夏の終わりに唄う歌

 その夜も、俺と航大は、伯父さんのベッドで眠ることになった。

「……俺が寝ている間に、何かあったら不安だ」

 押し殺した声で、航大が呟く。

「平気だよ」と強がろうとして、うまく言葉にならなかった。

 小さく深呼吸したあと、ようやく掠れた声が出る。
 航大を安心させなくちゃいけないのに。

 明るい声を出そうとして、今にも泣き出しそうな、子どものような声が出た。

「心配性だなぁ、航大は」

 言葉だけは、空元気で。
 声は、全然元気じゃない。

 でも、止まらなかった。

「いつもそうだったよな。俺や翔太が迷子になるんじゃないかって心配して……。左手で翔太の手を、右手で俺の手を掴んで歩いてた」

 脳裏に、当時のことが蘇る。

 ああ、そうだ。

 夏祭りの雑踏。
 麓のショッピングモール。
 親戚に連れられて行った、大きなデパート。

 はぐれそうな場所では、いつだって航大は、俺たちの手を引いてくれていた。

「あの日は……繋いでやれていなかった」

 ひやりとした。

 掠れた俺の声以上に、航大の声が震えていたから。

「どの日?」なんて問い返さなくても、いつのことを言っているのかは明らかだった。

「——離さなければよかった。俺の、せいだ」

「お前のせいじゃない」

 反射的に、否定の言葉が出た。

「あの時は、翔太だって、もうおっきかったんだ。手なんか、繋がなくなってただろ」

「違う。——翔太が大きくなったせいじゃない」

 低い声で、航大が遮る。

「俺が、手を繋がなくなったのは……」

 罪を告白するような、真摯な声。

 だけど、しばらく待っても、その先の言葉は紡がれなかった。

 暗い部屋の中で、航大の呼吸だけが、わずかに乱れている。

「航大。お前は、悪くない」

 俺は、ゆっくりと言葉を選びながら告げる。

「むしろ……誰か悪い人間がいるとしたら、それは俺だ」

 口にした瞬間、喉の奥がひゅっと狭くなった。

 ずっと、考えないようにしていた。
 思い出さないようにしていた。

 でも、忘れたことなんて、本当は一度もなかった。

 あの日、翔太は、俺のために水神様の池へ向かった。

 当時、SNSで、美しい池の写真がバズっていた。
 どこか遠くの山奥にある、透明な青緑色の池。

 俺は、父さんのお古のスマホで、その写真を何度も見ていた。

 画面の中の池は、この世のものとは思えないほど綺麗だった。

 水面がエメラルドみたいにキラキラ光って、沈んだ木々の影まで透けて見える。
 見ているだけで息が止まりそうになる写真だった。

 いいな、と思った。

 こんな写真を撮れたら、きっと、たくさんの人が見てくれる。
 俺の写真にも、たくさんのハートがつくだろう。

 スマホの画面を覗き込み、翔太が目を輝かせた。

『水守にも、すっごくきれいな池があるらしいよ!』

『その池を撮れば、ゆうにぃの写真も、いっぱい人気になるかも』

 あの時、航大はすぐにダメだと言った。

 あの池は禁足地だ。
 絶対に、近づいてはいけない、と。

 それなのに……。

 俺は、誘惑に勝てなかった。

 大はしゃぎする翔太に、嫌々ついていくふりをした。

『仕方ないなぁ、翔太は』

 困ったような笑顔を、無理に作っていた。

 嘘だ。

 本当は、俺が行きたかった。
 俺が、あの池の写真を撮りたかった。

 バズりたかった。
 誰かに、俺の写真には価値があるのだと認めてほしかった。

 カメラマンになりたい。

 幼い頃から、漠然と抱いていた夢だった。

 父さんのお古のスマホで、たくさん写真を撮った。
 空も、花も、夕焼けも、ばあちゃんが大切にしていた花畑も、神崎の屋敷の古い廊下も。

 毎日のように、SNSに写真を上げていた。

 でも、全然ハートはつかなかった。

 俺の撮る写真には、価値がない。
 そう突きつけられているみたいで、辛かった。

 だから。

 その池の写真を撮れば、何かが変わるかもしれない。
 そんな浅ましい期待を、捨てられなかった。

 俺が望んだ。

 俺が——あの池に、行きたいと願ったのだ。

 俺のくだらない承認欲求のせいで、翔太は……。

 足首が、冷たい。

 冷たいだけじゃない。
 誰かの指が、そこだけを強く握りしめているみたいに、じわじわと痛みが増していく。

 全身が、がたがたと震えた。

 呼吸が乱れて、どうすることもできない。

 涙がぽろぽろと溢れて、口の中にしょっぱい味が広がる。

 罰だ。

 これは、罰なんだ。

 俺が望んだから。

 俺が、翔太を——。

「優馬……!」

 航大が、がばりと飛び起きた。

「おい、優馬! しっかりしろ……!」

「うぅ……っ、く、ぅう……」

 震えながら、嗚咽を噛み殺すことしかできない。

 航大は俺から勢いよくタオルケットを引き剥がした。

「足首の、痕が……」

 航大が、驚いたように呟く。

 つられるように視線を向けると、足首の青黒い痕が、皮膚の下から滲み出すみたいに、濃くなっていた。

 小さな手形が、俺を逃がすまいとするみたいに、ぎりぎりと足首を締め上げている。

「痛……っ、痛い……!」

「優馬!」

 航大は、思い切り俺の体を抱きしめた。

「行くな……! 絶対に、行かせない。お前を、行かせない……!」

 震える声で、航大が叫ぶ。

 俺をぎゅうぎゅうに抱きしめる航大の体も、がたがたと震えていた。

 足首が、痛い。
 ちぎれそうに痛い。

 痛くて、冷たくて、凍りついてしまいそうだ。

「優馬……!」

 骨が軋むほど強く、抱きしめられる。
 航大の震えが、さらに大きくなった。

 温かくて、逞しい腕の中。

 何度も、何度も、名前を呼ばれる。

「優馬……優馬……!」

 そのたびに、ほんの少しずつだけれど、足首の痛みが和らいでいくのがわかった。

 航大に抱きしめられている間だけ、あの冷たさが遠ざかっていく。

「優馬……」

 航大の声が、掠れている。

 叫びすぎて、喉がやられてしまったんだと思う。

 それでも、航大の腕の力は、弱まらなかった。

「どこにも、行くな」

 泣いているみたいな声で言われて、俺は、ようやく返事をすることができた。

「行かない……ここに、いるよ」

 ずっと、ここにいたい。
 許されないことだと、わかっていても。

 できることなら、ずっと、航大の隣にいたかった。

 航大の腕の力が、ふっと緩む。
 それでも俺から離れないまま、航大は俺の足首を見下ろした。

「痕が……薄くなった」

「え……?」

 本当だった。
 さっきまで、どす黒いくらいにくっきりしていた痕が、すっかり薄くなっている。

「なん……で……?」

「よかった……!」

 疑問の言葉は、抱擁に遮られた。

 さっきまでの、痛いくらいの抱擁とは違う。
 ふわりと包み込むような、優しい抱擁だった。

 浴衣の薄い布地越しに、航大の鼓動が伝わってくる。

 さっきまでは、気づけなかったけれど。
 壊れそうなくらい、早鐘を打っている。

「もしかして……俺が、いなくなると思った……?」

『水神様に、連れていかれると思った?』

 その言葉は、どうしても口にできなかった。
 言葉にすると、本当になってしまいそうで、怖かった。

「ああ……。思った」

 航大は、掠れた声で答えた。

「嫌だ。俺は、これ以上、失いたくない」

 抱きしめる腕が、また少し震える。

「お前を、失いたくない」

 軽口を叩く余裕なんてなかった。

『いなくなるわけないじゃん』
 そんなふうに笑い飛ばしてやりたいのに、喉が詰まって、声が出ない。

「俺が、離さなければよかった」

 航大は、俺の髪に顔を埋めるようにして、低く呟いた。

 吐息が、たまらなく熱い。
 こんな時なのに、体が熱くなるのを、止めることができない。

「あの時、翔太と手を繋いでいれば——」

 きっと、俺と同じ後悔を、航大は抱き続けている。

 いや。
 もしかしたら、俺以上に大きな後悔を。

 あの日、俺は自分の欲を隠して、翔太に乗っかった。
 航大は、自分が守れなかったことを、ずっと責め続けていた。

 誰のせいでもないと、言いたい。
 お前のせいじゃないと、何度だって言ってやりたい。

 でも、同じ言葉を、自分に向けることだけはできなかった。

 航大の手のひらが、俺の手のひらにそっと触れた。

「絶対に離さない。——絶対に、連れていかせない」

 おずおずと、航大の指が、俺の指をからめとる。

 久しぶりだった。

 こんなふうに手を繋ぐのは、何年ぶりだろう。

 人がたくさんいる場所や、迷子になりそうな場所では、いつだって航大は、俺の手を握ってくれていた。

 航大にとって、俺は、翔太と同じなのかもしれない。
 失った弟の代わりに、守らなくちゃいけない存在。

 それでもよかった。

 救えなかった命の代わりでも。
 放っておけない弟のままでも。

 航大の隣にいられるなら、それでいい。

 言葉は、うまく出てこない。
 だから、俺は繋がれた手を、ぎゅっと握り返した。

 あぁ、俺は——この男が好きだ。

 好きで、好きで、たまらなく好きで。

 だから——。

 この関係を壊してしまうくらいなら、俺は弟でいいと思った。

 これからも、ずっと。
 すぐに迷子になる、放っておけない弟でいい。

「——離したくない」

 静かな、でも、何かを堪えるような、きっぱりとした声で、航大が言った。
 俺の指の間に、航大の指が深く滑り込み、隙間なく絡み合う。

「ああ……」

 離す必要なんてない。

 だって、俺も、ずっと繋ぎたかったから。
 ずっと、こうしたかったから。

 航大は、俺と手を繋いだまま、もう片方の手で俺を抱きしめた。

 優しい抱擁だった。

 怖いことも、痛いことも、全部その腕の中に預けてしまいたくなるほどに。

 爽やかなミントの香りと、ほんの少しだけ、汗の匂い。

 気づけば俺は、航大の胸に身を預けたまま、眠りに落ちていた。