夏の終わりに唄う歌

 音楽室の扉を開けたのは、怪異ではなかった。

 真夏だと言うのに、きっちりとネクタイを締め、スーツをまとった男。
 航大の父親――神崎彰大<あきひろ>だ。

 当直明けなのだろうか。
 目元にはかすかに疲労の色が滲んでいる。
 けれど、その背筋は、息子同様、ピンと伸びている。

 音楽室の入り口に立った伯父さんは、俺と航大を見下ろし、わずかに眉をひそめた。

「……何をしている」

 低く、冷たい声だった。

 航大の腕の中だということに気づき、俺は慌てて身体を離した。
 航大の手が、一瞬だけ俺を引き留めるように動いた気がしたけれど、すぐに離れていく。

「撮影だ。許可は取ってある」

 航大は立ち上がり、何事もなかったかのように答えた。

 その声は、いつもの航大よりもずっと硬い。
 さっきまで俺を落ち着かせるために背中を撫でてくれていた男と、同じ人間とは思えないくらいだった。

「屋敷にいないから、まさかとは思ったが——」

 伯父さんは、音楽室の中へ足を踏み入れる。
 威圧的な靴音が、古い床に硬く響いた。

「明日から夏期講習だ。今すぐ帰るぞ」

「明日の朝までには戻る」

「航大」

 伯父さんの声が、一段低くなる。

「賢いお前のことだ。今がどういう時期かわからないわけではあるまい」

「わかってる。だけど、じいちゃん一人を放っておくわけには——」

「わかっている人間の行動には見えない。他者を言い訳にするな」

 刃物のような、鋭い声だった。
 他者。
 じいちゃんのことを、言っているのだろうか。
 
 伯父さんにとって、父親のはずだ。
 自分の父親を、この人は他者だと思っているのか……?

 伯父さんの視線が、ゆっくりと俺に向いた。

 ぞっとするほど冷たい目だった。
 怒鳴られたわけじゃない。
 責め立てられたわけでもない。

 なのに、その目に射抜かれた瞬間、俺は自分がひどく場違いな存在になったような気がした。

「優馬くん」

「……はい」

「これ以上、君の遊びに、航大を付き合わせないでくれ」

 遊び。
 その一言で、喉の奥がぎゅっと詰まった。

 俺が必死に撮ろうとしているもの。
 俺の、恋心。

 全部まとめて、遊びだと言われた気がした。

「親父」

 航大の声が鋭くなる。

「優馬は関係ない。俺が、自分で残ると決めたんだ」

「その決断が、間違いだと言っているんだ。ましてや——貴重な夏休みの時間を、なぜこんなくだらないことに浪費する?」

「くだらなくなんてない……! 俺にとっては、何より大事なことだ」

 伯父さんの眉間に、皺が寄る。

「それが、『くだらない』と言っているんだ。——私的な感情に振り回されて、将来の利益を損なう。愚かな生き物のすることだ」

 語気は、決して強くない。
 それなのに、言葉そのものが刃みたいに、こちらの胸を切り裂いてくる。

 航大が、ぐっと拳を握りしめる。
 逞しい肩が、わなわなと震えている。

「来い」

 低く告げて、伯父さんは航大の腕を掴んだ。

「——断る」
 
 伯父さんは、航大と変わらないくらい背が高い。
 中年とは思えないほど、引き締まった体躯をしている。

 それでも——。
 航大は一歩も引こうとしなかった。

「俺の人生だ。何がくだらなくて何が貴重なのかは——俺が決める」

 航大が、伯父さんの腕を振り払う。

 伯父さんは、素早く一歩踏み込み、航大の両頬を、押し潰すようにして鷲掴みにした。

「やめてください……!」

 こんなのは、虐待だ。
 親が、子にしていいことじゃない。

 気づけば駆け寄っていた。伯父さんの腕に縋りついて、必死で航大を守ろうとする。

 だけど……。
 俺なんかじゃ、全然、守れなかった。
 振りほどかれ、床に叩きつけられる。

「優馬……!」

 床の冷たさが、背中から染み込んでくる。
 背骨が痛い。
 息が詰まって、しばらく言葉が出てこない。

「へいき……」
 伯父さんのしたことだけど。きっと優しい航大は、自分の罪のように、感じてしまうだろう。

 だから俺は、必死で、笑顔を作った。

 だけど——航大の瞳は、とても悲しそうな色をしていた。

「どうやらお前を、甘やかしすぎたみたいだな」

 感情の欠落した、冷たい声が降ってくる。

「お前の弱点は、俺が一番理解している」

 伯父さんは、床に倒れた俺を一瞥した。
 道端に転がった空き缶でも見るような、冷たい目だった。

「——その、くだらんガラクタを壊されたくなければ、明日の朝までには必ず戻って来い」

 伯父さんは、優美な所作でポケットから財布を取り出すと、一万円札を数枚、航大の頭上に降らせた。

 びっくりした。
 こんなにも酷い父親が、この世界にいるなんて。
 俺は、今まで、想像すらしたことがなかった。

 翔太がいなくなって、母親がいなくなって。
 航大は、たったひとりで、あんな父親のもとで暮らしている。

 そう思った瞬間、胸が張り裂けそうになった。

 何か言い返してやりたいのに、喉が詰まって、声が出ない。

 気づけば、瞳から涙が溢れていた。
 ばあちゃんの葬儀でも、ろくに泣けなかったのに。

 ぽろぽろ、ぽろぽろ、とめどなく涙が溢れてくる。

「優馬……!」

 航大の手のひらが、俺の頬を拭う。

 その指先は、ひどく震えていた。

 俺を守れなかった悔しさと、どうしようもない無力感に、航大自身が泣き出しそうな顔をしていた。

 あったかくて、大きくて、大好きな手のひら。

「明日の朝までだ。——必ず、守れ」

 伯父さんはそう言い残し、俺たちに背を向けて、音楽室を出ていった。