「どうしようもない男だな、あれは」
じいちゃんが、心底呆れたようにため息を吐いた。
水守の集落にある、古い診療所。
じいちゃんは普段、山の中腹にある神崎家の総合病院で院長をしている。
けれど週に一度だけ、昔から神崎家が守ってきたこの小さな診療所で、集落の人たちを診ているらしい。
今日は、たまたまその診療日だった。
建物は古めかしいけれど、診察室の中はきちんと清潔に保たれている。
上半身裸になった俺は、診察台の上にうつ伏せになっていた。
じいちゃんの手が、打ちつけた背中のあたりにそっと触れる。
「いや、別に暴力振るわれたわけじゃないんだ。振り払われた時、俺がたまたまよろけただけで……」
伯父さん――神崎彰大のことを庇おうとして、すぐに航大に遮られた。
「明らかに、最低な暴力行為だった。訴えてもいいレベルだ」
うつ伏せ状態だから、航大の顔は見えない。
でも、きっとすごく怒ってくれているのだと思う。
声が、いつになく硬くて、真剣だ。
「お前さんが真っ青な顔して優馬を担いできた時には、何事かと思ったが……。安心しろ。見たところ、骨に異常はない。頭も打ってはおらんのだろ?」
「打ってないよ。打ったのは、背中だけ」
航大があまりにも心配するから、じいちゃんは念のため、レントゲンまで撮ってくれたのだ。
「廃校からここまで、担いできたの!?」
診察室の隅にいた年配の看護師さんが、驚いたように声を上げる。
「大袈裟なんだよ、航大は」
「仕方がないだろ! 俺のせいでお前に何かあったら、と思うと……」
航大の声が、途中で掠れた。
胸の奥が、きゅっと痛む。
違う。お前のせいじゃない。
そう言いたかったけれど、うつ伏せのままだと、どうにも格好がつかない。
「もう起き上がっていいぞ」
じいちゃんに促され、俺は「ふあぁ……」と大きなあくびをしながら、身体を起こした。
航大は、俺と目が合った瞬間、ふいっとそっぽを向いてしまう。
「さっさと服を着ろ!」
「言われなくたって着るって。いちいちうるさいなぁ」
「まあまあ。二人とも、兄弟みたいねぇ」
看護師さんが、微笑ましそうに笑う。
じいちゃんも、ふっと目元を緩めた。
「昔から、よう一緒に遊んどったでな。航大にとっては、優馬も弟みたいなもんなんだろう」
「弟じゃない。俺の方が四月生まれだし」
「相変わらず、お前にはそれしかないんだな」
航大のツッコミに、看護師さんがおかしそうに吹き出す。
いつもなら、俺も何か言い返しているところだ。
でも、その時の俺は、別のものに目を奪われていた。
診察机の上に、写真立てが飾られている。
そこには、神崎家の親族写真が収められていた。
じいちゃん、ばあちゃん、伯父さん、航大、翔太。
そして遺書を残して姿を消した、航大の母ちゃん。
俺たち佐伯一家と、透おじさんの姿もある。
懐かしいな、と思った直後。
俺の視線は、その写真立てに隠れるように置かれた、もう一枚の古い写真に吸い寄せられた。
「じいちゃん、その写真って……」
「これか。神崎家の、昔の写真だ」
「ここに写ってるのって……俺のかあさんたち?」
「ああ、お前たちの親の、若い頃だな」
三十代くらいだろうか。
今よりずっと若い、精悍な顔立ちのじいちゃん。
その隣には、女優みたいにきれいな女性が笑顔で寄り添っている。
そして、四人の子どもたち。
「うわぁ……これ、ばあちゃん!? ばあちゃん、こんな美人だったの!?」
「馬鹿者。あれは、今でも美人だ」
まじめ腐った顔で、即座に否定された。
あぁ。
じいちゃんは、やっぱりばあちゃんのことが大好きだったんだ。
胸の奥が、じんわり温かくなって、同時に少しだけ痛んだ。
『今でも』
昨日、骨になったばあちゃんを、じいちゃんは、今でも生きてる人みたいに見ているんだ。
「百貨店創業家の、ご令嬢だったそうだ。じいちゃんが一目惚れして、ひたすら口説き続けて、ようやくデートにこぎつけたって逸話を、親族の爺さまたちは、未だに酒宴のたびにし続けている」
「そうなの!? 俺、初耳なんだけど。うわー、まじで美人さんだな。え、ちょっと待って。これが航大の父ちゃんで、こっちがうちの母さんだろ。あとは透おじさんと……」
「澄也さんだな。神崎家の、三男坊だ」
昔、ちらっと大人たちが話しているのを聞いたことがある。
神崎家には、もう一人子どもがいたのだと。
「病気か何かで、亡くなったの?」
航大は、言いづらそうに目を伏せた。
「澄也さんは——水神様の池で、いなくなった」
「いなくなった……?」
「大人たちは、溺れたんだろうと言っていた。けど——」
「溺死かどうかは、わからんよ」
静かな声で、じいちゃんが、航大の言葉を遮る。
「澄也も、翔太も、遺体が上がったわけではないからな」
背筋が、すうっと冷えた。
冷房が弱めに設定されているのか、診察室の中は、蒸し暑いくらいなのに。
首筋に、ぞわっと冷たいものが這い上がってくる。
「池のほとりで、行方不明になった。——それが、唯一わかっとることだ」
「そんな……」
「もしかしたら、人攫いに攫われておらんようになっただけで……どこかで生きとるかもしれん」
そんなこと、ありえるだろうか。
いや。
たぶん、ありえない。
きっと、じいちゃんもわかっている。
わかっていて、それでも、息子や孫の死を受け入れられないのだと思う。
写真の中の、幼い澄也さんは笑っている。
屈託のない、明るい笑顔だった。
この人も、翔太みたいに。
ある日突然、いなくなったのだ。
「それだけじゃない。私の末の弟も、あの池で行方不明になっとる」
「……っ」
息を呑む音が、自分のものなのか、航大のものなのか、一瞬わからなかった。
翔太。
澄也さん。
じいちゃんの弟。
そんな偶然って、あるだろうか。
何かが、ざわりと胸の奥を撫でていく。
うまく言葉にならない。
それでも、これは——偶然じゃない気がした。
「お前らはもう大きいで、大丈夫だとは思うが……。絶対に、水神様の池にだけは近づいたらいかん」
重々しい口調で、じいちゃんは言った。
「水神様の池……」
口の中で、その言葉を繰り返す。
その瞬間、耳の奥で、ぽちゃん、と水音が蘇った気がした。
浴室で聞いた歌。
廃校で聞こえた水音。
音楽室で、航大のピアノに混じって聞こえた、翔太の声。
ばらばらだった出来事が、一本の線で繋がり始めていた。
「塗り薬と湿布を出しとく。自分で塗るのは難しいだろうで、航大、塗ってやれ」
「え、あ、あっ……はい……」
なんだ、その挙動不審さは。
ぼーっとしていたのだろうか。
航大は、思いっきり裏返った声で、おかしな返事をした。
普段なら、ツッコミを入れるところだけれど、指先が冷たくなって、うまく言葉が出てこない。
靴を履いて立ち上がる。
背中はまだ少し痛むけれど、歩けないほどじゃない。
「じいちゃん、診てくれてありがと」
診察室を出ようとした時、じいちゃんに呼び止められた。
「——優馬」
振り返る。
じいちゃんは、俺の方をまっすぐ見ていた。
いつもの威厳のある顔じゃない。
息子や孫を失い、最愛の妻まで失った、一人の老人の顔だった。
「彰大のせいで、本当にすまんな」
「別に、じいちゃんのせいじゃないだろ」
すぐに答えた。
それは、本心だった。
伯父さんのしたことを、じいちゃんが謝る必要なんてない。
「俺は、全然平気。ただ——航大にあんなふうに高圧的にしてんのは、正直、許せない」
言った瞬間、航大が小さく息を呑んだ気配がした。
俺は、じいちゃんを、まっすぐ見据えて告げる。
「じいちゃん。悪いって思ってるなら、航大のことは、じいちゃんが守ってよ。航大の人生は、じいちゃんが守って」
こんなこと、孫の俺が言うことじゃないのかもしれない。
それでも、言わずにはいられなかった。
じいちゃんは、しばらく黙っていた。
それから、深く頷く。
「ああ。わかっとる。あれの代わりに、私が責任を持って、航大を守る。——優馬、お前のこともな」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
航大は、何も言わなかった。
けれど、横顔がほんの少しだけ、泣きそうに歪んで見えた。
「いいな。絶対に、池には近づくなよ」
じいちゃんにもう一度念を押され、俺と航大は診療所を後にした。
外に出ると、真夏の日差しが目に痛いほど眩しかった。
蝉たちの大合唱が、さっきよりも激しさを増している。
古い診療所の前の道は、乾ききっていて、陽炎のようなものまで見える。
水なんて、どこにもない。
ないはずなのに。
俺の耳の奥にはまだ、あの湿った水音が、消えずに残っていた。
じいちゃんが、心底呆れたようにため息を吐いた。
水守の集落にある、古い診療所。
じいちゃんは普段、山の中腹にある神崎家の総合病院で院長をしている。
けれど週に一度だけ、昔から神崎家が守ってきたこの小さな診療所で、集落の人たちを診ているらしい。
今日は、たまたまその診療日だった。
建物は古めかしいけれど、診察室の中はきちんと清潔に保たれている。
上半身裸になった俺は、診察台の上にうつ伏せになっていた。
じいちゃんの手が、打ちつけた背中のあたりにそっと触れる。
「いや、別に暴力振るわれたわけじゃないんだ。振り払われた時、俺がたまたまよろけただけで……」
伯父さん――神崎彰大のことを庇おうとして、すぐに航大に遮られた。
「明らかに、最低な暴力行為だった。訴えてもいいレベルだ」
うつ伏せ状態だから、航大の顔は見えない。
でも、きっとすごく怒ってくれているのだと思う。
声が、いつになく硬くて、真剣だ。
「お前さんが真っ青な顔して優馬を担いできた時には、何事かと思ったが……。安心しろ。見たところ、骨に異常はない。頭も打ってはおらんのだろ?」
「打ってないよ。打ったのは、背中だけ」
航大があまりにも心配するから、じいちゃんは念のため、レントゲンまで撮ってくれたのだ。
「廃校からここまで、担いできたの!?」
診察室の隅にいた年配の看護師さんが、驚いたように声を上げる。
「大袈裟なんだよ、航大は」
「仕方がないだろ! 俺のせいでお前に何かあったら、と思うと……」
航大の声が、途中で掠れた。
胸の奥が、きゅっと痛む。
違う。お前のせいじゃない。
そう言いたかったけれど、うつ伏せのままだと、どうにも格好がつかない。
「もう起き上がっていいぞ」
じいちゃんに促され、俺は「ふあぁ……」と大きなあくびをしながら、身体を起こした。
航大は、俺と目が合った瞬間、ふいっとそっぽを向いてしまう。
「さっさと服を着ろ!」
「言われなくたって着るって。いちいちうるさいなぁ」
「まあまあ。二人とも、兄弟みたいねぇ」
看護師さんが、微笑ましそうに笑う。
じいちゃんも、ふっと目元を緩めた。
「昔から、よう一緒に遊んどったでな。航大にとっては、優馬も弟みたいなもんなんだろう」
「弟じゃない。俺の方が四月生まれだし」
「相変わらず、お前にはそれしかないんだな」
航大のツッコミに、看護師さんがおかしそうに吹き出す。
いつもなら、俺も何か言い返しているところだ。
でも、その時の俺は、別のものに目を奪われていた。
診察机の上に、写真立てが飾られている。
そこには、神崎家の親族写真が収められていた。
じいちゃん、ばあちゃん、伯父さん、航大、翔太。
そして遺書を残して姿を消した、航大の母ちゃん。
俺たち佐伯一家と、透おじさんの姿もある。
懐かしいな、と思った直後。
俺の視線は、その写真立てに隠れるように置かれた、もう一枚の古い写真に吸い寄せられた。
「じいちゃん、その写真って……」
「これか。神崎家の、昔の写真だ」
「ここに写ってるのって……俺のかあさんたち?」
「ああ、お前たちの親の、若い頃だな」
三十代くらいだろうか。
今よりずっと若い、精悍な顔立ちのじいちゃん。
その隣には、女優みたいにきれいな女性が笑顔で寄り添っている。
そして、四人の子どもたち。
「うわぁ……これ、ばあちゃん!? ばあちゃん、こんな美人だったの!?」
「馬鹿者。あれは、今でも美人だ」
まじめ腐った顔で、即座に否定された。
あぁ。
じいちゃんは、やっぱりばあちゃんのことが大好きだったんだ。
胸の奥が、じんわり温かくなって、同時に少しだけ痛んだ。
『今でも』
昨日、骨になったばあちゃんを、じいちゃんは、今でも生きてる人みたいに見ているんだ。
「百貨店創業家の、ご令嬢だったそうだ。じいちゃんが一目惚れして、ひたすら口説き続けて、ようやくデートにこぎつけたって逸話を、親族の爺さまたちは、未だに酒宴のたびにし続けている」
「そうなの!? 俺、初耳なんだけど。うわー、まじで美人さんだな。え、ちょっと待って。これが航大の父ちゃんで、こっちがうちの母さんだろ。あとは透おじさんと……」
「澄也さんだな。神崎家の、三男坊だ」
昔、ちらっと大人たちが話しているのを聞いたことがある。
神崎家には、もう一人子どもがいたのだと。
「病気か何かで、亡くなったの?」
航大は、言いづらそうに目を伏せた。
「澄也さんは——水神様の池で、いなくなった」
「いなくなった……?」
「大人たちは、溺れたんだろうと言っていた。けど——」
「溺死かどうかは、わからんよ」
静かな声で、じいちゃんが、航大の言葉を遮る。
「澄也も、翔太も、遺体が上がったわけではないからな」
背筋が、すうっと冷えた。
冷房が弱めに設定されているのか、診察室の中は、蒸し暑いくらいなのに。
首筋に、ぞわっと冷たいものが這い上がってくる。
「池のほとりで、行方不明になった。——それが、唯一わかっとることだ」
「そんな……」
「もしかしたら、人攫いに攫われておらんようになっただけで……どこかで生きとるかもしれん」
そんなこと、ありえるだろうか。
いや。
たぶん、ありえない。
きっと、じいちゃんもわかっている。
わかっていて、それでも、息子や孫の死を受け入れられないのだと思う。
写真の中の、幼い澄也さんは笑っている。
屈託のない、明るい笑顔だった。
この人も、翔太みたいに。
ある日突然、いなくなったのだ。
「それだけじゃない。私の末の弟も、あの池で行方不明になっとる」
「……っ」
息を呑む音が、自分のものなのか、航大のものなのか、一瞬わからなかった。
翔太。
澄也さん。
じいちゃんの弟。
そんな偶然って、あるだろうか。
何かが、ざわりと胸の奥を撫でていく。
うまく言葉にならない。
それでも、これは——偶然じゃない気がした。
「お前らはもう大きいで、大丈夫だとは思うが……。絶対に、水神様の池にだけは近づいたらいかん」
重々しい口調で、じいちゃんは言った。
「水神様の池……」
口の中で、その言葉を繰り返す。
その瞬間、耳の奥で、ぽちゃん、と水音が蘇った気がした。
浴室で聞いた歌。
廃校で聞こえた水音。
音楽室で、航大のピアノに混じって聞こえた、翔太の声。
ばらばらだった出来事が、一本の線で繋がり始めていた。
「塗り薬と湿布を出しとく。自分で塗るのは難しいだろうで、航大、塗ってやれ」
「え、あ、あっ……はい……」
なんだ、その挙動不審さは。
ぼーっとしていたのだろうか。
航大は、思いっきり裏返った声で、おかしな返事をした。
普段なら、ツッコミを入れるところだけれど、指先が冷たくなって、うまく言葉が出てこない。
靴を履いて立ち上がる。
背中はまだ少し痛むけれど、歩けないほどじゃない。
「じいちゃん、診てくれてありがと」
診察室を出ようとした時、じいちゃんに呼び止められた。
「——優馬」
振り返る。
じいちゃんは、俺の方をまっすぐ見ていた。
いつもの威厳のある顔じゃない。
息子や孫を失い、最愛の妻まで失った、一人の老人の顔だった。
「彰大のせいで、本当にすまんな」
「別に、じいちゃんのせいじゃないだろ」
すぐに答えた。
それは、本心だった。
伯父さんのしたことを、じいちゃんが謝る必要なんてない。
「俺は、全然平気。ただ——航大にあんなふうに高圧的にしてんのは、正直、許せない」
言った瞬間、航大が小さく息を呑んだ気配がした。
俺は、じいちゃんを、まっすぐ見据えて告げる。
「じいちゃん。悪いって思ってるなら、航大のことは、じいちゃんが守ってよ。航大の人生は、じいちゃんが守って」
こんなこと、孫の俺が言うことじゃないのかもしれない。
それでも、言わずにはいられなかった。
じいちゃんは、しばらく黙っていた。
それから、深く頷く。
「ああ。わかっとる。あれの代わりに、私が責任を持って、航大を守る。——優馬、お前のこともな」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
航大は、何も言わなかった。
けれど、横顔がほんの少しだけ、泣きそうに歪んで見えた。
「いいな。絶対に、池には近づくなよ」
じいちゃんにもう一度念を押され、俺と航大は診療所を後にした。
外に出ると、真夏の日差しが目に痛いほど眩しかった。
蝉たちの大合唱が、さっきよりも激しさを増している。
古い診療所の前の道は、乾ききっていて、陽炎のようなものまで見える。
水なんて、どこにもない。
ないはずなのに。
俺の耳の奥にはまだ、あの湿った水音が、消えずに残っていた。
