診療所から戻る頃には、真昼の暑さが屋敷の中まで入り込んでいた。
開け放した窓の向こうでは、蝉の声が、容赦なく降り注いでいる。
上半身だけ脱いで、居間の畳の上に腹ばいになると、古い扇風機の風が、汗ばんだ背中を心地よく撫でていった。
「……本当に俺が塗るのか?」
こわばった航大の声が、頭上から降ってくる。
「嫌ならいいよ。自分で塗るから。——貸して」
薬を受け取ろうと、後ろ手に手を伸ばす。
すると、すぐに「俺が塗る」と、妙に前のめりな声が返ってきた。
「おい。……ズボンまで下げる必要、あるのか……?」
まじめ腐った声で問われ、俺はぐでっと畳に脱力したまま答える。
「だって腰も痛いもん」
さっきは強がったものの、実は、背中も腰もかなり痛い。
しっかり薬を塗ってもらって、少しでもこの痛みから解放されたい。
「すまない……。親父のせいで……」
掠れた声で、航大が謝る。
「何度も言わせんな。別に、伯父さんのせいじゃない。てか、仮に伯父さんのせいだとしても——お前は何も悪くないだろ」
航大は、何も言い返してこなかった。
ブーン、と扇風機の羽が回る音だけが、やけに大きく耳に響く。
外から聞こえる蝉の声が、その羽音と混ざり合う。
あぁ、じいちゃんちにいるんだな、と実感する。
それなのに、ばあちゃんの気配は、どこにもない。
誰かを亡くすって、こういうことなんだなと、改めて思った。
鼻の奥がつんとする。
泣きたいわけじゃないのに、何かがこみ上げてきそうだった。
「——塗るぞ」
「ああ、頼む」
航大の指が、そっと俺の背中に触れた。
「ぁっ……!」
あまりにも慎重な触れ方だった。
痛みを避けるような、壊れものに触れるみたいな、馬鹿みたいに優しい指先。
そのせいで、くすぐったさとも違う何かが背筋を駆け上がり、身体がびくんと跳ねた。
うっかり漏れてしまった、甘えたみたいな声。
俺は慌てて唇を噛み締める。
「すまん。痛かったか……?」
「べ、別に……痛くない」
痛くはない。
痛くはないけど。
それ以上のことは、絶対に言えない。
航大の指先が、薬を塗り広げる。
ひやりとした薬の感触と、その奥にある航大の体温が、背中の上で混ざっていく。
「はっ……!?」
急に我に返り、俺は慌ててズボンのウエスト部分に手をやった。
あぁ、バカだ、俺は。
これじゃ、パンツが丸見えだ。
しかも今履いているのは、よりによって姉ちゃんが選んだレモン柄のやつ。
背中と違って、腰なら自分で塗れる。
わざわざズボンを下ろす必要なんて、冷静に考えればどこにもなかった。
かぁあっと、頬が熱くなる。
俺は慌てているのを悟られないように、ズボンをずり上げた。
「ぬ、塗るの……やっぱり——」
自分でやる、と言いかけたその時、再び航大が俺に触れた。
今度は、指先ではなく、手のひらだった。
あたたかな手のひらが俺の背中に触れ、薬をゆっくり塗り伸ばしていく。
「は……っ、ぁ……」
まずい。
声が漏れそうになる。
というか、少し漏れてしまった。
俺は歯を食いしばり、必死で息を殺す。
畳に額を押しつけたくなるくらい、全身が熱い。
「痛く、ないか……?」
低い声が、頭上から落ちてくる。
その声は、なぜか少し震えていた。
心なしか、背中に触れる航大の手のひらも、微かに震えている気がする。
「へい……き……っ」
返事をした瞬間、また情けない声が漏れた。
どうしよう。
絶対におかしいと思われる。
「腰も、塗るか?」
航大の声が、さらに低くなる。
「塗るなら……ズボン、少しだけ下げてくれ……」
「ぁ、い、いや! だ、だいじょぶっ……腰は、自分で……!」
ぜぇぜぇと肩で息をする。
こんなに呼吸が乱れていたら、絶対に変だと思われる。
何か言われる。
そう思って身構えていると、しばらくの沈黙のあと、低い声が返ってきた。
「……そうか」
えっ、それだけ……?
不思議に思っていると、航大の手のひらが俺の身体から離れた。
「手、洗ってくる。薬で、べとべとだから」
航大は掠れた声で言うと、さっさと居間を出ていった。
その直後。
いつもは足音ひとつ立てずに歩く航大が、どかどかと廊下を踏み鳴らして走っていく音がした。
「なん……だ……?」
いったい、何だったんだろう。
訝しみながら、俺はゆっくりと身体を起こす。
廊下の向こうから、トイレの扉が乱暴に開く音がした。
続いて、鍵をかける音。
しばらくして、水道の蛇口をひねる音が、やけに長く続いた。
**
『天は二物を与えず』
あの言葉を、俺はまったく信用していなかった。
頭がよくて、顔がよくて、背が高くて、家柄までよくて。
競泳をやらせれば県大会に出るし、ピアノまで上手い。
神崎航大という男は、あまりにも不公平が過ぎる。
だけど——。
そんな完璧に見える男にも、どうやら苦手なものがあったらしい。
「ちょっと待て。なんで米まで一緒に流すんだ!」
流し台には、水とともに無惨に流れていく大量の米粒たち。
「水だけ! 流すのは水だけだって……!」
「……すまない」
続いて、割り落とした卵の中へ、粉々になった殻がじゃりじゃりと落下した。
「待って待って。どうしたらそんなことになるわけ!?」
「……すまない」
包丁を持たせれば、野菜ではなく、秒で己の指を切った。
「だから言ったじゃん! 猫の手! 指はこう!」
「……猫はそんな手をしない」
「いや、本物の猫がどうとか、どうでもいいから!」
傷口を流水で洗って、絆創膏を巻いてやると、航大は面目なさそうにうなだれた。
「すまない……」
「気にする必要ないって。不慣れなことしたら、誰だって失敗するよな」
そう言いながらも、俺はちょっとだけ感動していた。
航大にも、できないことがある。
そう思うと、少しだけ胸が軽くなる。
この男もちゃんと、俺と同じ人間なんだなと思えたから。
普段完璧なだけに、失敗したことがよほど恥ずかしいのだろう。
航大は耳まで真っ赤にして、じっと絆創膏を見つめている。
さっきまであんなに美しいピアノを弾いていた長い指が、今は絆創膏を巻かれて所在なげにしている。
その様が、なんだか無性に愛おしかった。
「とりあえずさ、航大は勉強してなよ。怪我してるときに水仕事するとよくないし。また今度じっくり教えるからさ」
正直に言うと、『また今度』はないかもしれない。
それでも俺は、そんなふうに言うことしかできなかった。
「すまない——」
「すまなくない! っていうか、むしろ航大は俺に薬塗ってくれただろ。そのお返しだよ。風呂入った後も、塗ってくれるんだろ?」
「あ……ああ……」
ぼんっと、航大の顔が、さらに真っ赤になる。
大丈夫か。
神崎家は、ばあちゃんがエアコン嫌いだったせいで、冷房のある部屋が少ない。
もしかしたら、軽く熱中症になりかけているのかもしれない。
「あ、そだ。かき氷、作ってやるよ。もし、少し時間あるなら、勉強しにいく前に食べていけよ」
「いいのか……?」
「ああ、削るだけだし。すぐできるからさ」
「この家に、かき氷シロップなんてないと思うぞ」
「なくても平気。確かばあちゃんの抹茶が……あった」
抹茶と砂糖を少量の湯で溶き、小鍋で軽く火にかける。
とろりと艶が出たところで火を止め、氷水に当てて一気に冷ました。
姉ちゃんの差し入れのかき氷機で氷を削り、戸棚にあった缶詰のゆであずきを添える。
最後に、冷ました抹茶シロップをたっぷりかければ、宇治金時の完成だ。
「お前は……やっぱり天才だな……」
感心したような声で呟かれ、照れ臭さに頬が熱くなる。
「うまいか?」
「すごく……うまい」
シロップの甘さを堪能するように、航大はうっとりと目を閉じた。
そう。この男は、こう見えてとても甘党なのだ。
顔だけ見れば甘いものなんか苦手そうなのに、昔から目がない。
「なんか……わからなくなる」
「何が……?」
「優馬が神崎の屋敷にいる夏休みは、たぶん、これが最後だろう」
「それなのに、俺は——」
スプーンを持つ航大の手が、微かに震える。
その先の言葉を、俺はじっと待った。
だけど、しばらく待っても、航大は何も言わなかった。
何かを噛み殺すように眉根を寄せ、無言でかき氷を食べ進めていく。
器の底で、溶けた抹茶の緑が、ゆらゆら揺れていた。
最後のひと雫まできれいに平らげると、航大は、弾かれたように立ち上がった。
「夕飯、できたら声かけるから。それまで勉強してきな」
「いや……。ここでやる。勉強の道具を持ってくる」
「はっ!? なんで。ここじゃ集中——」
俺の言葉を聞き終えるより早く、航大は台所を出て行った。
引き止める間もなかった。
その背中が、なぜだか少し必死に見えた。
開け放した窓の向こうでは、蝉の声が、容赦なく降り注いでいる。
上半身だけ脱いで、居間の畳の上に腹ばいになると、古い扇風機の風が、汗ばんだ背中を心地よく撫でていった。
「……本当に俺が塗るのか?」
こわばった航大の声が、頭上から降ってくる。
「嫌ならいいよ。自分で塗るから。——貸して」
薬を受け取ろうと、後ろ手に手を伸ばす。
すると、すぐに「俺が塗る」と、妙に前のめりな声が返ってきた。
「おい。……ズボンまで下げる必要、あるのか……?」
まじめ腐った声で問われ、俺はぐでっと畳に脱力したまま答える。
「だって腰も痛いもん」
さっきは強がったものの、実は、背中も腰もかなり痛い。
しっかり薬を塗ってもらって、少しでもこの痛みから解放されたい。
「すまない……。親父のせいで……」
掠れた声で、航大が謝る。
「何度も言わせんな。別に、伯父さんのせいじゃない。てか、仮に伯父さんのせいだとしても——お前は何も悪くないだろ」
航大は、何も言い返してこなかった。
ブーン、と扇風機の羽が回る音だけが、やけに大きく耳に響く。
外から聞こえる蝉の声が、その羽音と混ざり合う。
あぁ、じいちゃんちにいるんだな、と実感する。
それなのに、ばあちゃんの気配は、どこにもない。
誰かを亡くすって、こういうことなんだなと、改めて思った。
鼻の奥がつんとする。
泣きたいわけじゃないのに、何かがこみ上げてきそうだった。
「——塗るぞ」
「ああ、頼む」
航大の指が、そっと俺の背中に触れた。
「ぁっ……!」
あまりにも慎重な触れ方だった。
痛みを避けるような、壊れものに触れるみたいな、馬鹿みたいに優しい指先。
そのせいで、くすぐったさとも違う何かが背筋を駆け上がり、身体がびくんと跳ねた。
うっかり漏れてしまった、甘えたみたいな声。
俺は慌てて唇を噛み締める。
「すまん。痛かったか……?」
「べ、別に……痛くない」
痛くはない。
痛くはないけど。
それ以上のことは、絶対に言えない。
航大の指先が、薬を塗り広げる。
ひやりとした薬の感触と、その奥にある航大の体温が、背中の上で混ざっていく。
「はっ……!?」
急に我に返り、俺は慌ててズボンのウエスト部分に手をやった。
あぁ、バカだ、俺は。
これじゃ、パンツが丸見えだ。
しかも今履いているのは、よりによって姉ちゃんが選んだレモン柄のやつ。
背中と違って、腰なら自分で塗れる。
わざわざズボンを下ろす必要なんて、冷静に考えればどこにもなかった。
かぁあっと、頬が熱くなる。
俺は慌てているのを悟られないように、ズボンをずり上げた。
「ぬ、塗るの……やっぱり——」
自分でやる、と言いかけたその時、再び航大が俺に触れた。
今度は、指先ではなく、手のひらだった。
あたたかな手のひらが俺の背中に触れ、薬をゆっくり塗り伸ばしていく。
「は……っ、ぁ……」
まずい。
声が漏れそうになる。
というか、少し漏れてしまった。
俺は歯を食いしばり、必死で息を殺す。
畳に額を押しつけたくなるくらい、全身が熱い。
「痛く、ないか……?」
低い声が、頭上から落ちてくる。
その声は、なぜか少し震えていた。
心なしか、背中に触れる航大の手のひらも、微かに震えている気がする。
「へい……き……っ」
返事をした瞬間、また情けない声が漏れた。
どうしよう。
絶対におかしいと思われる。
「腰も、塗るか?」
航大の声が、さらに低くなる。
「塗るなら……ズボン、少しだけ下げてくれ……」
「ぁ、い、いや! だ、だいじょぶっ……腰は、自分で……!」
ぜぇぜぇと肩で息をする。
こんなに呼吸が乱れていたら、絶対に変だと思われる。
何か言われる。
そう思って身構えていると、しばらくの沈黙のあと、低い声が返ってきた。
「……そうか」
えっ、それだけ……?
不思議に思っていると、航大の手のひらが俺の身体から離れた。
「手、洗ってくる。薬で、べとべとだから」
航大は掠れた声で言うと、さっさと居間を出ていった。
その直後。
いつもは足音ひとつ立てずに歩く航大が、どかどかと廊下を踏み鳴らして走っていく音がした。
「なん……だ……?」
いったい、何だったんだろう。
訝しみながら、俺はゆっくりと身体を起こす。
廊下の向こうから、トイレの扉が乱暴に開く音がした。
続いて、鍵をかける音。
しばらくして、水道の蛇口をひねる音が、やけに長く続いた。
**
『天は二物を与えず』
あの言葉を、俺はまったく信用していなかった。
頭がよくて、顔がよくて、背が高くて、家柄までよくて。
競泳をやらせれば県大会に出るし、ピアノまで上手い。
神崎航大という男は、あまりにも不公平が過ぎる。
だけど——。
そんな完璧に見える男にも、どうやら苦手なものがあったらしい。
「ちょっと待て。なんで米まで一緒に流すんだ!」
流し台には、水とともに無惨に流れていく大量の米粒たち。
「水だけ! 流すのは水だけだって……!」
「……すまない」
続いて、割り落とした卵の中へ、粉々になった殻がじゃりじゃりと落下した。
「待って待って。どうしたらそんなことになるわけ!?」
「……すまない」
包丁を持たせれば、野菜ではなく、秒で己の指を切った。
「だから言ったじゃん! 猫の手! 指はこう!」
「……猫はそんな手をしない」
「いや、本物の猫がどうとか、どうでもいいから!」
傷口を流水で洗って、絆創膏を巻いてやると、航大は面目なさそうにうなだれた。
「すまない……」
「気にする必要ないって。不慣れなことしたら、誰だって失敗するよな」
そう言いながらも、俺はちょっとだけ感動していた。
航大にも、できないことがある。
そう思うと、少しだけ胸が軽くなる。
この男もちゃんと、俺と同じ人間なんだなと思えたから。
普段完璧なだけに、失敗したことがよほど恥ずかしいのだろう。
航大は耳まで真っ赤にして、じっと絆創膏を見つめている。
さっきまであんなに美しいピアノを弾いていた長い指が、今は絆創膏を巻かれて所在なげにしている。
その様が、なんだか無性に愛おしかった。
「とりあえずさ、航大は勉強してなよ。怪我してるときに水仕事するとよくないし。また今度じっくり教えるからさ」
正直に言うと、『また今度』はないかもしれない。
それでも俺は、そんなふうに言うことしかできなかった。
「すまない——」
「すまなくない! っていうか、むしろ航大は俺に薬塗ってくれただろ。そのお返しだよ。風呂入った後も、塗ってくれるんだろ?」
「あ……ああ……」
ぼんっと、航大の顔が、さらに真っ赤になる。
大丈夫か。
神崎家は、ばあちゃんがエアコン嫌いだったせいで、冷房のある部屋が少ない。
もしかしたら、軽く熱中症になりかけているのかもしれない。
「あ、そだ。かき氷、作ってやるよ。もし、少し時間あるなら、勉強しにいく前に食べていけよ」
「いいのか……?」
「ああ、削るだけだし。すぐできるからさ」
「この家に、かき氷シロップなんてないと思うぞ」
「なくても平気。確かばあちゃんの抹茶が……あった」
抹茶と砂糖を少量の湯で溶き、小鍋で軽く火にかける。
とろりと艶が出たところで火を止め、氷水に当てて一気に冷ました。
姉ちゃんの差し入れのかき氷機で氷を削り、戸棚にあった缶詰のゆであずきを添える。
最後に、冷ました抹茶シロップをたっぷりかければ、宇治金時の完成だ。
「お前は……やっぱり天才だな……」
感心したような声で呟かれ、照れ臭さに頬が熱くなる。
「うまいか?」
「すごく……うまい」
シロップの甘さを堪能するように、航大はうっとりと目を閉じた。
そう。この男は、こう見えてとても甘党なのだ。
顔だけ見れば甘いものなんか苦手そうなのに、昔から目がない。
「なんか……わからなくなる」
「何が……?」
「優馬が神崎の屋敷にいる夏休みは、たぶん、これが最後だろう」
「それなのに、俺は——」
スプーンを持つ航大の手が、微かに震える。
その先の言葉を、俺はじっと待った。
だけど、しばらく待っても、航大は何も言わなかった。
何かを噛み殺すように眉根を寄せ、無言でかき氷を食べ進めていく。
器の底で、溶けた抹茶の緑が、ゆらゆら揺れていた。
最後のひと雫まできれいに平らげると、航大は、弾かれたように立ち上がった。
「夕飯、できたら声かけるから。それまで勉強してきな」
「いや……。ここでやる。勉強の道具を持ってくる」
「はっ!? なんで。ここじゃ集中——」
俺の言葉を聞き終えるより早く、航大は台所を出て行った。
引き止める間もなかった。
その背中が、なぜだか少し必死に見えた。
