夏の終わりに唄う歌

 空が藍色に染まり始めた頃、俺と航大は、それぞれじいちゃんの甚平を着て、神社へと向かった。

 じいちゃんの甚平は、俺には少し大きかった。
 けれど、航大が着ると、同じ甚平とは思えないくらい、さまになる。

 紺色の生地から伸びる、日に焼けた腕。
 競泳で鍛えられた肩の厚み。
 すっと伸びた背筋。
 甚平姿の航大は、腹が立つくらい男らしくて、かっこよかった。

 ずっと見ていたい。
 でも、さすがに見続けていると、おかしいと思われる。
 だから俺は、少しだけ息を整えて、肩から下げたカメラを構えた。

 今夜の俺には、堂々と見つめるための言い訳がある。

「航大。写真撮らせて」
「ここで、か……?」
 境内へ続く石畳の道で、航大が不思議そうに振り返る。

「うん。境内は人が多いだろ。空いてるうちに、何枚か撮っておきたい」

「……好きにしろ」

 そう言いながら、航大はほんの少しだけ顎を引いた。
 レンズを向けた瞬間、表情が固くなる。
 相変わらず、写真を撮られるのが下手くそだ。

 自然にしててくれよ、と言うと余計に固まる。
 笑って、と言えば、証明写真みたいな顔になる。
 だから俺は、何も言わずにレンズ越しに航大を見つめ続けた。

 暮れ残る空。
 石畳に落ちる、提灯の淡い光。
 その中に立つ、甚平姿の航大。

 ただそこにいるだけで、絵になる。
 ああ、俺はこの男が好きなのだ、と改めて思った。

 しばらくすると、航大の肩から、少しずつ力が抜けていった。
 こちらを警戒するような目つきが、ふっと緩む。

 今だ。
 俺は迷わずシャッターを切った。

 カシャ、と小さな音が響く。
「ほんっと、ムカつくくらい、いい男だな」
 撮り終えた写真を液晶で確認しながら、思わず悪態が漏れた。

「……お前が言うと、嫌味に聞こえる」
 航大はむっとした顔で、俺の肩を軽く小突いた。

 終わりにするための、夏。
 そのはずなのに。
 航大への想いは、この夏の間に、抱えきれないほど大きくなってしまった。
 
 目を閉じて、深呼吸する。
 今夜、時が止まってしまえばどんなにいいか。
 そんな情けないことを、願わずにはいられなかった。

 石段を登ると、ずらりと並ぶ屋台が見えてきた。

 たこ焼き、焼きそば。
 りんごあめ、チョコバナナ。
 航大の大好きな、かき氷もある。

 甘い匂いと、ソースの焦げる匂い。
 境内は、例年どおり、とても賑わっていた。
 普段は静かな水守に、こんなにも人が集まっているなんて、本当に不思議だ。

「あれ……」
 人混みの向こうに、やけに目立つ男の姿が見えた。

「なあ、あれ、透おじさんじゃない?」
「――本当だ。なんで、こんなところに……」
 ド派手な浴衣をまとい、無造作に伸ばした黒髪をハーフアップにした、無精髭の長身の男。
 片田舎の祭りで、あんなに目立つオーラを放つ男は、おそらく他にはいない。

「透おじさん!」
 大きく手を振って名前を呼ぶと、透おじさんはこちらに気づき、ぱっと顔を明るくした。

 その隣には、落ち着いた色の浴衣を着た郁人さんもいる。
 郁人さんは、俺たちを見つけると、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。

「おお、久々だな! 優馬。大きくなったなぁ……!」

 透おじさんは大股で近づいてくると、両手を広げた。
 どう見てもハグする気満々だ。

 けれど、その腕が俺に届く前に、航大が素早く俺の腕を掴み、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。
 透おじさんの腕が、空を切る。

「なんだよ、航大。相変わらず思春期拗らせてんのか?」

 透おじさんが豪快に笑う。
 その隣で、郁人さんが困ったように苦笑した。

「ここのところ、すっかり番犬スイッチが入っちゃってるらしくてね。優馬くんのことが、心配で仕方ないみたいなんだ」

「番犬って……」
 言い返そうとしたけれど、航大の手は俺の腕から離れない。
 否定する気もないらしい。
 警戒心むき出しのその姿は、がるると唸る番犬そのものだ。

 透おじさんは、俺の首元に下がっているお守りに目を留め、笑みを消した。

「あの歌が、聞こえるんだって?」
 さっきまでの軽い空気が、一気に緊迫感のあるものに変わる。

「うん。でも――郁人さんにお守りをもらってからは、何も聞こえてないよ。風呂に入る時も、航大が警戒してくれてるから、何も出ないし」

「は!? お前ら、一緒に風呂入ってるのか!? おいおい、距離感どうなってんだよ」

「透。未成年者をからかわない」
 郁人さんが即座にたしなめる。

「航大くんは優馬くんのことを心配して、サーフパンツを履いて浴室内の見張りをしてるんだよ」
「サーフパンツ!? なんだ、そりゃ……」

 透おじさんが呆れた顔で航大を見る。
 航大は不貞腐れたように、そっぽを向いた。

「必要な措置です」
「いや、真顔で言われてもなぁ……」

 透おじさんは呆れた顔で、航大を一瞥した。

「まあ、何事もないならいいんだけどさ。だけど――絶対に、あの池にだけは近づくなよ」

「わかってるよ。翔太がいなくなってから、一度も行ってないし、これからも行くつもりはない」

「ならいい。あそこだけは、本当に洒落にならん」
 透おじさんの声は、いつになく険しかった。

「今は神事も、あの池ではやらないんだよね?」
 郁人さんの問いに、透おじさんは頷く。

「ああ。澄也がいなくなってからは、危ないからってことで、境内の池で代用することになったんだ」

「神事?」
 聞き返すと、透おじさんがこちらを見た。

「知らないのか? 祭りの初日に、灯籠を池に浮かべるんだ。水神様が、水底から上がってくる際の、目印にするらしい」
「あぁ……そういえば、なんか聞いたことがあるかも。神主さんが浮かべるの?」

「いや。あれは――神崎の当主の仕事だ。じいさんがやるんだよ」

 そういえば、じいちゃんは毎年、祭りの日になると、紋付袴を着て朝から神社へ行く。
 色々としなくちゃいけない仕事がある、と言っていた気がする。
 俺は、屋台にしか興味がなかったから、気に留めたこともなかったけど。

「じいちゃんの晴れ舞台か。写真、撮ろうかな」

「やめろ」
 間髪入れず、航大が険しい声で言った。

「危険だ」
「そんなに怖い顔するなよ、航大」
 透おじさんが苦笑する。

「境内の池は人工の浅いやつだ。コンクリートでできた、ただの飾り池だよ。水底も見えるし、あんなもの、幼稚園児だって溺れようがないぞ」

「深さの問題じゃない」
 航大の声は硬かった。

「確かに、あの灯籠は絵になるかもしれないね」
 郁人さんが、場をやわらげるように言った。

「淡い緑色で、すごく綺麗なんだ」
「そうなんですか? 見てみたいな」

 郁人さんはスマートウォッチで時間を確認した。
「確か、十九時からだよね。もうすぐ始まるよ」
 航大が、俺の腕を掴む手に力を込める。

「航大、頼む。行かせてよ」
「……絶対に、俺から離れないと誓うか?」
「誓うよ。なんなら、腕、ずっと掴んでてもいいし」

 航大は少し考えるような顔をして、俺の腕から手を離す。
 直後、俺の手のひらをぎゅっと握りしめた。

 指と指が、深く絡む。
 ――恋人繋ぎ、だった。

「っ……!」

 声が出そうになって、慌てて飲み込む。

 手のひらが熱い。
 航大の体温が、直に伝わってくる。

 心臓が、信じられないくらいうるさい。
 透おじさんが、からかうように口笛を吹いた。
 郁人さんが、たしなめるように透おじさんの腕を軽く叩く。
「透」
「わかった、もうしない。いちいち怒るなよ」
 透おじさんは両手を上げて降参のポーズを取る。
 けれど、その目は完全に面白がっていた。

 郁人さんは、申し訳なさそうに俺を見た。
「ごめんね。あとで、しっかり叱っておくから」
 なんで郁人さんが謝るのかわからない。
 わからないけど、今の俺にはそれどころじゃなかった。

 お祭りの夜に、男同士で手を繋いで歩くなんて。
 絶対に、おかしいと思われる。

 そう思って不安になったけれど、俺の心配はほとんど無意味だった。

 透おじさんが、あまりにも目立ちすぎて、誰も俺たちのことを気にしていないからだ。

「なんだ、透! 今頃帰ってきたのか!?」
「お前、親の葬式にも顔出さんで、何を考えとるんだ!」
 あっという間に、透おじさんは大人たちに囲まれた。
 背中を小突かれ、肩を叩かれ、説教されているのか歓迎されているのかわからない状態になっている。

「――どうしても外せない手術があったんですよ。この通り、初盆には間に合ったんで。許してやってください」

 透おじさんは苦笑しながら、何度も頭を下げている。
 郁人さんは少し離れたところで、ニコニコしながらそれを眺めていた。

 しばらくすると、透おじさんは大人たちをうまくあしらい、郁人さんと一緒に俺たちのほうへ戻ってきた。
「あそこだ。ほら、もう人が集まってる」
 透おじさんが、境内の一角にできた人だかりを指差した。

 背伸びをするようにして覗き込むと、透おじさんの言った通り、それは、ごく浅い飾り池だった。
 石で縁取られた、四角い水盤のようなもの。
 水面には、近くの提灯の光がゆらゆらと映っている。

 しばらくすると、ドン、と太鼓が打ち鳴らされ、笛の音が流れ始める。
 人垣の向こうから、低いざわめきが起きた。

 紋付袴姿のじいちゃんが、神主に付き添われて歩いてくる。
 背筋を伸ばし、厳かな顔で、ゆっくりと池の前に進み出る。
 その手には、大きな灯籠があった。

 淡い緑色の光を宿した、紙の灯籠。
 ぼんやりと揺れるその光を見た瞬間、なぜか耳の奥で、水音がした気がした。

 ぽちゃん。

 俺は反射的に息を止めた。

 航大が、すぐに俺を見る。

「……聞こえたのか」
「わからない」

 声が、かすれた。

「でも……今、何か」
 言い終える前に、じいちゃんが膝を折り、灯籠を水面に浮かべようと手を伸ばした。

『みなそこさま』

 歌だ。
 あの歌が聞こえる。
 
「航大。まずい、あの歌だ……!」
 叫んだ瞬間、ざばぁっと、穏やかだった水面から柱のように水が噴き上がった。
 勢いよく飛び散った水が、じいちゃんに降り注ぎ、灯籠を持つ手首に絡みつく。

「じいちゃん……!」
 航大と俺は、繋いでいた手をパッと離し、同時に駆け出していた。
 人だかりを押し除けるようにして、じいちゃんに駆け寄る。
 
 それは、とてつもなく異様な光景だった。
 水深十センチにも満たないはずの飾り池に、じいちゃんが引き摺り込まれそうになっている。
 コンクリートのはずの水底が、ずぶずぶとじいちゃんを飲み込んでゆく。
 俺と航大は、左右からじいちゃんを抱えるようにして、必死に引っ張った。

『みなそこさま』

『みなそこさま』

『だあれが泣くの』

 歌声に合わせ、ざばぁっと水柱が上がる。
 頭から勢いよく水を被ったその瞬間、両腕で抱えたじいちゃんの重みが、ふっと消えた。

 反射的に閉じていた目を、ゆっくりと開く。

 祭り囃子も、はしゃぎまわる子どもたちの声も、聞こえない。
 提灯の灯りもない。
 踏みしめていたはずの硬い石畳の感触は消え、ぬかるんだ泥が足首を這い上がってくる。

 静まりかえった森。
 月明かり。
 黒々と口を開ける、池。

「ここは……」
 そこは、俺たちが六年前から一度も近づかなかった場所。
 ——水神様の池だった。