少しでも目を離すと、連れていかれてしまうと思っているのかもしれない。
翌朝、目を覚ましてからも、航大はずっと俺から離れなかった。
「航大。ちょっと近すぎるんだけど——」
台所で朝食の支度をする俺のすぐ後ろに、ぴったりと航大が立っている。
正直、気配が近い。
近すぎる。
背中に、航大の体温を感じる。
振り返ったら、そのままぶつかりそうな距離だ。
「水を扱ってる時は、特に不安なんだ」
航大は、少し申し訳なさそうに答えた。
けれど、離れる気はまったくなさそうだった。
まるで、台所に立つ母親から離れない幼児みたいに、俺のそばから動かない。
「ここにいれば、何かあっても、すぐに引き留められる」
「そりゃ、そうだけどさぁ……」
そう言われると、強く拒めない。
だけど、航大が近すぎるのは、それはそれで問題だった。
「嫌か?」
まじめ腐った顔で問われ、俺は言葉を濁す。
「別に、嫌じゃないけどさ……。暑苦しくないのかなって、心配になる」
「安心しろ。暑さには慣れている」
「そういう問題か!?」
あまりにも堂々と言われ、呆れた声が出る。
航大は、なぜか少し誇らしげだった。
いや、そこは誇るところじゃないだろ。
俺はため息をつき、味噌汁用の鍋に水を張る。
その瞬間、航大の手が、そっと俺の手首に触れた。
「……怖くないか」
低い声で問われる。
ざぁっと勢いよく蛇口から流れ落ちる水が、鍋の底を叩いている。
昨日までなら何でもなかったその音が、今は妙に生々しく聞こえる。
「……ちょっとだけ」
正直に答えると、航大の指に少しだけ力がこもった。
「なら、なおさら離れない」
「……はいはい。わかったよ」
呆れたように返したつもりだった。
けれど、自分の声は思ったよりずっと、甘かった。
心も、体も、嬉しがってる。
その事実を、否定することはできなかった。
航大の近さにドギマギしながら、手早く朝食を作り終える。
じいちゃんの出勤と同時に、俺たちも屋敷を出なくちゃいけない。
遊んでいる暇はないのだ。
「——朝っぱらから、弁当まで作ってくれたのか?」
朝食後、じいちゃんに弁当箱を手渡すと、目を丸くされた。
「ああ、じいちゃんはちゃんとしたもの食べてそうだけど。こいつ、コンビニで済ませるとか言うし……」
できれば、航大には健康的な食生活を送ってほしい。
若くして体を壊すなんてことは、絶対にあっちゃダメだ。
「お前というやつは……」
なんて出来た孫だ、と。
俺は、生まれて初めて、じいちゃんに手放しで賞賛された。
孫の中で、俺は、決して目立つ方じゃなかった。
全てにおいてパーフェクトな(料理を除いては)航大。
華やかで人目を惹く美咲。
二人と比べて、どこからどう見ても平凡だから。
「お前さんの伴侶になる相手は、幸せ者だな」
じいちゃんの言葉に、なぜか航大が盛大にむせた。
「大丈夫か!? 航大」
「へ……平気だ」
そう答えながらも、航大はちょっと涙目だ。
よっぽど変なところに、麦茶が入ってしまったのかもしれない。
微かに上気した頬。
濡れた口元を拭うさまが、なんだか妙に色っぽくて。
俺は、思わず見惚れてしまった。
「こんな時間か。行くぞ、航大、優馬」
出勤するじいちゃんと一緒に、俺も施設まで行くことになった。
神崎の屋敷に一人で残すのは心配だ、と航大が譲らなかったからだ。
「予備校まで連れて行く」と主張したけれど、さすがにじいちゃんが止めた。
その代わり、じいちゃんは俺に、短期バイトの仕事をあてがってくれた。
施設内にある、院内図書館。正規職員のサポート業務だ。
そこにいれば、決して一人きりにはならない。
おまけに、水場もない。
そんな配慮によるものだった。
火の元と施錠をしっかり確認し、じいちゃんの車の後部座席に乗り込む。
車の中でも、航大は、しっかりと俺の手を握ったままだった。
**
なかなか俺から手を離そうとしない航大や、すっかり院長の顔になったじいちゃんと別れ、施設の職員の案内で、俺は院内図書館に足を踏み入れた。
見上げるほど高い真っ白な病棟の狭間。
緑豊かな中庭の一角に、その建物はあった。
蔵書を守るためだろうか。窓の少ない、コンクリート造りの小ぶりな建物。
作りがしっかりしているせいか、館内に入ると、蝉の声もあまり聞こえなくなった。
「ようこそ、水守図書館へ。きみが、佐伯優馬くんだね。——久しぶり」
薄茶色の柔らかそうな髪をした優しそうな男性が、ふわりと穏やかに微笑む。
二十代後半くらいだろうか。
記憶を辿ってみたけれど、いつ、どこで会ったのか思い出せそうにない。
「ええと……」
「水野郁人。神崎透の、同級生だよ」
「あっ……!」
思い出した。
いつだったか、透おじさんが俺たちを水族館に連れて行ってくれたとき、一緒に引率してくれた人だ。
「水族館の……?」
「そうそう。水族館オタクの、水野郁人」
嬉しそうに、目を細める。
透おじさんよりずっと若く見えるけれど、笑った時に目尻に寄る皺を見ると、三十代後半と言われても納得できた。
「神崎家には昔からお世話になっていてね。今もこうして、雇ってもらってるんだ。正大さんには頭が上がらないよ」
『水守図書館 館長』と記されたIDカードを首から提げた郁人さんに案内され、閲覧室に向かう。
重そうな扉を開けると、空気が少し変わった。
病棟の消毒液の匂いとは違う、紙と木の棚の匂いが、静かに満ちている。
「わぁ、本がたくさん……!」
学校の図書館くらいの大きさを想定していた俺は、思わず大きな声が漏れてしまった。
周囲の視線が飛んできて、慌てて口を塞ぐ。
圧巻だ。吹き抜けの二階建ての建物に、整然と書架が並んでいる。
公立図書館にも負けないくらい、膨大な蔵書だ。
「凄いでしょう。麻子さん——きみのおばあちゃんが、大の読書家だったからね。病気で外に出られない患者さんのために、少しでも多く、良質な本を、って。尽力してくれたんだよ」
初めて聞く話だ。もしかしたら、彼は俺の知らない祖母や祖父のことを、色々と知っているのかもしれない。
まだ朝早いというのに、館内には、想像していた以上にたくさんの人がいた。
みんな、病衣ではなく、普通の服を着ている。
「この時間帯は、通院患者さんが中心なんだよ。診察待ちの間に読む本を探しにくる」
なるほど。待ち時間に読むのか。
「あと一時間もすると、入院患者さんも増え出すけどね。今は、食事や回診で外に出られないから」
「優馬くんには、主に本の配達をお願いしたい」
「配達?」
「そう。本を読みたいけれど、ここまで来られない入院患者さんのためにね」
郁人さんは、俺を、予約本の並んだ小部屋に案内してくれた。
「はい。これが院内の地図と臨時の入館許可証で、それから——気休めにしかならないかもしれないけど、お守りだ」
地図や入館許可証と一緒に、お守りを渡され、俺はギョッとした。
「なん……で……」
「正大さんから、聞いたよ。僕も——実は、あの池に行ったことがあるんだ。透と一緒にね。目の前で、澄也くんがいなくなった」
そう告げた瞬間、ふわりと微笑んでいた郁人さんの目から、一瞬だけ光が消えた。
何かに取り憑かれているような。
あるいは、深い罪悪感に苛まれているような。
暗くて、重い目だった。
衝撃的な事実に、目の前が真っ白になる。
手渡されたお守りを、落としてしまいそうになった。
「後で、少し話をしよう。あのとき以来、僕はずっと、あの池について調べ続けてる。——いや、調べずにはいられなかったんだ。もしかしたら、何か力になれるかもしれない」
郁人さんからもらったお守り。
そこには、純白の布地に水色の文字で『水難除守』と刺繍が入っていた。
きれいなそのお守りをぎゅっと握りしめ、俺は、貸出本の配達に向かった。
翌朝、目を覚ましてからも、航大はずっと俺から離れなかった。
「航大。ちょっと近すぎるんだけど——」
台所で朝食の支度をする俺のすぐ後ろに、ぴったりと航大が立っている。
正直、気配が近い。
近すぎる。
背中に、航大の体温を感じる。
振り返ったら、そのままぶつかりそうな距離だ。
「水を扱ってる時は、特に不安なんだ」
航大は、少し申し訳なさそうに答えた。
けれど、離れる気はまったくなさそうだった。
まるで、台所に立つ母親から離れない幼児みたいに、俺のそばから動かない。
「ここにいれば、何かあっても、すぐに引き留められる」
「そりゃ、そうだけどさぁ……」
そう言われると、強く拒めない。
だけど、航大が近すぎるのは、それはそれで問題だった。
「嫌か?」
まじめ腐った顔で問われ、俺は言葉を濁す。
「別に、嫌じゃないけどさ……。暑苦しくないのかなって、心配になる」
「安心しろ。暑さには慣れている」
「そういう問題か!?」
あまりにも堂々と言われ、呆れた声が出る。
航大は、なぜか少し誇らしげだった。
いや、そこは誇るところじゃないだろ。
俺はため息をつき、味噌汁用の鍋に水を張る。
その瞬間、航大の手が、そっと俺の手首に触れた。
「……怖くないか」
低い声で問われる。
ざぁっと勢いよく蛇口から流れ落ちる水が、鍋の底を叩いている。
昨日までなら何でもなかったその音が、今は妙に生々しく聞こえる。
「……ちょっとだけ」
正直に答えると、航大の指に少しだけ力がこもった。
「なら、なおさら離れない」
「……はいはい。わかったよ」
呆れたように返したつもりだった。
けれど、自分の声は思ったよりずっと、甘かった。
心も、体も、嬉しがってる。
その事実を、否定することはできなかった。
航大の近さにドギマギしながら、手早く朝食を作り終える。
じいちゃんの出勤と同時に、俺たちも屋敷を出なくちゃいけない。
遊んでいる暇はないのだ。
「——朝っぱらから、弁当まで作ってくれたのか?」
朝食後、じいちゃんに弁当箱を手渡すと、目を丸くされた。
「ああ、じいちゃんはちゃんとしたもの食べてそうだけど。こいつ、コンビニで済ませるとか言うし……」
できれば、航大には健康的な食生活を送ってほしい。
若くして体を壊すなんてことは、絶対にあっちゃダメだ。
「お前というやつは……」
なんて出来た孫だ、と。
俺は、生まれて初めて、じいちゃんに手放しで賞賛された。
孫の中で、俺は、決して目立つ方じゃなかった。
全てにおいてパーフェクトな(料理を除いては)航大。
華やかで人目を惹く美咲。
二人と比べて、どこからどう見ても平凡だから。
「お前さんの伴侶になる相手は、幸せ者だな」
じいちゃんの言葉に、なぜか航大が盛大にむせた。
「大丈夫か!? 航大」
「へ……平気だ」
そう答えながらも、航大はちょっと涙目だ。
よっぽど変なところに、麦茶が入ってしまったのかもしれない。
微かに上気した頬。
濡れた口元を拭うさまが、なんだか妙に色っぽくて。
俺は、思わず見惚れてしまった。
「こんな時間か。行くぞ、航大、優馬」
出勤するじいちゃんと一緒に、俺も施設まで行くことになった。
神崎の屋敷に一人で残すのは心配だ、と航大が譲らなかったからだ。
「予備校まで連れて行く」と主張したけれど、さすがにじいちゃんが止めた。
その代わり、じいちゃんは俺に、短期バイトの仕事をあてがってくれた。
施設内にある、院内図書館。正規職員のサポート業務だ。
そこにいれば、決して一人きりにはならない。
おまけに、水場もない。
そんな配慮によるものだった。
火の元と施錠をしっかり確認し、じいちゃんの車の後部座席に乗り込む。
車の中でも、航大は、しっかりと俺の手を握ったままだった。
**
なかなか俺から手を離そうとしない航大や、すっかり院長の顔になったじいちゃんと別れ、施設の職員の案内で、俺は院内図書館に足を踏み入れた。
見上げるほど高い真っ白な病棟の狭間。
緑豊かな中庭の一角に、その建物はあった。
蔵書を守るためだろうか。窓の少ない、コンクリート造りの小ぶりな建物。
作りがしっかりしているせいか、館内に入ると、蝉の声もあまり聞こえなくなった。
「ようこそ、水守図書館へ。きみが、佐伯優馬くんだね。——久しぶり」
薄茶色の柔らかそうな髪をした優しそうな男性が、ふわりと穏やかに微笑む。
二十代後半くらいだろうか。
記憶を辿ってみたけれど、いつ、どこで会ったのか思い出せそうにない。
「ええと……」
「水野郁人。神崎透の、同級生だよ」
「あっ……!」
思い出した。
いつだったか、透おじさんが俺たちを水族館に連れて行ってくれたとき、一緒に引率してくれた人だ。
「水族館の……?」
「そうそう。水族館オタクの、水野郁人」
嬉しそうに、目を細める。
透おじさんよりずっと若く見えるけれど、笑った時に目尻に寄る皺を見ると、三十代後半と言われても納得できた。
「神崎家には昔からお世話になっていてね。今もこうして、雇ってもらってるんだ。正大さんには頭が上がらないよ」
『水守図書館 館長』と記されたIDカードを首から提げた郁人さんに案内され、閲覧室に向かう。
重そうな扉を開けると、空気が少し変わった。
病棟の消毒液の匂いとは違う、紙と木の棚の匂いが、静かに満ちている。
「わぁ、本がたくさん……!」
学校の図書館くらいの大きさを想定していた俺は、思わず大きな声が漏れてしまった。
周囲の視線が飛んできて、慌てて口を塞ぐ。
圧巻だ。吹き抜けの二階建ての建物に、整然と書架が並んでいる。
公立図書館にも負けないくらい、膨大な蔵書だ。
「凄いでしょう。麻子さん——きみのおばあちゃんが、大の読書家だったからね。病気で外に出られない患者さんのために、少しでも多く、良質な本を、って。尽力してくれたんだよ」
初めて聞く話だ。もしかしたら、彼は俺の知らない祖母や祖父のことを、色々と知っているのかもしれない。
まだ朝早いというのに、館内には、想像していた以上にたくさんの人がいた。
みんな、病衣ではなく、普通の服を着ている。
「この時間帯は、通院患者さんが中心なんだよ。診察待ちの間に読む本を探しにくる」
なるほど。待ち時間に読むのか。
「あと一時間もすると、入院患者さんも増え出すけどね。今は、食事や回診で外に出られないから」
「優馬くんには、主に本の配達をお願いしたい」
「配達?」
「そう。本を読みたいけれど、ここまで来られない入院患者さんのためにね」
郁人さんは、俺を、予約本の並んだ小部屋に案内してくれた。
「はい。これが院内の地図と臨時の入館許可証で、それから——気休めにしかならないかもしれないけど、お守りだ」
地図や入館許可証と一緒に、お守りを渡され、俺はギョッとした。
「なん……で……」
「正大さんから、聞いたよ。僕も——実は、あの池に行ったことがあるんだ。透と一緒にね。目の前で、澄也くんがいなくなった」
そう告げた瞬間、ふわりと微笑んでいた郁人さんの目から、一瞬だけ光が消えた。
何かに取り憑かれているような。
あるいは、深い罪悪感に苛まれているような。
暗くて、重い目だった。
衝撃的な事実に、目の前が真っ白になる。
手渡されたお守りを、落としてしまいそうになった。
「後で、少し話をしよう。あのとき以来、僕はずっと、あの池について調べ続けてる。——いや、調べずにはいられなかったんだ。もしかしたら、何か力になれるかもしれない」
郁人さんからもらったお守り。
そこには、純白の布地に水色の文字で『水難除守』と刺繍が入っていた。
きれいなそのお守りをぎゅっと握りしめ、俺は、貸出本の配達に向かった。
