夏の終わりに唄う歌

「この状態で、お前を残して帰るわけにはいかない」

 航大は、まっすぐ俺の目を見据え、そう宣言した。

 居間の畳の上。
 タオルケットにくるまったまま、ぼんやりと自分の足首を見下ろす。

 小さな子どもの手形みたいな青黒い痕は、何度見ても消えない。
 湯船の中に、誰もいなかったはずなのに。
 誰かに強く掴まれた痕が、くっきりと残っている。

 じいちゃんも、さすがに顔色を変えていた。

「……これは、ただの打ち身ではないな」

 低く呟く声は、医者のものだった。

 航大は、俺の隣に座ったまま、ぐっと拳を握りしめている。
 甚平は、さっき俺を湯船から引きずり出したせいで、まだ濡れていた。

「明日から夏期講習だろ」

 俺は、できるだけ何でもないことみたいに言った。

「じいちゃんもいるし、俺は平気だから。お前はちゃんと帰って、夏期講習行けよ」

「講習には行く。——だが、ここから通う」

「は!?」

 思わず声が裏返った。

「無理だろ。往復二時間以上かかるって言ってたよな。毎日そんなことしてたら、勉強する時間ないだろ」

「じいさんが出勤する時、一緒に山を下りる。駅までは、シャトルバスが出ているだろう。帰りも、それに乗る」

「いや、でも……」

「夜は、ここに戻る」

 航大は、迷いのない声で言った。

「絶対に、お前を一人にしない」

 胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。

 航大にとって、一生で一度の、大切な夏だ。
 旧帝大医学部を目指す受験生にとって、高三の夏は、きっと俺なんかには想像もできないくらい重い。

 それなのに。
 俺は、航大がいてくれることを、嬉しいと思ってしまっている。

「——彰大が文句を言ってきたら、私が引き留めたと伝えよう」

 じいちゃんが静かに言った。

 その声に、俺も航大も、弾かれたように顔を上げる。

「じいさん……」

「これを見れば、普通ではないことくらい、私にもわかる」

 じいちゃんは、俺の足首に残った手形を見つめた。

「水神様の池に近づかなければ安全だと、そう思っておった。だが、池に行かずとも、こうして異変は起きておる。ならば、優馬を一人にしておくわけにはいかん」

「でも、夏期講習が……」

「行けばいい。通えるように、私が手配する」

 じいちゃんは、航大へ視線を移した。

「朝は私と一緒に山を下りろ。帰りも施設まで戻って来い。タクシーを使ってもいい。家族を守るためだ。手段など選ぶな」

 航大は、一瞬、言葉を失ったようにじいちゃんを見つめた。
 それから、深く頭を下げる。

「ありがとう、じいさん」

「これ以上——大切な家族を、あの池に奪われたくはないでな」

 じいちゃんの声が、少しだけ震えた。

 翔太。
 澄也さん。
 じいちゃんの弟。

 水神様の池のほとりで失われたものの重さが、その一言に滲んでいた。

 航大は、唇を引き結んだまま、何も言わなかった。

 じいちゃんはそんな航大を見て、少しだけ目元を緩める。

「航大」

「はい」

「医師にとって一番大切なのは、学力じゃない」

 静かな声だった。

「『人を救いたいと願う心』だ。お前には、それがある。——同じ道を志す者として、お前の家族として、私はそれが誇らしい」

 航大が、息を呑んだ。
 俺まで、胸が熱くなる。

「彰大おじさんには、それがないの……?」

 気づけば、そんな不躾なことを聞いていた。

 言ってから、少しだけ後悔する。
 でも、じいちゃんは怒らなかった。

「馬鹿を言っちゃいかん」

 穏やかに、けれどはっきりとした声だった。

「あれには、その心だけは人一倍強くある」

「え……?」

「あれは、自分の技術が『人を救うために存在している』と自覚しておる」

 じいちゃんの目が、少し遠くを見る。

「あの若さで、日本でも有数の心臓外科医だ。数々の難しい手術を成功させ、多くの患者を救ってきた」

 彰大伯父さんの、冷たい目を思い出す。

 俺を虫けらのように見下し、航大を連れ戻そうとした目。
 航大の頬を掴み、力で圧倒して服従させようとした姿。

 あの人が、人を救うために生きている。

 うまく、結びつかなかった。

「少しでも手術の精度を上げるために、酒は一滴も飲まない。どんなに忙しくても、身体を鍛え、食事を制限し、空き時間のほとんどを研究に充てている」

 航大は、ひと息にそう言って、小さく息を吐いた。

「俺は、あれをダメな父親だと思ってる。あの男が死ぬほど嫌いだ。だが——そのストイックさだけは尊敬している」

 意外な言葉だった。
 あんなことをされて、それでも、航大は、父親の凄さを、認めているのか。

「あれは、患者を救うことを優先するあまり、一番救わなくてはならん家族に、目を向けられなくなっておる」

 じいちゃんの声は、苦かった。

「医師としては一流でも、父親失格だ」

 航大の指先が、わずかに震えた。

「俺は、あんな医師は目指さない。じいさんのように、一人一人と向き合う医師になりたいと思っている」

 ぽつりと、航大が言った。

「だが……ああいう、取り憑かれたように医学に邁進する医師がいなければ、救われない患者がいるのも事実なのだよ」

 押し付けがましさのない、フラットな声で、じいちゃんは言った。

 患者を救う妄執に、囚われた医師。

 もしかしたら——救えなかったものが多すぎたから、今は目の前の患者だけを、必死に救おうとしているのかもしれない。

 でも。
 どんな理由があったとしても、航大を傷つけていい理由にはならない。

「彰大は、ああ言っとるが……」

 じいちゃんが、航大をまっすぐ見た。

「大学受験なんてもんは、一生に一度しかできんもんじゃないでな」

「じいさん……」

「医学部に行けば、一浪や二浪なんて、掃いて捨てるほどおる」

「いや、俺は浪人するつもりは——」

「たとえ話だ」

 じいちゃんは、少しだけ笑った。

「航大。悔いのない夏を過ごしなさい」

 その声は、どこまでも静かだった。

「そのためにできることなら、私はなんでもする。——必ず、優馬を守りぬこう」

「ありがとう……じいさん」

 航大の声は、少しだけ震えていた。

 じいちゃんは何も言わず、航大の肩に手を置いた。

 その手は、痩せていて、たくさんの皺が刻まれている。
 それでも、航大や俺を支えるには十分なくらい、大きく、頼りになるように見えた。

 だけど——俯いた航大の濡れた前髪の隙間で、その瞳だけは、まだ拭いきれない不安に揺れていた。