火、ついてんだよ! 危ない……!」
「消す」
 航大は、短く言うと、俺を抱きしめたまま、もう片方の手でガス台の火を止めた。

 ぱちぱちと跳ねる、揚げ油の音。
 知らないぞ。
 火を止めたって、油の温度は、すぐには下がらない。
 このまま放っておいたら、せっかくのレモンドーナツが黒焦げだ。

「優馬……!」
 航大の手のひらが、俺の頬をぐっと掴む。
 キスされそうになって、俺は、航大の額を押し除けるようにして顔を背けた。

「だからやめろって言ってるだろ! ただでさえ、初めてのキスが、あんな、ぐだぐだだったのに……。せめて二回目くらい、ちゃんとしたのにしろよ!」

「ちゃんとしたのって、どんなだよ」
「どんなって……そりゃ……」

 姉ちゃんに勧められて読んだ少女漫画の中の数々のキスシーンが、脳裏に蘇る。

 優しくて、蕩けそうに甘くて、きれいなキス。
 言葉にした途端に、陳腐になって、笑い飛ばされてしまいそうだ。

「ああ、もう、いいから離せよ! 俺が、見本見せるから……!」

 そう叫んでみたものの、キスなんて、どうやってしたらいいのか、わからない。
 おまけに、航大は俺の顔を凝視したまま、目を閉じようともしない。

「とりあえず、目、閉じろよ」
 そう命じると、航大は、大人しく俺の言葉に従った。
 ぎゅっと目を閉じたその顔は、とても緊張しているように見える。
 顔立ちは相変わらずかっこいいのに、ちょっと可愛らしくて、ウケる。

 そっと、その頬に触れてみる。
 触れたくて、触れたくて、たまらなかった、大好きな航大の顔。

 精悍なその顔立ちを確かめるみたいに指の腹でなぞって、背伸びをするようにして、そっと唇を近づける。

 ばくばくと暴れる心臓。
 押さえ込むようにして、おずおずと唇を重ね合わせる。

 優しく、触れるだけのキス。

 航大の唇は、想像していたよりずっと柔らかくて、けれども、日焼けのせいか、少しかさついていた。
 そんなところさえ、愛おしく感じられる。

 小さく、啄むみたいなキス。
 何度か繰り返すと、硬く閉ざしていた航大の唇がわずかに開き、熱い吐息が漏れ出してきた。

「……っ」
 何かを堪えるように短く息を吐いて、航大は、俺の体を抱きしめる。

 顎を掴まれ、深く、深く、くちづけられた。
 重なった唇から、さっきのレモンドーナツの、油の甘さと爽やかな酸味が移ってくる。

 あぁ、ほら、また……。
 味だけは、甘酸っぱくて満点なのに。
 俺が夢見ていたのとはまったく違う、荒々しいキスが始まる。

 けれども、がっつくみたいな性急ささえ愛おしくて、俺はめいっぱい手を伸ばし、航大の広くて逞しい背中を、ぎゅうっと抱きしめかえした。