夏の終わりに唄う歌

 病室に本を届ける仕事は、誰にでもできそうな単純な作業だった。
 けれど、たくさんの人から、笑顔で「ありがとう」と言ってもらえる仕事でもあった。

 病室のベッドで長い時間を過ごすというのは、途方もなく退屈なことらしい。

 今の時代、スマホやタブレットがあれば、時間潰しには事欠かない。
 けれど、病気の症状や薬の影響で、長時間画面を見ていられない患者さんも多いのだという。

「毎日新しい本を届けてもらえるなんて、本当に助かるわ」
 
 ばあちゃんに少し似た高齢のご婦人に、お駄賃のみかんを手渡された。

 その皺だらけの手があまりにも温かくて、ほんの少しだけ目頭が熱くなる。


 カートいっぱいの本を配り終えると、図書館に戻り、再び配本に向かう。
 
 読み終えた本を回収しながら、新しい本を手渡す。
 昼食配膳のアナウンスが流れる頃には、肩から提げたサコッシュの中は、患者さんがくれたお駄賃の果物やおやつで、ぱんぱんに膨れ上がっていた。

「優馬くん、昼休みにしようか」

 カートを押して、図書館のカウンターに戻ると、館長の郁人さんに声をかけられた。

「食堂とコンビニ、どっちがいい? 敷地内にあるスーパーも、お弁当売り場が充実しているよ」

「あ、俺、弁当持ってきてるんです」

「えっ、誰かが作ってくれたの?」

「いえ、手製です」

「えらいねぇ。じゃあ、天気もいいし、屋上で食べようか。僕は出がけにパンを買ってきたんだ」

 郁人さんに促され、屋上へと続く階段を登る。

「すごい……」

 まばゆい光の降り注ぐ屋上には、ばあちゃんが大好きだったひまわりの花が咲き乱れていた。

「きれいでしょう。院内学級の子たちが、世話をしてくれているんだよ」

「院内学級?」

 長期療養が必要な子どもたちのために、院内で開かれている学校のようなものなのだそうだ。
 屋外に出られない子どもも多いけれど、付き添いがあれば、体調のよい日は、敷地内の散歩などを楽しむことのできる子もいる。

 そんな子たちにとって、この屋上は、かっこうの遊び場なのだという。

「大人の患者さんもね、気晴らしって大事だから。ここに花を眺めにくる人は多いよ」

 少しわかる気がする。

 華やかな大輪のひまわりは、眺めているだけで心が軽やかになる。
 太陽みたいな黄色い花が風に揺れているのを見ていると、病院の敷地内にいることを、忘れてしまいそうだ。

「さあ、ここで食べよう」

 郁人さんは、いくつか並んでいる四人がけのガーデンテーブルの一つに、タンブラーとパン屋の紙袋を置いた。

「あそこに自販機があるけど。何か飲むかい?」

「いえ、飲み物も持ってきてます」

 さっと水筒を取り出すと、「さすがだねぇ」と褒められた。
 薄茶色の瞳が、人懐っこく細められる。

 弁当箱を取り出して蓋を開くと、向かいの席の郁人さんから、歓声が上がった。

「すごいね、高校生男子の作った弁当とは、とても思えないよ…!」

「うち、共働きで、普段から家族の分も含め、作ってるんで」

「——なんていい子なんだ、きみは」
 
「バイトの代わりなんですよ。弁当や夕飯を作ると、小遣いがアップするんです。おかげで、欲しかった一眼レフが手に入りました」

「いや、それにしたって凄いよ。肉巻きなんて、僕、いまだにうまく作れないからね」

 本日のメインおかず、アスパラの肉巻きを指差し、郁人さんは感心したように呟いた。

「これ、従兄弟の好物なんです。喜ぶかなって思って。今日はこれにしました」

「うぅ、なに、この健気な男子高校生……。僕もこんな可愛い甥っ子が欲しかったなぁ」

 大袈裟に頭を抱えて唸った後、郁人さんは、何かを堪えるような表情をした。

 そして、噛み締めるように呟く。

「きみがいたから——航大くんは、頑張ってこれたんだね」

「え……?」

「目の前で大切な家族が消えてしまったら……普通は、耐えられないと思うんだ。澄也くんがいなくなってから、透も、酷く荒れたよ。——必死で頑張ったけど、僕には彼を救うことはできなかった」

 郁人さんの薄茶の眉が、悲痛に歪められる。

「もしかして、透おじさんがアメリカに渡ったのは——」

「忘れたかったんだと思う。澄也くんが消えた、あの夏の日のことを」

 たまにしか顔を合わせることがなかったけれど。
 透おじさんは、いつだって派手な服を着て、豪快に笑っていた。

 だけど——その笑顔の奥が、どうだったかなんて、俺には少しもわからない。

「高校を出てすぐ、日本を飛び出して行ったけど、故郷を忘れたわけじゃなかったんだ。特に、麻子さんのことは心配だったみたいで。最近も、しょっちゅう連絡が来ていたよ。仲のいい、親子だったからね」

 郁人さんの言うとおり、透おじさんとばあちゃんは、とても仲がよかった。
 水守に帰ってくると、いつも、親戚のおじさんたちに「男が厨房に入るなんて」と嫌味を言われながらも、ばあちゃんの料理を手伝っていた。

 あぁ、そうだ。
 俺が料理に夢中になったのは、透おじさんがきっかけだった。

 背が高くて、逞しくて、かっこいい透おじさんが、驚くほど繊細で、美味しい料理を作る。

 それが、俺の目にはとても素晴らしいことのように感じられたんだ。

「透が水守で安心して過ごせるように。色々と頑張ってみたんだけどね……。それでも、僕には、あれを止めることはできなかった」

「あれ……?」

「——きみたち神崎家の子孫を、池に引き摺り込む、『あれ』のことだよ」

 ぞわりと、背筋が寒くなる。

 屋上には、当然のように冷房なんかなくて。
 ガーデンテーブルの上にはパラソルが設られているけれど、直射日光を避けられても、暑さまでは消せていない。

 蒸し暑いはずなのに。
 全身を、鳥肌が覆っていく。

「少しでも透のためになれたら、と思って……大学では民俗学を専攻していたんだ。研究対象は、水守の風土史。『余り子捨て』について、調べ続けてた」

「余り子捨て……?」

 ダメだ、ダメだ、ダメだ。
 これ以上、聞いちゃいけない。

 本能が、けたたましく警笛を鳴らす。

 なのに——止められない。
 知りたい、と思ってしまう。

 全部、知りたい。

 水守に、何があったのか。
 なぜ、神崎家の子どもばかり、消えるのか。

 知りたい。
 けど、怖い。

「優馬くんは、『間引き』って聞いたことない?」

「まびき……?」

「植物を育てるとき、成長の悪いものや密集しているものを抜いて、株間を空ける作業のことを、『間引き』というんだ。——子どもの数を調整するすべがなかった昔は、生まれて間もない赤子を殺して、人間を間引いたりしていたんだよ」

 どくん、と心臓が跳ねる。

 屋上には、一面のひまわり。
 眩しいくらいの黄色い花弁が、風に揺れている。

 そんな明るい場所で聞くには、あまりにも暗い話だった。
 
「古くから、そういうことはあった。特に農村部では、江戸時代を中心に、明治になって法律で禁じられた後も、ずっと続いていた地域がある」

「水守でも、それが行われていたと……?」

「水守も例外ではないよ。悲しいことだけれど——生き延びるために仕方がなかったって側面もあるんだ。集落全員が飢え死ぬくらいなら、子が増えすぎないように調整するほうがまし。そう考えた彼らを、責めることなんて、誰にもできない」

 郁人さんの声は、優しかった。

 こんな話をしているのに。
 誰かを責めるのではなく、過去にあったことを、静かに見つめているような声だった。

「家を継ぐ長男や、その控えになる次男、他家に嫁がせたり奉公に出せる女の子だけを育てて、それ以外の子は、生後間もないうちに、殺められることが多かった」

 淡々と語られる言葉に、胸を抉られる。

 何も言えず、ただ黙って耳を傾けることしかできない。

「神崎家の祖先は、それをやめさせようとした。食糧不足で育てられないのなら、私たちが支援しよう、と。赤子が生まれた家庭を支援するようになったんだ」

「そう……なんですか……?」

「ああ。水守の一帯は、林業が盛んだったし、水源も豊富で、稲も野菜もよく育った。養蚕業も発展していたしね。赤子のうちに殺してしまうくらいなら、支援して育てて、労働力になってもらったほうが集落のためになる、そう思っていたようなんだ」

 神崎家の支援により、多くの赤子が救われた。
 そのことに、少しだけほっとしかけた。

 けれど——。

 郁人さんの表情は、少しも明るくならなかった。

「時として水害や飢饉は、水守の豊かな土地にも襲い来る」

 郁人さんは、静かに続けた。

 どうしても食料が足りない。
 そんな年には、本来なら間引かれていたはずの末の子を、神への捧げものとして、池に沈めた。

 沈められた子どもたちは、『みなそこさま』と呼ばれ、水神様とともに、丁重に祀られていたのだそうだ。

「その池っていうのは……」

「澄也くんや、翔太くん、正大さんの弟さんが消えた、あの、水神様の池のことだ」

「じゃあ、もしかして、神崎家の子どもたちを池に引き摺り込んでいるのは——」

「池に沈められた余り子たちの怨念なんじゃないかって、僕は思ってるんだけど。まぁ……幽霊なんて、誰も信じないしね。学会で発表したら、『荒唐無稽も甚だしい』って、一蹴されてしまったよ」

 軽い口調で笑いながらも、郁人さんの目は、少しも笑っていない。
 笑われることに慣れきっている。そんな顔だった。
 
「どうして、神崎の家の子どもだけが狙われるんですか……?」

「僕には霊感がないから、本当のところはわからないけど……。どうやら、その『余り子』の対象から、神崎家の子どもだけが、除外されていたみたいなんだ」

「除外?」

「重篤な飢饉や、災害が起こった際、やむをえず選ばれる『余り子』。対象年齢の『未子<すえこ>』の中から、順番に選ばれていたみたいなんだけど……その仕組みを管理していた神崎家の子どもだけは、役目を免除されていたらしくてね」

「どうして、ですか……?」

「神崎はこの地の、領主のような存在だからね。その子どもは特例っていうのもあると思うけど、実際には、彼らは読み書きやそろばんなど、しっかり教育を施されていたと思うし、幼いうちに殺めるより、奉公に出したほうが得策だっていう事情もあったと思うんだよね。僕の勝手な見解だけど」

「でも、そんなの、集落の他の人たちは納得しないですよね……?」

「そうだねぇ。神崎家の支援のおかげで、『口減らし』される子どもは劇的に減った。でも——代わりに、飢饉の際に殺される子どもの年齢は、確実に上がった」

「生まれたばかりの赤子ではなく、物心がついた後の幼児が、殺されていたってことですね……?」

「そういうこと。だから、出産直後の別れ以上に、その別れは辛く、時には悲しみから、池に身を投げて死んでしまう母親もいたようなんだ。殺される子ども本人だって——きっと、辛さは赤子の比じゃないと思う」

「殺される子どもの数は減ったけれど、悲しみや辛さは増えてしまった。——そういうことですか……?」

「そう。そしてその仕組みを作り、水神様に捧げる役目を担っていたのは、神崎家だ。人を救うために仕組みを作ったはずの神崎家が、憎しみを向けられる対象になってしまったんだよ」

 郁人さんの声は、あくまでも優しく、穏やかで、淡々としている。

 そこには、怒りも、悲しみもない。
 だからこそ、余計に胸を抉られた。

「僕はね……思うんだ。因習って、昔の間違ったこと、愚かな行いみたいに言われがちだけど。神崎家のこの風習のように、優しさからきているものも、少なくないんじゃないかなって」

 仕組みを作らなければ、毎年、たくさんの赤子が殺されていた。

 救われた命。
 救われなかった命。

 何が正しいのか、俺にはわからなかった。

「水守神社で夏祭りがあるじゃない? 水神様に祈りを捧げる行事という名目で行ってるけど——実際には、余り子の供養なんじゃないかって、僕は思うんだ」

 夏祭りの日には、屋台がずらりと並んで、普段は遠方で暮らしている水守出身の人たちもたくさん戻ってくる。

 俺はただ、楽しい夏祭りだとしか思っていなかったけれど——。

「神崎家の子どもたちが消えたのは、すべて夏の間。それも、夏祭より前なんだ」

 翔太も、澄也さんも、じいちゃんの弟も。
 同じ時期に消えた……?

 初めて聞く情報だ。

「だから祭りまでは、特に用心したほうがいい。——池には絶対に近づいちゃダメだ。いいね?」

「はい……」
 
 おずおずと頷いた俺に、郁人さんは、ニコッと笑ってみせる。

「ごめんね。せっかくの食事時に、こんなオカルトっぽい話して」

「あ、いえ……。めちゃくちゃ勉強になりました……!」

 俺は姿勢を正し、できる限り明るい声で告げた。

「——安心していいよ。神崎家の子どもが消えるのは、必ずあの池のほとりだ。それに、消えたのは全員十歳以下。優馬くんが消される心配は、まずないと思う」

「調べたんですか……?」

「うん。最初に消えたのは正大さんの弟さんで、それより前の失踪の記録は、見当たらなかったんだ」

「三人だけ……?」

「しかも、一世代に一人しか消えてない。翔太くんがすでに消えているから、きみの代は、もう消えないはずだ」

 優しい笑顔で言われると、ほんの少しだけ、怖いのが和らぐ気がした。

 椅子に背を預けるようにして、空を見上げる。

 雲ひとつない晴れ渡った青空と眩い日差しは、まとわりついた恐ろしい水の記憶を、全て吹き飛ばしてくれるように思えた。

 少なくとも、その時の俺は——そう信じていた。