その日の夕飯は、航大に教えるはずだった野菜炒めと、だし巻き卵、そして豚汁だった。
豚汁は大量に作って、味噌を溶く前の状態で冷凍しておくことにした。
解凍して味噌を入れるだけにしておけば、じいちゃんでも航大でも食べられる。
……はずだ。
いや。
航大に仕上げを任せるのは、まだ少し早いかもしれない。
「お前さんは、本当に手先が器用だな」
座卓に並ぶ料理を眺め、じいちゃんが感心したように呟いた。
「医者になるなら、手先が器用じゃないとやばくない……?」
不安になって、思わず航大を見る。
航大は汁椀を手にしたまま、真顔で答えた。
「俺は、別に不器用なわけじゃない。たまたま、料理の適性がないだけだ」
「本当かよ……」
かなり不安になったけれど、言われてみれば、今まで航大を不器用だと思ったことはない。
むしろ、何をやらせてもそつなくこなす印象だった。
勉強も運動もできるし、ピアノまで弾ける。
俺ができないことを、なんでも当たり前みたいな顔でやってのける。
そんな航大が、米を流し、卵を殻まみれにし、包丁で指を切った。
思い出すと、少しだけ笑いそうになる。
「何だ」
航大が眉をひそめる。
「いや、別に」
「今、笑っただろ」
「笑ってないって」
「いや、笑ったな」
じとっと睨まれ、俺は豚汁を啜って誤魔化した。
ごま油で具材を炒めたおかげで、初日にしては、しっかりコクがある。
我ながら、いい出来だ。
気に入ってくれたのだろうか。
昨日は、見ているこちらまで苦しくなるくらい沈んだ顔をしていたじいちゃんも、満足そうに目を細めている。
「優馬の料理は絶品だな」
じいちゃんの言葉に、航大も静かに頷く。
「ああ。優馬の料理は至高だ」
「お前まで言うなよ。照れるだろ」
口ではそう言いながらも、胸の奥がくすぐったい。
俺が作ったものを、この二人が旨いと言って食べてくれる。
それだけで、この家の空気が、少しだけ柔らかくなった気がした。
**
夕飯の後、俺たちはそれぞれ風呂に入ることになった。
昨夜のことを思い出し、ぞくっと背中に冷たいものが走る。
湯船の底から聞こえた歌。
曇るはずのない鏡に浮かんだ文字。
排水口のそばに残っていた、小さな足跡。
思い出しただけで、指先が冷たくなる。
「……風呂、怖いかも」
思わず漏らすと、じいちゃんが怪訝そうに眉をひそめた。
「なんだ。何かあったのか?」
心配そうに問われ、口ごもる。
翔太の声がして、みなそこさまの歌が聞こえたなんて。
そんなことを言っても、きっと信じてもらえない。
じいちゃんは池のことを知っている。
澄也さんや、じいちゃんの弟のこともある。
だからこそ、今それを言ったら、余計な心配をかけてしまう気がした。
「なんか、昼間に怖い動画見ちゃってさ。風呂、ちょっと怖くて」
自分でも情けない言い訳だと思った。
けれど、じいちゃんは意外にも真面目な顔で頷いた。
「なら、航大と一緒に入ればいいんじゃないか。昔は、三人で入っとっただろう」
「「は!?」」
俺と航大の声が、見事に重なった。
「な、ないない……! いくらこの屋敷の風呂がでかいって言ったって、さすがに狭いし!」
「片方は頭や体を洗っとればよかろう。順番に入れば、何の問題もない」
「問題しかない!」
思わず叫ぶ。
航大も、なぜか無言のまま真っ赤になっていた。
さっきよりさらに赤い。
やっぱり熱中症なんじゃないだろうか。
夜になっても回復しないなんて、きっと重症だ。
じいちゃんは俺たちを見比べ、少しだけ不思議そうに首を傾げる。
「そうか? 昔は三人で大騒ぎしながら長湯しとったがなぁ……」
「昔は昔! 今は今!」
「そういうものか」
「そういうもの!」
全力で否定すると、じいちゃんはようやく納得したのか、ゆっくり立ち上がった。
「なら、私が先に入る。お前さんたちは、そのあと好きにしろ」
そう言って、じいちゃんは浴室の方へ向かった。
**
居間に、俺と航大だけが残される。
しばらく、沈黙が落ちた。
からん、と麦茶の氷がグラスの中で揺れる。
昼間はあれほど鬱陶しかった蝉の声が、今はぱたりと途絶えている。
その静けさが、かえって落ち着かなかった。
「……一緒に入るのは難しいが……」
先に口を開いたのは、航大だった。
声が、少し硬い。
「もし、お前が不安なら、脱衣所にいてやってもいいぞ。何かあったら、すぐに助ける」
「え……いいのか?」
「ああ。お前に何かあったら、敵わんからな」
胸の奥が、ぎゅっとなる。
そういうことを、真顔で言うな。
俺の心臓が、もたない。
「……ありがと」
小さく礼を言うと、航大はぎこちなく視線を逸らした。
「約束しただろ。怖い時は、遠慮なく俺を起こせと」
「起こすどころか、風呂の前で待機させることになるとは思わなかったけどな」
「仕方ない。状況が状況だ」
航大の横顔は、真剣だった。
やっぱり、あの浴室でのことを、航大も気にしているのだ。
俺が嘘を言っているとは思っていない。
その事実だけで、少しだけ呼吸が楽になった。
**
じいちゃんが風呂から上がると、次は航大の番だった。
俺は脱衣所の外で待つことになる。
正直、逆がよかった気もする。
航大に何かあったらどうしようと、不安で仕方がなかった。
けれど、浴室から聞こえてくるのは、シャワーの音と、桶を置く音くらいだった。
ぽちゃん、という水音も。
歌声も。
子どもの足音も。
何も聞こえない。
しばらくして、脱衣所の戸が開いた。
「上がったぞ」
「……っ」
顔を上げた瞬間、息が詰まった。
腰にタオルを巻いただけの航大が、片手で髪をかき上げながら立っていた。
水滴が、こめかみから首筋へ伝う。
艶やかに濡れた黒髪。
風呂上がりで、上気した肌。
競泳で鍛えられた肩から胸元にかけての輪郭が、妙に生々しく目に入る。
まずい。
さっきまで怪異が怖かったはずなのに。
今は、別の意味で心臓が危険だ。
「……何を見ている」
「見てない!」
「見てただろ」
「見てないって!」
俺は慌てて視線を逸らし、脱衣所に入った。
「ここにいる。何かあったらすぐ呼べ」
「わかった」
「鍵はかけるな。有事の際に入れない」
「……わかってる」
湯気の熱気が、微かに残る脱衣所内。
こんなにも狭い密閉空間で、すぐそばに航大がいる。
航大は、律儀に俺に背を向けている。
だけど、その背中が見えるだけで、そわそわしてしまう。
俺が服を脱いでいる間に、航大は甚平を羽織ったらしい。
背後で、衣擦れの音がした。
手早く服を脱ぎ、俺は、逃げるように浴室に飛び込んだ。
航大が使った直後だからか、まだ湯気が濃い。
あいつのミントのシャンプーの匂いが、湯気に混じっている。
浴槽の湯は、ちゃんと温かい。
蛇口も閉まっている。
鏡には、何の文字もない。
大丈夫。
航大がすぐそこにいる。
俺はそう言い聞かせながら、身体を洗い始めた。
「……優馬」
脱衣所の向こうから、航大の声がした。
「何?」
「怖くないか」
「今のところは、平気」
「そうか」
短い会話。
それだけなのに、胸の奥が少し温かくなる。
「昔さ、俺たち三人で風呂入ると、翔太が湯船で泳ごうとして、じいちゃんに怒られてたよな」
「あいつは、風呂とプールの違いがいまいちわかっていなかったからな」
「で、航大が注意するんだけど、翔太、全然聞かなくて」
「最終的に、お前まで一緒になって騒ぎ始める」
「俺は巻き込まれただけだろ」
「嘘をつくな。誰よりもはしゃいでただろう。特に、皆でスーパー銭湯に行ったときは酷かった」
呆れたように言われ、懐かしさに、思わず笑みがこぼれる。
もし、今も生きていたら……翔太も中学三年生だ。
どんな少年に、なっていただろう。
成長した翔太の姿を思い浮かべながら、湯船に肩まで浸かる。
温かい湯が、じんわりと身体を包み込む。
背中と腰の痛みも、少しだけ和らいだ。
「航大」
「何だ」
「そこにいる?」
「いる」
「ちゃんと?」
「ちゃんといる」
「絶対?」
「ああ、絶対だ」
少し呆れたような声。
でも、優しい声だった。
それだけで、安心して、体から力が抜けてゆく。
ほっと息を吐きながら、浴槽の縁に背中を預けたそのとき——
湯の中で、何かがぬるりと足首に触れた。
次の瞬間、強い力で掴まれる。
「うわぁあああああっ!」
叫んだ直後、身体が湯の中へ沈む。
ばしゃん、と派手な水音が響いた。
口の中に湯が入り、鼻の奥がつんと痛む。
「優馬!」
水音にかき消されながらも、バンっと乱暴にドアが開く音が聞こえた。
誰かの腕が、俺の腕を掴み、力いっぱい引き上げる。
「優馬! 大丈夫か!?」
「っ、げほっ……!」
咳き込みながら、必死に息を吸う。
航大は自分が濡れるのも構わず、甚平姿のまま浴槽の縁に膝をつき、俺の身体を抱き上げるようにして湯船から引きずり出した。
布越しに航大の強い力と体温を感じたのに。
冷たい空気に触れた瞬間、全身ががくがく震え出す。
「おい、しっかりしろ!」
「足……っ、足、引っ張られた……!」
自分の声が、情けないくらい震えている。
「誰かが……湯船の中に……っ」
航大の顔色が変わった。
すぐに俺の足首へ視線を落とす。
「……優馬」
「何……?」
航大に釣られるように、俺も、自分の足首に視線を向けた。
すると、そこには、くっきりと青黒い痕が残っていた。
小さな、子どもの手形。
五本の指の跡が、俺の足首を掴むように、はっきりと浮かんでいる。
「ひぃっ……!」
息が止まる。
湯船の中には、何もいない。
湯面だけが、何事もなかったみたいに、ゆらゆら揺れている。
けれど、足首の跡だけは消えなかった。
俺だけではなく、航大にも、はっきりと見えている。
「……池には、近づいてないのに」
航大が、掠れた声で呟いた。
その言葉に、背筋が凍る。
そうだ。
俺は、水神様の池になんて近づいていない。
あの歌だって、歌っていない。
なのに。
もう、向こうから近づいてきている。
そう思った瞬間、浴室の空気が、真夏とは思えないほど冷たく感じられた。
豚汁は大量に作って、味噌を溶く前の状態で冷凍しておくことにした。
解凍して味噌を入れるだけにしておけば、じいちゃんでも航大でも食べられる。
……はずだ。
いや。
航大に仕上げを任せるのは、まだ少し早いかもしれない。
「お前さんは、本当に手先が器用だな」
座卓に並ぶ料理を眺め、じいちゃんが感心したように呟いた。
「医者になるなら、手先が器用じゃないとやばくない……?」
不安になって、思わず航大を見る。
航大は汁椀を手にしたまま、真顔で答えた。
「俺は、別に不器用なわけじゃない。たまたま、料理の適性がないだけだ」
「本当かよ……」
かなり不安になったけれど、言われてみれば、今まで航大を不器用だと思ったことはない。
むしろ、何をやらせてもそつなくこなす印象だった。
勉強も運動もできるし、ピアノまで弾ける。
俺ができないことを、なんでも当たり前みたいな顔でやってのける。
そんな航大が、米を流し、卵を殻まみれにし、包丁で指を切った。
思い出すと、少しだけ笑いそうになる。
「何だ」
航大が眉をひそめる。
「いや、別に」
「今、笑っただろ」
「笑ってないって」
「いや、笑ったな」
じとっと睨まれ、俺は豚汁を啜って誤魔化した。
ごま油で具材を炒めたおかげで、初日にしては、しっかりコクがある。
我ながら、いい出来だ。
気に入ってくれたのだろうか。
昨日は、見ているこちらまで苦しくなるくらい沈んだ顔をしていたじいちゃんも、満足そうに目を細めている。
「優馬の料理は絶品だな」
じいちゃんの言葉に、航大も静かに頷く。
「ああ。優馬の料理は至高だ」
「お前まで言うなよ。照れるだろ」
口ではそう言いながらも、胸の奥がくすぐったい。
俺が作ったものを、この二人が旨いと言って食べてくれる。
それだけで、この家の空気が、少しだけ柔らかくなった気がした。
**
夕飯の後、俺たちはそれぞれ風呂に入ることになった。
昨夜のことを思い出し、ぞくっと背中に冷たいものが走る。
湯船の底から聞こえた歌。
曇るはずのない鏡に浮かんだ文字。
排水口のそばに残っていた、小さな足跡。
思い出しただけで、指先が冷たくなる。
「……風呂、怖いかも」
思わず漏らすと、じいちゃんが怪訝そうに眉をひそめた。
「なんだ。何かあったのか?」
心配そうに問われ、口ごもる。
翔太の声がして、みなそこさまの歌が聞こえたなんて。
そんなことを言っても、きっと信じてもらえない。
じいちゃんは池のことを知っている。
澄也さんや、じいちゃんの弟のこともある。
だからこそ、今それを言ったら、余計な心配をかけてしまう気がした。
「なんか、昼間に怖い動画見ちゃってさ。風呂、ちょっと怖くて」
自分でも情けない言い訳だと思った。
けれど、じいちゃんは意外にも真面目な顔で頷いた。
「なら、航大と一緒に入ればいいんじゃないか。昔は、三人で入っとっただろう」
「「は!?」」
俺と航大の声が、見事に重なった。
「な、ないない……! いくらこの屋敷の風呂がでかいって言ったって、さすがに狭いし!」
「片方は頭や体を洗っとればよかろう。順番に入れば、何の問題もない」
「問題しかない!」
思わず叫ぶ。
航大も、なぜか無言のまま真っ赤になっていた。
さっきよりさらに赤い。
やっぱり熱中症なんじゃないだろうか。
夜になっても回復しないなんて、きっと重症だ。
じいちゃんは俺たちを見比べ、少しだけ不思議そうに首を傾げる。
「そうか? 昔は三人で大騒ぎしながら長湯しとったがなぁ……」
「昔は昔! 今は今!」
「そういうものか」
「そういうもの!」
全力で否定すると、じいちゃんはようやく納得したのか、ゆっくり立ち上がった。
「なら、私が先に入る。お前さんたちは、そのあと好きにしろ」
そう言って、じいちゃんは浴室の方へ向かった。
**
居間に、俺と航大だけが残される。
しばらく、沈黙が落ちた。
からん、と麦茶の氷がグラスの中で揺れる。
昼間はあれほど鬱陶しかった蝉の声が、今はぱたりと途絶えている。
その静けさが、かえって落ち着かなかった。
「……一緒に入るのは難しいが……」
先に口を開いたのは、航大だった。
声が、少し硬い。
「もし、お前が不安なら、脱衣所にいてやってもいいぞ。何かあったら、すぐに助ける」
「え……いいのか?」
「ああ。お前に何かあったら、敵わんからな」
胸の奥が、ぎゅっとなる。
そういうことを、真顔で言うな。
俺の心臓が、もたない。
「……ありがと」
小さく礼を言うと、航大はぎこちなく視線を逸らした。
「約束しただろ。怖い時は、遠慮なく俺を起こせと」
「起こすどころか、風呂の前で待機させることになるとは思わなかったけどな」
「仕方ない。状況が状況だ」
航大の横顔は、真剣だった。
やっぱり、あの浴室でのことを、航大も気にしているのだ。
俺が嘘を言っているとは思っていない。
その事実だけで、少しだけ呼吸が楽になった。
**
じいちゃんが風呂から上がると、次は航大の番だった。
俺は脱衣所の外で待つことになる。
正直、逆がよかった気もする。
航大に何かあったらどうしようと、不安で仕方がなかった。
けれど、浴室から聞こえてくるのは、シャワーの音と、桶を置く音くらいだった。
ぽちゃん、という水音も。
歌声も。
子どもの足音も。
何も聞こえない。
しばらくして、脱衣所の戸が開いた。
「上がったぞ」
「……っ」
顔を上げた瞬間、息が詰まった。
腰にタオルを巻いただけの航大が、片手で髪をかき上げながら立っていた。
水滴が、こめかみから首筋へ伝う。
艶やかに濡れた黒髪。
風呂上がりで、上気した肌。
競泳で鍛えられた肩から胸元にかけての輪郭が、妙に生々しく目に入る。
まずい。
さっきまで怪異が怖かったはずなのに。
今は、別の意味で心臓が危険だ。
「……何を見ている」
「見てない!」
「見てただろ」
「見てないって!」
俺は慌てて視線を逸らし、脱衣所に入った。
「ここにいる。何かあったらすぐ呼べ」
「わかった」
「鍵はかけるな。有事の際に入れない」
「……わかってる」
湯気の熱気が、微かに残る脱衣所内。
こんなにも狭い密閉空間で、すぐそばに航大がいる。
航大は、律儀に俺に背を向けている。
だけど、その背中が見えるだけで、そわそわしてしまう。
俺が服を脱いでいる間に、航大は甚平を羽織ったらしい。
背後で、衣擦れの音がした。
手早く服を脱ぎ、俺は、逃げるように浴室に飛び込んだ。
航大が使った直後だからか、まだ湯気が濃い。
あいつのミントのシャンプーの匂いが、湯気に混じっている。
浴槽の湯は、ちゃんと温かい。
蛇口も閉まっている。
鏡には、何の文字もない。
大丈夫。
航大がすぐそこにいる。
俺はそう言い聞かせながら、身体を洗い始めた。
「……優馬」
脱衣所の向こうから、航大の声がした。
「何?」
「怖くないか」
「今のところは、平気」
「そうか」
短い会話。
それだけなのに、胸の奥が少し温かくなる。
「昔さ、俺たち三人で風呂入ると、翔太が湯船で泳ごうとして、じいちゃんに怒られてたよな」
「あいつは、風呂とプールの違いがいまいちわかっていなかったからな」
「で、航大が注意するんだけど、翔太、全然聞かなくて」
「最終的に、お前まで一緒になって騒ぎ始める」
「俺は巻き込まれただけだろ」
「嘘をつくな。誰よりもはしゃいでただろう。特に、皆でスーパー銭湯に行ったときは酷かった」
呆れたように言われ、懐かしさに、思わず笑みがこぼれる。
もし、今も生きていたら……翔太も中学三年生だ。
どんな少年に、なっていただろう。
成長した翔太の姿を思い浮かべながら、湯船に肩まで浸かる。
温かい湯が、じんわりと身体を包み込む。
背中と腰の痛みも、少しだけ和らいだ。
「航大」
「何だ」
「そこにいる?」
「いる」
「ちゃんと?」
「ちゃんといる」
「絶対?」
「ああ、絶対だ」
少し呆れたような声。
でも、優しい声だった。
それだけで、安心して、体から力が抜けてゆく。
ほっと息を吐きながら、浴槽の縁に背中を預けたそのとき——
湯の中で、何かがぬるりと足首に触れた。
次の瞬間、強い力で掴まれる。
「うわぁあああああっ!」
叫んだ直後、身体が湯の中へ沈む。
ばしゃん、と派手な水音が響いた。
口の中に湯が入り、鼻の奥がつんと痛む。
「優馬!」
水音にかき消されながらも、バンっと乱暴にドアが開く音が聞こえた。
誰かの腕が、俺の腕を掴み、力いっぱい引き上げる。
「優馬! 大丈夫か!?」
「っ、げほっ……!」
咳き込みながら、必死に息を吸う。
航大は自分が濡れるのも構わず、甚平姿のまま浴槽の縁に膝をつき、俺の身体を抱き上げるようにして湯船から引きずり出した。
布越しに航大の強い力と体温を感じたのに。
冷たい空気に触れた瞬間、全身ががくがく震え出す。
「おい、しっかりしろ!」
「足……っ、足、引っ張られた……!」
自分の声が、情けないくらい震えている。
「誰かが……湯船の中に……っ」
航大の顔色が変わった。
すぐに俺の足首へ視線を落とす。
「……優馬」
「何……?」
航大に釣られるように、俺も、自分の足首に視線を向けた。
すると、そこには、くっきりと青黒い痕が残っていた。
小さな、子どもの手形。
五本の指の跡が、俺の足首を掴むように、はっきりと浮かんでいる。
「ひぃっ……!」
息が止まる。
湯船の中には、何もいない。
湯面だけが、何事もなかったみたいに、ゆらゆら揺れている。
けれど、足首の跡だけは消えなかった。
俺だけではなく、航大にも、はっきりと見えている。
「……池には、近づいてないのに」
航大が、掠れた声で呟いた。
その言葉に、背筋が凍る。
そうだ。
俺は、水神様の池になんて近づいていない。
あの歌だって、歌っていない。
なのに。
もう、向こうから近づいてきている。
そう思った瞬間、浴室の空気が、真夏とは思えないほど冷たく感じられた。
