午後からは、図書館の閲覧室で、貸し出し予約のメールや伝票を整理する仕事を手伝った。
職場では、郁人さんは、いっさいあの池の話をしなかった。
屋上で、あんな会話をしたのが嘘みたいに、穏やかで静かな時間が過ぎてゆく。
アルバイトが終わる十六時ちょうどに、航大が図書館まで迎えに来た。
航大の姿を目にした郁人さんは、優しそうに目を細める。
「きみが航大くんだね……。彰大さんにそっくりだ」
あんな男と航大が似ているなんて、考えたくもない。
思わず不快さが顔に出てしまった俺をよそに、航大はにっこりと大人の笑みを作り、答えた。
「よく言われます。水野郁人さんですね。透おじさんが、いつもお世話になっています」
「いやいや、お世話になってるのは、僕の方だよ。——このたびは、ご愁傷様でした」
神妙な顔で、郁人さんはお悔やみの言葉を口にした。
航大は黙って一礼した後、ちらりと俺に視線を向けた。
その目が、早く行くぞ、と言っている。
航大は当然のように、俺の腕を掴んだ。
「では、失礼いたします」
「あのさ、こんなに人がたくさんいるんだから、ここでは大丈夫だって」
「どうだかな。お前は、昔からすぐ迷子になる」
航大は郁人さんにもう一度頭を下げると、俺の腕を掴んだまま大股で歩き出す。
「郁人さん、お先に失礼します……!」
「またね、優馬くん。お疲れさま」
ひらひらと手を振る笑顔の郁人さんから引き剥がされるように、俺は閲覧室の外に引き摺り出された。
腕を掴む航大の手は、やけに強い。
そんなに急がなくたって、俺はどこにも行かないのに。
図書館の建物を出た後も、航大は俺の腕を離そうとしなかった。
**
航大に腕を引かれたまま向かった先は、医療施設の敷地内にあるスーパーマーケットだった。
「じいさんの仕事が終わるのを待つ間に、ここで食材の買い出しをしよう。じいさんから、クレジットカードを託されている」
航大は、皺ひとつない白い半袖シャツに、薄いグレーの長ズボンを合わせている。
それに対し、俺は透おじさんのアロハシャツにハーフパンツだ。
二人で並ぶ姿は、周りの目にどう映るだろうか。
少し心配になりながら、混み合うスーパーマーケットの自動ドアを抜ける。
店内は、買い物かごを提げた女性やお年寄りばかりだった。
十代の男二人組なんて、明らかに浮いている。
無数の視線が集まってくる。
向けられる視線のほとんどが、女性客のものだった。
小さな女の子まで、ぽかんと航大を見上げている。
「お前……目立ち過ぎ」
「俺じゃない。お前だろ。——お前は、田舎のスーパーを歩くには、垢抜け過ぎている。顔の整い方も半端ないし」
「ないね。お前だよ、お前。この、無自覚モテ男め。ムカつくんだよ。身長、十センチ分けろ」
「断る。お前は今くらいの大きさが、ちょうどいいんだ」
「なんだよ、それ! 腹立つなぁ」
航大の腕を振り払うと、ハーフパンツのベルトループを引っ掴まれて、ぐいと引き寄せられた。
「俺の視界から、無闇に消えるな」
心配してくれているのだということはわかる。
だけど、さすがにちょっとこの密着度合いは恥ずかしい。
「——わかったから、少し離れろ」
「断る」
「知らないぞ。周りの奴らに勘違いされても……!」
「どう思われようが、構わない。——お前を守れるなら、他人なんかどうでもいい」
強い声音だった。
あまりにも強いその声に、周囲の人たちが、顔をこわばらせる。
あぁ……そうか。こいつは、俺と違ってやましい気持ちがないから、周囲の視線が、ちっとも気にならないんだ。
誤解されるなんて、少しも思ってないのだろう。
俺自身は、ずっと夢見ていた。
母さんの大好きなアーティストの曲に、真夜中、同棲相手と連れ立ってスーパーマーケットに行く歌がある。
ただスーパーに行くだけなのに。
相手のことを愛おしく思うからこそ、幸せでたまらない。
いつか俺も、そんな相手とスーパーで買い物できたらいいと、ずっと夢見ていた。
社会人になった航大と自分が、二人で買い物する姿を、夢想せずにはいられなかった。
「優馬……? どうした、どこか痛むのか……?」
心配そうに、航大が俺の顔を覗き込む。
「痛く、ない」
幸せすぎて、怖いだけ。
これが、いっときのものであるとわかるからこそ、辛いだけ。
そんなこと、言えるはずもなくて。
俺は、溢れそうな涙を、唇をかみしめて必死で堪えた。
「優馬」
「なんだよ」
できるだけ、不機嫌な声を作ってみた。
だけど、航大はそんな俺にお構いなしで、とてつもなく優しい顔で、俺に微笑みかける。
「肉巻き、ありがとうな。——好物だってわかってて、作ってくれたんだろ」
息が、詰まった。
そんなの……気付かないと思ったのに。
気づいても、わざわざ言わないと思ったのに。
「めちゃくちゃうまかった。今まで、生きてきてあんなに嬉しい弁当は、初めてだった」
待て。
お前は、俺を殺したいのか。
なんだよ、そのとてつもない褒め言葉は。
やめろよ。
そんなこと言われたら、せっかく我慢した涙が、堪えられなくなっちまうじゃないか。
「俺、頑張るから。俺も——頑張って、お前の好物、作れるようになるから」
神様。
どうか——この男を止めてください。
どうして、こんなとんでもない怪物を、産み落としたんですか。
嫌いに、なりたいのに。
忘れてしまいたいのに。
この男の一挙手一投足に、惹かれずにはいられない。
「俺やじいちゃんを気遣ってくれるのはありがたいけど。今日は、お前の好きな餃子にしよう」
や、ちょっと待て。
餃子、好きだけど。好きだけどさ……!
今日も一緒の布団で寝るんだろ。
この先も寝るまでずっと、至近距離だろ?
好きな相手のそばにいるのに、ニンニク臭いなんて。絶対に嫌だ。
俺の心の叫びに、一ミリたりとも気づくことなく、航大はスマホで餃子の材料を調べ始める。
俺のハーフパンツの端っこを掴んだまま、にらやニンニクをカゴに放り込んだ。
あぁ、やっぱり、この男は完璧なんかじゃない。
超ド級の、鈍感野郎だ。
幸せなのかそうじゃないのかわからない気持ちで、俺はカゴに放り込まれてゆく食材を素早くチェックし、航大にバレないよう、より鮮度や状態のよいものに、差し替え続けた。
職場では、郁人さんは、いっさいあの池の話をしなかった。
屋上で、あんな会話をしたのが嘘みたいに、穏やかで静かな時間が過ぎてゆく。
アルバイトが終わる十六時ちょうどに、航大が図書館まで迎えに来た。
航大の姿を目にした郁人さんは、優しそうに目を細める。
「きみが航大くんだね……。彰大さんにそっくりだ」
あんな男と航大が似ているなんて、考えたくもない。
思わず不快さが顔に出てしまった俺をよそに、航大はにっこりと大人の笑みを作り、答えた。
「よく言われます。水野郁人さんですね。透おじさんが、いつもお世話になっています」
「いやいや、お世話になってるのは、僕の方だよ。——このたびは、ご愁傷様でした」
神妙な顔で、郁人さんはお悔やみの言葉を口にした。
航大は黙って一礼した後、ちらりと俺に視線を向けた。
その目が、早く行くぞ、と言っている。
航大は当然のように、俺の腕を掴んだ。
「では、失礼いたします」
「あのさ、こんなに人がたくさんいるんだから、ここでは大丈夫だって」
「どうだかな。お前は、昔からすぐ迷子になる」
航大は郁人さんにもう一度頭を下げると、俺の腕を掴んだまま大股で歩き出す。
「郁人さん、お先に失礼します……!」
「またね、優馬くん。お疲れさま」
ひらひらと手を振る笑顔の郁人さんから引き剥がされるように、俺は閲覧室の外に引き摺り出された。
腕を掴む航大の手は、やけに強い。
そんなに急がなくたって、俺はどこにも行かないのに。
図書館の建物を出た後も、航大は俺の腕を離そうとしなかった。
**
航大に腕を引かれたまま向かった先は、医療施設の敷地内にあるスーパーマーケットだった。
「じいさんの仕事が終わるのを待つ間に、ここで食材の買い出しをしよう。じいさんから、クレジットカードを託されている」
航大は、皺ひとつない白い半袖シャツに、薄いグレーの長ズボンを合わせている。
それに対し、俺は透おじさんのアロハシャツにハーフパンツだ。
二人で並ぶ姿は、周りの目にどう映るだろうか。
少し心配になりながら、混み合うスーパーマーケットの自動ドアを抜ける。
店内は、買い物かごを提げた女性やお年寄りばかりだった。
十代の男二人組なんて、明らかに浮いている。
無数の視線が集まってくる。
向けられる視線のほとんどが、女性客のものだった。
小さな女の子まで、ぽかんと航大を見上げている。
「お前……目立ち過ぎ」
「俺じゃない。お前だろ。——お前は、田舎のスーパーを歩くには、垢抜け過ぎている。顔の整い方も半端ないし」
「ないね。お前だよ、お前。この、無自覚モテ男め。ムカつくんだよ。身長、十センチ分けろ」
「断る。お前は今くらいの大きさが、ちょうどいいんだ」
「なんだよ、それ! 腹立つなぁ」
航大の腕を振り払うと、ハーフパンツのベルトループを引っ掴まれて、ぐいと引き寄せられた。
「俺の視界から、無闇に消えるな」
心配してくれているのだということはわかる。
だけど、さすがにちょっとこの密着度合いは恥ずかしい。
「——わかったから、少し離れろ」
「断る」
「知らないぞ。周りの奴らに勘違いされても……!」
「どう思われようが、構わない。——お前を守れるなら、他人なんかどうでもいい」
強い声音だった。
あまりにも強いその声に、周囲の人たちが、顔をこわばらせる。
あぁ……そうか。こいつは、俺と違ってやましい気持ちがないから、周囲の視線が、ちっとも気にならないんだ。
誤解されるなんて、少しも思ってないのだろう。
俺自身は、ずっと夢見ていた。
母さんの大好きなアーティストの曲に、真夜中、同棲相手と連れ立ってスーパーマーケットに行く歌がある。
ただスーパーに行くだけなのに。
相手のことを愛おしく思うからこそ、幸せでたまらない。
いつか俺も、そんな相手とスーパーで買い物できたらいいと、ずっと夢見ていた。
社会人になった航大と自分が、二人で買い物する姿を、夢想せずにはいられなかった。
「優馬……? どうした、どこか痛むのか……?」
心配そうに、航大が俺の顔を覗き込む。
「痛く、ない」
幸せすぎて、怖いだけ。
これが、いっときのものであるとわかるからこそ、辛いだけ。
そんなこと、言えるはずもなくて。
俺は、溢れそうな涙を、唇をかみしめて必死で堪えた。
「優馬」
「なんだよ」
できるだけ、不機嫌な声を作ってみた。
だけど、航大はそんな俺にお構いなしで、とてつもなく優しい顔で、俺に微笑みかける。
「肉巻き、ありがとうな。——好物だってわかってて、作ってくれたんだろ」
息が、詰まった。
そんなの……気付かないと思ったのに。
気づいても、わざわざ言わないと思ったのに。
「めちゃくちゃうまかった。今まで、生きてきてあんなに嬉しい弁当は、初めてだった」
待て。
お前は、俺を殺したいのか。
なんだよ、そのとてつもない褒め言葉は。
やめろよ。
そんなこと言われたら、せっかく我慢した涙が、堪えられなくなっちまうじゃないか。
「俺、頑張るから。俺も——頑張って、お前の好物、作れるようになるから」
神様。
どうか——この男を止めてください。
どうして、こんなとんでもない怪物を、産み落としたんですか。
嫌いに、なりたいのに。
忘れてしまいたいのに。
この男の一挙手一投足に、惹かれずにはいられない。
「俺やじいちゃんを気遣ってくれるのはありがたいけど。今日は、お前の好きな餃子にしよう」
や、ちょっと待て。
餃子、好きだけど。好きだけどさ……!
今日も一緒の布団で寝るんだろ。
この先も寝るまでずっと、至近距離だろ?
好きな相手のそばにいるのに、ニンニク臭いなんて。絶対に嫌だ。
俺の心の叫びに、一ミリたりとも気づくことなく、航大はスマホで餃子の材料を調べ始める。
俺のハーフパンツの端っこを掴んだまま、にらやニンニクをカゴに放り込んだ。
あぁ、やっぱり、この男は完璧なんかじゃない。
超ド級の、鈍感野郎だ。
幸せなのかそうじゃないのかわからない気持ちで、俺はカゴに放り込まれてゆく食材を素早くチェックし、航大にバレないよう、より鮮度や状態のよいものに、差し替え続けた。
